明日は朝9時に組合の会館へ。毎日2時近くに寝て、8時半位に起きる私にはとても過酷な時間である。朝7時には起床して、朝のルーティンをこなさなくてはいけない。
現役時代はもう少し早く起きていたが、退職後12年間、8時半起床の習慣がすっかり身についてしまった。もともと宵っ張り、朝は起きるのがつらかった。
大学生時代、アパートを借りていた5年間もつらかった。1年生のときはそれでも10時からの授業にはなんとか出ていたが、2年目以降は午後からの授業だけ受講票を出した。一応全部合格すれば学部には行けるはずだったが、不勉強と、何より学費闘争がこじれバリケードと試験ボイコット闘争になり、そのまま全体の2/3の2年生が留年。1年生も同じ割合で留年が確定した。
私は出席などしなかった科目や試験を受けなかった科目も合格したりしていた。留年した年に取らなくてはいけない単位は3科目程度となっていた。バリケード解除・試験強行までして、こんないい加減な結果である。卒業生が極端に数年間少なくなり、地元経済界からも強烈な批判が大学側にあった。
学部に進んだときは、学部の授業など出る気にもならず、配属された教室には一日おき位に午後だけ顔をだし、お茶を呑んで時間を潰した。就職に対する不安と学生を続けることへの疑問とで悶々としつつも、一晩中専門書以外の本ばかり読んでいた。むろん午前中は寝ていた。読書量だけは今でも誇れる。まさにモラトリアムと呼べる二年間であった。
担当教官も呆れて、さっさと学校から居なくなってほしいとばかりに、結果として最低限の卒業単位だけを付与された。受講票や顔を出していない科目も最低限のC評価がついていた。コンピューターを動かすことに失敗し、結果の出なかった卒論がA評価とは笑い話に等しい。
教官の就職先の紹介なども断り、何とか自力で横浜市にまったく分野の違う事務職として就職できたのは幸いであった。就職してからも朝起きるのがつらく、慣れるまで6か月は地獄のような朝を毎日迎えた。
37年勤めて退職した日の翌日から、すぐに朝8時半起床になった。実に幸せであった。
こんな私が年に数回の朝7時起きのたびに、このように愚痴が出る。早起きの苦手もここまでくるともう病的である。
しかし、山に行くとなると話は別であった。今はもう行かないが、65歳までは山に行くときは5時でも6時でも、不思議に何の抵抗もなく起きることが出来た。
ということで明日の朝はまたも藻掻いて起きなくてはならない。