Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の俳句2(100821)

2010年08月21日 21時09分11秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句(追加)
★ゆったりと桃の皮剥く汁が手に
★一杯の麦茶の冷気を隅々に


 俳句は、炎天下のウォーキング途中に帰宅後のシャワーと冷水と冷えた桃を想像しながらのもの。歩きながらできた俳句は出来立ての気分は上々だが、帰宅後に清書すると大したものではない。いつも裏切られる。

本日の俳句(100821)

2010年08月21日 09時57分33秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★木の下に風とどこおる残暑かな
★細く書く微かな虫の音に沿うて
★梢には風も忘れて秋暑し

 昨日に続いて残暑の句。眠られぬ昨夜、うつらうつらしながら浮かんだ。そして微かな虫の音も聞いて作った。朝目覚めて、昨日よりも暑い気配の日差し。真夏のような雲とよどんだ空気を察した。暑さが再び襲ってきた。
 昼にはミンミンゼミが圧倒的な音量、夜にはクマゼミとヒグラシの声のようだ。その間に微かに草むらから秋の虫の声がする。何の虫だろうか。聞き分けぬうちに寝入ってしまった。あるいは夢の中だったのか。朝、先のとがった鉛筆で虫の音のようにたどたどしくこの句をメモした。

本日の俳句(100820)

2010年08月20日 21時08分20秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「残暑」で季語をめくっていたら
朝夕がどかとよろしき残暑かな 阿波野青畝
てにをはを省き物言ふ残暑かな 戸恒東人
吊革に手首まで入れ秋暑し   神蔵 器
が目に付いた。うだるような暑さが続く。昨日今日と横浜は30℃とのことでこれまでより多少はよかったが…。どの句も気持ちがよくわかる句だ。

 さて本日の私の句は、阿波野青畝の胸を借りて残暑4句。
★朝夕の気配重たき残暑かな
★朝夕の雲に重さのある残暑
★手ぬぐいの匂いもおもき残暑かな
★校門のかんぬき錆びて秋暑し


高島野十郎の絵(その3)

2010年08月19日 09時05分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日の朝日新聞の夕刊の2面にに高島野十郎の記事が掲載されていた。夜に(その2)の記事を書いているときに妻に教えてもらった。
 記者は次のように書いている。「よくよく見ると写実的だが、正確な描写ではない。炎は長すぎるし、影は動かず真円に近い。三鷹市芸術文化振興財団の富田智子主任学芸員は「写真でもこうはならない。時間の厚みがある。描けそうで描けない絵」とみる。揺らぐ炎は何を照らすのか。画家は言葉を残していない。だが、描く姿を想像すれば、照らされるのは絵筆を握った野十郎自身ということになる。遁世し、静かに絵と向き合う画家の気配までが感じ取れる絵だ。」
 どうも限られた字数のためもあろうが飛躍が多い。学芸員の言葉も前段の言葉が大いに割愛されていていそうである。炎の揺らぎ様が実際より長く、かつ輝きが実際よりは大きく、それにもかかわらず影に揺らぎがなく、炎の最下部の青も実際の青っぽい色とは違う。蝋も流れ出ておらず、ながらく燃えたらしい大型の蝋燭の揺らぎにしては円対象のまま燃えている。以上実際の蝋燭とは違うところはいっぱいある。しかしこれが絵にどっしりとした安定感・安心感を与えている。
 絵である以上そうなのだ。写真ではない。

 学芸員が言った言葉は切り貼りだろうから前後・途中が抜けている可能性は大いにあるが、言葉としては悪くない。的確で簡潔なのかもしれない。私なら「時間の厚み」とは云わずに「作者のこうであってほしいという思いによって見えている作者自身の頭の中で再構成され、そして熟成を重ねて作られ、作者にとっての真実の写生」とでもいうことだろう。
 記者は安直な「照らし出されているのは作者自身」との結論を掲げておしまいにしているが、これは違っている。描かれているのは学芸員の言葉によれば「作者の時間の厚み」「写実の目」であり、そうなら照らし出されているのは、反射的には「作者の時間の厚み」を通してそれを鑑賞している鑑賞者の心である。
 同じ炎でも見る人の心にはさまざまな違う波紋をもたらす。
 蝋燭の炎自体は安らぎと安心と心のゆとりをもたらすが、それは空気の流れのわずかな擾乱がもたらす不規則で細かな揺らぎによる炎によってもたらされる微かな不安や心の擾乱と、揺らぎの復元後の安定な炎があるからである。
 揺らぎをここまで見せられると或る人は、その擾乱によって大きく心に波風を立てられる場合もあるかもしれない。揺らぎによる不安をまず念頭に覚えるかもしれない。そしてその次に蝋燭の炎をじっと見ているときを思い出し、人類の始原の頃からの歴史を持つ心の平穏にたどり着くかもしれない。
 私は東北の山の縦走の途中、嵐の中蝋燭1本で灯りと暖をとって過ごした木造の避難小屋での一晩の不安と安心感の混ざり合った気分を思い出す。
 この揺らぎがなければまた、先に述べた実際との違いがなければ、実につまらない図鑑の絵になってしまう。
 もう一度言おう。絵を見て映し出されるのはあくまで鑑賞している人間の心である。だから鑑賞はおもしろいのである。昨日の感動が、明日はないかもしれないのだ。

