Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ツイッター設定の怪

2013年08月09日 13時48分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ツイッターというものに登録してみた。どのようなものかよくわからないので、まずは経験してみようということで、登録したのだが‥。
 まず言葉がさっぱりわからない。ツイッターはいいとして、フォロー、フォロワーはようやく理解したと思われるが、リツィートの意味と仕組みがどうも飲み込めない。さらにパソコンからの登録画面にどうしてもたどり着けず、結局スマホから登録したのだが、この画面の操作がよくわからないままである。
 説明書を購入したが、パソコンからの操作画面ばかりで、スマホでの画面の説明がない。応用でわかるかと思ったがどうもそうではないらしい。
 パソコン画面からフォローするツイッターを登録しようとしたがどうしても出来ない。スマホでやってみたら何とかできたが、今度はフォローしている人がフォロー中のツイッターを覗いていたらいつの間にかそれが私のフォローに登録されてしまった。これを削除しようとしているが、どうにもこうにも削除が出来ない。困っている。
 この人、とても卑猥で怪しいものもフォローとして登録しており、私としてはどうしても削除したいのだが‥。
 当面だれか詳しい人に教わるまでそのままにしておくしかない。

 さらに困ったことが出来た。ツイッターのアプリをスマホに登録していると電池の消耗が激しいようだ。機内モードにしてもどんどん消耗していく。ためしにこれを削除してみると消耗はそれほどでもなくなった。登山に行くときなどとても不便である。その都度アプリを削除しなければならないとすると面倒である。アプリを削除した時点でパソコンでの操作を試みたがやはり設定はパソコンからは不能だ。

 こんなことをしているうちにどんどん時間ばかりが過ぎていってしまう。

 さとうてるえさんや葦原の山姥様がリツィートをしてくれていてその会話はうれしいのだが、当の私のほうが他の人のツイッターを見るたびに戸惑うばかりである。

 思い切って再度別の名前で再登録をしてみようかと考えてもいる。

 もうひとつ、どうも違和感が拭いきれないのだが、ツイートされている表現がどうしても私には短すぎて理解が出来ない。発信されている言葉が断片的で、いかようにも受け取れる表現が溢れている。表現されている言葉の意味が読み取れない場合が多い。普段の会話では聞き返すこともできるが、そこまでの会話にはなっていない。
 旧知の人や、よく知っている人ならば行間や言葉の狭間を類推できるのだが‥。会話が成立しない一方的で断定的な表現に恐れおののくことが多い。
 この短い言葉の氾濫には戸惑うばかりである。

「松田正平展」(その3)

2013年08月08日 21時10分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は予定にはなかったのだが、妻が松田正平展に行ってみたいと言い出したので、鎌倉の神奈川近代美術館に出かけた。12時に横浜駅を出て、鎌倉駅から小町通りを歩き、途中の漬物店で680円也のほとんど漬物ばかり定食で腹ごしらへ。これが実においしい。小さなお店の隅で8席ほどの小さな一角が食事どころになっている。ここはお勧めである。
 松田正平展は2回目である。今回は前回と違い私はゆったりと見ることができた。すると前回気にとめなかった作品が、前回とは違った輝きで見えた。

「東京湾」1957年

 前回訪れたときはこの黒い線が針金に見えた。鉄条網越しの東京湾の風景かと感じたのだ。作者らしからぬ作意を強く感じて素通りをした。今回あらためて見てみるとどうも違うようだ。
 これはひょっとして海苔か何かの養殖棚に見えてきた。私の解釈が当たっているのか外れているのかはわからないが、養殖棚とすると作意ではなく、海の中にある自然な区切り線として目に飛び込んでくる光景、海がその黒い線であらかじめ区切られているような錯覚の風景に見えてきた。
 海と空とが区切りなく続く不思議な光景を捉えたのかもしれない、と感じた。

