田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

三圃制農業のヒラメキ(2011/11/30)

2011-11-30 23:17:24 | Weblog
明日から師走。

この8日間は一日おきに、忘年会で、指折り数えると5回の飲み会。
今日は、世話好きのS女史のこの指とまれで、愉快なひと時。
小倉ステーションホテルで釣り仲間、仕事仲間、先輩諸氏とワイワイ、ガヤガヤ。
メンバーの一人、300坪(一反)の休耕田を借り有機農業の勉強中とのこと。
山口の川棚温泉近くで、イノシシ、シカ、サルの跋扈している土地とのこと。
竹田農園の、有機農業70坪のことを考えながら、思案。

現在、竹田農園では休耕田の草を刈り、山積みにしてリヤカーで都度、70坪の畑に運び、素晴らしい堆肥に。
この休耕田2反(600坪)の12メートル四方(43坪)をイノシシ除けのトタンと鉄線メッシュで囲み、ヨーロッパの三圃制農業をやるといいぞと。
毎年、12メートル四方の2/4を囲みを解き、そこに刈った草を蓄え、イノシシの好きにさせる。
イノシシが掘り返し、糞をして、マムシの駆除をしてくれ、肥えた安全な土にしてくれる。(三圃制の牧畜)
残りの2/4の1/4に芋・豆、1/4にの茄子その他を栽培。
これをクルクル回したら、ヨーロッパの三圃制農業。
ワイワイ話しながら、笑っていると、いい知恵が浮かぶもの。
この冬、70坪の畑にイノシシ除けの鉄製柵を完成させ、余力でこの12メートル四方の柵を2反ある休耕田の片隅に作りたいもの。

明日は休肝日。

酔いがさめてこんな手間のかかることをする余力は今のところないと気づく。
釣りをしたり、農園の林でたき火に本の方が魅力。
 働き手が増えたり、その他環境がかわったら試してみるのが賢明。
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晩秋の農園(2011/11/28)

2011-11-28 23:20:11 | Weblog
昨日の釣りの疲労で、昨晩は爆睡。
目が覚めて、今日は、農園に植え残したタマネギの植えつけと、春大根、便利菜の種まきに。

(渋柿塩漬け)
本当は先週取り入れるべき、渋柿を先週姫島にドライブ旅行にいったのがたたり、今日遅ればせながら収穫。(冒頭の写真)
この渋柿を海水と同じ濃度(水1リットルに塩35グラム)の塩水に漬けて、2週間北向きの廊下に放置しておくと、マンゴー風味の素晴らしい柿が出来上がる
半分は、収穫が遅すぎて、やや柔らかくなっていたが、エエイとそのまま塩水漬け。
下の写真。


10日ほどして食べてみよう。

(お昼はバーベキュー)
お昼は妻が火を起こし、バーベキュー。
昨日釣った鯛とレンコダイの小ぶりのものを持っていき、炭火焼。

お隣の江藤正翁(元南海ホークスのエース、89歳)も一緒にビールにカッポ酒。
雑談。
○西本監督、亡くなりましたねと、妻が言うと、
「西本さんとは、彼が別府の星野組にいたとき何度も試合をしてよく知っている。
星野組は、荒巻投手がおりそのファーストでプレイしていた。」
 西本監督はよく打っていたかと聞くと、
「いいバッターだった。この星野組と大洋漁業(江藤翁が当時エース)の試合が昭和22年に山口の小郡であったとき、前座で阪神と松竹のプロの試合があった。当時はプロ野球よりノンプロの方が六大学で活躍した選手がたくさんおり(西本さんは立教大学)人気があって、ヤジでつまらん試合は早くやめて、大洋漁業を出せと。」
 当時の阪神タイガースと大洋漁業が試合をしたら、大洋漁業が勝ったか?と私が聞くと、しばらく考えて、
「勝ったかもしれん」とのこと。
 「西本さんは私より2つ年上で、川上のテッチャンと同い年。だんだん仲間が減っていくね」