 どうもマスコミの文章は信用ならない。特に社会面の記事はどうしようもない最低の5W1Hも最近は頓珍漢な文章が多いようである。最近の文章の乱れを嘆くマスコミ自身がいつものごとく自らを棚にあげている。鼻持ちならない。すぐに文句をつけたくなる。

高島野十郎の絵(その2)

2010年08月18日 22時52分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
満月

 私の所有する求龍堂の画集では、「月」と題する月を中心とする似た構図の絵が5点あるが、「満月」と題する絵はこの1点のみである。3点は「月」と題して満月のみを描いている。1点は満月を中心に雲と高木4本の梢の先が見えているものがあるが題は「月」である。この雲と高木の描かれた絵も透明な空気を通した美しい満月である。しかし満月と同時に絵の下方に描かれた紫色の美しい雲にも焦点があるようで、その間の白い雲が少々うるさく感じた。ただしこれは一瞬の感じなので、実際に見たり、気分が変わればこの絵の法が心に残ったかもしれない。
 今回カタログをめくっていて、私は「満月」と題したこの絵が心に残った。最初は梢の葉がくっきりとしすぎてわずらわしくも思ったが、黒い影として描かれていて、あくまでも満月の光に焦点が絞られていることがわかり、それほどわずらわしくないと感ずるようになった。
 同時に他の月の絵よりも満月の光の広がり具合が特段に私の好みであると感じた。減光の具合、光が闇に拡散する同心円の彩色の具合がとても落ち着いているように感じた。その減光の具合を梢の黒がうまく引き立てているのではないかと思った次第である。
 贔屓の引き倒してきな素人の勝手な好みをだらだらと書いただけかもしれないが、私的なブログであるので容赦願おう。
 なお、カタログで判断する限り月の絵5点の内、サインがあるのはこの絵を含めて2点のみ。月の光の邪魔にならないように、右下の片隅に目立たない色で微かに書かれている。

 是非とももう一度高島野十郎の絵を直接鑑賞する機会が欲しいと思う。三鷹市美術ギャラリー(~29日)ないし銀座美術館(23日~9月11日)いづれかに足を運ぶことができればうれしいのだが…。



高島野十郎の絵

2010年08月17日 22時58分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
蝋燭

 高島野十郎という人の絵を知ったのは最近のことだ。何年か前、確か新日曜美術館でやっていて知ったような気がする。最初月の絵を見たとき、坂本繁二郎の絵を思い浮かべた。青木繁・坂本繁二郎と同郷、ほぼ同時代的な世代と言うことも後に知った。
 「時には本の話でも‥」のブログで柏市の高島屋で短期間の展覧会があることを教えてもらったが、遠いので残念ながら見に行く余裕はなかった。私の手元には求龍堂の画集がある。せっかくの機会だったので画集を開いてみた。
 今回は特に二つの作品が印象に残った。本日の蝋燭のシリーズの中のこれがその一点。お皿の台があるのは珍しい。他の蝋燭の絵は、蝋燭がテーブルに直にのっている。しかし特に印象深いのは、炎が不安定に長く揺らぐ様を描いた作品が多いのに、これはその直前、ないし炎の揺らぎが収まった直後の絵だからだ。
 私は揺らぎの直前の様だと勝手に思っている。これから光り輝く前の一瞬の静寂を捉えたのではないだろうか。
 炎自体もきらびやかに光っておらず、落ち着いた光を放っている。背景の色も丁寧に塗られていて、他の蝋燭の絵よりも落ち着いて見える。それが私にはうれしい。テーブルの下の黒のコントラストもくっきりしている。しかもサインがある。本人も気に入った一点だったように感じている。
 本人のノートに

