田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

博多芸者 松永安左エ門の話し(2018/9/1)

2018-09-01 16:45:38 | 松永安左エ門の足跡巡り
昨日から待望の雨で、この2日間で、我が家の庭には100ミリの雨(バケツで計る)。
田舎生活をしていると、雨の日は、読書。
松永安左エ門著作集を引っ張り出して読んでいました。
私が住む福岡県の博多に松永安左エ門は戦前17年間住んだそうで、それにまつわる話。
私も、69歳、この手記にある、おはまさんのような老い方をしたいものと思った次第。
なお、松永安左エ門は戦後の電力会社民営化に辣腕を奮った近代日本を代表する経済人であるが、茶人、登山家、歴史家、随筆家、遊び人としても一流の人。
随分長いが、以下のとおりです。
(松永安左エ門著作集 第3巻P165~)

九州行路吟(昭和25年8月 経済往来社発行「淡々録」松永安左エ門76歳の手記)
 五月初め、私は野口研究所の山田勝則君や土木技師である鈴木君と一緒に琵琶湖から紀州の北山田、それからズット飛んで九州球磨川の各発電地点を視察してまわった。発電地点の視察の事情を述べることは本稿の目的ではないから別の機会に譲る。
 球磨川を視ての帰り、博多では九州配電社長佐藤篤二郎君の肝いりで、一行の歓迎会が催された。
 何しろ博多は私が実業人としての発祥の地である。私は壱岐の生まれではあるが、福博電車の昔から後に東都財界に立つまで、私を実業人として育んでくれたのも博多であればかつては一度私を政界に送り出してくれたのも博多である。私の博多生活は17年にわたり、その博多生活がいまの老妻に最も苦労をかけた時代である。この頃のことを憶い、「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず」という言葉が、いまにしてひしひしと思われるのも博多である。
 だから私は博多には生みの親より育ての親の恩義を感じ、私の故郷は博多だと思っている。
 こういうわけで今度私が久しぶりに訪博するについては佐藤君あたりから方々へ触れがまわっていたのだろう。歓迎会は大変の集まりになった。私も見る人会う人がみななつかしく老懐を揺さぶられる思いがして、司会者の需めに応じ立って一場の挨拶をした。
 さてそのあとが大変である。歓迎会がはねて懇意の者だけが居残って二次会ということになった。その中に、おえん、おはま、しん吉、ことくといった明治から大正、昭和の初めにかけ博多芸者として天下に嬌名を謳われた女性群が交っていた。女性群といったってもう齢はいずれも七十歳の上、耳が聞こえなかったり、目が見えなくなっていたり、歩行も満足に出来ず孫に手をひかれ、杖にすがってやっと会場に辿り着いたという零丁ぶりで、これがかつては頭山満、杉山茂丸、野田卯太郎、田中義一、犬養毅、中村是公、ずっと若くって広田弘毅、中野正剛などを友達扱いから子ども扱いにして来た連中のなれの果てかいなと、転た今昔の感に耐えなかった。
 この古芸者について面白い咄がある。明治の後年、後藤新平が満鉄の総裁だった時分、後藤以外の満鉄の中心人物中村是公と清野清太郎、それから犬塚信太郎、この犬塚は中村是公と共に偉かったらしい。この連中が大連に酒を呑みに出かけて行き、二時、三時まてバカを尽くす他に芸がないのか、座敷の畳を上げっこして夜中いたずらあそびをしたそうだ。
 その頃大連の埠頭人足の請負業者で、一万何千人もの人足を一手に動かしていた男に相生由太郎という者がおった。商号は福昌公司といったと思う。相生は光洋社の頭目株で、内田良平の兄弟格、労働者の扱いにしても当時としては進んだ考えを持ち、規模の大きい労働者の寄宿舎なんかを作って、なかなか頭のいいところを見せていた。・・・・・・
 この相生が大連で例の犬塚、中村、清野等の遊興仲間に合流した時、博多ほど遊んで面白いところはない。まず当今芸者の粋といったら博多でしょう、といってしきりに博多芸者を吹聴した。
 「そんなに面白いか」
 「面白いか、面白くないか、物はためしだ、一ぺんこっちに聘んでごらんなさい」
 「よし聘ぼう」
 そこで御使者が満鉄本社から博多に向けて立ち、おえん、おはまといった一流どころが国賓として招待されることになった。何でもその時の話によると満鉄の大官連が釜山の波止場に迎えに行き-おそらく幡のぼりを飾りたてた絢爛たる環境であったろう-湧崗子という温泉地、それからハルピンとひと月ほども歓迎して帰したということである。
 こういう華やかな過去を持つ女たちであるから、落ちぶれて袖に涙のかかる今の境遇は定めて辛かろう。不自由を喞っているだろうと思いの他、
 「さんざよか事をしたあとですばい。貧乏を苦になぞしておりませんと、それよりとクサ、松永さんがはるばると来んしゃったで生きているうちに顔が見られて、こげん嬉しいことはなかとタイ」
 それが決して自棄でもなく、負け惜しみでもなく、心から今の境涯に満足し、形骸こそ在りし日の面影は失せて、枯木寒巌もただならぬ老婆と変わり果てているが心慨は淡々、実にこの日、この時の余生を怡しんでいることを看取し、私は何か救われたような、そうして久しぶりに人間の魂を見出したようなほのぼのとした明るいおおらかな感興に長旅の疲れも忘れ、本当に心からの一夜の歓を尽くした。
 聞けばこの老いた女の侵入者たちは戦争以来、疎開などのため彼ら同志十年近くも音信を断っていたのだそうで、それが今度の私の訪博を機会に、知らせを得ていっしょに集まり、絶えて久しき対面に及んだという。だからお互いに一別以来の動静やら、疎開先の事情やら、それがどうして、これがどうしてとその喧しいこと。上がり湯でから桶を叩くが如し。
 しかし私はこの夜は一切、無抵抗を決め女たちの跳梁跋扈に身を任せた。女たちは一通り自分たちの身の上話や、相手の消息を聞き終わると、
 「まあ、松永さんタラ、どげんしょんしゃったな。久しうお目にかからんうちに、ああたも頭が白うなって齢ばよりなさったなあ」
 「何だ、自分が梅干しみたいに縮んでしまったくせに-。戦争ではお互いに苦労したなあ。金が要るなら旅さき故少ししかないが、上げるよ」
 「ぞうたん(冗談)は、いいなさっと。ああたにしたっちぁ、売り食いじぁ、ござっせんとな。金も要らん。何も要らん。この頃どの人に会うても、すっきりした人がのうて、なんか世間が狭うなった、小そうなったごと気がしてなりませんじぁもんな。それが今夜松永さんに会うて一ぺんにカラリと空が晴れたごと、スーッとよか気がしとりますタイ、日本にはまだ一人ぐらいはよか男が残っているもんじぁと、さっき姐さんともクサ咄しよりましたとタイ」
 私のことを言われた部分はお世辞ととってもいいが、聞く者の血を湧かすような、この女たちの慷慨談には嘘はない。彼らには求めるところがない。真率心に訴えるところを、そのまま流露しているからだ。この無法というか、天真らんまんというか、少しも作らないそして心底から旧知の遠来をホクホクとして喜ぶ心こそ、仏の涅槃に通ずる「まこと」である。終戦このかた私は絶えてこういう「直卒」「まこと」に接することがなかった。その意味でも、私は今度の九州旅行は大変幸せでしたと思っている。