 小倉室町の忘年会が晩にあり、農園の土ぼこりを風呂で流し、そのまま小倉で宴会。

 今日も楽しい一日。
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汐巻で満足の釣り(2011/11/27)

2011-11-27 22:16:17 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
週末悪天候が続いていましたが、今日の日曜日、波の高さ1メートル、南の風と釣り日和。
名高い漁場の汐巻に釣りに行ってきました。
40年間、月2回の汐巻船釣りを続けている木工職人のSGさんのグループに入れてもらっての釣り。
前日、工務店のS氏のお宅に泊めてもらい、朝4時、作業着屋のH氏運転の車で、油谷湾に面した粟野の港に。

(入れ食い))
11月は魚の食いの良い月。
港から30分程船は走り、今日のポイントに。
さあ釣るぞと気合がはいる。冒頭の写真。
深さ80メートル程で手釣り。
底にテンヤが届いたみたいと思い、糸を少しずつ上げていくと、魚のはっきりした当たり。
大きく合わせると、強い魚の引き。
上がってきたのは
40センチ程の鯛で幸先よし。

このあと立て続けに鯛、レンコダイが5匹釣れ、私は入れ食い状態。

(南三陸町の大漁旗タオル)
この釣りグループの皆さんには、ご自宅に泊めてもらったり、車で運んでくれたりでお世話になりっぱなし。
お礼に南三陸町の楽天出店で買った大漁旗タオルを皆さんにさし上げる。
隣で釣っている工務店のS氏に、私が朝から大漁なのは、このタオルをズボンのポケットに入れているから、と半分冗談、半分本気で言うと、
「タオルは腹に巻いたぞ」とS氏。
その甲斐あってか、S氏はその後絶好調でこの日60センチ程の大鯛を3匹釣り上げ、ご機嫌。下の写真。

大漁旗タオル、私と工務店のS氏はご利益ありと見た。

(釣果)
今日は皆さん満足の釣りで、私も30センチ前後の鯛やレンコダイが16匹、クーラーボックスは
ずっしりと重い。
納竿になり、船長の釣ったたくさんの魚を例によって、われわれ5人の釣り人に分けてくれる。
船長の釣果を前によもやま話。下の写真。


(ご馳走)
我が家に戻り、40センチ程の真鯛とアオナ(船長がくれた)を刺身と鍋の具に調理。下の写真。

妻と次男の3人でこれは美味いと舌鼓。

愉快な一日でした
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闇夜の光(2011/11/25)

2011-11-25 22:35:13 | 戦前・戦中の日々
南三陸町観光協会の楽天出店のメルマガが届きました。
日本赤十字社の支援で志津川公立病院の仮設建物の建設が始まったそうです。
CTR、MRI等の検査装置もはいるそうです。赤十字社を通しての寄付はこうして有効活用されているそうです。
(写真掲載は著作権の関係で問題ですが、読むのは少数の釣りバカですので、ゴメンなさい)
冒頭の写真。
漁船も北海道から6トンの中古船がはいり、知り合いがサプライズで大漁旗を用意してくれたとか。船体も大きくなり、取れた魚を大量に運ぶことが出来るようになったそうです。
下の写真。

メルマガの申し込みは左のブックマークに。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昨日飲み会があり、帰りの電車で夕刊を読んでいると、震災にさいして、数えきれないほどの音楽家が演奏で被災地の皆さんを力づけているとの記事。南三陸町のメルマガでもEXILEの歌を被災した当日の晩、中学生が避難所で歌い、皆さん涙したといった記事があったのを思い出しました。酔った影響か、私が40年前過ごした学生寮の同志会で古い会報に、東京の空爆下で学生寮の同志会でクリスマス祝会をしたという記事が思い出されました。ふと目が覚めると、乗り過ごし、あわててのぼりの最終列車に乗り事なきをえました。今朝、同志会の会報を引っ張り出しその記事を読みなおしました。(創立70周年の記念に古い記事を転載した記念号) 下のような内容。太平洋戦争では、今回の震災の200倍の人的被害が日本だけであり、周辺国も合わせると1000倍。闇の期間も10年と長かった暗い時代。読み返すと、闇が暗い分、輝きがまぶしいのは、EXILEの歌もこの記事も共通と思った次第。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

