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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

さとうてるえさんの作品「生命の樹」

2013年07月22日 00時15分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 久しぶりに、さとうてるえさんの作品を見た。この作品を私は始めて見る。これまで私のブログに登場した作品とはちょっとおもむきが違う。私としては気に入った作品だ。
 風と思われる輪、また根を描いたこと、太陽と思われる円形の淡い輪郭、これらがとても印象的だ。白と淡い青のグラデーションもいいと思う。
 冬の落葉樹が寒風の中で、弱い太陽の光にも関わらず立っている様子から、強い生命力を私は感じ取った。
 同時に枝の先のふくらみに冬芽も描かれている。その冬芽の逞しさも着目して欲しいというのが作者の思いであった。
 
 実際のところは根はもっと深く、地上の形態と同じくらいのボリュームがあるのだと思うが、そこまで描いてしまっては、くどくなるし全体のバランスも悪くなるので、この表現で異存はない。

 作者は福島市在住である。福島市は県庁所在地でありながら、他の多くの都市のようにドーナッツ現象や過疎化などが進行していた。その上、現在は震災、そして原発事故後の風評被害などの厳しい状況下に置かれている。この福島市という土地で生き抜く作者の逞しさが滲み出ていると思う。
 私などいつもその逞しいエネルギーにあおられてしまうのだ。


30度を下回る

2013年07月21日 20時45分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 この時期に30度以下となるのは最近では珍しいと思う。何かとても過ごしやすい陽気に感ずる。50年前の1960年位ならば、このような気温だったかもしれない。

 しかし体はすっかり高温の夏に慣れていて、この陽気にかえって体の不調を訴える人もいるらしい。先週までの高温による疲労なのかとも考えられる。気象の体調への影響を考えるにはいろいろな角度からの検討が必要だとあらためて感じた。

 本日は久しぶりにジョギングに出かけたが、この間かなりハードで早目とはいえ、ずっとウォーキングばかりだってので、ジョギングをしてみるとなかなか苦しい。結局6キロメートルのコースを300メートル走っては300メートル歩くの繰り返しを続けた。しばらくジョギングになれるように体をもう一度作りなおさないといけないようだ。

燕岳山行

2013年07月20日 18時52分12秒 | 山行・旅行・散策
 合戦尾根を登ったのはいつだったか。写真が残っていないのだが、この自分のブログの記事で探すと2011年8月5日から2泊3日であった。そのときは2泊目目は常念岳を越えて蝶ヶ岳ヒュッテ。3日目に下山している。
 今回は妻と共に靴の足慣らしを兼ねて、合戦尾根の往復をすることにした。穂高駅まで中央線の特急でおもむき、バスで中房温泉登山口のひとつ手前の有明荘を予約した。ここまで来るのに新しい靴で擦れて困ったことは先ほどアップした記事に記載済み。
 穂高駅でバスまで1時間余。駅前の蕎麦屋で昼食後、まだ時間があるので見渡すと近くに「碌山美術館」の看板。碌山とは、ようやく思い出したが彫刻家の萩原守衛のことである。いい機会と思いそこまで歩いたが実質見る時間は10分も無いし、700円とということで妻の×印も出たし、さらに彫刻は鑑賞力も無いということで断念とあいなった。

   

         

 宿についた頃には雲も低く山が隠れていた。夜中過ぎには土砂降りの雨となり、朝になっても雨があがらない場合は、山行は中止と決めていた。しかし晴れ女である妻の霊験あらたか、私の雨男ジンクスよりは強烈のようだ。出発予定を大きく過ぎていたが、8時前には晴れ上がっていた。



 中房温泉の登山口までは500メートル。ここからコースタイムで4時間、ひたすら急登を登ることになる。登山口の公衆便所前で靴の点検、荷物の点検をして、今回はちょうど8時に登山口を出発した。

         