 知己は多い、されど友は少ない。  ジョンソン
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壱岐の松永安左エ門生家 壱岐にドライブ旅行(2017/5/20~21)

2017-05-22 23:21:14 | 松永安左エ門の足跡巡り
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
5/20~21日と、壱岐にドライブ旅行でした。
飲み仲間の不良爺さんたちが、takedaが、仕事を辞めてボケないようにと、励ます会をしてくれたもの。
これで大小取り混ぜて5回目の励ます会で、嬉しいやら恐縮するやら。
妻もいくことになり、総勢13人。

(壱岐へ)
博多からフェリーで、2時間半程、五月晴れ、波静かで、皆さん甲板に出てビールを存分に飲み、つい最近まで博多沖でクルーザーを走らせて釣りをしていた、N艇長から、釣りの思い出話に花が咲きました。


(焼酎醸造所)
壱岐は麦焼酎が有名。
今回のメンバーの最初の訪問先は、120年続いた、焼酎メーカー山の守酒造。

試飲おいしい。

(猿岩)
壱岐は、2000万年前から火山活動を繰り返し、最後の噴火は60万年前とのこと。
島全体が平べったい火山台地のようで、海岸には面白い絶壁が多い。
 2台の車をしたてて、猿岩到着。
 写真で見たことはあったが、近くから見ると、なるほど、サルにそっくりの巨岩。

