Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

潔く去るという覚悟(自省録より)

2022年10月03日 11時49分09秒 | 読書

 今朝、本棚をいじくっていたらマルクス・アウレリウスの「自省録」(神谷美恵子訳、岩波文庫)がたまたま机の上に落ちてきた。昨日隣にあった「現代語訳老子」を戻した時に不安定になっていたらしい。久しぶりに開いた頁に目を通した。栞がはさまっていたので、前回目を通した箇所であったのだろうか。
すべて次のようなことを君に強いるものは、自分に有利なものしてこれを大切にしてはならない。たとえば信をうらぎること、自己の節操を放棄すること、他人を憎むこと、疑うこと、呪うこと、偽善者になること、壁やカーテンを必要とするものを欲すること等。なぜならば自分自身の理性と、ダイモーン(人間の内なる神性)と、その徳に帰依することとを何よりもまず選び取った者は、悲劇のまねごとをせず、泣き声をださず、荒野をも群衆をも必要としないであろう。・・・・。自分の魂が肉体に包まれている帰還が長かろうと短かろうと、彼は少しも構わない。なぜならば、もう今すぐにも去っていかなくてはならないとしても、慎みと秩序をもってえおこないうるほかのことの場合と同じように、いさぎよく去っていくことであろう。一生を通じて彼の唯一の念願は、自分の思いがいかなる場合にも理性的な、市民的な存在としてふさわしくないことのないように、というこの一事なのである。」(第2巻 七)

 この自省録は処世訓的な部分が多くて、警句の集まりではある。嫌味な部分や鼻持ちならぬと思うこともある。倫理・規範として身についていることをことさらに云い募らなくても、という思いもしながらそれでもときどき目を通す。
 今回引用した部分、前半はそれがあたはまる。しかし後段は、私のように70歳も超えるたときの「覚悟」として突きつけられて、ハッとすることもある。そこがこの自省録が人をひきつける所なのかもしれない。
 潔い去り方というのは、どういうことだろう。嫌われずに去るのが潔い去り方、とは絶対にならない。良い意味でもがきながら去ることで、感銘を受ける先達を見て来た。ふと消えてしまって、感銘を受けた先輩もある。生き様という見事な背中を追いたくような退場の仕方をしたいものである。しかしこれは自己演出しても出来ることではない。
 飄々として淡白に、しかしこだわることにはこだわり続ける執念を見せて消えていきたいものである。



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