東京に、甥の結婚式に出て、長男夫婦宅で孫と遊びで、4日程妻と関東に出かけました。
後半は、茨城県の土浦・水戸のブラリ旅。
土浦市は隣町が阿見町で、この町にある茨城大学農学部で日本で最初のヤーコン栽培が始まり、町の特産品にしていると聞いており、ヤーコンにまつわる何かあるかもと寄ってみたもの。
土浦ではヤーコンの形跡、見つけること出来ず。
ついでに、日本で二番目に大きな湖、霞ケ浦を遊覧船で遊んでみたいとの希望も。
遊覧船は、乗り場まで、たどり着くも、あいにくこの日は、お休みでガッカリ。

せっかくここまで来たのだからと、水戸の偕楽園の梅を見ようと、千葉市内に一泊。
例年なら、梅がまっさかりのはずが、今年の冬の寒さに、まだ2分咲き。

しかし、梅は、桜と違い、一輪、一輪開いたり、蕾だったりに値打ちのある花だそうで、偕楽園、来た甲斐があったと、満足でした。
よく手入れされた、偕楽園の広大な庭園をブラブラしていると、正岡子規が明治22年に偕楽園に遊んだ時の句。

まだ大学生だったころの句だと思うが、ちょうど、現在、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいるところで、正岡子規が結核と闘いながら、俳句の新境地を切り開くさわりに来たところ。印象に残る句碑でした。
偕楽園に隣接してある、徳川ミュージアムに、なんとなく寄ってみました。
展示されている、パネル、土産、遺品で一際光彩を放っているのが、水戸黄門こと、徳川光圀。
名君だったと、感銘しました。
水戸徳川家の2代目に兄を差し置いて指名されたが、嫌で、問題児だったのが、司馬遷の史記に、自分と同じように、国を任されるのが嫌で逃げ出した兄弟の話しを読み(伯夷、叔斉)2代目を受ける決心をしたとのこと。
史記に啓発され、日本の史記を作ることに心血をそそいで、大日本史を編纂し、完成をみることは無かった(明治になって、完成)。
隠居して兄の息子に、家督を譲ってからは、農業にいそしみ、跡を継いだ藩主に年貢米を納めたとのこと。
どれも、詳しく説明もされ、完成した大日本史そのものや、隠居した住居を大事に復元・保管している様子が、パネル展示されるなど、今に至るまで、地元千葉で、尊敬され、親しまれていると感じ入りました。
徳川ミュージアムの中庭のベンチに、水戸黄門の像が座っており、私の帽子を像の杖にかけて、パチリ。

楽しい4日間の旅でした。
後半は、茨城県の土浦・水戸のブラリ旅。
土浦市は隣町が阿見町で、この町にある茨城大学農学部で日本で最初のヤーコン栽培が始まり、町の特産品にしていると聞いており、ヤーコンにまつわる何かあるかもと寄ってみたもの。
土浦ではヤーコンの形跡、見つけること出来ず。
ついでに、日本で二番目に大きな湖、霞ケ浦を遊覧船で遊んでみたいとの希望も。
遊覧船は、乗り場まで、たどり着くも、あいにくこの日は、お休みでガッカリ。

せっかくここまで来たのだからと、水戸の偕楽園の梅を見ようと、千葉市内に一泊。
例年なら、梅がまっさかりのはずが、今年の冬の寒さに、まだ2分咲き。

しかし、梅は、桜と違い、一輪、一輪開いたり、蕾だったりに値打ちのある花だそうで、偕楽園、来た甲斐があったと、満足でした。
よく手入れされた、偕楽園の広大な庭園をブラブラしていると、正岡子規が明治22年に偕楽園に遊んだ時の句。

まだ大学生だったころの句だと思うが、ちょうど、現在、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいるところで、正岡子規が結核と闘いながら、俳句の新境地を切り開くさわりに来たところ。印象に残る句碑でした。
偕楽園に隣接してある、徳川ミュージアムに、なんとなく寄ってみました。
展示されている、パネル、土産、遺品で一際光彩を放っているのが、水戸黄門こと、徳川光圀。
名君だったと、感銘しました。
水戸徳川家の2代目に兄を差し置いて指名されたが、嫌で、問題児だったのが、司馬遷の史記に、自分と同じように、国を任されるのが嫌で逃げ出した兄弟の話しを読み(伯夷、叔斉)2代目を受ける決心をしたとのこと。
史記に啓発され、日本の史記を作ることに心血をそそいで、大日本史を編纂し、完成をみることは無かった(明治になって、完成)。
隠居して兄の息子に、家督を譲ってからは、農業にいそしみ、跡を継いだ藩主に年貢米を納めたとのこと。
どれも、詳しく説明もされ、完成した大日本史そのものや、隠居した住居を大事に復元・保管している様子が、パネル展示されるなど、今に至るまで、地元千葉で、尊敬され、親しまれていると感じ入りました。
徳川ミュージアムの中庭のベンチに、水戸黄門の像が座っており、私の帽子を像の杖にかけて、パチリ。

楽しい4日間の旅でした。