≪世界遺産「ヒロキティアの遺跡」観光を最後に「マルタ共和国」へ≫
「キプロス」最終日は、ホテルを出てから1934年に発見された新石器時代の「ヒロキティアの遺跡」に向かった。遺跡は、首都「ラルナカ」の西32km、海岸から少し入った丘の上にあった。
そこには紀元前7000~4000年頃の住居跡が残されていた。
今から9000年も前の人々は、温暖で水が得られ、天然の砦ともなるその地で農業を営み、安定した生活を築き上げていたらしい。
丘の斜面に川原の石を運び、粘土に藁を混ぜてレンガを作り、厚さ25cmの壁を周囲に巡らせ、窓がある円形の建物を沢山造って、内部には長いすや炉を作っていた。
鹿、羊、山羊、豚を家畜として飼い、イチジクやオリーブ、オレンジ、葡萄などの果実を採取し、穀物を栽培し、山から水を引いて生活していたようだ。死者は床下に「屈葬」していた。
しかし、理由は分からないが、どこかに行ってしまったのだという。伝染病か旱魃などの天災か、理由はまだ分からないらしい。麓に住居のレプリカが建てられていた。
「ラルナカ空港」に行き、「マルタ」行きエミレーツ航空の搭乗手続きをした。
25分も早く「ドバイ」から来た飛行機に乗った。機内には既に「ドバイ」で塔乗して最終目的地「マルタ」に行く人達が沢山乗っていた。
私の席は窓側のA席で、隣は「ナイジェリア」人の中年の黒人男性だった。片言の英語で会話した所、彼は政府の職員で「マルタ」で行われる「英国連邦会議」に出席するためメンバー5人で来たということが分かった。宗教はイスラム教だが、妻は1人で沢山で、子どもは3人いると言っていた。
彼はとても親切で、日本人のおばさんが座席のTV画面の操作で困っていると、さっと横から手助けしてくれた。しかも2回も…
(写真は機内で出た軽食。美味しかった)
2時間50分で「マルタ」に着いた。日本との時差は-8時間の国なので、早速時計を更に1時間遅らせた。
飛行機から降りるとリムジンバスが待っていたので乗った。最後に乗った私に、座席を詰めて座れるようにしてくれた黒人の女性にお礼のついでに国を聞いて見たら、彼女はアフリカの「マラウイー」から「英国連邦会議」に参加するために来たことが分かった。今回のマルタは国際会議と重なっているので、空港の警戒も厳しそうだった。
バスでホテルに向かった。「マルタ」で3泊するホテルは5つ星の「ウエスチン ドラゴナーラ リゾート」だった。部屋は広々、ベッドもキングサイズ、何よりも海側で眺めが素敵だった。
≪「リマソール」南部の海岸沿いの遺跡を観光≫(2)
④「ペトラトゥミロウ」の海岸
昼食のレストランへ行く途中、海岸線の道路を走った。
見晴らしの良い所でバスを降りると、海の中に突き出た立て型の岩と小さい岩が見えた。
ガイドの説明では、後方の小さい岩に寄せる波に発想を得てイタリアの「サンドロ・ボッティチェリ」は、名画「ヴィーナスの誕生」を描いたという。美しい海岸線だった。
レストランは、この岩が正面に見渡せる場所にあり、地中海で獲れる新鮮な魚介類をから揚げやグリルで焼いて出した。
いか、たこ、黒タイ、ムール貝などが出た。
⑤「アフロディーテ神殿」
「キプロス」の島の西南にある海沿いの町が「パフォス」だ。かっては首都だったこともある町だ。「アフロディーテ神殿」はその15km程手前にあった。この神殿は、紀元前12世紀頃建てられたらしい。
「パフォス」で信仰されていた豊穣と多産の神「ヴィーナス」が、やがて「アフロディーテ」になったと言われる。
海を臨める高台に遺構の一部が残っていた。石に穴があいているのは、運んできた時に木の棒を差し込んだ所だという。
傍に博物館があった。「キプロス」の別の場所で発見された紀元前11世紀頃造られたという「浴槽」やここの遺跡の床に張られていた「アフロディーテ」のモザイクタイル絵(およそ紀元後2~3世紀のもの)などが保存展示されていた。浴槽は現在の物と比べても決して劣らない出来栄えだったのには驚いた。
すでにこの地中海地域に優れた人類の文明があったのだ。
⑥「ディオニソスの館」
この遺跡は1962年に農作業中の農夫によって偶然に発見されたもので、紀元2~4世紀に建てられた館と言われていて、沢山の部屋の床にギリシャ神話を題材にしたり、当時の生活を描いた美しいモザイクタイルが残されていた。こうした館は、近辺に幾つも発見されている。
⑦「パフォス城」
最初、海を守るための砦だったが、13世紀に城として再建された物だ。
1570年にヴェネチアに壊されたが、16世紀にオスマントルコが支配した時に再建された。
夕闇が迫る時刻だったが、急な石段お屋上まで登り、写真を写した。「パフォス」の町と反対に広がる豊かな地中海が良く見渡せた。
日没はこの屋上で迎えた。何故か日本の事が思われた。(写真は16;12のもの)
