山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

林道の亀裂を補修する

2024-08-07 22:48:51 | 出会い・近隣

 水源地に通じる林道が昨年の台風の影響で亀裂を生じていた。ちょうど一年前の夏、大量の砂袋を作りブルーシートを張り巡らして亀裂が拡大しないよう地元が応急処置をしていたものだ。行政の協力により一昨日、生コンが支給され地元が補修することになった。

 

 林道の一部には土砂や枝が散乱しており、生コン車が滑ってしまうので最初にこれらをジョレンで片付けていく。そういうことにすぐ気づく地元民の感覚が素晴らしい。軽トラでやっと通れる林道で、バイクだと転倒してしまうという。

 この林道は水源地への重要なルートとなっているので、7・8年前だったかやはり生コンの提供を受けて手製のコンクリート道にしたものだ。それでも、一部に土砂崩れにあったり、オラの車が谷に落ちそうになったり、危険な場所でもある。

 

 大型のミキサー車は途中まで来てくれて、その生コンを地元で用意したユンボで受け取り、現場までピストン輸送する。地元にプロがいるので、機器や資材それに人員の確保が身近かであるのも心強い。とはいえ、高齢者が多くなりこうした共同作業が年々頭数が少なくなってきているのも現実だ。

 

 さいわい、杉木立に囲まれた林道なので日本列島を襲っている熱波の洗礼は軽減される。今はやりのファン付き空調服を着ている人もいる。全員がジョレンを持参しているのも驚きだが、コンクリートを丁寧に塗る「コテ」を持ってきて実際使っていたのも素晴らしい。生コンは基本的に亀裂した穴に打ち込み、棒で突きながら周囲を固めていく。

 

 そこそこ参集した頭数もそろったようで、数時間強で完了する。午後は大雨が来そうなのでお昼ごろブルーシートをかけなおすという。このような共同作業は都会ではとてもできない。オラも大都会から闖入してきたので、こうした作業の中に住民自治の原点を発見する感動があった。平川克美氏が指摘するように、「あまりにも長い間、会社というものが社会の中心に座り続け」てきたため、こうした「結」のような共同作業が失われていった現代史がある。人間同士の絆が破壊される歴史がズカズカ侵攻している。

 

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重い腰を渋々あげて

2024-08-05 20:08:28 | できごと・事件

 きょうは今季初めての激しい雷雨が続いた。そのせいか、テレビは中断していまだ直らない。それまでは、35度前後の酷暑が過疎地を襲う。夏植えのキュウリは枯れてしまった。ブルーベリーの実の一部は干しブドウのようになった。そんなさなかの先月、やっと重い腰をあげて玄関側に防寒のためにガードしていたプチプチシートを整頓する。

 

 土間側には寒風が容赦なく入り込む。そこで、1月早々に掘り炬燵がある居間をプチプチシートで張り巡らすのが恒例だ。エアコンがないので毎年行う作業となっている。しかし、やるにはけっこうエネルギーと時間が消費される。だもんで、そのプチプチシートぐるぐる巻きあげて天井近くで止めることにする。そうすれば、次回から張り巡らす手間がずいぶん削減される。いつものようにありあわせの部品を利用して予算ゼロでなんとか完成させる。これで、土間側の格子を開放して風を導入することができる。

 

 畑の真ん中へんにクワノキの大木がある。残念ながら、このところカビ病のにかかって実が白くなって食べられる状態ではない。木の周りに何回か石灰や焚き火の灰を撒いたりしたが一向に変わらない。しかも、表土を10cm以上削らなくてはいけないらしい。したがって、これを解決するにはそれなりの決断が必要であるのがわかった。

 

 そのため、強剪定してまずは伐採することにした。久しぶりにチェンソーを使って枝の伐採を始める。予定では枝のすべてを伐るのだが、その処分がたいへんなので、少しづつ伐ることにする。以前は、桑の実パーティーをやってこじんまりしたイベントもやったこともあるが、今はもちろん中断している。また、大量に収穫した実は野菜ジュースの重要なメンバーにもなっていたが、いまはスタメンから外れている。

 