「高萩風景」1959年

 これも前回は素通りをした作品。砂浜に立つ漁具か、網を干す竿か、あるいは干物のための棚か漁業者の設置した景色なのだろう。
 何か暗い海辺を当初感じたのだが、どうも違うようだ。決して明るくはないが、白い波から想像するに昼間の砂浜の光景のようだ。
 白い波の上に奥行を感じさせる濃い藍色が海の広がりを想定させるようだ。単なる海辺の風景を越えて、奥行のある自然な空間の広がりに思いをいたすことが出来ると思った。


「乾燥魚」1959年
 これは干物の魚、それも青魚だから鯵か何かだと思うが、なんといってもその青色が何ともいえず美しいと思えてきた。
 海という生命誕生の太古からの光を思わせる落ち着いた色合いがとても好ましく目に映った。単なる思い込みに近い感想かもしれないが‥。



 美術館からの帰途は、小町通りでアイスクリームを食して、そして絵で見た干物を夕食用に購入して帰宅。

 家について夕方日がかげってから8キロ程の軽いジョギング&ウォーキング。

暑さ復活

2013年08月07日 20時37分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 突如としてという感じで、天候が暑くシフトしたまま安定した。可能であれば本日朝一番からでも白馬岳に行きたかった。2泊3日とすると、土曜に予定があるので残念ながら明日からではいけない。この分では、日曜の朝の出発になってしまうが、天候はそれまでこのままもつであろうか。
 一瞬の気の迷いが出発を大きく遅らせてしまった。山に行くというのはこのように結構一瞬の判断が一週間・二週間の出発の差を生んでしまう。退職して比較的時間のゆとりがある私でも、この一瞬を逃すと次までこのように時間が空いてしまう。まして現職の頃などはその一瞬の差が1ヵ月・2ヵ月の差となって跳ね返ってしまう。イラッとしてついつい人に当たってしまうことがよくあった。延期したその日になってみると天候が悪くて結局山に行くことそのものを断念せざるを得なかったという次第に幾度なったことか。
 得てしてこのような時は、山にいけない憂さを、きつめのジョギングで解消しようとして足を痛めることになっている。泣きっ面に蜂とはこのようなことを指している。

 ということで本日は、気を静めてとおもう気持ちと、いらいらが押えられない不快感とが交互にやってきている。ついキーボードに八つ当たりをしてしまう。
 といっても山に行く段取りを考えようとしたのが昨日の夕刻過ぎなので、もともと無理なのである。いらいらが昂じているとそんなことすらも忘れて、ひたすら出発できなかったことを悔いることになる。そうなると自分の気持ちを律することが出来なくなって危険だ。おおらかな気分にならないのだ。

 その上に、いつも使っているハガキのソフトで初めての試みとして往復ハガキを打ち出そうとしたがうまくいかない。イライラが増幅して大分危険な状態になっていた。

 そんないらいらした私の気分を知ってか知らずか(間違いなく知っていて)妻が、横浜駅に買い物に出かけようと誘ってくれた。気分転換ということで、この暑い中、15時過ぎから18時近くまで往復約1万歩をゆっくりだが歩いた。
 往復歩いているうちに、そしてスーパーでの買い物に付き合ううちに、いつの間にか気分も落ち着いた。これで妻にはまた頭があがらなくなる。