 登山道からすぐに、樹林帯の中の日の当たらない急登が始まるが、すぐになだらかな道となり、第1ベンチはすぐ。ここは水場であるが、給水が必要な状況ではないのでそのまま通過。急登が再開し、第2ベンチ付近で道は合戦小屋の荷揚げケーブルと交差する。第3ベンチも快調に過ぎ、4番目の富士見ベンチからは名前のとおり富士山が遠くに見えるはず。ちょっと見にくいのだが、富士見ベンチの標識を正面に見る位置にベンチがしつらえてあり、ここから遠くに見えることになっているが、登りの初日は残念ながら見ることは出来なかった。しかしこの方向に樹林が切れてほっと一息入れたくなる場所でもある。

         

 合戦小屋は宿泊は出来ないが、うどんとスイカ一切れ800円が飛ぶように売れていた。屋根付のテーブル・椅子席もあるが、日当たりが良ければ外のテーブルが明るくていい。合戦尾根の名称の由来板は見ているうちに眠くなるほど天気がよくなって来た。
 この合戦小屋を過ぎるとすぐに樹木の背の高さが低くなり、樹の密度もまばらになってくる。白樺・岳樺の幹も細くなり、青空が美しい。登っていくと突然のように尾根というより稜線上に飛び出る。行く手に燕岳、燕山荘がのしかかるように迫ってくる。これに圧倒されて登る意欲がなくなるか、逆に登る力が湧いて来るか、山に慣れているかどうかの分かれ道かもしれない。
 稜線の左側には大天井岳から槍ヶ岳への東鎌尾根、槍ヶ岳から穂高岳への稜線が手に取るように見えた。特にこの日は薄い雲が頂上を掠めるように次から次に動いていくので遠近感が強調されて見ることができた。燕岳の右手には東餓鬼岳のある尾根が迫っていた。

                        

 ちょうど白い小ぶりの開花し始めたシャクナゲ(ハクサンシャクナゲかな?)の花とハイマツの美しい緑と赤い花が美しかった。ここら辺から高山植物が一挙に目につくようになる。ハイマツとシャクナゲは混成しているのにあらためて気付いた。
 同時に白樺も岳樺も一層矮性化が進み、根が直角に曲がり何ともいえず情けなくなってくる。
 小屋を目指して最後の急登・急階段はなかなか厳しい。妻も大分足が遅くなってしまったが、何とか登り詰めることが出来た。
 13時半に小屋に到着。実質4時間の歩行時間、昼食時間と休憩を入れて5時間半。妻同伴であるので、充分満足の行く時間で登ることが出来た。

 一昨年訪れたとき、この道は燕山荘のテント場に上り詰める。しかし今回はこの夏道が大きく雪田に遮られているということで、小屋の裏手に出るようになっていた。ちょっと勝手が違っていてびっくり。



 小屋についてみると確かにテント場では雪を掻いてテント場の確保に職員が奮闘していた。
 小屋で宿泊の手続きをして、部屋で荷物を整理の上、燕岳をめざして出発したのが14時15分。


         

 燕岳は風化した花崗岩がそそり立つ独特の景観を持っている。斜めに立っている多くの岩槐をいろいろな物に見立てて名前を付けている。イルカに見立てたものもある。この日は天候は再び悪く変わり始め、風が強く歩くのがつらかった。しかし斜面のザレ場にコマクサがしがみつくように弱々しく、しかし大量に点在しており、妻はいたく感激していた。
 頂上からの景色は残念ながら雲が2700メートル位の線でかかっていて眺望は今ひとつ。しかし穂高から笠が岳、黒部、鷲羽、水晶岳方面の斜面とそこに残る雪渓の迫力は満喫できた。
 天候が急激に悪くなり、雲が黒く低く垂れ込めてきたため、早々に頂上から小屋に戻った。その頃には少し雨も落ちてきた。

まだ夏休み前ということで、混雑もそれほどではなかったがそれでも夕食は2回に分けてとった。私などの頃とはちがうようで、「夏休み前」ということで、中学か高校生の集団(といっても5~6人単位)で4組ほど。自炊でもなかったし、サークルの合宿なのかどうか見当もつかない。