全宇宙を一握する、是れ写実
全宇宙を一口に飲む、是写実

道端、ごみだめにころがつて居てもはつきりと見える、
どんなにうたがつて見てもそうとしか見えないものが芸術品、

額ぶちに入れてかざれば何かいみがつくといふようなものは迷心品、
批評専門家は多くは迷心に落ち入つてゐる。

とある。

 高島野十郎という人、寡作・遅筆であったようだが、このような言葉を読むと、絵を通して「全世界を獲得したい」という切実な欲求の前に自らたじろぎつつ、緻密に絵を丁寧に描いた人のように感じる。長谷川リン次郎と言う人もそのような傾向にあったようにも思う。
 作者なりの「全世界を獲得」する営為が爆発的なエネルギーの噴出ではなく、地球深部の熱エネルギーがじわじわと熱伝導で少しずつ、しかし枯れることなく続いたような感じの絵が並んでいる。
 こんなタイプの画家が、芸術家が私の好みだ。


「時のしずく」(中井久夫著)

2010年08月15日 14時20分11秒 | 読書
 恥ずかしながら約一年かけて本日読了。途中約9ヶ月ほど放ってあった。というよりも机のうずたかく積まれた本の下のほうに忘れてあった。

 「大震災の中では一種の連帯感、共同体感情というものが存在した。普段の人々の境界が溶け落ちた(メルトダウンした)のである。それはボランティアが、魚が水の中に泳ぐように動ける世界であった。これをボランティアに関して『熱い』(ホッとな)世界と言おう。この世界にも危険性は潜んでいる。私は震災直後の熱い世界の中で、フランス革命にせよ、ロシア革命にせよ、革命の初期の高揚はこういうものだったのではないかと思った。この共同体感情を永遠なら占めようという誘惑は回りまわって「力づくの永遠化」すなわち恐怖政治につながりかねない、という思いも頭をかすめた。しかし幸いに、被災地のだれもがこれが一時的であることを直感していた。そして天災は革命よりも人を排他的にしにくい」
 「母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎ行くものの影がある。‥終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。」「友人と過ごす時間は、合うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せないさをしみじみと感じる。」
 「(阪神間・夙川のあたりは)電車の窓をすとんと落としてふんだんに風をいれる五月初めならば、‥松の樹脂の香りと花のにおいと風化花崗岩の湿り気と微かな海の塩とを交えた爽やかな風がどっと車内に満ちた。その風は老木が削りたての杉板そのままのきつい香りを放つ間を太平洋からの強い風がふんだんに吹きすぎる鎌倉の風でもなく、高燥な大気が落葉松のしめった匂いをひきしめている軽井沢の風でもなかった。‥いつも洗い立てのような風化花崗岩の白い砂が、この風のかおりを守っていた。」

 精神科医らしい文章と、文学的な文章を抜き出してみた。
 最初の文章は1960年代の群小の政治活動家や、経験したものが未だ抜け切れていない課題である。政治的共同体と大衆構造との関係、大衆運動と政治課題との関係、つまるところ政治に携わるものの「大衆像」が問われているのだが、そこに届いた政治思想はないような気がする。
 二番目、私も来年の今頃には定年となる。大学の同窓生は定年を迎えたか、私と同じように迎えようとする歳である。年に一度も会えなくとも、定年を機会に会うことを楽しみにしている面々もある。お互いのどのような家庭像を披露し、どのような友人像を抱えていたか、楽しみとしよう。
 三番目、このような美しい文章を書いてみたいものだ。さすがに理系、分析的な文章である。私も理系の文章といわれる。理系という言葉が「美しい文章」とは反しないことを私自身の文章で証明したいものだ。

 中井久夫の文章は私にはすっと入ってくる。文章の流れ、語彙の選択、段落の区切り、喚起されるイメージ、いづれも私のものと合致する。単に読みなれたためではなさそうである。
 分析的な文章、演繹的な構成、起承転結のわかりよさ、飛躍のない展開と結論、威圧的でない結語、どれをとっても真似をしたくなる文章である。身につけたくなる文章術である。

