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「週刊現代」の2014年から翌年まで連載していたエッセイを単行本にした、伊集院静『追いかけるな』(講談社、2015.11)を一気に読む。週刊誌に掲載されたエッセイは深みのあるものから雑にしてしまったものまで、作品に当たり外れがあるのは流行作家らしいと言えばそれまでだ。
銀座・ゴルフ・ギャンブルの話題が多いのが伊集院ドンの幅の広さであり、現世的でもあるが、小説家の複雑な引き出しの出し入れの苦闘が伝わってくる。小説家でなければ、実業家か博徒かになっていたかもしれない。テレビのインタビューから見える伊集院ドンの表情からは、ピリピリした感性の揺らぎが発散されているのがよくわかる。顔全体が受容体のようなアンテナと言ってよい。
その感受性の鋭さは、絶望や差別などの極限を知ってしまったことからくるのではないかと思われた。「追いかけるから、苦しくなる。追いかけるから、負ける。追いかけるから、捨てられる」という著者の言葉には、人間の強欲の酷さと運命とを哲学者の如く吟遊詩人の如くに紡ぎ出される。
著者の体験からそれは、「望み、願いと言った類いのものを、必要以上にこだわったり、必要以上に追いかけたりすると、それが逆に、当人の不満、不幸を招」いてしまい、「追いかける余り、他に目をむけられる余裕、やわらかなこころを持てないことが原因である」と看破している。
そうして、「私たちの日々は上手くいかない方が多い」ことを自覚し、 「生きることに哀しみがともなわない人生はどこにもない」ものの、「今は切なくても、哀しみには必ず終わりがやって来る」と珠玉の言葉を連ねる。著書の前半はこうした伊集院ボスのキレが目立つが、後半はそれがやや疲れてきた感じは否めない。
それでも、恋愛に悩む人に対し、「淋しかったり、孤独だったりする時間をしっかり持てた人は、来るべき相手にめぐり逢った時、その人の良さや、やさしさが以前より、よく理解できるようになる」と相談相手となる。これは同時に恋愛だけの問題ではなく、人との関係性にも言えることが暗示される。
現在日本では、政治資金パーティーの裏金問題やビッグモーターやダイハツなど企業の不正が取りざたされているが、これもまさに目先の欲に走ってしまう傲慢地獄である。日本を土建屋にしてしまった田中金脈の伝統はいまだに健在だ。東京オリンピックや大阪万博に群がった利権の輩の実態は特殊なことではなく、いつもの日常の風景なのだ。
それにいつも胡麻化されているのが大衆だ。それは孤独としっかりつきあうことができなくて、まわりに同調してつるんでしまう。だから政権はおいしく温存されたまま、したがって見えにくい強欲だけがまかり通る。
日本の経営者・政治家の哲学や国家の大計の貧困が露わな昨今だ。目先の利益に「追いかける」からいずれ失敗する。その失敗に気づくのはいつになるのだろうか。太平洋戦争の「失敗」はいまだ検証されていないままだから、80年近くなってもそれを振り返ることすらできなくなった。だから、若者はバーチャルの世界にしか希望が持てない。スマホやアニメやゲームなどにうつつをぬかすしかない。バーチャルな世界を追いかけても結果は一時の酩酊にすぎない。「どうする」日本人!!!