Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の読書と俳句(100723)

2010年07月23日 20時45分47秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 もともと働かなくなっている頭が、この体温に近い暑さでさらにはたらかない。
 このようなときは、推理小説を読むに限る、というのは、推理小説作家には大変失礼な言い方とは思うが、お許し願うしかない。犯人を推理するということもしないで、推理小説を読んでもいいではないか、という屁理屈を押し通すしかない。ということで一昨日好きな島田荘司の
「帝都衛星軌道」(講談社文庫)
「最後の一球」(文春文庫)
「エデンの命題」(光文社文庫)
の3冊を購入。
 昨日までに2冊読了。「最後の一球」は推理小説というよりも野球小説とでもいうような範疇で読むとなかなか面白い。
 言い訳をさらに言わせてもらえば、島田荘司の文章は凝っている。優れていると思う。特に吉敷竹史シリーズの凝った文章など、最近の「純文学」などはるかに凌駕している優れた名文だと思っている。
 本日は「エデンの命題」を楽しもう。

 本日の俳句
★空蝉の面構え良し空の青
★空蝉や過去の遺物となれる朝

香月泰男のシベリア・シリーズ(5)

2010年07月21日 19時00分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 別(1967)

 いつものとおり作者の言葉から。「入隊3ヵ月後、満州に向け下関から出発した。僅かな肉親が送るその首途が、4年余にわたる戦争、抑留への道に繋がっていた。実際には日の丸一本振られたわけではない。しかし個人の意志が、国家体制によって無視されるその船出には、眼に見えぬ「黒い日の丸」が振られていたと言えよう。」

 この重い言葉を私たちは戦後65年、どのように反芻してきたのだろうか。戦争が政治の延長である限り、強権的な国家の廃絶をも見据えた政治思想が、繰り返し繰り返し人の口の端にのぼらねばならなかったのではないか。戦後も今も、国家により人々の抑圧と戦争は廃絶されない。戦後問われなければならなかったのは、アメリカ軍は解放者か否か、民主主義か独裁か、ではなくさらに自由主義か社会主義かでもなく、安全保障か完全独立か、でもなかったはずだ。東欧での「ソビエト軍」の強権(ハンガリー・チェコ事件等々)、朝鮮戦争、ベトナム戦争‥‥私たちの記憶に新しい。

 しかしこんな政治的に未熟な言語を弄したところで、この画家の体験に基づく重い言葉に拮抗できようはずもない。
 ひとつだけ、私が注目したのは「実際には日の丸一本振られたわけではない」の一節。1943年とはそんな状況であったのだ。むろん1967年の作であるから、自画像と思われる「×」の形を添えられた像も、岸壁の人々も前途を示すように暗く、黒く描かれている。
 しかし当時は日常の風景として、港の1日の一こまとしての小さなさりげない出来事のように、周囲はあったのであろう。本人と家族にとっては、この絵のように暗い感情が渦巻いていたであろうが‥‥。
 日露戦争以降、戦争が日常化している社会状況の恐ろしさを見せ付けられる感じがする絵と言葉である。

連続講座「中国文明の誕生」(東京国立博物館・3日目)

2010年07月20日 22時21分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は連続講座の最終日。東博の三笠景子氏の「技の誕生二 陶磁器 白い器を求めて」と題した講演。
 陶磁器については知識はほとんどないので、聞くことすべて新しいことばかり。陶磁器の基本的な知識があれば、展示品を見る眼も随分と違うとは思ったものの…。
 しかし陶磁器は決して嫌いではない、というよりも派手なもの、細かい絵模様は残念ながら趣味ではない。分厚いぼってりとした、無骨な(定義はあいまい。あくまで私の勝手な形容)陶器が好きだ。これからもそのあたりでとどまっていそうな気がする。

 3日連続の連続講座、なかなか面白かった。初めての参加であったが、この次の気に入った特別展についても、応募してみたいものである。


香月泰男のシベリア・シリーズ(4)