「水へのいのり」展

2013年08月07日 14時50分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日横浜歴史博物館で「水へのいのり-古代東国の川辺と井戸のまつり-」展を見てきた。
 水というのを私が自覚したのが、4歳くらいのときであったと思う。それは井戸というものを介してである。当時2軒長屋の社宅に住むようになったのだが、共同の庭の真中に古い使われなくなった井戸があった。いつも板で蓋をしていた。その井戸を使ったことはない。ポンプが赤く錆びていたし、柄を動かしても水は出てこなかった。丸い井戸枠を何枚のかの板で蓋をしていたのだが、その蓋の隙間からよく中をおそるおそる覗いた。井戸の蓋のある高さまでは届かない身長なので、何かの石の上に乗り、無理に背伸びをした格好だったと思う。
 何も見えないのがかえって怖ろしくてすぐに目をそむけるのだが、それでも覗きたかった。あるとき、蓋を少しずらしていつものように覗いてみたが、たまたま覗く側だけでなく、反対側も少しずれて外の明るい日差しが反対側から井戸の底に差し込んだ。微かに底の方がきらきら輝いた。とっさにそれが井戸の底であり、そこには水がたたえられているのだと直感した。同時に「水」というものが何か得体の知れない不思議なものに思えた。
 当時はすでに社宅には水道が引かれ、冬場になるとすぐに氷ってしまいよく破裂したようだが、それでもその井戸水を使うことはなかった。そして水道の水と、得たいの知れない畏怖の感情に近い目で眺めた井戸の水が、同じ水であるとは認識しつつも、別々のものと認識していたと思う。同じ水なのに、という感覚ではなく、両者が結びついて頭の中で「水」として同じものだという認識はしていなかったと思う。
 両親からは危ないから井戸に近づくな、蓋を覗くなと言われていたのは記憶している。それでも両親はその使わない井戸を潰すとか、蓋をきちんとするという意見は何も口にしなかった。できれば話題にしたくない、避けていたい対象だったように私には伝わった。
 二十歳のころの仙台の学生時代、友人の借りた家にあった使われていない古い井戸を見て、きっと古い井戸というものはそういうものなのであろう。普段使っている井戸にはとくにそのような感情が湧くことはなくとも、使われなくなってしまった井戸に対しては近寄らずにそのままにしておく、何かタブーのようなものに接する心性が働くのであろうか、とふと思い出した。
 就職して道路管理の仕事をしていたのだが、あるときもう使われていなかった古い道路敷きの傍の民地に利用計画があり、その古い道路敷きにアスファルトを敷いて人が歩けるようにしようということになった。しかしそのすぐ脇に古い井戸のあと、痕跡が見つかった。舗装工事のついでにサービスでそのあとも埋めてしまおうということを地権者に伝えたが、地元ではそれではダメだと頑なに拒否をした。後日近くの神社の神主を呼んでオマツリをしてからでないと埋めてはいけないものだといわれた。とても硬い決意であったことをよく覚えている。何週間かが過ぎて、無事そのお祀りが済んでから工事を終了したことを覚えている。
 そのとき、小さいときの長屋にあった古い井戸のことを思い出した。井戸や水に対する畏れ、祈りというのが30年前ですら生き延びていたのだ。
 しかしながら今では、広い土地を開発したり建売で家をたてるときも、都会の中の小さな沢の源流点は容赦なく潰され、水路敷きも払い下げを受けて民地に組み込んでしまう。きっとあった祠も、井戸の跡も忘れられ、小さな高低差も平地にならされ、その痕跡はどんどんなくなっていく。
 しかし人里に近い源流点では水神社があり、きれいに掃除がされているところが多い。田んぼが荒れ、稲が植えられていない谷奥でも水源は大切にされている。しかし人がその地を離れると、また高齢化が進めばそのオマツリも絶えてしまう。苔むした社が朽ちてなくなれば、人も田も、水を大切に祀った湧き出し口も、人が住んだ痕跡すらもすべてが消えてなくなる。
 登山に行くと、人里を大分離れた場所でも水神社があり、岩の間や樹の根の下からこぼれる雫を祀っているところに行き着く。とくに信仰の山として人が昔から入っていた山では、水場として大切にされてきた証となっている。そのような場所で汗を拭い、喉を潤し、一服し、服装を整えて、ゴミを片付けるのが習わしであると先輩から厳しく教わった。水場はけっして汚してはならないのが、その山に対する敬意の表し方でもある。同時にそれは労働の際の大切な水分補給と休憩のための戒めでもあった。