 夜中からは天候は急激に回復、満天の星空はすばらしかった。0時の星空、夏の大三角(こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ)、天の川、大熊・小熊・カシオペアなど一挙に目に飛び込んでくる。ちょうど月が西空に沈む頃でこれも美しかった。合羽は着たが寒くて10分ほどで退散。妻は3時ごろにも目を覚まし再度星空を見に出たとのこと。



 日の出は4時40分頃ということで、ちょうど部屋の窓から望めるので楽をして窓越しに1枚。
 この頃は雲ひとつなく、雲海も厚く日の出を見るにはコンディション抜群であったが、朝に弱い私はまだ眠かった。

               

 朝食後外に出て、八ヶ岳の向こうには国師岳まで見えた。さらに南に富士山、富士山の右手には甲斐駒ケ岳、左へ北沢峠を経て仙丈ケ岳、仙塩尾根、白根三山、塩見岳と続く南アルプスの眺望。
 北アルプスも南の蝶ヶ岳から、穂高岳から槍ヶ岳までの稜線、笠が岳から黒部五郎岳、鷲羽・水晶から立山、針ノ木から鹿島槍、そして朝日岳の三角形の山容まで充分に見渡すことが出来た。五竜・白馬はちょっと見分けがつかなかった。手前には餓鬼岳・東沢岳の異様な山塊もある。これだけの眺望はまず見られない雄大なものであった。

 小屋から表銀座を30分ほど大下りの頭方面に散策。ゲイロ岩といわれる場所まで行き、景色とコマクサの群落を楽しんだ後、小屋に戻った頃には朝の寒さも和らいできた。
 8時過ぎに小屋を出発、昨日と同じ合戦尾根をひたすら下山した。



 途中富士見ベンチで富士山が見えることを確認、第1ベンチ脇に道祖神を発見して妻はご満悦。
 10時50分に中房温泉にたどり着いた。
 有明荘にもどれば立ち寄り入浴料が無料になるかもしれない、という妻の言葉と、まだ入ったことの無い中房温泉がいいという私の意見、結局は無料という現実的な誘惑の意見を採用して再び有明荘に。入浴と昼食と昼寝とお酒(ワイン)で至福の3時間半を過ごし、再びバスで穂高駅まで。
 新宿まで直通の一日1本だけのあずさ26号に偶然乗ることができた。横浜の自宅に戻ったのが19時。

 入らなかった中房温泉のパンフレットを掲載しておく。もしまた行く機会があれば入浴したいものである。

   


ミンミンゼミと登山靴

2013年07月20日 13時43分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩横浜に戻り、住んでいる団地の敷地に足を踏み入れたら、かすかに秋の虫の声が聞こえた。蝉の短い声を1回聴いただけで、もう虫の声がする季節に飛んでしまったのかと耳を疑ったが、間違いがなかった。
 ススキや夾竹桃の根っこの雑草のあたりから聞こえてきた。不思議に思いながら、帰宅してリュックの中から汚れ物を取り出し、若干の後片付けをして夕食をとり、それ以上は外の気配に耳を傾けることなく寝てしまった。
 朝、今度は蝉の声で目を覚ました。ミンミンゼミが盛んに鳴いている。何かホッとした気分になった。しかし今年は蝉の発生数は少ないのかもしれない。
 ミンミンゼミは寿命が6~7年で、羽化してから2~3週間で寿命が終わるとのことなので、今から6~7年前の夏も少なかったか、あるいは異常気象で産卵数が少なくなったのかもしれない。あるいは全体に個体数に波のような変化があるのだろうか。そこら辺のことについてはまったくわからない。