2010年07月19日 11時32分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ホロンバイル(1960)
 「ホロンバイルの草原で風化してゆき動物達の風化した骨を見た。戦争にしろ、他の原因にしろ、ここで死ぬようなことがあれば、私の屍は草原にこのように遺棄され、白骨化するに違いないとしばしば思ったものである。」

 この絵もホロンバイルという地名から、敗戦前の「日本軍」としての経験の時間の中に入る。香月泰男は日本に生まれ、ひたすら絵を描き続けてきた人間である。年表を見る限り社会的な運動にも、政治的な運動にもかかわったことのない、美術教師である。
 そのような人々にとって、政治的な死も行動理念の結果としての死も、覚悟の外である。列島のどこにでもあるような、樹木の繁茂したなだらかな山々や里や平野の緑豊かな「自然」にかこまれ、そこの習俗にしたがって埋葬されるみずからの生死を、深刻な思弁の果てではなく、ごく当たり前に死への移行を暗黙のうちに想定していた人間と思われる。
 その人間が、中国の北方の極寒の厳しい自然とそこで生物が死を迎えることの日常を、過酷で無残で受け入れがたく、衝撃的に眼にしたと思われる。
 それがそこに住む人々にとって、生物にとって当然であっても、これは衝撃である。人間と自然の関係が根底から違うという体験であろう。
 日本軍という過酷な集団経験の中で、死が目の前にぶら下がっているような状況でも、周囲の過酷な自然の中の死はまた、特別なものであったのだろう。
 侵略国家の最末端の部隊の最下級の兵士としては、駐屯するのみで、まさしく邪魔者・迷惑なものであったはずだ。そしてその自然や現地の人々の営みに対して、溶け込むこともできなかったはずだ。ただひたすら画家の目で見つめる、孤独な眼が、死を見つめる眼がある。

 さてこの「ホロンバイル」は、敗戦差し迫った1944(S19)年11月の「文部省戦時特別美術展」に展示されている。むろん作者の言葉などはないが。
 どだい、国家意志によって美術を含む芸術を、人々の口をふさぐことなどできないのだ。苦労して戦地より1年近くかけて家族の手に届いた絵画、しかもキャンパスではないものに描いた絵が、官憲の眼を逃れて堂々と無鑑査で展示される。

 私は香月泰男の絵は、俳句的な要素があるように思う。主題をひとつに絞り込むように、絵の題材を絞り込み、徹底的に自分の意識の中で相対化し、そぎ落とし、残ったものをポンと読者、鑑賞者の前に呈示する。
 技巧は微かである。わずか17文字の配列と一字一字の字句の選択であるように、色彩もタッチも、形も簡略化され削ぎ落とされていて、そして実に雄弁である。
 俳句が写生ではなく、絵が俳句的というのも逆説的ではあるが、モノクロームの優れた写真や山水画が豊かな色彩を暗示するように、香月泰男の絵も、実際に使われた色彩は少ないが、豊かな色彩と情景を暗示し、俳句的である。

連続講座「中国文明の誕生」(東京国立博物館・2日目)

2010年07月18日 23時04分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の講義は、九博の小泉惠英氏の「美の誕生2 仏教美術の開花」と東博の川村佳男氏の「技の誕生1 青銅器 祭祀の器の展開」。
 ともにこれは勉強になった。私の興味の方向と合致するとともに、私にとっては新しいまとめがあり、うれしい限りであった。
 仏教美術の流れは総論としてはじめて私の頭の整理が出来かけた。
 殷以前、殷代、西周期、春秋期、戦国期、漢代以降の祭祀としての青銅器の位置づけ、目的と技術的な展開との関係から、王権のシンボル、身分と秩序のシンボル、力と財力のシンボル、器の実用性の重視、という流れの整理が勉強になった。

 梅雨晴れの天気のなか、昨日・本日と16時半近くに東博を出て、昨日は日本橋・銀座を通って新橋までウォーキング。本日は新橋まで電車に乗り、新橋から品川までウォーキング。
 明日はどうしようか思案中。