空爆下の同志会とその綱領
                   小中公毅(同志会 大正6年卒 裁判官)

日本全土が米空軍の来襲を受けその熾烈な空爆下で同志会のクリスマス礼拝がささやな乍ら厳粛に行われたということは同志会五十年の史上特異な出来事として記憶しておいてよい事柄だと思う。当時同志会では内会員中法文医科の学生達はほとんどその全員が学徒応召で狩り出されて、会内には僅かに数名の理工科の諸君が居残り、辛うじて会館を守っておるという心細い状態であった。その頃東京の周辺は連続的に空爆を受け、それが次第に都心に及び、日本橋や神田方面では、その付近一帯が焼野原と化し、連日連夜警報が発せられ、郊外から通勤していた私などはその途中で何回か電車を止められて退避させられた程であった。同志会の内会員諸君も何時爆弾が落ちてくるか判らないという危険にさらされつつ、あの少人数で不眠不休の防空警備に当たらなければならなかったし、外会員としても出ては職場を護り、帰っては自家の防空に忙殺されていて、到底同志会を顧みる余裕はなかった始末であった。
 ところがあの戦争中、外会員の代表格として金曜会をはじめ、会の面倒を見てくれていた田端平四郎君から、恒例のクリスマス礼拝をやりたいが適当な説教者がないから、その際説教をしてもらいたいとの話しがあった。
 私はこれに対しかような場合でもあるから今年はやめにしたらどうだといって体よく断ったのであったが田端君は内会員諸君も是非礼拝だけは捧げたいと願っておるからと懇請せられたので引き受けることにした。実をいうと私は田端君から話をしてくれと頼まれた時に、些か閉口したのであった。それは礼拝の後夜間帰宅の途中でまた空襲に遭うかもしれないということを恐れたためばかりでなく、当時私はクリスト信徒としてあの戦争に心から協力することを潔しとせず、軍部の専横を憎まざるを得なかったとはいえ、既に二人の子供を戦線に送り自らも国家の官吏として間接ではあるが戦争遂行のための公務に従事しており、現実と信仰の調和に苦しんでいた最中であったからであった。しかし田端君らの熱意に動かされ、且つかような際にこそ若い諸君と共に真面目に戦争と信仰との問題を語り合うべきであるとする強い責任感ともいうべつものを覚えたので思い切って出席した次第であった。そんな訳で昭和十九年度における開戦四年目の同志会クリスマス礼拝が行われたのであるが、それは次第に空襲が激化することを考慮して例年より少し早めにすることとして十二月十五日の午後四時開始と定めたのであった。無論その日にも空襲があって江東砂町付近に爆弾が投下せられ、小松川中学はじめ付近一帯に相当な火災が起こって、文字通りの空襲下のクリスマスであった。同夜集まったものは外会員として田端君と私、内会員として杉原俊輔はじめ数名という極めて少人数に過ぎなかったのであるが空襲の危険を冒しての礼拝であり、また多数の外会員が前線に赴いて戦火に曝されておる最中でもあったためか、礼拝はいとも厳粛敬虔に行われ、語るものも、聞くものも真剣にかつ熱心に祈りかつ語り合ったことを今もなおまざまざと記憶し、まことに思い出深いものがある。この礼拝において私は当時の日記によると、「主の生誕と正義の衝突」と題して語ったことになっておるがその話の大要は