今朝も雪が散らついていたので、テンプレートを「雪降る町」に変えて見た。
≪「リマソール」南部の海岸沿いの遺跡を観光≫(1)
①「コロッシ城」
初めに「リマソール」郊外にある「コロッシ城」に寄った。ここは13世紀に建てられ、14世紀には十字軍の基地にもなり、15世紀に改修されたという3階建ての堅固な軍事用の城だった。入り口は二階にあり、跳ね橋が備え付けられていて、敵が階段を上ると屋上から熱した油や石が落されたという。
(屋上から下を写した)
②「クリオンの野外劇場」
この地は紀元前14~13世紀にギリシャの「ペロポネソス半島」からやって来た「アカイア人」の植民地として造られた遺跡だそうだ。
地中海を見下ろす高台に紀元前2世紀に造られ、3500人が観劇できる「ローマ式野外劇場」があった。
「野外劇場」の音響効果は素晴らしく、観客は青い空と海を背景に劇を楽しんだことだろう。観光客の中の中に真ん中で歌を唄った人がいたが、歌声が良く響いた。
下に穴があったが、一時期には動物を使ったものも行われたらしい。
「野外劇場」より100m程の高台に広大な「エウストリウスの家」の遺構が保存されていた。モザイクタイルを敷き詰めた装飾が素晴らしい。紀元4世紀に造られたという公衆浴場も残されていた。
③「アポロ神殿」
この神殿は、森林の神「アポロ」を祀ったものだ。紀元前8~紀元4世紀頃までこの土地の守護神だったという。
神殿の傍には広い「宿泊施設」と設備が整った「浴場」も残っていた。
木造と違って風雨に耐え続ける堅固な石の建造物の素晴らしさを、ここでも再確認できた。
2000年以上前にこの地に生きた人々が、高さがある神殿をどの様に石を削り、組んで建てたかなどを今の私達が目で見て、知る事ができるのだから。
≪山岳地帯「トロードス」観光≫
3日目の朝は6時前に起きたので、ホテルから2分程の地中海に行き、浜辺を散策した。太陽が昇ったばかりで気温は18℃位だっただろうか。海水温は24℃程度と聞いたが、海で泳いでいる数人の男女がいて驚いた。また海辺の遊歩道をランニングする人たちを多く見かけた。世界中、健康志向者の努力は、同じ様だ。
沖合いにはタンカーや大型船が数隻停泊していた。
猫が多いと聞いていたが、海産物が豊富なためだろうか、確かに猫がいた。
「リマソール」の町は近代的な建物も多かった。近くのスーパーが閉っていたので「何時に開店するか」と近所の中年女性に聞いたら、左の手の指を1本ずつ数えてから今度は右手の指を中指まで数え、8本の指を示してくれた。こんな数え方を見たのは初めてだったので驚いた。
早朝、ゴミの回収が行われていた。
朝食後、島の中央に聳える「オリンポス山」(標高1951m)の周辺の村々まで、世界遺産の教会群を見学しに行った。
この国は色々な国から攻められた歴史を持つため、海辺から遠い山岳地域にひっそりと住む人々が多くいて、その人達が村に小さな教会を作り、守って来たのだそうだ。
曲がりくねった狭い山道を1時間以上もバスで揺られたら、すっかり具合が悪くなった。帰路はバスの中で吐いてしまい辛かった。
大半の教会は、中世の面影を残すかなり古い素朴なもので、内部の撮影は禁じられていた。
石灰岩質の山岳地帯なので、畑よりは「オリーブ」「葡萄」「イナゴ豆」などが栽培されていた。
①「アシヌ教会」
②「ポディトゥ教会」
③「聖ニコラウス教会」
この教会の横に聳える山の上に白い十字架が立っていた。聞くと1955年にあったイギリスとの戦争で亡くなった人たちを悼んで立てたものだという。遠過ぎて写真では不明確だが、見つけて欲しい。
④「キッコウ修道院」
最後に観光したこの修道院は、標高1140mの山中にあり、聖母マリアを祀っているが、火災により傷んだため19~20世紀に改修されたという。規模が大きく、門や回廊に描かれた宗教画が金色に輝き、異色の空間を感じた。
2階の回廊には修道僧の個室が並んでいた。
その日は夕食を抜いて翌朝まで寝続け、何とか元気を取り戻した。
≪「キプロス」の首都「ニコシア」観光≫
改めて「キプロス」の国についての基本情報である。
面積は四国の半分に等しい925k㎡で、人口は86万2000人。
民族構成は「ギリシャ系」75.4%、「トルコ系」10%で宗教はギリシャ正教とイスラム教の国だ。
気候は地中海性気候で九州南部に近いが、冬はむしろ暖かい。
「ニコシア」には33万人以上が住んでいる。
私達は飛行場がある海沿いの「ラルナカ」に到着後、「ニコシア」のレストランに向った。
最初の食事として何が出されるか心配だったが、「小海老のリゾット」と「鮭のムニエル・飯と野菜添え」「ケーキ」が順に出て来た。味は違和感なく美味しかった。
