夕食後は引き続き「絵画について」(ディドロ)の第3章「わたしが生まれてこのかた明暗法について理解したことのすべて」を読み終わり、第4章「表情に関して誰もが知っていること、、誰もが知っているわけではないこと」に進んだ。
引用しておくべきと思った個所が見当たらなかった。ということは同意・不同意いづれにしても私の読みかたがはなはだいい加減なのかもしれない、とは思う。
久しぶりの我が家での「晴耕雨読」である。
さてXRAINによれば、雨の区域はまもなく本州から抜けていきそうである。すくなくとも明日の朝には雨はあがると思われる。明日の日中の予報は曇り、降水確率は20%となっている。最高気温の予報も18℃と寒さはやわらぐ。
先日、そば店で「きのこ蕎麦」があった。別のものを注文してから気がついたので、メニューを見ただけ。食べたかったものの、メニューの記載の仕方だと通年で供しているようだ。加工し、味付けのしてあるものを加えただけなのだろうと、負け惜しみが湧いてきた。しかし、いつの間にかきのこの季節になっていたのである。
学生時代にきのこを食べたくなり、親からの仕送りが銀行に振り込まれたときに、何種類ものきのこを購入して、味噌汁の中に放り込んだ。しめじ、しいたけ、なめこ、えのき、くりたけ、ひらたけ、まいたけ‥と揃えてみたと思う。一人ではとても食べきれないほどのきのこの味噌汁であった。当時は小さいとはいえザルに入って売っていた。
きのこだけでも小さな鍋からあふれ出るので、中華鍋で味噌汁をつくった。それでもまだ三分の二は残ったので、友人からフライパンを借りてきて何回かに分けてバターで炒めた。
丸2日、朝昼晩とその2品ばかりをおかずにした。さすがにしばらくはきのこの顔を見たくなくなった。
今でも、こんな無茶なことをしてみたいが、妻の反応が怖い。今ならもう少しきのこの種類が増えると思う。そしてパック入りなのでそれほどの量にはならないと思うのだが、許してもらえそうもない。
★爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え 高浜虚子
★月光に毒を貯え毒きのこ 遠藤若狭男
第1句、とても幻想的な句である。まさか高浜虚子の句とは思わなかった。敗戦から2年目の句とのこと。まず昼間見える星があったのか。爛々と、まで言い切れる星はその頃にはなかった天文現象である。暗い湿気の多いところに生えるキノコと、幻想のぎらつく昼間の星と考えなければならない。そうするとシュールレアリズムを彷彿とする絵画を見るような句である。もしも昼間といっても宵の明星や明けの明星のように夕刻、早朝の星だと言ってしまっては「菌生え」が浮いてしまう。
敗戦2年目、飢えと混乱で希望の見えない時代をジメジメしたようなものととらえ、キノコが生えるとたとえたならば「爛々と昼の星見え」は、なにか希望のようなものを自ら見つけたと理解するのだろうか。そんな安っぽい解釈では虚子に失礼と私は思う。
さて、どんな心象風景を描いたらいいのだろうか。想像がたのしくなる句である。
第2句、月光に毒を蓄えるのが月夜茸ならばつまらない。月が重なるし、毒も重なり過ぎる。稚拙な句だ。しかしこの句では毒キノコ一般だと思った。ジメジメしたところに生えるキノコが人知れず、人に死をもたらす毒を身中につくって貯えていく。人類はそれに対応できるのか。ひょっとしたら毒キノコだけでなくすべてのキノコが人に照準を定めているのかもしれない、という思いに頭の中を占領されてしまった。
この月光に毒を蓄えているキノコは、作者自身の社会に対する身構えだったのかもしれない。都会の疎外された孤立無援の匂いがしてくる。社会に対する牙が、個別の内向きの怨念に押しとどめられて、時々新聞の社会面に個々の領域の問題として周囲の人を傷つけることで噴出する。社会からの孤立・疎外をすべて個人の怨念の世界に閉じ込めてしまう病理が進行している。