 「米英と日本は何れも正義の為の戦いであるとしておるが、神の正義は一あって二はない筈だ。何れが是か非か。又は何れも非かに帰する。神は天にあってこの二つの矛盾した正義感よりする訴えを聴かれてさぞや困っておられることであろう。われらクリスト教徒は今こそ謙虚な心を以って神の御声を聴きその聖断を待つべきである」
 というにあったと記憶する。無論その礼拝の形式、説教の内容は例年のそれに比すべきものがなかったとしても、とにもかくにもあの空前絶後ともいうべき空襲下に於いて、わが同志会がこの貴い伝統的行事である聖誕礼拝を守ることができたという事は、まことに感謝すべき事であり、わが同志会の創立当初からの精神があのように苦難の時においてさえ立派に活きていたのだということを実証しえて限りなき心強さを感じせしめられたのであったが私はあの戦争中の同志会を回顧するときになお一つの、それは同志会にとって更に重要出来事として想起せざるを得ないことがある。これは戦時下における同志会の綱領に関する問題であった。元来人間殺戮を伴うあの戦争なるものは人類相愛を信条とするクリスト教徒にとっては、それはその生を享けた国の名によって始められ而も聖戦という美名のもとに続けられたものである限り、その生活の両面に於いて甚だしい矛盾を感じその精神的苦悩は少なからざるものあつたからであるが、英米のクリスト教風を母教会とし又はその国のミッションからの援助を受けていた教会にとっては一層苦難の立場におかれており、官憲の執拗な圧迫は日を追うて激しくなり教会への強制捜索、備え付け書類の押収、教会主管者達の召喚尋問が行われ逮捕収監の憂き目を見る人も生ずるという事態とまで発展して行ったのであった。私のような取るに足らぬものであったに拘わらず特高警察の監視が転任先にまで及ぼされ「法廷に於いて伝道するとは何事ぞ」と非難せられ面罵を受くることすらあった程であったから、かかる四面楚歌の中にあって教会を守っておられた教役者信徒の方々の苦労は並大抵のものではなかったはずである。この嵐の中にあってわが同志会もまた独りその圏外に立つことは許されなかった。その頃同志会の安全を保持するために一時会の旗印である綱領を緩和して風当たりを避けるべきでなかろうかということが真剣に討議されるにいたったのであった。
 私は当時を回想して同志会が創立五十年の歴史での最大の危機に遭遇したのは実にこの時であった慄然たるを得ない次第である。然しこの重大な危機も阪井会長先生の強い信仰に基づく厳然たる裁断によって免れえたのであった。
 このことは同志会にとってこの上なき喜びであると共に同志会の将来のためにその歴史の上に永く特記されて然るべきものであると信ずるものである。げに同志会はあの堂々たる綱領が厳存し且つ厳守され更にそれが各会員の一人一人に体現されてこそ同志会であり、これこそが同志会の生命である。同志会員となってクリスト教的人格を涵養することができないならば宝の山に入りながら手を空うして去るに等しい。然し私はあの空爆下における以上二つの出来事を目撃経験して同志会創立の精神は過去五十年において脈々として全会員の中にあって活動して来たことを感謝すると共に将来も益々盛んに溌剌として成長してゆくであろう事を確信し、且つそれを切に祈るものである。
(昭和28年発行の同志会会報40号より)
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I氏の山間の別荘でバーベキュー(2011/11/23)