連続講座「中国文明の誕生」(東京国立博物館)

2010年07月17日 23時48分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は、3回連続の講座の第1日目。東博の谷豊信氏と九博の市元塁氏の講義。
 第一講は「中国文明と王朝」と題した、初期王朝の概略で私には既知の内容の再整理として役立った。参考文献も既読。
 第二講は「美の誕生Ⅰ 死後の世界を彩る品々」と題して、戦国時代から北宋までの墓室の歴史。死後の世界のために当初は空想上の動物(玄武等)や神々を描き、呪具などを埋葬していたが、時代が下るにつれ、日常の生活用品やその模様を描いたもの、日常の歌舞を模した俑などを埋葬するようになるなどの指摘が面白かった。

香月泰男のシベリア・シリーズ(3)

2010年07月16日 20時42分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朝陽(1965)

 作者は「素足で走らされる朝の耐寒訓練は、初冬の日課であった。芦浦の感覚もなくなる頃、東天の闇をついて陽が昇る。それは疲労、暑さを忘れさせる程の厳粛な美しさだった。」

香月泰男のシベリア・シリーズの2割は、終戦日以前の軍隊体験を告発するものを占めている。私は香月泰男のシベリア・シリーズの重みは個々にあると確信する。時代の犠牲者、スターリニズムの被害者として(それはその通りであり、これは紛れもない事実だ)だけではなく、国家犯罪としての「戦争」そのものを告発する普遍的な重みをこのシリーズが持つ所以である。
 戦後生まれの私どもがこの絵から学ばなければならないものの重みがここにある。

暑中お見舞い申し上げます

2010年07月15日 22時29分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 まだ梅雨末期と思われる集中豪雨の地域もあるようですが、とりあえず暑中見舞い申し上げます。
 今後もこのブログに注目くださいますようお願いいたします。
 香月泰男のシベリアシリーズを始めてみたものの、いつになったら終わるかとヒヤヒヤもの。重い主題に押しつぶされそうな気もしてきた。
 時々肩の力を抜きながら続けます。

 本日はベートーベンの大公をスークトリオで聞きながら、就寝としよう。

香月泰男のシベリア・シリーズ(2)

2010年07月15日 14時54分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 青の太陽(1969年)

 シベリア・シリーズ57点の内11点ほどは抑留前の日本軍での経験である。どちらかというとこちらのほうが、作者自身の言葉で「国家」「軍隊」を告発する言葉は鋭い。確かに抑留という事態を招いた現況であるからである。
 この絵も、日本軍としての訓練中の経験に基づく。

 「匍匐訓練をさせられる演習の折、地球に穴をうがったという感じの蟻の巣穴を見ていた。自分の穴に出入りする蟻を羨み、蟻になって穴の底から青空だけを見ていたい。そんな思いで描いたものである。深い穴から見ると、真昼の青空にも星が見えるそうだ。」

 青い空、蟻や蟻の巣は、作者にとって救いの象徴としてある。そして幻想の星もそうだ。前回の粉雪といい、この星といい、もっとも小さいものがもっとも美しく描かれている。ここには人の顔は書かれていないが、いまだ微かな救いがある色使いだ。
 自然の光が救いのシンボルとして、かすかな希望の窓、青い太陽としての空の一角、星の光の形をしてあらわれている。

香月泰男のシベリア・シリーズ

2010年07月15日 07時52分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朕(1970)

