昨日とは違って明るい日差しが眩しい。13時には23.5℃となっている。このままもう少し気温があがる可能性もある。
散歩に行きたい気分になってきたが、この時間は妻が外出。私の外出は妻の帰宅後。
リフォームの工事の打合せをしながら、合間に若干の読書タイム。外の明るさを憾んでも致し方ない。
夜になって再び雨が降り出した。最大で10ミリ程度の雨の区域が通り過ぎていった。寒さも感じる。
「太陽系の謎を解く」をボチボチ読み進めた。第4章まで読み終わった。残るは第5章とエピローグとあとがき。できれば本日中に読み終えてしまいたい。
とはいえ、次に何を読むかまだ決めていない。読む本がないわけではない。ビニール紐で縛っているとはいえ、読みかけの本は何冊もある。時々頁をめくってみる本も何冊もある。だが次に読みたいと思っていた肝心の「考古万葉学」(上野誠、角川選書)だけがどこに仮置きしたか、不明である。
リフォーム工事中は家を開けられないし、雨も降っていたので、本日は二人で家で読者三昧。
明日は、二人で交代で外に出かけることにした。妻は昼から出かけ、私は妻の帰宅後に出かけることにした。妻は食材や生活用品の買い物という目的があるが、私は目的がない。それが悲しい。
いつものとおり、コーヒータイム&読書タイムか、フラワー緑道を散歩するか、思いつくことはこの程度しかないというのもまた寂しい。
東京都美術館のマティス展はそそられているが、上野まで往復して展覧会を見るほどの時間はない。出費も控えたい。
先ほどマイナンバーの登録についてのNHKのニュースをたまたま見た。6つの自治体で公金受取口座が他人の口座に紐づけにされた、という内容であった。
自治体の担当者が頭を下げていたが、私はこれはソフトそのものの欠陥に思えた。自治体の責任なのだろうか。富士通が開発したソフトであるが、一人の人の紐づけ作業が終了した際にいったんログアウトしてから次の人の入力作業に移らなければならないのに、そのまま次の人の作業に入ったということが「人為的ミス」とされている。
私はソフト自体の基本的な欠陥だと直感した。人が入力する限り、誤りはある。ログアウトせずに次の作業に入ったときには、普通は警告音が出て、作業がストップするように設計されるのが当然である。
「人はミスをするもの」という前提に立った作業環境の構築が当たり前である。またスーパーなどでも同じ商品をバーコードで読み取る場合、音声で「同じ商品です」という音声が流される。ミスを防ぐには二重・三重の防御が必要である。ましてマイナンバーという制度はミスがあってはならないものである。
ソフト設計の基本的な前提がなされていない。このソフトを承認した富士通の体制や、発注元の政府のチェックが機能していなかったことのほうが重大である。
なんでも下請けの責任や、委託先の責任にしてしまう風潮、政府の無責任体制、こちらのほうが危険である。
保険証への紐づけも7000件以上のミスがあったという。保険組合での入力にあたっての人為的ミスという報道になっているが、果たして悪意のない人為的ミスを防ぐ方策がなされていないのではないか、と疑ってしまう。
そもそも保険証に紐づけること自体がおかしい。人に知られたくないプライバシーの最たる身体の異常を国に管理されることは果たして「便利」なのか。
また、マイナンバーに切り替えないと「資格証明」に切り替えるという。発想がそもそも違う。資格証明はイレギュラーな場合の応急措置の制度である。保険証が本来の証明書なのである。マイナンバーを取得しないというのがイレギュラーな国民という烙印を押されるということである。
ということで私はマイナンバーについて、このような基本的なミスが出てくるソフトに頼る制度、売らんかな商売に等しい制度そのものに疑問を持っている。今は取得をする気にならず、様子見をしている。お金を国民の鼻先にぶら下げて普及しようとする姿はあさましい。
終日の雨。16時ころからは雨水管を流れ落ちるの音がしなくなったが、霧雨のようにわずかながら降っている。明るさが徐々に出てきた。
雨と同じように終日家籠りと読書タイム。20分読んで15分はボーッと目を瞑り2回繰り返すと、目のショボショボ感が戻らなくなる。今度は30分ほど眠って元に戻す。