 燕岳で撮影した写真を整理していたら、午前中にいかなければならなかったかかりつけの内科に行き忘れた。薬はまだあるからいいのだが、月曜には行かなければならない。




さて、先日購入した登山靴。店で購入するときは左右とも履いて見て、登山道になぞらえた小さな斜面を幾度も上り下りし、店内も2週ほど歩かせてもらった。その上で購入した。
 家を出て、八王子駅で中央線に乗り換えようとするまでは快調に歩いた。ところが次第に右足の外側のくるぶしの上、約7センチほどのところが痛い。靴の一番上部が当たるのだ。
 しかし左足は何とも無い。とても快調で気持ちがいい。くるぶしの上7センチも被る靴は初めて購入した登山靴以来これまで履いてこなかった。30年ぶりくらいにそのような靴を履いて見て、最近の靴はとても履き心地がよくなったと感心していた。左足は確かにぴったりである。歩いていてとても気持ちが良い。痛くないどころか、優しく左足を包んでくれているようで軽快にも感ずる。右足だけ足の形が違うのかと列車の中で足を眺めてみたが、よくわからない。
 列車の中や、宿泊する温泉までのバスの中でいろいろ工夫したが、右足のくるぶしの上部の痛みはだんだんひどくなる。思い切って靴紐を極端にゆるくし、最上部は紐をまわさずに一段下で紐を止めた。
 これではしかし宿のまわりを歩くと靴がぶかぶかで脱げてしまう。今度は踵部分は少しきつめにしてここで一端固結びで止めたあと、その上はごく軽く靴紐をまわす程度に二段だけで紐をまわした。これで何とかいけそうだと判断し、翌日の山行に出かけた。
 当初は多少右足の外側のくるぶしの上部は擦れて痛かったが、次第に何とも無くなった。一時間後には靴が少し脱げそうな感じがしないでもなかったが、翌日下山するまでそれで通すことが出来た。ただし、右足だけ上部がゆるいので砂や泥や枯葉が入る。ショートスパッツが必要であった。
 帰りの列車の中で、左右の足を再びじっくりと観察したところ、右足の外側のくるぶしの上部が少し腫れている。
 この腫れが、この山行で靴が擦れたから出来たものなのか、もともと右足が少し変形しているのか、判断が出来ない。しばらく様子をみて、この腫れの行方を見極めた上で対処方法を考えなくてはいけない。
 腫れが引いてくれて、再度この靴を履いて見て痛くなければそれでいい。痛いならばどうするのか。私としては左足は極めて良い具合なので、左足はこのままで行きたい。右だけ、これまでのようにくるぶしより少し上程度の深さの靴に変えなければならないのだろうか。もしも変形している可能性があるならば、整形外科での診断も視野に入れる必要があるかもしれない。
 ちょっとショックであった。

閲覧40万、訪問者15万突破に心より感謝

2013年07月19日 21時35分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 実質的にこのブログを開始したのが、2009年8月1日。丸4年がたとうとしている。先ほど気がついたのだが、閲覧数が40万を越えていた。そして訪問者が15万を越えている。
 訪問者というのは、一日にアクセスしてくれるパソコンのIPアドレスの総数だと思われる。閲覧数というのは、すべての訪問者が複数回アクセスしたものもカウントしている数字だと理解している。その総トータルということなのだろう。
 最近は一日200件の訪問者と600から700件の閲覧数があるようだ。開始した当初は一日30件ほどの訪問者と100件に満たない閲覧数だったので、随分と注目をしてくれる方が増えている。

 このブログ、管理人が本当に書きたいことをひたすら気ままに書き連ねているだけだったのが、昨年の管理人の定年退職以降、美術館・博物館の訪問記事、旅行の記事が随分と増えたはず。そんな気ままに付き合ってもらえる方がこんなにもいるとは、とても幸せだと感謝している。
 さらに定期的にコメントもあり、メールや電話でのご意見と合わせてとても刺激になっている。

 これからもこのブログ、よろしくお願いします。


家に到着

2013年07月19日 21時17分53秒 | 山行・旅行・散策
 中房温泉からバスに乗り穂高駅に到着してみると、ちょうどいい具合に20分後にあずさ26号が来る。松本で乗り換えるのではなく、直通の特急が一日1本あり、それに間に合った。
 しかし妻はバスに酔ってしどろもどろ、青息吐息。なだめつつ自由席に乗車したが、席はガラガラ。助かった。しかし次第に混雑してきて、甲府を出る頃には自由席も全席が埋った。座れて助かった。
 八王子駅から横浜駅まで1時間と長いのだが、無事に到着。妻も回復した。