2011-11-23 20:51:34 | 先生・友人
飲み仲間のリーダー、小倉室町のラーメン屋の錦龍のI氏、平尾台と福智山の間の高台に古民家を改造して、お孫さんのため別荘を作った。
飲み仲間のMS氏が町議に再選されたお祝いにバーベキューをI氏の別荘で開催しました。

○屋敷のリビングに行司の木村庄之助氏が揮毫してくれた「錦龍」の額。(冒頭の写真)

○食材は、魚市場の仲買人のO氏が手配してくれた、一粒牡蠣、サンマ、M画伯が持ってきたイノシシ肉、私が先日関門の本船航路で釣ったタコ等。皆さん、美味い美味いと満足。(下の写真)


○このあたり、サルが出没するということで、お昼前、隣の空家になっている家の屋根からこちらをうかがうサルの顔。バナナを置いておくと食べに来るということで、バナナを石の上に置くも、なかなか出てこない。サルはあきらめて、記念写真。(下の写真)


○夕方になり、満腹、ほろ酔い気分で三々五々解散で、列車待ちの合間に、リビングに上がると、遠くの山並みが美しい。パチリ。


楽しい一日でした。
 今度の日曜日、名高い漁場の汐巻に釣りの予定。釣り日和になりますように。
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国東半島~姫島に遊ぶ(2011/11/20)

2011-11-21 20:57:10 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
昨日、今日と飲み仲間7人で国東半島~姫島に遊びました。

(国東のソバ)
運転は、酒が好きでない、MS氏。
旅行初日のお昼はMS氏のなじみの国東半島にある蕎麦屋。
着くと築150年という落ち着きのある屋敷。
ざるソバだろうとたかをくくっていたら、ザルソバ、つゆソバ、ソバガキと
続き、たれにはワサビを客がおろして食べるという風流さ。ラーメン屋のI
氏や工務店のS氏ら、いやー、来てよかったと大満足。(冒頭の写真)
そば屋の名前は、米屋旅館で、宿泊もできるとのことで、また来ますと店の方にあいさつ。

(神社の秋祭り)
この蕎麦屋のすぐ近くで神社の秋祭りで、屋台や、氏子の皆さんでやっている景品くじ屋が賑やか。
7人で食後の散歩で、祭り見物。
ラーメン屋のI氏や薩摩隼人のO氏が氏子の皆さんの籤屋で、よし当たるまで買えなど笑い声。見ると、景品に清酒が3本残っているので、この清酒が当たるまで籤を買い続けるというもの。
一本100円の籤で30本ばかり買って、籤も少なくなり、清酒3本めでたくゲット。
どちらも儲けたとニコニコで、仲よく神社の前で記念写真。

気持ちのいい秋の昼下がり。

(姫島)
姫島は国東半島伊美港の沖合にある島で、私も40年近く前に一度来たことがある。
お盆のキツネ踊りが有名。
フェリーで25分程のところにあり、海はやや時化ていたが無事到着。


(姫島は文化の香り)

 姫島はいろいろと文化の香りがする。
美しい海と渾然一体で、日田から毎月一度、5人のご婦人のグループで日田から泊まり込みで今日泊まった民宿に泊まる方もいるとのこと。
 15年近く続けているそうで、島の雰囲気と海が楽しいとのこと。

〇おどり
  翌日の朝ご飯は民宿のビールを飲みながら、民宿の大女将と雑談に花。
 姫島では、各地区ごとに踊りがあり、これを子供の時から全員で踊っている。
大女将に若いときから踊っていたのかと聞くと、若いときから今まで踊っている。
以前ハワイ旅行で、クルージングのショーでフラダンスがあり、飛び入りで踊ったら、上手だと褒められたとのこと。
いつも踊っているので体が自然に反応するらしい。
島のケーブルテレビで踊りの様子が放映されていたが、女性と男性で踊る様子は、女性は優美、男性は勇壮・ユーモラスでフラダンスによく似ている。
お盆だけでなく、節目の行事の際にはいつも各地区の踊りで見物の人も絶えないとのこと。

〇古民家
 島の庄屋さんの家が、整備され一般公開されているというので、翌日訪ねる。
落ち着いた、立派な古民家で見ていて飽きない。上り口に並んでパチリ。


〇黒曜石の露頭
 黒曜石は、割れると鋭い切り口で、剃刀のような切れ味で、縄文時代からナイフとして動物の解体に重宝され、姫島にある黒曜石の露出した崖から採取され、西日本各地に広まっていたとのこと。
案内の地図を見ながら、この黒曜石の露出した山に登る。
山が海に崩れ落ちる崖一面が黒曜石で、40年前ここにやってきたとき、足元に落ちていた、黒曜石のカケラを拾い、試に人差し指をスッとさすると、パックリ剃刀のように指が切れたのを思い出す。
黒曜石の石碑の前でパチリ。


