昨日は横浜市歴史博物館で「東アジアにおける洪水伝承の成立と展開-水に対する心性をめぐって-」という講座に参加した。講師は北篠勝貴准教授。とても刺激的でかつ勉強になったこうぎであった。
一昨年の東北の地震にともなう大津波の報道で、江戸時代以降の津波にも関わらず人々が一旦避難・移転した高台から海岸地帯へ結局のところ回帰したことについては、漁業という経済的理由や、土地観や先祖観に基づく民俗的理由などが語られているが、講師はそこに疑問を投げかけている。
そもそも泉・河・海が人間を引き寄せてきたのであり、水こそ人間を定住へ向わせてきたものである。水の持つ災害などのマイナスの記憶を払拭してなお且つ引き寄せる魅力を有していたと解釈し、この恐怖・憧憬の交錯する水への心性を読み解こうとする試みが今回の講義の眼目となっている。
日本の古墳時代の首長の役割のひとつに水にまつわる祭祀をあげ、古代旧都には湧水点祭祀と導水祭祀を内包するとしてとらえている。この祭祀に中国での神仙思想や道教思想が結びついて体系化されていたと解釈しているようだ。
さらにこの水にまつわる祭祀の根拠として、中国における洪水伝承の原型として「歴陽」水没譚を取り上げ、その中国でのバリエーション・史的展開、朝鮮半島での展開、日本での展開を詳しく取り上げていた。
結論的には、揚子江流域の都市水没という災害の大規模性・無差別性・突発性を語るものとして神話が形成され、水害の予兆と救済が語られた。
それが道教・仏教の言説を纏い、中国の南西少数民族や江南の民間伝承となり、さらに朝鮮半島や日本列島へも、世界の始祖伝承とも融合して伝播・発展・想像されたことが指摘された。とくに災害の記憶と災害への対処方法とも絡み、さらに、災害からの復興・再生への道筋も内包されてきたことも触れていた。
私はとても刺激的で今後のさらなる展開や整理をおおいに期待した講義と思えた。私は、この長江流域の文化の伝播ということから考えれば、稲作文化・稲作をめぐる自然への対処の仕方、水の処理の仕方などは幾度にもわたって発信を繰り返してきたと思われるのだが、そのことと祭祀の変遷が周辺にどのように伝播したか解明することが今後求められるのではないかと感じた。
日本に稲作の技術、とくに治水の技術は段階を踏んで幾度となく伝播して、次第に高度な技術となってきたと思われるが、それと具体的な水をめぐる祭祀の歴史性と結びつける必要があるのではないだろうか。その祭祀のあり方によって、中国から直接、あるいは朝鮮半島からさまざまな集団という形で競合しながら、文化が伝播してきたと私は思っている。
それがおそらく大和朝廷の歴代王権のさまざまな政争にまでつながるような気もする。
また、湧水点祭祀、導水祭祀、宮都での祭祀はそれぞれ別個に独立して存続したのだろうが、同時にそれは歴史的な段階を踏んで誕生してきたものでもあろう。私は特に湧水点祭祀がこの列島で具体的にどのような祭祀として行われてきたか、それがどのように王権に取り込まれ変容していったか、その展開に興味がある。
同時に湧水点祭祀は常に流動的で、生れては消え、新たな湧水点が生れるたびに祭祀も再生されてきたと思われるが、再生の方法も歴史的な変遷を経てきたはずだ。ここら辺も知りたい。
こんなことを考えながら私は講義を聴いていた。
一昨年の東北の地震にともなう大津波の報道で、江戸時代以降の津波にも関わらず人々が一旦避難・移転した高台から海岸地帯へ結局のところ回帰したことについては、漁業という経済的理由や、土地観や先祖観に基づく民俗的理由などが語られているが、講師はそこに疑問を投げかけている。
そもそも泉・河・海が人間を引き寄せてきたのであり、水こそ人間を定住へ向わせてきたものである。水の持つ災害などのマイナスの記憶を払拭してなお且つ引き寄せる魅力を有していたと解釈し、この恐怖・憧憬の交錯する水への心性を読み解こうとする試みが今回の講義の眼目となっている。
日本の古墳時代の首長の役割のひとつに水にまつわる祭祀をあげ、古代旧都には湧水点祭祀と導水祭祀を内包するとしてとらえている。この祭祀に中国での神仙思想や道教思想が結びついて体系化されていたと解釈しているようだ。
さらにこの水にまつわる祭祀の根拠として、中国における洪水伝承の原型として「歴陽」水没譚を取り上げ、その中国でのバリエーション・史的展開、朝鮮半島での展開、日本での展開を詳しく取り上げていた。
結論的には、揚子江流域の都市水没という災害の大規模性・無差別性・突発性を語るものとして神話が形成され、水害の予兆と救済が語られた。
それが道教・仏教の言説を纏い、中国の南西少数民族や江南の民間伝承となり、さらに朝鮮半島や日本列島へも、世界の始祖伝承とも融合して伝播・発展・想像されたことが指摘された。とくに災害の記憶と災害への対処方法とも絡み、さらに、災害からの復興・再生への道筋も内包されてきたことも触れていた。
私はとても刺激的で今後のさらなる展開や整理をおおいに期待した講義と思えた。私は、この長江流域の文化の伝播ということから考えれば、稲作文化・稲作をめぐる自然への対処の仕方、水の処理の仕方などは幾度にもわたって発信を繰り返してきたと思われるのだが、そのことと祭祀の変遷が周辺にどのように伝播したか解明することが今後求められるのではないかと感じた。
日本に稲作の技術、とくに治水の技術は段階を踏んで幾度となく伝播して、次第に高度な技術となってきたと思われるが、それと具体的な水をめぐる祭祀の歴史性と結びつける必要があるのではないだろうか。その祭祀のあり方によって、中国から直接、あるいは朝鮮半島からさまざまな集団という形で競合しながら、文化が伝播してきたと私は思っている。
それがおそらく大和朝廷の歴代王権のさまざまな政争にまでつながるような気もする。
また、湧水点祭祀、導水祭祀、宮都での祭祀はそれぞれ別個に独立して存続したのだろうが、同時にそれは歴史的な段階を踏んで誕生してきたものでもあろう。私は特に湧水点祭祀がこの列島で具体的にどのような祭祀として行われてきたか、それがどのように王権に取り込まれ変容していったか、その展開に興味がある。
同時に湧水点祭祀は常に流動的で、生れては消え、新たな湧水点が生れるたびに祭祀も再生されてきたと思われるが、再生の方法も歴史的な変遷を経てきたはずだ。ここら辺も知りたい。
こんなことを考えながら私は講義を聴いていた。