 今回の「水へのいのり」展、王権としての水まつり、河川交通の地点での水まつり、湧水地点での生活用水、農業用水としての水まつりという3つの場面の遺跡の水まつりを展示している。
 残念ながら私には規模の大小を除けばその違いが遺物からは判読できないのだが、研究者からみれば違いが判るのであろう。
 私の興味を惹いたのは、いづれも中国の土俗的な色彩の強そうな信仰の形に近いのかな、という点だ。これは直感だからどの遺物の関連してそう思ったのかと問われると心もとないのだが、人形、船の模造品などの方代の存在に触発されたようだ。関連のイベントでも「東アジアにおける洪水伝説の成立と展開-水に対する心性をめぐって-」と題された講演がある。この講演など是非聞いてみたいと思い、応募してみた。
 律令下、さまざまな地域の信仰のよりどころが延喜式などの国家による秩序立てに組み込まれるに際して、水をめぐる畏れと祈りがどのように処理をされてきたのか、なかなか面白い視点だと思う。
 幾重もの波のようにやってくる新しい農業のあり方や技術の伝播にともなってさまざまに変化してきたのであろう。農業と一体の「水のまつり」「水へのいのり」の変遷や違いは、農業の伝播の歴史の反映を読み解くことなのであろう。

         



「激動のOKINAWA42年」展

2013年08月06日 22時28分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 横浜の関内にある日本新聞博物館で「琉球新報120年企画展 報道カメラマンが見た激動のOKINAWA42年」と題する長い名前の企画展を見てきた。
 副題は「沖縄を追い続ける(琉球新報報道写真映像部)山城博明の眼差し」とこれまた長い副題がついている。本題、副題、ともにこの長い命名にはどのような意図が込められているのか、部外者には想像できない何かがあるのだろう。

 さて私が沖縄ということを自覚的に捕らえようとしたのはいつであったろうか。高校の歴史の時間に沖縄という地域が戦後米軍占領下に置かれているということは授業で聞いて知っていた。しかし自覚的に沖縄に関する報道を注視したり、自分から進んで勉強することはなかった。
 自覚的に沖縄を中止するようになったのは、随分遅かった。大学に入ってからクラスの仲間の問題意識に触発されて新聞記事を丹念に読んだり、デモに参加したりした。しかし私にとってもっとも衝撃的だったのは1970年12月20日のコザ暴動であった。当時の「復帰」を巡って沖縄はさまざまな利害が対立していた。基地に経済の80%を依存し、飲食街も米軍の存在に依存していた。報道を見る限り、この飲食街の従業員も多数加わる形で鬱積していた米軍への反発が一挙に噴出したのがこのコザ暴動であると私は理解した。飲食外の従業員も加わったからいいとか悪いとかの話ではなく、米軍の力による沖縄支配が、ベトナム戦争の激化の中で強権的なものにますますなっていく状況が如実に反映しているのだなぁと感じた。
 同時に基地に依存しながら、基地の雇用に依存せざるを得ない中での、米軍支配からの脱却を「日本復帰」という形でしか表現しきれない沖縄の置かれている当時の切実な困難をあらためて私なりに痛感した。
 それが「日本復帰」という形に収斂されてしまう虚しさも同時に伝わってきた。
 また騒擾罪適用などの議論の中で、今回の「創刊120年」といわれる琉球新報も含めたマスコミは「暴動」ではなく「コザ騒動」という名に統一を始めた。今でもそうらしい。しかし展示では「コザ暴動」となっている。当時は私はこの用語の扱いに違和感を強く持った。同時に複雑な当時の、あるいは今も、沖縄の人々の置かれた状況の中で爆発的に突出したこのエネルギーを前に、私はたじろいだことも思いだす。
 これ以上自分が何をいいきれるかは自信がないので、この辺まででしておくが、このコザ暴動という大事件が、私に「沖縄」を突きつけた感じがした。
 残念ながら今回の展示では、暴動事件の最中の臨場感のある写真はなかった。翌朝、転覆され放火されたあとの車両が写され、そこを見つめながら、避けながら地域の子供を含めた人々が行き交う場面が写されていた。臨場感ある写真を琉球新報が手に入れられなかったのか、あるいはカメラマンが現場に居合わせなかった、そこら辺はわからない。いなかったらいなかったで、事件後の現場を巡る人々の視線を追った写真があればよかったのに、とふと感じた。
 もうひとつ「沖縄」に関して、私に衝撃的だったのがいわゆる「復帰後」に当時の皇太子夫妻が訪沖し、ひめゆりの塔を参拝したときの火炎瓶投擲事件である。
 「復帰」だけが選択ではない「沖縄・琉球の自立、独立までも見据えた」スローガンを主張したグループによる行動の突出である。同時に天皇の戦争責任を明確に主張した事件でもある。そしてそれが本土ではなく「沖縄」の人々によってなされたという象徴的な事件である。これについても展示がなされている。私にはあらためてこの事件を頭の中で反芻するきっかけとなった。
 報道写真の展示であるから、事件の背景や当事者の主張は書かれることは無いのだが、この事件が風化することなく、この一枚の写真によってせめて残されることを期待したい。なお、この写真については読売新聞に掲載された写真を掲げてある。コザ暴動の扱いと違うのもちょっと気になっている。
 ハジチという刺青、古来からの沖縄の祭りの様子などもかつてどこかで展示されているのを見た記憶がよみがえってきた。
 初めて見たのは沖縄戦での「集団自決」によって傷つけられた傷跡の生々しい人々の肖像写真の数々である。「集団自決」という名の「死の強制」が時間の風化の中で美化されようとしていることは許されることではないと思っている。