 本日は草臥れたのでこの辺で報告は終了。出来るだけ早めに今回の燕岳山行の感想を書く予定。

無事下山

2013年07月19日 12時47分25秒 | 山行・旅行・散策
1時間前に無事登山口に戻ることができた。一昨日泊まった有明荘が好いとのことなので妻のいうことに従い有明荘で入浴、昼食、昼寝を貪っている。バスは14時15分まで無い。下山後ののんびり温泉と美味しいお蕎麦とお酒(今日はワイン)は極楽である。

燕岳2度目の登頂

2013年07月18日 16時05分44秒 | 山行・旅行・散策
朝まで降っていた雨も8時には晴れ上がり、登山日和に。
快調に燕(つばくろ)岳に到着。直下の燕山荘で今晩は1泊。
妻は花の写真をたくさん撮ってご満悦。シャクナゲが開花を迎えていた。
詳細は下山後。
明日は登ってきた道を戻り中房温泉で入浴して帰宅予定。

土砂降り

2013年07月17日 23時15分09秒 | 山行・旅行・散策
今は燕岳の麓の町営有明荘で1泊している。先ほどから土砂降り。このままでは明日の登山は無理。明け方までにあがってもらわないと・・・・。
横浜の方は降ってはいないようだが。雨男復活か。
ここに泊まるのは初めてだが、お風呂も食事もなかなかいい。
下山時は少し上流の中房温泉での立ち寄り入浴を考えている。

遊びといいわけ

2013年07月16日 21時10分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は昨晩の予告どおりに午前中に同窓会の開催についての文書を近くの郵便局から発送できた。午後は退職者会の幹事会に出て、ブロックの会報を他のお知らせと一緒に封入れが出来た。
 7月に入ってからまだ2回しかジョギングをしていないが、本日は組合の会館までの往復で22500歩を歩いた。もう3000歩ほどを寝る前までにこの周辺を早目の速度で歩いてみようかと思う。
 明日は登山靴の足慣らしを兼ねて、年に2回ほどの妻との山行である。八王子、中央線・大糸線経由で穂高駅まで行き、そこからバスで有明温泉まで。明後日燕岳に登り、燕山荘で一泊して登った道を戻ってくる予定。天候がちょっと危うい。荷物の用意は出来た。あとは天候が好転することを期待するだけだ。

 「夏目漱石の美術世界」展「文芸と芸術」から(4)を書き始めたが、まだまとまらない。登山から帰ってから何とか仕上げたいのだが、残念ながら私の能力の限界を超えているのかもしれない。

ちょっとあわただしい一日

2013年07月15日 23時34分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
仙台の街を歩いた後、20時に横浜の自宅に戻った。同窓会のお知らせのチラシと封筒の宛名、返信用ハガキ。それぞれ25部印刷を行い、封入れ作業。切手貼りと投函は明日。

 そして明日の組合の退職者会のブロックの会報もあわせて印刷した。明日の幹事会での発送作業で同封する。

 印刷機の様子がちょいとおかしい。途中で大きな音がする。印刷自体に支障は無いのだが、紙送り、あるいはローラーの回転に何らかの支障が生じた可能性もある。今度修理に出すと3回目となる。もう限界なのだろうか。
 黒のトナーカートリッジも無くなり、交換。あわただしいときにいろいろと重なる。少々いらいら。このレーザープリンターはトナーの交換がちょいと面倒。

 明後日から2泊3日で燕岳に行くので、明日の晩はその用意をしなくてはならない。同窓会の発送物は夕刻までに郵便局に持ち込まないといけない。
 それよりも、明後日以降の山の天気が気になる。晴れて欲しいものである。