 予定していた、姫島での船釣りは時化で中止になり、港でアジを狙うもイワシ一匹と釣りは散々。
帰りは、温泉に入ったり、安心院のワイナリーに寄ったりで、遊びながら帰路に。楽しい2日間でした。
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グリーンピース、タマネギの植えつけ(2011/11/15)

2011-11-15 21:41:32 | Weblog
 仕事が休みで、竹田農園に次男に車で送ってもらい、畑仕事でした。

(たき火)
段々涼しくなり、お昼のバーベキューは炭火のコンロの横で、たき火のコンロも用意。
林に転がっている枯れ木や竹を集めて、気持ちの良いチロチロという炎。
バーベキューに顔を見せたお隣の江藤正翁(元南海ホークスのエース、89歳)もたき火が嬉しい季節になったねーと。雑談。
 日本シリーズ、ホークス勝てませんね、馬原が悪い?
と私が聞くと、「ピッチャーは頑張っているが、ホークス打てないね」と一言。
ビールとたき火でポカポカしてきたところで、パチリ。冒頭の写真。

(グリーンピース、玉ねぎ)
昨年の今頃は、サツマイモはイノシシに、ジャガイモはタヌキに完璧に食べられ、畑はスカスカだったが、今年はサツマイモは2度イノシシに平らげられるも、残ったひ弱なツルの切れ端がスクスク育って、畝を覆っており、ジャガイモもタヌキの侵入を防げて畝一面に葉が茂っている。
空いた畝が少なく、今が植え時のグリーンピース、玉ねぎ、お多福豆の栽培場所に四苦八苦。
嬉しい悲鳴。
トマト、ゴーヤの支柱をまず取り除き、すぐ玉ねぎ、グリーンピースを植えるという慌ただしさ。
グリーンピースの種まきと赤タマネギの植えつけが終わり、パチリ。


今日は予定の半分終了。
11月中には終わりたい。

 夕方妻と次男がやってきて、妻は大根、ネギ、カブ等野菜の採り入れ。

 今度の日曜、月曜、飲み仲間の7人で大分の姫島にドライブ旅行。
温泉と釣りの旅になりそうだが、波が高いかも。

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関門で大きな鯛が釣れた(2011/11/14)

2011-11-14 21:26:05 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
昨日は、木工職人のSGさん達、名高い漁場の汐巻に船釣り。
私も誘われたが、あいにく仕事。昨日朝9時過ぎ、様子を工務店のS氏に電話で聞くと既に12、3匹釣れた。
食べごろの鯛もたくさんとのこと。
うらやましい。
その調子なら、午後の納竿までには、30センチ前後の鯛、アラカブ等30、40匹釣れるだろう。
大鯛もくるかも。
腕が鳴る。
今日、コーラル丸で釣りを計画するも、船長急用で中止、困ったときの関門フィッシングで乗合船を予約すると、私一人で、一人では出港しない。
晩電話でもう一人釣り客があり、釣りOK。やれやれ。

(48センチの鯛)
黄砂か、遠くがかすんでいる。冒頭の写真。
船は、快調に、アラカブ、アコポイントに。
25センチあまりのアラカブ、アコがコンスタントに釣れ、昨日の欲求不満解消。
ビールも3缶開け、昼食のおにぎりも平らげ、そろそろ納竿かと思いながら、大き目のエビに、関門フィッシング特製の仕掛けに取り換え(それまで自製の仕掛け)何気なく仕掛けを投入して底をとっていると当たり。
合わすと、素晴らしく強い引き。タモタモと叫ぶと船長が、「大きいんか?」とニコニコ
しながら、駆けつけてくれる。
アコだろうと思ったら、立派な真鯛。下の写真。