 チラシの表の、丸い筒型の鉄条網の先に米兵が映っている写真、これはなかなかいい視点だ。文句をつけるとすると、視線が強すぎる。写真を撮影する側からすると視線が強すぎる。米兵の視線に、事態に対する恐れと逡巡とそれにともなう強い敵愾心を読み取ることができるが、対する撮影者の視線としては今の私には強すぎる。このカメラマンの視線は筒型の鉄条網の先から銃口のようにこの米兵を射ている。報道写真・告発写真としてはこれでいいのかもしれないが、あるいは沖縄の人々の視線としては理解できるが、また当時の社会情勢としても理解できる。だが、今の私には強すぎる。


 なお、8月24日から10月20日まではこの新聞博物館で「92歳の報道写真家福島菊次郎展」(ヒロシマからフクシマへ-。戦後、激動の現場)が開かれる。広島・安保・東大闘争・あさま山荘・三里塚・ウーマンリブ・水俣‥などがテーマとのこと。


         







68回目の広島忌、そして本日は4つの博物館

2013年08月06日 20時58分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は、広島の被爆68年目。広島の平和記念公園で平和記念式典が行われた。そして昨日は沖縄で米軍のヘリコプターの墜落事故で米兵1名が死亡。

 お昼からは、4つの博物館を巡った。
 一つ目は、関内にある日本新聞博物館で開催されている「琉球新報創刊120年企画展 報道カメラマンが見た激動のOKINAWA42年」という長いタイトルのついた企画展。
 二つ目と三つ目は、横浜都市発展記念館と横浜開港資料館で同時に開催されている「関東大震災90周年被災者が語る関東大震災」をともに見てきた。この企画展は横浜市史資料室でも同じ企画展があり3館の合同企画のような形になっている。
 四つ目は、横浜市歴史博物館での「水へのいのり」展。

 さすがに草臥れた。一つ目は本日中に、新聞博物館の企画展の感想からアップしていく予定。 

今日は誕生日

2013年08月05日 21時54分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 とうとう62歳となってしまった。こんなことは既にわかっていることではあるが、正面きって「お前ももう60歳を2年も過ぎたんだぞ」と敢えていわれると落ち込んでしまう。
 本人は「体力は50代の人間よりもある、気力も充実している」と思い込んでいても敢えていわれることのつらさというものがある。