 夕食後、ふと香月泰男のシベリアシリーズを再見したくなった。理由は特に思い浮かばないが‥。
 早速1995年、横浜のそごう美術館で開催された折の「没後20年香月泰男展」を引っ張り出してきた。もうあれから15年以上経つのだ。いくつかの絵は見ていたが、160点以上におよぶ回顧展を見て、その内のシベリアシリーズの迫力に圧倒された。
 そのカタログにはシベリア・シリーズの全作品に作者の言葉による解説が付されている。
 シベリア抑留という生死の極限におかれた人間集団を経験した作者のひとつひとつの作品には、作者の言葉すらも言葉を拒絶するような圧倒的な存在感がある。どんな言葉を記しても何も云ったことにならないような、そんな絶望的な極限の体験であろう。まして私の言葉など、作品の前では無用のものであることは承知をしている。それでも私は私の言葉で何か語りたい衝動に駆られたこともまた、確かだ。
 ひとつひとつの作品、すべて惹かれる。人間への絶望、生死に関する諦念、それでも一筋のひかりのような同僚への暖かいまなざし、このような事態をもたらした国家への異議申し立て、そしてわずか光明。私の経験や言葉なんぞどこかへ吹き飛んでしまうような重い状況が垣間見える。

 今回の絵につけられた作者の言葉は
「我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所ニソアル……朕ハ大元帥ナルゾ、サレバ朕ハ……朕ヲ……朕……敗戦の年の紀元節、粉雪舞う海拉爾(ハイラル)の営庭に兵は凍傷予防のための足ぶみを続ける。その絶え間ない軍靴の響きと入り混じって、軍人勅諭奉読が行われた。朕の名のため、数多くの人間が命を失った。」
とある。

 美しい粉雪の結晶の白の向こうの顔は、無表情に生気のない表情をしている。海拉爾(ハイラル)の場面はまだ、日本の無条件降伏前、1943年から1945年前半の時期である。しかしこの暗い絵は、当時の軍隊の状況が垣間見える。
 兵の顔は、絶望からか憤怒からか諦めからか、眼を閉じ口を閉じ、息までも拒否しているようにも見える。真ん中の視覚の白っぽい四角は、ガラス窓に写る内部にいる日本の将校か、目を見開いて口を明けている。号令をかけているのか、軍人勅諭を説いているのか、外の兵をあざ笑っているのか、不明だ。軍隊という、徹底した階級社会のもたらす、特権と下層の果てしない階層性という、醜悪な社会を暗示する。
 あるいは四角の中の微かな顔は、画面の無表情な人々の心の中の叫び、願望をあらわしているのかもしれない。
 粉雪の白の美しさが、画面全体の暗さを、絶望を、告発の無力を際だたせている。

 シベリア体験とは、ロシアという国家悪がむき出しにされたことによりもたらされた悲惨な状況だけでなく、敗戦直前の日本という国家が作り上げ、日本という国家の縮図であった軍隊という名のグロテスクな様相と、それを国家が敗北しロシアの軍門に下った後もそのグロテスクさを引きづった日本の社会の負の体験でもある。
 「国家」「戦争」「階級」という負の遺産をどのように継承してゆくのか。「国家」の自縛をどのように緩め、解いていくのか、「国家」の廃絶は遠い遠い、実現不可能性の果ての永遠のかなたなのだろうか。そもそも考慮に入れてはいけない概念なのだろうか。

さとうてるえさんのきり絵から(二度目の寄り道は花火)

2010年07月14日 20時21分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日横浜は夕方から雨が降る予想であったが、ハズレ。南に黒い雲が勢いよく北東方向へ走っていた。風も強く、まさしく黒南風の雰囲気であったが、真上の空は青空、通夜明けのように青く透き通った空であった。
 一日も早い梅雨明けを祈って、



そろそろ暑中見舞いの準備かな?

2010年07月14日 10時49分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜は友人に近況報告の手紙を4通作成、先ほど投函。就寝が遅くなり午前中は休暇となってしまった。 この間いろいろ相談事にのってもらった友人。
 他の友人には暑中見舞いを兼ねた近況報告をしなくてはならない。
 何をどう表現したらよいか、悩むところだ。じっくりと考えよう。

きり絵「ふるさと福島」から(12)猪苗代町天鏡閣(きり絵さとうてるえ)