 私は一人の著者に凝るほうである。中井久夫のエッセイ・本は翻訳を除くと「樹をみつめて」「日時計の影」「最終講義」。次は「樹をみつめて」の予定。

ベートーベン チェロソナタ3番

2010年08月14日 21時59分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ヨー・ヨー・マのチェロ、エマニュエル・アックスのピアノで3番と5番、魔笛の主題による7つの変奏曲と、同じく12の変奏曲が同梱。昔から特にこの3番は好きであった。またチェロとピアノのバランスもよいと感じる。
 第1楽章の朗々とした第1主題はいかにもチェロにぴったりの旋律である。これにつづくピアノの高音の音階もこの旋律にかみ合っている。チェロとピアノの掛け合いも好ましい。多くの場合、音階風の旋律というのはピアノで奏でると転がるようで美しいが、弦楽器でそれもチェロのような低音楽器で奏でるのは単調になりやすくむずかしい。この曲に限ってはこのチェロでの演奏が美しい。演奏者のヨー・ヨー・マの力量なのだろうか。シンコペーションもしつこくなく美しく響く。
 第3楽章のアダージョのチェロの旋律も美しい。また高音で小刻みなチェロの律動でのピアノと掛け合いも面白い。

 ベートーベンのチェロソナタという一群の中で、もっとも好きな曲だ。

今月の7句(7~8月)

2010年08月14日 12時40分05秒 | 俳句・短歌・詩等関連
俳句誌への投句7句

★梅雨の闇記憶途切れるその先に
★傷もなく青の硬さに夏の瓜
★噴水の届かぬ虚空蝶の道
★かみなりの起点は何処水におう
★炎帝や鉄棒赤き錆匂う
★鳴ききって面構え良し蝉骸
★台風来鉛筆の先の丸みへと

本日の俳句(100813)

2010年08月13日 21時01分39秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★太く書く蝉の時雨を払いつつ
★くっきりと万年筆で立秋と
★台風来鉛筆の先の丸みへと

 台風特有の湿気が、皮膚感覚には厭わしいが、筆記具にはいい感触を与えるようだ。

 蝉時雨がそれほど喧しくないと記載したが、ようやく立秋を過ぎてから蝉の声が本格化してきた。わが団地でも例年ほどではないが、それなりににぎやかになってきた。台風のもたらす強い風と雨もよいの天候だが、盛んに鳴いている。蝉の骸も多く見かけるようになった。いづれも精一杯鳴き切っての最後の光芒を放ったらしく、そっと土の上に静まっている。

プロコフィエフ、バイオリンソナタ

2010年08月12日 20時01分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は、プロコフィエフのバイオリンソナタ1番、2番(バイオリン:シュロモ・ミンツ、ピアノ:イエフィム・ブロンフマン、1987年録音)を聴いている。
 私にはプロコフィエフはそれほどなじみはないのだが、少し激しいリズムと旋律を聞きたくなったのと、厚みのあるバイオリンの音色に浸りたかったから。確かに1番の第2楽章に圧倒された。
 しかし実際に聞いてみると、1番では第3楽章の静かな旋律が心地よかった。第4楽章の第2主題の物悲しい旋律が美しく感じた。終わり方も美しい。
 第2番の第4楽章は出色ではなかろうか。第1楽章の終わり方といい、この第2番はいい意味で認識を新たにした。

 私はどうもにぎやかな激しい曲を聴きたくなったと云うときでも、結局静かな哀愁を帯びた曲や旋律でないと心が落ち着かないようだ。

本日の俳句(100810)

2010年08月10日 20時56分56秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★揚羽蝶風なき空に風を切る
★片陰の風なき道に蝶の道
★影もなく風もなき道夏の蝶

 同工異曲といわれそう‥。
 本日は沖縄・九州は台風、東北は地震とあわただしかった。台風の動きが心配である。
 

本日の俳句(100809)

2010年08月09日 22時00分50秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★戦死者の墓誌を真中に蝉時雨
★未だ重き戦死の証し夏の墓
★静かさは秋来る日の夜の雨

 昨日の雨は雨が降り出し、静かな夜となった。蝉が少ない所為か雨と同時に蝉の声もやみ、例年微かに聞こえ始める虫の音もなく、雨の音をじっと聴いていた。
 昼間近くの公営の墓地を散歩したが、戦争の傷跡は墓域に著しい。大きな石碑があったり、墓誌に戦死と記されていたりする。1944(S19・20)年の死者の多くは戦死や空襲による死者であろう。

本日の読了(100808)

2010年08月08日 22時47分23秒 | 読書
「正倉院文書の世界-よみがえる天平の時代-」
                  (丸山裕美子、中公新書)

 写経所の業務実態など興味深かった。特に6日に1日の休みがあり、他に休暇申請や欠勤届、借用書、そして待遇改善の要望書案、また朝廷での行事毎にボーナスに当たるような支給が行われたこと、宴会の設定など、現代の状況と比べながら読むと興味が尽きない。
 貨幣価値の比較などがあるとうれしかったが‥。