 本日はそんな気分とは関係なく、楽しい一日を過ごした。いつもお世話になっている友達と過ごす時間は楽しい。
 難しい議論には触れずに楽しい時間を過ごせたことに感謝。

毬栗(いがぐり)・虚栗(みなしぐり)

2013年08月04日 22時38分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先ほど夕刻にウォーキング&ジョギングに出かけたところ、切通し風になっている地点の道端に青い毬栗が5~6個ほど落ちていた。
 毬の中には実をつけない、殻だけで中に実のない栗を虚栗(みなしぐり)という。
 また、江戸前期の俳諧撰集。2冊。宝井其角編。天和3年(1683)刊。芭蕉および蕉門のほか、貞門・談林に属する俳人の発句・歌仙などを収録。蕉風確立に至る過渡期の撰集。

 毬栗の蓑(みの)にとどまる嵐かな‥‥白雄 
 行く秋や手を広げたる栗のいが‥‥‥芭蕉
 山行の栗の毬より雨あがる‥‥‥‥‥石橋秀野

 青い毬栗が果たして受精して実のついたものがたまたま熟する前に落ちてしまったものなのか、もともと虚栗のように実のついていないものなのか、わからない。落ちているものを靴で踏んでみて、実がついているものなのか否か、見極めてみるのも悪くない。 こんなことを書いてみると、では虚栗とはいったい何なのかという疑問も当然出てくる。
 この青い毬、実際に触ってみるととても痛い。青いから毬の棘が柔らかいかというととんでもないことになる。私は以前低山のハイキングをしていたときに軍手で思い切り強くこの青い毬を鷲づかみにして、とても痛い思いをしたことがある。以来二度と毬を素手で触ることはしない。しかしこの経験、30歳の頃の経験だったと思う。もっと若くにこのような経験をしていなくてはいけなかったと反省した。


蝉の声を一日

2013年08月04日 15時25分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 蝉の声を聞きながら、同窓会の資料作成。ほぼ現時点での作業としては出来上がった。あとは10日締め切りの出欠の葉書が到着次第、出欠の一覧表に書き加え終ったらその頁を印刷し、製本して終了となる。

 蝉の声をじっと聞いていると幾種類かの鳴き声の聞き分けができるが、それが何という蝉なのかわからない。また全体として強弱の波がある。
 我が家のセキセイインコは蝉の声を聞いているのか、いないのか判然としないが、時々蝉の声の全体の強弱に合わせて囀りか大きくなったり小さくなったりすることがある。私の気のせいかどうかもわからない。

 この蝉の声とは無関係に響いてくるのが、夏休みで団地の中で遊ぶ小学生以下の子供の声。昔からこの団地の夏の蝉の声はすごい。もうすっかり慣れた。いかにも夏休みの昼下がりという風情が団地全体に漂っている。
 この団地に中学3年生の時に入居して46年になる。その間5年ほど仙台で学生時代を過ごし、もどってきてしばらくしてから結婚して3年ほど団地を離れたが、子供が生れる直前に再び戻ってきた。延べ36年はこの団地で過ごしている。

 先ほど12時30分頃の地震は久しぶりに大きいと感じた。石巻を中心に震度5強とのこと。新幹線が一時止まった程度の被害らしいので、取り立てて心配はないような感じなのでほっとしている。今年の東北は天候不順で雨が多くて気温が低い。震災にこの天候不順ということで経済的にもさらに打撃があるのではないか、という危惧がある。仙台市を中心に復興景気で賑わっているという声を聞くが実際のところ、市民生活を送っていての実感はどうなのだろう。
 福島市内についても風評被害で農産物や観光などへの影響はかなり深刻だと聞く。
 そんな話も今月末の同窓会で話が聞きたいものだ。あれやこれやの経済統計の話ではなく、実際に生活していく上での実感こそが大切な判断材料だと思う。

夏休み期間中の企画展ふたつ

2013年08月03日 22時21分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 久しぶりに25,000歩を越える歩数を歩いた。自宅から横浜の元町のある石川町の先まで往復を歩いた。陽射しはそれほど強くはなかったものの、それでも最後はやはりきついと感じた。

