久しぶりに短時間だが読書タイムを確保。「都市空間の怪異」(宮田登)の「附 都市とフォークロア」を半分ほどを読み終えた。残りはわずか。
「現代日本における世紀末の世相には、日常化した神秘主義が目立っている。その基層には民俗文化の核が横たわっていると考えられる。これが一つの文化の型をなし、基層から表層に浮上するとき、占いや新宗教が一挙に巨大化する。その引き金の一つにマスメディアの介在がある。ノストラダムス世代と呼ばれる若者たちが、ひたすら精神世界に埋没していた理由の一つは、1999年の終末という幻想的イメージによるものである。これが90年代に入って日本社会の上ですっかり日常化した。」(第4章「近現代社会の妖怪」第1節「若者の霊魂観」)
「民俗とは、単に過去の産物ではなく、現代社会の諸現象を反映する文化と見なすことが重要・・・。それを客観的に分析する方法論上の困難さを伴っている。民俗が古代社会の残存物ではなく、現実の社会にどのように機能しているのか。生きた民俗の状態としてとらえるにはどうしたらよいかが重要な課題となってきた。」(附 「都市とフォークロア」)
「人間の理性はそう簡単に祟りというものを受けつけないのですけれども、自分自身密かに抱いている不安とか不幸が積み重なると、それと因果関係があると考えるのが人間の習性。」(附 「都市とフォークロア」)
「日本の天皇制を考えるとき、ほとんどの人が無関心でありながら、天皇制をなくしてしまうと何か祟りがあるのではないかという気持ちがどこかにあり、たやすくなくすわけにいかないというようにして天皇制があいまいなままで残存していることと同じように、習俗とか民俗となって定着している。無意識の慣習については明確な存在理由を明らかにできないままで、そのあいまいな部分が祟りという一つの文化現象となって残るわけです。いろんなメディアが介在しますと、話が増幅していく。」(附 「都市とフォークロア」)
「伝統的社会のなかでは、超能力が飛びかうのが日常的な現象だった。近代に入って文明開化日本になってきたときに、西欧的な学問体系のなかに、科学を中心とした認識論か存在しており、その論理をたてまえとすることにより、伝統的宗教を淫祠邪教としたり、迷信といったりして、非合理的な世界として位置づけ、それを排除しよとする。そうしないと近代化、文明化がはかれないという文化政策がありました。迷信、呪い、祟りというものは一斉に排除の対象になった。・・・・明治の末、近代化がきわめて進んだ時点で、再び復活してきたという時代の風潮がある。いかに科学が進歩してもそれを否定しきれないで、また復権してくる、明治から大正への転換という時期なのです。」(附 「都市とフォークロア」)