2週間ほどかかったが、長編大作・島崎藤村の『夜明け前』(筑摩書房)を読み終えた。
登場人物が多いので人物相関図をメモしながら読む。
幕末から明治までの時代の変貌を、木曽・馬籠宿とその庄屋青山半蔵の生き方から炙り出す。
大名の参勤交代・和宮降嫁行列・官軍行列・水戸天狗党狩りなど、武士に翻弄される本陣・庄屋・問屋を担う半蔵だった。
明治維新(御一新)になっても街道筋の農民の暮らしは良くなるどころか、官僚支配によってますます悪くなる。
半蔵の理想とする平田派国学も西洋化に駆逐され、娘の自殺未遂事件も起きてしまう。
家庭も地域も国家も国学もどこを向いても活路が見えなくなった半蔵は、天皇行幸に自分の心情を謳った扇子を投げつける事件を起こしたり、隣の菩提寺を放火したりした結果、座敷牢に閉じ込められ狂死してしまう。
解説の亀井勝一郎は、
「街道筋にあたる山国の人の感受性を最も典型的に示しているのが彼だ。
彼はこの街道の上を道を求めてさまよう。
その一生は心の旅の一生と言ってよく、そういう意味でも“街道”をも藤村は象徴としてここにとどめた。」と的確に指摘する。
編集者松岡正剛は、
「藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。
それは、日本の近代に“過誤”があったのではないかと苦渋をともなってる。」
と、日本人全体に「あるおおもと」を提起したのではないか、と受け止める。
その過誤は、のちに太平洋戦争へと拡大し破局へ向かう。
藤村の煩悶した時代の憂いはまさに的中したわけだ。
日中戦争へ突入する日本のきな臭い時代に、この『夜明け前』が書かれていることが驚異だ。
大勢に迎合しない藤村の視座は、木曽谷の自然と朴訥な村民たちに裏打ちされているからだと思えてならない。
だからこそ、「あるおおもと」に肉薄する任務をわれわれは持っているのだが。
とりあえずオイラは、鍬を持って土と会話することから始めることにする。
登場人物が多いので人物相関図をメモしながら読む。
幕末から明治までの時代の変貌を、木曽・馬籠宿とその庄屋青山半蔵の生き方から炙り出す。
大名の参勤交代・和宮降嫁行列・官軍行列・水戸天狗党狩りなど、武士に翻弄される本陣・庄屋・問屋を担う半蔵だった。
明治維新(御一新)になっても街道筋の農民の暮らしは良くなるどころか、官僚支配によってますます悪くなる。
半蔵の理想とする平田派国学も西洋化に駆逐され、娘の自殺未遂事件も起きてしまう。
家庭も地域も国家も国学もどこを向いても活路が見えなくなった半蔵は、天皇行幸に自分の心情を謳った扇子を投げつける事件を起こしたり、隣の菩提寺を放火したりした結果、座敷牢に閉じ込められ狂死してしまう。
解説の亀井勝一郎は、
「街道筋にあたる山国の人の感受性を最も典型的に示しているのが彼だ。
彼はこの街道の上を道を求めてさまよう。
その一生は心の旅の一生と言ってよく、そういう意味でも“街道”をも藤村は象徴としてここにとどめた。」と的確に指摘する。
編集者松岡正剛は、
「藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。
それは、日本の近代に“過誤”があったのではないかと苦渋をともなってる。」
と、日本人全体に「あるおおもと」を提起したのではないか、と受け止める。
その過誤は、のちに太平洋戦争へと拡大し破局へ向かう。
藤村の煩悶した時代の憂いはまさに的中したわけだ。
日中戦争へ突入する日本のきな臭い時代に、この『夜明け前』が書かれていることが驚異だ。
大勢に迎合しない藤村の視座は、木曽谷の自然と朴訥な村民たちに裏打ちされているからだと思えてならない。
だからこそ、「あるおおもと」に肉薄する任務をわれわれは持っているのだが。
とりあえずオイラは、鍬を持って土と会話することから始めることにする。
この情熱は週刊誌にもありますが、私の場合は「横溝正史」に向かっちゃいました。
そういえば、中里介山の「大菩薩峠」が新聞掲載時の文章のまま(筆者による変更なし)、当時の挿絵付きで刊行されるようです。一度挫折していますがご指南の方法で再挑戦してみようか、と思っています。
ご指摘のように日本が世界にデビューした明治維新から第二次大戦の間の小説を読む時期にきているように思えます。
この間の第一次大戦は世界にとっての大転機でしたが日本は戦死者も少なく漁夫の利の戦争だったようで、その後の「第二次」ではなく、「大東亜」と定義することで名誉回復をはかる傾向が色濃くなっているようです。
現在の日本は、(アメリカも含めて「第二次」後の)世界から、「第一次」の後のドイツになぞらえて見られている、として絵解きすれば何となく理解できますが・・・いかがでしょう?
戦争の原因を政治、経済、軍事、技術、からもさることながら、民族、国民の名誉欲求から読み解く試みもあり、かと思えます。
正義、不正義、の理屈はともかく、ドイツは二度学び、日本はまだ一度というのは何となく不気味ですね。
勝手なことを書きましたが「ボツ」、または「編集」お任せします。
写真から推察しますと春野にお戻りですか?
武士支配から官僚支配に移行した明治は、現代日本の今も基本的な構造は変わりませんね。
ここを変えられるかどうかが、藤村がこだわった「おおもと」のような気がします。
つまり本当の「御一新」が成就されていないんですね。
だから、歴史は繰り返されてしまうんですね。
大仏次郎と島崎藤村のリアリズムが似ている気がします。
まだ、冬眠中ですが、そろそろフキノトウを採りに行こうと思っています。
長編『夜明け前』を読みきるのは体力の要ることです。
滝沢修・宇野重吉らが出ている映画を観たいですね。