 昨日からの作業はほぼ計画通りに順調にこなすことが出来た。あとは2~3枚の印刷だから明日いっぱいで終了するはずだ。

 横浜の関内にある横浜新聞博物館で「琉球新報創刊120年企画展 報道カメラマンが見た激動のOKINAWA42年」が開催されている。見てみたい企画展として候補に上げていたもののひとつである。また最近気付いたのが、横浜市歴史博物館の企画展「水へのいのり―古代東国の川辺と井戸のまつり―」がある。
 いづれも近くであるし今月中に出向いてみようと思っている。多分、残念ながらというべきだろうか、この企画展は、夏休みにも関わらずそれほどの人出は無いと思われる。じっくりと見ることができるのではないだろうか。本当は前者の企画など、多くの高校生などに参加してもらいたい企画なのだろうが‥。


昨年に較べて

2013年08月03日 10時51分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年は受講している講座の数は減らしてはいないつもりだが、8月・9月が講座の予定が少ししか無い。講座がひとつ講師の病気で中止になったこともあるが、選択の結果としてこうなったようだ。
 そして天候が不順で、登山に行きそびれている。来週辺り天候がよくなるかもしれないので、行きたい。しかしあまり早く予定を決めると、雨男、自称嵐を呼ぶ男なので天候が余計荒れるというジンクスを勝手に作っている。そんなことでギリギリまで決断しないようにしている。

 昨日から始めた同窓会の資料作り、思ったより快調に進んだので、明日までにはとりあえずそろえた資料の印刷までは終了しそうだ。あとは目次を作って、一週間前に製本をすれば充分に間に合う。追加資料が無いことを祈っている。

 本日もその資料の印刷以外特に予定が無い。組合の退職者会のブロックの会計の整理をお盆前にしておいた方が、気持ちとしては楽になる。

休肝日

2013年08月02日 23時42分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年に入って初めてだと思うが、本日は休肝日。
 先ほどブログをアップしたときは、寝る前に飲んでしまっては休肝日にならないと思い、何も記さなかったが、この分では多分飲まずに就寝となりそう。

 こんなことを記載するとアルコールが無いと生きていけないような状態の半病人に思われてしまう。
 そんなことは無い、いたって健康的な人間であると本人は確信している。だが、多くの友達が週に1日や2日は休肝日を設けているといっている。どうも私はそれがうまくいかない。それではいけないと思ってはいるが‥。

 家で飲むときはビールレギュラー缶1本か、焼酎5勺か、日本酒1合。外で飲むときはこの2~3倍といったところか。これをずっと休みなく続けてしまう。いくら量が少ないとはいえ、肝臓を休ませる、あるいはアルコールを摂取しないということが大切だということは、充分認識をしているが‥。実行できないということは認識していないのと同じである、とは組合の役員をしていたときに、お酒で失敗した組合員に私がした「意見」である。何ともいい加減な説教だったことになる。

 それでも現役で仕事をしているときは、年に2~3回くらい風邪でダウンしていた。そのときは3日ほどはアルコールを抜くので、それが年間の休肝日であった。昨年定年から1年3ヶ月。確か風邪をひいていない。健康的でいいのだが、その分休肝日がない。これではまずい。

 こんなことをグダグダ書いていると手厳しいコメントが寄せられるかもしれないが、それも歓迎すべき賑わいということにしておこう。

同窓会資料の印刷

2013年08月02日 21時13分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はいつものようにみなとみらい地区までウォーキングで午後の講座を受講して帰宅。途中で講義のレジュメのコピーと、大学の同窓会のA3資料を画像にスキャン、そして喫茶店で一服した以外は寄り道もしなかった。
 喫茶店に寄った以外、なかなか品行方正な受講者、学生を演じているようで何となくこそばゆい。小学校低学年以来の快挙ではないだろうか。中学校に入学してからは毎日かならず書店によって立ち読みをして帰宅するのが常であった。
 高校生のころは書店には必ず寄ったが、それ以外に紅葉坂の県立青少年会館によって展示を拝観したり、横浜駅西口や伊勢佐木町で書店以外のどこの店によるわけではないが商店街をただただ見て歩くのが趣味になった。帰宅はいつも7時近かった。
大学では‥言わぬ方が良さそうである。記載せぬことにしよう。