2010年07月13日 21時58分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
天鏡閣

 福島県猪苗代町にある旧有栖川宮翁島別邸をいう。本館・別館・表門は1979(S54)年に国の重要文化財の指定を受けた。
 有栖川宮の別邸として1908(M41)年に建築。ルネッサンス様式を取り入れた和洋折衷。当時では極めて豪華なつくりであった。天鏡閣の付近には高松宮の和風別邸(現福島県迎賓館、国の重要文化財)も建てられともに高松宮の所有となった。
 1951(S27)年福島県に払い下げられ、1979(S54)年国の重要文化財に指定、県は翌年から建物の修復を行い、一般公開されるようになった。
 大正天皇が皇太子時代にこの地に滞在し、別荘から見えた猪苗代湖の湖面を鏡に例えたことから李白の「明湖落天鏡」より命名(直筆の額が保存されている)。現在は周囲の樹木で湖面を見ることはできない。

 木造の和洋折衷の建物は、横浜の西洋館など各地にある。いづれも私は見ると心惹かれる。函館に育った私は小さい頃から函館の公会堂や古い教会を見ていたから心惹かれるのかもしれないが、それだけではないであろう。いづれも趣があり、また建築した設計者の設計思想や、発注者・居住者の好みや利用目的に沿ってさまざまな個性が光るように思う。そしてつくりが叮嚀であることが素人の眼で見てもわかる。
 むろん当時の社会の貧富の格差や身分制の問題はあるのは承知をした上で書いているつもりだ。
 このような作品を心がけているさとうてるえさんに敬意を表している。

梅雨寒

2010年07月11日 16時55分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日は夕刻に期日前投票。投票後、古本市をのぞいたものの収穫なし。その後、投票所傍のてんぷらと刺身の店にて夕食。

 本日は、糸のような雨にひたすら休養。春の雨のような細い雨である。

 (07.06)
 梅雨闇の我が身のボタンの冷ややかさ
 梅雨闇や記憶途切れるその先に
 (07.07)
 雨晴れるとかげの視線つよき日に
 (07.11)
 梅雨の冷え琳派の獅子の低き声
 梅雨寒に仁王の像の孤独の眼
  ベランダにて
 梅雨冷えに硬度は青のかたき実を
 傷もなき青の硬さに唐辛子

東京国立博物館「誕生!中国文明」と記念講演会

2010年07月10日 16時42分30秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は東京国立博物館「誕生!中国文明」に再訪し、あわせて記念講演会「文字の発生と歩み」(書家・新井光風氏)を聴く。
 甲骨文・金文を初めてじかに見た。河南省中部の、二里頭遺跡(夏)と西周以降の遺物が中心。河南省最北部を拠点とした殷王朝(商)の遺物は少なかったが、勉強になった。カタログ2300円。
 饕餮(とうてつ)文が主流の戦国時代までの青銅器の文様と、秦・漢以降では文様の面で大きな断絶を感じるのは私だけであろうか。それだけ秦の偉業は大きいものだったのだろうか。
 一部青銅器では金文のある内面を見せてくれないのは残念な展示であった。
 講演会は、甲骨文以前の前4000年の文字らしき刻文や符合の紹介、甲骨文字に四足動物は足を左・頭を上にした象形が基本(牛・羊の正面や亀の真上などの例外はあり)との言及、初めて聞く西周初頭の甲骨文字の紹介、楷書→行書→草書ではなく発生順は草書→行書→楷書であること、甲骨・金文・隷書までは縦長の発想で隷書から横長の指向との指摘、バランス・筆致の勢いなど書家らしい視点での講演、この講演も勉強になった。
 白川静もまた、今回の講師も指摘しているが、神聖文字(神意をうかがう)としての甲骨文字は完成された文字である。形の上でも字数でも。ことに毛筆の筆記などの写真を見るとその説は十分にうなづける。また十分に使い慣れた形態とも思う。ということはそれ以前に文字は十分に前段の発達した形態があったはずである。説文解字という呪縛からの研究上の意識の解放のためにもその発見・解明はどうしても必要なことと思われる。

 来週3連休に行われる連続講座もあたった。楽しみである。