これでは読書が進まない。家の照明では暗いのかもしれない。喫茶店でも窓際の席に座るようになった。地下街の喫茶店は無意識のうちに避けるようになった。
文庫本や新書はそろそろ無理なのかもしれない。文庫本でも活字の小さなものがあるが、購入したものの数ページで読むのを諦めて、今回古書店に買い取ってもらった。ハードカバーでも活字の小さな本は読みづらい。
だが、大きな本は持ち運びがつらい。リュックが重い。
夜になって、電気スタンドを持ち出してきて、読書を続けることにした。読みやすくはなったが、眩しくて目が疲れる可能性もある。要するに読書はしないほうがいい、と目が主張している。
悲しいものである。
昨晩は、20時ころに帰宅したものの、そのまま2時間以上ぐっすり寝てしまった。酔っただけでなく、お疲れモード。酔いがことのほか早めにまわった。もっともビールを飲んだのちに普段飲みなれない日本酒を1合半ほどを飲んだのも「敗因」のひとつ。
テレビを見ると、伊豆七島で続く地震と、埼玉県南部の猛烈な雨の報道に驚いた。強烈な地震はまた揺れるのではないか、という強い不安を強いる。特に伊豆七島の地震は狭い島で傾斜もきつく土砂崩れなどの不安が増幅する。猛烈な雨は、浸水や河川の氾濫や突風・雷、土砂崩れなどをもたらす。
伊豆七島の地震は、群発地震と判断をすべきなのかわからないが、続いている地震は揺れも強い。長引いては地元の生活はおおいに影響を受ける。
本日は雨を理由にして、休養日。電話を数本かける程度。リフォーム工事は本日も継続中。
ごく短時間の昼食休憩。慌ただしくカレーパンをかじりながらの「休憩」は、「休養」「休息」「息抜き」とも違う。雑用や問合せに応じながらの、会議と封入れ作業ではない時間、という程度でしかない。
月に1回のことなので、諦めている。というか、それを楽しむことにしている。イライラしては身が持たない。16時半、ないし17時からのハイボールを楽しむための慌ただしさと思えば、楽しいものである。
つらいのは、幹事会の前に行われる会議や打合せ、幹事会前の作業、幹事会後の打合せにそれぞれ別の打合せや問合せが並行して行われることである。頭は一つしかないし、目も耳もひとつのことしか処理できない。
自分が歳をとったことを実感する時間でもある。
ということで、カレーパンを食べ終わり、歯磨きを終えた時点で「昼食休憩」は終了。
昨日昼前に、本日の会議のための資料の仕上げを行っていたところ、背中のダルさが鈍痛に変化してつらくなった。資料を仕上げてから、1回分として処方された鎮痛剤の半量を服用して、11時半から1時間近く寝た。
さいわいにも痛みや強いダルさは目覚めたときには消えており、軽く昼食を摂ってから散策に出かけることが出来た。その後、痛みは出ていない。
昨晩、寝る直前に「方丈記」の書き写しを約10日ぶりに行った。書き写したのは第五段の最後の750字余り。情けないことに、腕が疲れた。
鴨長明の晩年のたたずまいの模様などを記しているが、体力もかなりあるようで、あちこち「なんでも見てやろう」のごとく、悪くいえば物見高く見て回るエネルギッシュさを感じる個所である。
残りは第六段と短い最後の第七段。
本日は朝から会議の連続なので、8時に家を出た。組合の会館で資料の印刷などをしてから会議に臨む。今月は、できあがっているはずの退職者会ニュースの封入などの作業もあり、大忙し。会議終了後はいつものように居酒屋で打ち上げを行ってから夜に帰宅予定。
本日は広い墓地を訪れ、横浜の中心街を見渡しながら歩いた。以下、まとまりのない感想。
お墓というのは、現代では自分の住んでいる近くにある人は少ない。生家から遠くに住んでいる人も多いし、そもそも現代では「〇〇家の墓」という「大家族」は崩壊している。
近くの寺に檀家として墓を維持している人もごく少数である。墓が欲しくとも公営墓地に抽選で当たる確立は極めて低く、たまたま手に入れても墓を立てる資力を持つ人は限られている。寺院の経営する狭い墓も手に入りにくいし、高価である。
私などは父親が偶然とも言える経緯で多磨霊園にそれなりの墓を手に入れて、墓自体をそこに移してくれた。
現代の墓事情について述べれば、「家」制度に言及する一文が出来上がりそうだが、それはこの文章の目的ではない。