本日の行動は・・

2013年07月15日 17時20分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は小雨が時折降る中、仙台市内の観光拠点を巡る循環バス、ルーブルの1日券600円を購入て、妻とともに瑞鳳殿・東北大自然史博物館・宮城県美術館を散策した。
 瑞鳳殿は1975年に大学を卒業して仙台を離れるまでは、毎日借りていたアパートから学校までの通学路として通り抜けしていた。今は入場券を購入しないと入れなくなってしまったが、懐かしい区域である。しかし昨年クマが目撃されたとのこと。にわかには信じられない。急にクマが現れるというのもおかしいので、昔から生息していたか、青葉山から人里を通ってやってきたと考えるより外は無い。なんとも不思議かな話だと思う。昔からその区域に生息していたとしたら当時から住んでいた人は極めて危険なところを昼夜歩いていたことになる。
 東北大自然史博物館は初めて訪れる。昔はこんな施設は無かった。先カンブリア代からの生物化石とイメージ図の展示は面白いものがあったが、大学の運営管理の博物館として、果たしてこれが研究の先端を行く博物館といえるものかといえば、とても納得のいくものではない。
 宮城県美術館はゴッホ展の最終日ということもありビジネスマンよりも学生等が多んんかった。私は通常展300円を240円にまけてもらい、妻は1500円を1400円でゴッホ展へ。私は小企画展の菅野聖子展、そしてカンディンスキー・松本俊介・靉光などをじっくりと鑑賞。充実した時間を過ごした。

 仙台の中心部は、若者が多い。3連休の最後の日でもあり、余計若い人で一番丁・中央通はあふれていた。横浜の中心部より若いエネルギーがあふれているようだ。

気象の違い

2013年07月15日 05時13分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の午後から横浜の気象についてさかんにメールが来る。光化学スモッグ注意報、大雨洪水・雷注意報、雨の降りそうな時にくる雨の予報を告げるメール、市からの豪雨お知らせ情報などが頻繁に届いた。
 その地にいるのであれば重宝するし便利な情報なのだが、夫婦とも別の地にいると逆に心配の種になる。ベランダに置いてある鉢等の置物、通風用の小窓からの雨の吹き込み等々。
 セキセイインコに聞くわけもいかない。

 仙台は本日は小雨から曇りに回復するようだ。梅雨明けにはなっていない。湿気はあるが、横浜・東京の極暑、蒸し暑さと比べると実にしのぎやすい。さてどこを見て回るか・・

仙台は小雨模様

2013年07月14日 23時28分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
仙台の地で法事を執り行った。終了後すぐに横浜に戻ってもよかったが、のんびりしようということで、ホテルを予約、明日夕刻の列車の切符を購入してある。往復の新幹線代より安いホテル込みのパック旅行。
仙台は日中日が照って暑かったとのことだったが、東京のあの異常な極暑にさらされていた身には過ごしやすい。このまま仙台に居座りたいと思ってしまう。
夕刻からは小雨模様。明日朝まで続くようだ。明日は天気を見ながら行動を決めることにして本日は就寝。

同窓会に向けて

2013年07月14日 03時50分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は横浜での句会と、大学の同窓会の相談会が重なってしまった。重ならないように努力はしたつもりだが、なかなか思うように日程は決まらない。同窓会の呼掛け人の一人になっている以上、相談会を欠席するわけにはいかないので、やむを得ず句会は欠席とさせてもらった。