 桑の葉を乾燥させて桑の葉茶をやろうと思っていたが、それもとん挫だ。もったいないと現在の葉を使ってもいいがやはりカビ病が気になる。強剪定したら新しい健全な芽がでるはずだが、その保証はやってみないとわからない。わずかな希望を貫くしかない。野鳥のレストランや隠れ家ともなっていた役割も断念するしかない。現在の灼熱地獄を回避する絶好の日陰オアシスでもあったのだが。

 

オラの大好きな詩人・長田弘の詩で今宵はお休みなさい。    

森の大きな樹の後ろには、過ぎた年月が隠れている。

日の光と雨の滴でできた 一日が永遠のように隠れている。

森を抜けてきた風が、大きな樹の老いた幹のまわりを

一廻りして、また駆けだしていった。

どんな惨劇だろうと、森のなかでは、すべては

さりげない出来事なのだ。

森の大きな樹の後ろには、すごくきれいな沈黙がかくれている。

みどりいろの微笑が隠れている。音のない音楽が隠れている。

ことばのない物語が隠れている。(抜粋、「森のなかの出来事」から)

 

 

 

 

 

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路地裏から世界を見る

2024-08-03 20:32:40 | 読書

 下町風情がまだ残る商店街に起業家の平川克美が公民館のような喫茶店を開いている。店内でイベント・コンサート・ギャラリー・講演会などを開催し、彼の経営者・著述家としての集大成ともいうべき企業理念を現実化している。タイトルが気に入った彼の著作『路地裏で考える』(ちくま新書、2019.7)を読んでみた。サブタイトルは、「世界の饒舌さに抵抗する拠点」。

  

 著者は最初に、「足元の現実、日々の暮らしの中から見えるもの、…それを自分の問題として考える言葉を探すこと、それがわたしが自分に対して課したルールであった。…<路地裏目線>というものがあるとすれば、…わたしはその目線の先に見える風景の観察者でありたい」と宣言している。

 本書の構成は、1章「路地裏の思想」、2章「映画の中の路地裏」、3章「旅の途中で」。2章は興味はあったが、やはり現実の路地裏からの発信には距離があった。3章は各地の温泉地めぐりとなっていて「足元の現実」からはほど遠い。

 

 本書の眼目はやはり第1章と言える。日本が経済成長を続けている時代に「あしたのジョー」が登場し、その後の経済の低迷とともに終焉を迎える。その11年後に長期連載となり映画にもなっていく「釣りバカ日誌」だった。加えて、「天才バカボン」も外せない。現在の日本の担い手群団はこれらのマンガに大きな影響を受けていたのは間違いない。オラも場末のラーメン屋で週刊漫画誌を読むのが楽しみだった。安定に見えた80年代の市民社会はヒーローを必要とした時代が終わったということを意味したという著者の鋭い指摘が冴える。(イラストは井上直寿さん)

 

 その意味で、「釣りバカ日誌」のハマちゃんの生き方ががちがちのサラリマン社会を軽快に穿つ清涼剤だった。経営者でもある著者は、「あまりにも長い間、会社というものが社会の中心に座り続け、…会社がひとつのフィクションでしかないことは見過ごされている」と見事な分析をしている。

 

 現在、著者は路地の多い下町風の地域で喫茶店を経営していて、そこが知的なコミュニティ・居場所になっているようだ。ただし、残念なことに本書にはそこの地域の路地裏が出演していない。路地裏は長屋でもある。そこに、落語に登場するような大家さん・個性的な職人・おかみさん・よたろうといった庶民の顔や背景が必要だ。

 

 そこが不満だったが、「過去と未来を架橋するのは、経済原理の外側に自らの足場を築いているものたちである。…しかし、その声はあまりに小さく、忙しい現代の街角では騒音に紛れてしまうだろう。だから、わたしは、せめて負け犬の遠吠えが響く路地裏を、今日も散歩し続けていたい。」と、結んでいる。

 すばらしい結びだ。混迷し饒舌な世界のただなかで、経済原理の外側に足場を持つ人々がここの喫茶店から輩出していると思われるので、それをぜひ次に読んでみたいと思った。いくつかの著書のタイトルがきわめて新鮮だった。それは詩人を憧れる平川さんの感性の襞が豊かなのを感じる。おもわず5冊くらいまとめ買いしてしまった。

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