 さてその大学の同窓会の資料を印刷しながらこれを書いている。印刷だけは日曜までに仕上げておこうと考えている。全部でA4で13~14枚、A3で3枚位の分量の予定。新聞記事がマイクロからのコピーなので読みにくいのだが致し方ない。仙台市史にも2頁にわたり記載があり、「光栄」の至りということにしておこう。
 同時にあの騒動が東北地方の2~3年後の官民の雇用計画や経済に極めて大きな影響を与えたことがうかがえる。官民こぞって各種団体から大学の運営に対して大学当局の責任追及が苛烈だったとあとから聞いたことがある。
 今この歳になって、もしあの時学生として騒動の中心的な当事者であった私たちが、大学の教官で運営の責任者であったとしたらどのように対応しただろうか。そのことが、2回目の相談会の終りかけた頃で議論となった。
 酒の席ではなく、いたってまじめな顔をして話をした。その議論は、ここで披露できるほど深化は出来ていないし、私も消化できていない。ただ、私は労働組合の役員としての経験からの意見は言ってみた。今後の議論となると感じた。否、していきたいと私は思っている。他の参加者がどんな反応を示すだろうか。
 当然議論したくない人もいるだろうし、私が勝手に議論の柱として提起するわけにも行かない。これから何年もかけた議論なのだろうと思う。

 この歳になって、40年も前の経験をたよりに20名近い人が集まる、集まってもらうということは大変なことである。経験をもうしまいこんでしまいたい人もいる。社会に対する視点も、当時の経験を見つめる視点も40年の人生経験で大きく変わっている。変わっていて当然である。変わっていなければおかしいともいえる。
 しかも同じ仕事をしている職場などでも人に集まりに参加してもらうということはとてもエネルギーがいること、同じ行動をしてもらうということが如何に大変なことであるか、ということをこの40年、嫌というほど経験してきた。他の人も職業を通して同じように感じてきたと思う。当時あれだけの人が動いたということ、そして40年後の今20名近い人間が、仙台というところまで体を運んでみようということ、この皆の意欲・エネルギーを大切にしたいと思う。
 どんな議論がなされ、どんな風に深化するか、その一助、きっかけになる資料であって欲しいと思っている。

はや8月

2013年08月01日 23時39分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は後楽園にある文京区役所の庁舎の一角にある会議室で句会。句会後の懇親会に18時まで約1時間半ほど参加したあと、大久保駅近くでの定例会に参加した。
 後楽園駅から、大久保駅まで約2時間近くかけて歩いた。本当はもっと早く着くはずであったが、遠回りの道を選んでしまったらしい。当初の予定では東西線に沿って神楽坂の手前で大江戸線の走る大久保通りに出るつもりであった。
 ところが間違えて春日通りを北上してしまい、気がついたら不忍通り-明治通り-大久保通りと大回りをした。1万2千歩ほどを歩いた。
 今度からは充分に地図を頭に叩き込んでから再挑戦しなくてはいけない。

 しかし二つの飲み会をハシゴするというのもつらい。2時間かけて一次会のアルコールを若干抜いてから二次会に参加したようなもので、悪いことでは無いのかもしれない、と勝手に都合のいい解釈をすることにした。

 帰りは大久保駅から新宿三丁目まで歩いて、副都心線-東横線経由で横浜へ。湘南新宿ライン・横須賀線が運転見合わせのメールが配信されたので、この路線を選択。

 横浜に着いた途端に大雨・洪水・雷注意報のメールが配信されたが、自宅までは降ることはなく助かった。