 来月末の同窓会に向けて、最後の相談会。当日の細部の検討を楽しく行うことが出来た。1970年、今から43年前の入学以来、ほとんどの仲間が4年では卒業できず、途中で留年をさせられた。そして5~6年かけてようやく卒業した。しかしこの「留年」は、それぞれの主体的な選択でもあった。2500名の入学者のうち2000名がこの選択をした。しかも卒業した者でも専門課程・卒業学科とは関係のない分野で就職をした者もかなりおり、途中で郷里に帰ったもの、進路を変更したものも多い。そしてそれぞれに還暦・定年という節目を迎えている。
 大学側からすれば、「留年」というのは処分であったし、2~3年後に「卒業」にこぎつけた者にとっても、それは「卒業」という名の放校処分だったとの認識もある。大学側からすればそれらは処分であるが、我々からすればそれは主体的な「選択」、親などとの関係の総体を真っ向から引き受けながらの主体的な「選択」であった。就職に際しての不利、人生にとっての不利などということを踏まえた上での選択ということを当時大いに議論をした。
 この些細な経験、若かったとはいえ各自のこの主体的な選択、そしてそこに至ったエネルギーについては常に自問自答を繰り返しながら生きて来た。少なくとも自分史や家族史の中では、そのことについては何ら恥じることの無い、逆に誇りとしてそれぞれの人生を過ごしてきたと思う。
 それぞれのその後の労苦・努力を当時の状況を踏まえて分かち合える仲間の存在はうれしいものである。もう還暦も過ぎ、20歳のときの体験・選択を、自分史の原点として捉え返すきっかけにしたい、と呼掛けることにした。
 同じ学部に入学した者300名。1972年3月21日、学生により封鎖されていた講義棟が警察の力で封鎖が解除された日、多くの学生が逮捕された。多くの中心メンバーが拘留されている中、当時「留年」という選択に主体的に関わったものが何人いたのかは不明だが、学年末試験ボイコット同調者は、学年末試験開始前日のわずか一日だけの呼びかけで100名をすでに越えていたと、当時のビラには記載されている。その翌日、敷地内に設けられた仮設の木製の柵をはさんで、2000名の学生と、教官・機動隊機動隊が対峙した。
 大混乱する試験会場周辺の状況を前にして、100名を越える試験ボイコット者に加え、私たちに同調した同じ学部の仲間100名以上がボイコットに加わった。。当時の新聞報道・大学側の発表では全学部を通して受験者は在籍者の3割未満であったから、私たちの学部でも同じ割合だったと思う。大学側にとっても予想を大きく超える事態であった。同時にいわゆる学生活動家の中心メンバーにしても、ここまで同調者がいたということに大きな驚きもあった。
 試験をボイコットしても、本人の知らないところで「試験に合格した扱い」とされ、学部に進学したもの500名と、留年したもの1500名というふうにふるい分けられた。ほとんどの学生はあきれながら、逆に留年したことを誇りとする雰囲気が圧倒的であったことも記憶している。進学したものからも、大学のあり方に嫌気がさして郷里に戻ったものもいた。

 留年したときに予想される苦しい生活事情などに逡巡やためらいがある中で、仲間との真剣な討論を経ての20歳前後の決断が、その後の人生の過ごし方に大きな影響を与えることを今さらながら驚いている。ほんの一瞬の決断が人生を大きく変えるものだということをあらためて、真に身に沁みる形で学んだ。またそのように人生を見続けてきた。人間の一生の不思議さも感じる。
 自分の子供にあのときの混沌としたエネルギーや、高揚感を話してもそれは通じることはまずない。あの現場に居合わせていない限りわからないと、子供との対話で実感した話を当時のことを振り返りながら仲間と話をしている。
 一年間の奨学金の停止や親からの仕送りの停止、出来るだけ早く就職して親に仕送りをしなければならいない家庭の事情、それらの経済的な事情だけを考えただけでは、あの選択は理解できない。同時に、あの選択を大勢が行った理由は大学の講義や管理や運営に対する強い被抑圧感、講義に対する違和感などが背景にあったとは思うが、それだけで説明がつくものでもない。
 皆が、常にこの40数年前のことを自問自答しながら生きてきたと思う。

 しかし現在も連絡が取れるものは約一割。それぞれの人生を語り合う機会を大切にしたいものである。

 さて明日は再び仙台にて1泊。親族の法事に妻と参加する。仙台は関東地方の酷暑とは違い雨模様、気温もかなり低い。本日の相談会の宿題を仙台の仲間と相談できる時間があればいいのだが‥。