しかもワイン、ビール、ソフトドリンクなどの飲み物が無料で清涼飲料水もテーブルに出ていた。私はオレンジジュースを飲んだが、男性達はそれぞれ赤ワインや白ワイン、ビールを飲んで饒舌だった。
その後バスに乗って市内観光に。
①「ファマグスタ門」
16世紀、ヴェネチア時代に造られた円形の城壁で、円周4.5km、11個の砦があるという。
最大の「ファマグスタ門」は幅が4.5あって、今でもカルチャーセンターなどに使われているという。覗いて見たら窓が無い部屋の奥に椅子が並んでいた。50℃以上にもなるという夏場は涼しいに違いない。
②「聖ヨハネ教会」
教会に向かう通りの民家の花壇が個性的だったので撮影した。赤い花は「ブーゲンビレア」だ。
1662年に建造されたという「聖ヨハネ教会」では、18世紀の壁画とイコンが見られた。
内部は撮影禁止だった。
③「ビザンチン美術館」
8~18世紀の「イコン」が集められていた。中には1度盗難に遭い、見つかって戻ったものもあった。
ここも撮影は禁止だった。多分フラッシュでイコンが傷むからだろうと思った。
前庭に置かれていた「母子像」は迫力があった。
また傍に9~14歳の子供の中等学校があって、音楽の時間らしく歌を唄う声が聞こえた。
バスに戻る途中に「ローマ時代の水道橋」が残されていた。この小さな島国の歴史を物語るように思えた。
④「キプロス考古学博物館」
ここには、紀元前7000年前の新石器時代の遺物から収集されていて驚いた。
遺物を見たら、ギリシャの「国立考古学博物館」にあったものと似た物も多かった。
半日の観光後、60km離れた南部の海岸に面した第二の都市「リマソール」のホテルに向かった。このホテルには3連泊した。
≪出発して「キプロス共和国」へ≫
11月18日、昼の気温6℃の中、新千歳空港を出発し、羽田空港経由で成田空港に向かった。
前夜余ったご飯とお菜で出発前に「おにぎらーず」を2個作って持参したので、成田空港での集合時刻18;50の少し前に2階の椅子席で食べてから受付に向かった。
行きの航空機は、21;20発「エミレーツ航空」の「ドバイ」行きだった。「ドバイ」は「アラブ首長国連邦」のペルシャ湾沿いにあるハブ空港だ。
受付では30分程並んだ。
「エミレーツ航空」は、預けるスーツケースの許容重量は30kgなのだが、機内に持ち込む手荷物は7kgまでだったので慌てた。しかし、今回持参したキャリーバッグ(中は、機内で履くサンダルや化粧品類、寒さ対策の上着、到着後の観光に要する帽子や手袋、そして本1冊だった)を計ると、5.2kg。安心した。
今回は満席に近かったが、私は運良く右1席が空いている通路側席に座れた。
所がである。右側の中年女性(ポルトガル人)がその空席を独占して、私の側に膝を開いた姿勢で寝ていたのだが、見ると股が濡れていてのだ。多分漏らしたのだろう。機内は空調が効いていたので臭うことはなかったが、私は唖然とするばかりだった。また、彼女は、1枚着ているぺらぺらのブラウスのボタンを2つ外して肩と胸を出すようにしているのだ。私の目には普通の生活をしている女性には見えなかった。
「ドバイ」には11時間30分後に到着した。日本との時差が-5時間なので、時計を遅くした。
大きな空港だった。幾つもエリアがあり、私達が行ったゲイトの下の免税店にはチョコレートや酒類、乳製品が一杯あった。
約4時間の待機時間には、洗面所に行って歯を磨き、顔を洗った。イスラム式トイレから出ると、女性清掃員達は1回1回アルコールを吹きかけて殺菌していた。
ショルダーバッグに機内で配布されたロールパンとオレンジジュース、ジャムがあったので、洗面所の掃除をしてくれた女性に手渡したら、笑顔を返してくれた。
乗り継ぎの航空機は昼間飛ぶので、私は窓側の席を希望した。1時間以上遅れたが、機内でも遅延の理由は全く知らされなかった。日本では考えられない事だ。
8;32に「ドバイ」を離陸した航空機は、ほぼ直線距離で「アラビア半島」を斜めに横切る様に飛んだ。「エジプト」の「カイロ」に行くまで眼下に見えたのは、広大で不毛の砂漠ばかりだった。
航空機は「カイロ」上空で進路を北に変えて「地中海」に出た。
4時間30分で「キプロス共和国」の玄関口「ラルナカ空港」に着いた。時刻は午前11時に近かった。
乗客の大半は最終の「マルタ」に行くので、「ラルナカ空港」で降りたのは私達を含めた100人ちょっとだったが、今回のこの路線は、電車やバスの乗降に似ていた。
地図では海を挟んで北に「トルコ」、東に「シリア」がある地中海の東端にある国だが、上空から見た「キプロス共和国」は本当に小さな島国だった。
入国の税関検査では、「EU」の人達の窓口と「それ以外の国」の人達の窓口が分かれていた。
「キプロス」は日本との時差が-7時間なので、更に時計を2時間遅らせた。航空機だけで16時間という長い旅だった。