受け取ったダンボール箱がずっしりと重たい事に先ず驚いたが、中を開けて見て、また驚いた。
並べて見たら21品もあり、「卵スープ」と「静岡茶」は20個ずつ入っているのだ。
こんなにあるので、仲間や従姉、娘に早速お裾分けしようと思う。
「飴」や「塩羊羹」は、歯がない伯母に良いかも知れない。これから配る楽しみができた。
≪「マルタ観光」一日目≫(2)
②「スリーシティズ」ー「日本軍人墓地」他
現地ガイドの提案で観光予定になかった「旧日本海軍戦没者墓地」に立ち寄った。
その墓地は、「マルタ」のカルカラにある「イギリス人共同墓地」の奥の一角に立っていた。
第一次世界大戦の時、マルタはドイツ帝国に海上封鎖され、物資が不足する事態になった。当時マルタを支配していたイギリスは、1917年、日英同盟によってチャーチルが日本に援軍を要請した。日本は巡洋艦「明石」他8隻の艦隊を出動させて戦ったが、1917年6月、駆逐艦「榊」が敵の魚雷を受け、59名が戦死したという。
墓には「大日本帝国特務艦隊戦死者の墓」と大きく刻まれていた。
当時の国民は、この事を知らされたのだろうかと疑問に思った。
昼は最大の漁村だという「マルサシュロック」のレストランに行った。「黒マグロ」がメインディッシュで、ぶつ切りの焼いたマグロが出て来たが、マグロはそもそも油が少ないから焼いたらますますパサついて、今ひとつ美味しいとは言えなかった。バターでソテイにしたら美味しいのかも知れないのに。
「マルサシュロック」の湾には、小さなボートの様な小船が沢山停泊していた。その船の舳先に安全祈願だという目が小さく描いてあった。対岸には葡萄の段々畑が広がっていた。
③古都「イムディーナ」観光
遅い昼食を終えてから「マルタ島」のほぼ中央部の丘の上にある16世紀の首都だった「イムディーナ」に向かった。
ここも堅牢な城壁に囲まれた町で、「メインゲート」から中に入ると狭い路地の両側にマルタストーンの石灰岩で建てられた家々が建ち並び、大聖堂や古い貴族の館などがあった。観光客用の馬車が数台、客を運んでいた。
≪「マルタ観光」一日目≫(1)
①「スリーシティーズ」ー「セングレア」「ヴィットリオーザ」観光
「マルタ」の観光は「スリーシティーズ」から始った。
3つの町とは「ヴァレッタ」と入り江を挟んだ対岸にある「セングレア」「ヴィットリオーザ」「コスピークワ」の町だ。
初めの2つの町は、小さな湾に突き出た場所の町で、「コスピークワ」はその付け根にある町だ。
1530年にこの島にやって来た「聖ヨハネ騎士団」が、最初に居所を築き上げた場所だという。午前中は前の2つの町を歩いて見た。
町は城壁に囲まれていて数個の入り口があり、海から見ると巨大な戦艦の様に見える。湾には帆船が沢山停泊していたが、ガイドからは「他のヨーロッパ諸国よりも停泊料金が安いからだろう。」と聞いた。
湾内の帆船の帆に大勢の女性が次々と登り、一斉に作業をするところを見た。珍しかった。
城壁の中に入ると、狭い路地の両側にぎっしりと建物が並び、建材にしている石「マルタストーン」の蜂蜜色が明るい雰囲気を出していた。中には曲がっていて見通しが効かない路地もあり、敵の侵入を防いでいた。「張り出し窓」からは、通行状態を上から監視したという。
今は博物館になっている古い教会には、騎士団団長の剣と帽子が展示されていた。