帰って測ると48センチ。
いままでの私の記録は汐巻で釣った44センチで記録更新。
下は、関門の港に帰港してパチリ。

秋晴れで空も澄んできました。

(大漁旗タオル)
南三陸町の楽天市場で買った大漁旗デザインのタオル、今日もズボンのポケットに入れて
釣り。
その甲斐あってか今日の鯛。
我が家に帰って、タオルと鯛をパチリ。

釣りの際、毎回この大漁旗タオル、もっていこう。ご利益ありそう。

(鯛の湯引き)
妻と次男、テレビで見た鯛の湯引きをやりたいと以前から。
3枚におろし皮のついたままの鯛の半身に熱湯を注ぎ、すぐ氷水で冷やし、刺身にして食べるというもの。
うまみが増し美味しいとのこと。
先日、汐巻での釣りで船長の釣った大鯛をもらい、それを湯引きにするも、熱湯を長時間(10秒?)注ぎすぎ、身が水炊きのように柔らかくなり、今一。
今回は1秒程度。
刺身にしてパチリ。

今日、本船航路で釣れたタコの刺身も。
 鯛の湯引き、食べてみると皮がコリコリし、身も味がよくなっているようで美味しい。

 満足の一日でした。
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友あり、遠方より、芋送ってくれる(2011/11/8)

2011-11-09 00:13:52 | 先生・友人
埼玉にお住いのIZご夫妻、私の20代からの友人で、家族ぐるみのおつきあい。
竹田農園がこの夏も、イノシシ軍団に芋献上と知って、昨日、宅急便。
立派な、サツマイモと里芋(赤いも)がどっさり。冒頭の写真。
ご自宅の広い畑で栽培したもの。
これだけあれば、この冬の農園での、バーベキューの焼き芋と、芋煮会に十分。
竹田農園+川端船長、薩摩隼人のO氏他、健康野菜のヤーコン栽培で幸せ顔だが、IZ夫妻はその種イモを呉れた恩人でもある。
 持つべきは、農作業好きの友。
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温暖化、秋野菜はわが世の春(2011/11/7)

2011-11-07 20:24:09 | Weblog
 特に何の予定もないので、お昼前行橋駅経由タクシーで竹田農園に。
年内に必要な植え付けは、グリーンピースの種まきが11月10日頃、玉ねぎの苗植え付けが11月20日頃の二つのみ。

(秋野菜、元気)
11月にはいっても、連日20度を超す最高気温で、雨も1回/wでコンスタントに降り、農園の野菜スクスクと成長。
畑の土も、たっぷり鋤き込んだ休耕田の枯草堆肥で地力がある感じ。
冒頭の写真は、健康野菜のヤーコン。
私の背丈近くになり、今年の12月には、ヤーコン大豊作の予感。
下は、9月の高温・雨なしで3w発芽しなかったジャガイモ。

ほぼ出遅れ解消で、中央がジャガイモでスクスク成長。
その左はサツマイモでイノシシから2度平らげられたが、貧弱な苗をイノシシも私も放置していたら、これも高温多雨の最近のお天気で、しっかり茂ってくる。
サツマイモも我が家で食べるくらいは出来るかも。
イノシシ来るな。
背後の緑の壁はなた豆、鞘はストレス発散、歯槽膿漏、蓄膿に効果があり、結果的に飲み仲間の血糖値を下げてくれた健康野菜で初夏から取り入れ。
今も、大きな鞘がポツポツ取れる。下の写真。


(お昼は一人バーベキュー)
昨日のバスハイクでご一緒した江藤正翁(元南海ホースクスのエース、89歳)は行橋まで自転車、バスで買い物で、お昼は私一人でバーベキュー。下の写真。

一仕事した後のビールは美味しい。

(収穫)
グリーンピース用の畑を準備終わり、畑から、食べごろの野菜収穫。
ネギ、大根、なた豆、インゲン豆、枝豆。
屋敷の柿の木から霜ゴネリも5個もいで、明日の朝食のデザートに。
屋敷の花梨の実、一個、落下したので持ち帰ることに。
下の写真。


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