もともと墓、墓石というのは故人を偲ぶ縁(よすが)である。墓がなくとも亡くなった身近な家族を思い出す縁があれば事足りる。しかしそれでは何となく気持ちが落ち着かないという人もいる。このことは私は否定できない。多少の時間をかけてもお墓に出向いて、花を供え、しきたりや風習にしたがい故人を偲ぶ、という行為は人類の原初からの行為であったらしい。人類だけでなく、弔いをする動物は多いという。カラスも仲間の骸の周囲で啼き声をあげて弔う。それを「弔い」といえるかどうかは議論はあるかもしれないが、少なくとも喪失感の共有という行為ではあるだろう。
本日も幾人かが、墓を掃除し、花を供えてお参りをしていた。一組の男女は黒い服装であったので、一周忌くらいのお祀りだったかもしれない。
墓地というのは、静かな散歩に向いている。すれ違う人も他の墓に参る人には無関心であり、静かに歩んでいる。自分の心の内で対話をしながらの散歩をするにはいい場所である。時には墓誌に視線を向け、墓誌を記した人の思いや、「戒名」なる不思議な風習の字に込められた意味を探ったりするのも頭の刺激になる。
明日は工事もなく、予定も入っていない。退職者会の事務作業があるが、これは短時間で終る予定。明日の天気は晴れの予想。さて、何をするか。
スマホのカメラ機能を試すことはしていなかった。近くを散歩しながら、試し撮りというのも悪くない。久しぶりにフラワー緑道や近くの墓地を歩くのもいいかもしれない。膝が痛まない程度に、ししし少し歩く姿勢を昔に戻すことを心掛けながら。歩く練習である。
疲れたらコーヒータイム&読書タイム。優雅な一日になるであろうか。
本日は薬局に薬を取りに行き、帰りは私鉄の駅から久しぶりに20分かけて歩いて帰宅。途中の登り坂では息が切れかかったが、何とか登り切った。途中で昼食用に冷凍食品を購入。
夜にも近くのコンビニまで往復。結局本日は6千歩に少し欠ける程度の歩数で終了。大股であるけばそれなりの運動にはなるかもしれないが、歩幅が小さくてはあまり運動にならない。
先ほどまで、「太陽系の謎を解く」を読み進めた。90頁ほどを読了。「まえがき」「プロローグ」「第1章 最大惑星との遭遇」を読み終え、「第2章 土星に突入せよ!」の第1節まで。木星と土星、この二つの衛星が主。
やはり視力が衰えており、15分も読み続けると同じ時間の目の休養をしないと読み続けられない。内容が難しくて読み進められなくなるのではなく、目が疲れて読み進められなくなっている。これがつらい。
Eテレで「コズミックフロント」は時々目を通しているので、この本の内容はテレビ放映で聴いたようなこともあり、スムーズに読み進めている。しかし数式がないので一見わかりやすいようだが、「磁力線が引き延ばされ、切断の効果」「液体金属としての水素」などの言葉が出てくる。イメージとしてはわからないことはないのだが、そのイメージが正しいものなのか、自信はまったくない。
逆にそのように知識がないのに、読み進めでてわかった気になってしまわないことも必要だ。
本日「時を超える美術「グローカル・アート」の旅」(新見隆、光文社新書)をようやく読み終えた。
「モダンアートというと風土や地域性を超えてもっと尊大後半な普遍性を求めた芸術闘士たちというイメージがある。・・・地域や風土を超えて永久永劫万人の心を打つ名作、名人のグローバルなモダンアートこそ、その風土の匂いがユニークに実は染みついているものだ、というのか「モノ」に触れて学んできた私の生涯一学芸員としての信条だった。」
風土ということばは私にはどうも抵抗があるが、地域性・歴史性という言葉で代替えすれば、了解できる点もある。
それぞれ取り上げた画家や建築家等について新しい知識、視点もいくつか教わることが出来たことは記しておきたい。
この後に読む本として「万葉考古学」(上野誠編、角川選書)を購入しておいたが、リビングルームの仮置き場のどこに置いたかわからなくなってしまった。リフォームが終るまでにはでてくるとおもうが、それまで待てないので「太陽系の謎を解く 惑星たちの新しい履歴書」(NHK「コズミックフロント」制作班 緑慎也、新潮選書」)を読むことにした。