 噴火が収まったのもそれほど昔でなく、温泉もあり、湯の温度も67度と、私がよく行く耶馬渓(40度が多い)の温泉よりも温度が高い。
 島の湯ノ本には10軒ほどの温泉宿があり、国民宿舎に寄ると入浴のみokとのことで、かけ流しの温泉を楽しみました。

(勝本の宿)
北端の港、勝本にある、民宿「ふくや荘」に到着。
ここにも以前、やはり不良爺さん達と来たことがあり、工務店のSZ氏がよく利用する感じの
いい、民宿。
 目の前が海で、歩いて3分程のところにある、波止場で、アジ釣り。
透明度が高く、4メートル下に、小あじが群れで泳いでいるのが見える。

 竿、5本、宿で用意してくれ、入れ食いで、今日の南蛮漬けゲット。

(曽良の墓)
壱岐の旅行ガイドブックを見ると、松尾芭蕉について、奥の細道を旅した曽良の墓が勝本にあると。
 是非行ってみたいと、翌日朝市見物のついでに、N艇長を誘って、それらしい場所に行ってみました。
立札を見落として、共同墓地に迷い込み、20分程ウロウロしましたが、諦めかけていた時、意外と小さい墓に曽良と刻まれている。
 近所の人がお参りを欠かさないようで、飾ったばかりの花も。

 幕府の命で、九州各地の実情を監査巡行したさいに、病没したとこと。

(松永安左エ門記念館)
不良爺さんたちから、退職記念旅行に何処に行きたいかと聞かれて、壱岐と即答。
 一度訪ねて、随分感銘を受けた、松永安左エ門記念館をもう一度見たいと思っていたもの。
 二日目に、訪問。
松永安左エ門夫妻の胸像(彫刻家の北村西望作)の前でパチリ。

電力の鬼と呼ばれた実業家で、壱岐の出身。
福沢諭吉から直接の薫陶を受けた最後の弟子、97歳まで公のために活躍、茶人でも、登山家でも、随筆家でもあり、歴史家として、Aトインビーとの親交が有名。
また、遊び人としても、名高い、しかし朝帰りなし。
有名な遺言状は、記念館でくれたパンフレットに印刷。
カッパの絵で有名な、漫画家の清水崑が書いた、松永安左エ門の似顔絵に、松永安左エ門が賛を書いたものがあり、多分、これが、松永安左エ門最後の筆だろうとのこと。
思わず黙ってシャッター。(スミマセン)


ビールと焼酎を運転手のお二人以外、たらふく飲み、笑いの絶えない愉快な2日間でした。
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松永安左エ門のドラマ今日NHKで(2015/9/17)

2015-09-19 07:23:23 | 松永安左エ門の足跡巡り
電力の鬼と呼ばれ、日本の電力業の育ての親の松永安左エ門の1時間ドラマが今日の夜、NHKで放映されるとか。これは必見。電力の鬼、茶人、随筆家、登山家、歴史家そして、遊び人で明治から昭和の戦後復興期まで、自由に生きた方で、今もファンは多い。
(当日私も見てみました。電力民営化の際の一コマで、面白かった。この時の事情を松永安左エ門が思い出話で書いたものがあり、そちらの方も迫力がある.)
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埼玉の柳瀬荘 大阪・東京一人旅(2015/2/10~12)

2015-02-12 23:25:39 | 松永安左エ門の足跡巡り
3日程、暇だったので、大阪の長女一家、東京の長男一家宅に、孫見物の旅でした。
今回は、妻は、卓球の試合で、トーチャン一人旅に
長女宅は、ひと月前に、堺市の仁徳天皇稜のすぐ近くに、引っ越し、付近の見物も楽しみに。
 巨大な天皇陵の周りに、まだたくさんの古墳があり、周辺は立派な自然公園に。
 堺といえば、千利休をはじめ、優れた茶人を輩出した土地で、古墳公園内に立派な茶室も点在。

 抹茶を300円でふるまってくれ、長女夫婦4人と私の5人、神妙に、頂きました。
 利休の先生の、銅像の前でパチリ。(冒頭)
 5歳の孫の写した写真は、まだまだというところ。


二日目は、新幹線で東京に。

途中、関が原は銀世界、富士山もくっきり。


長男家族の住む、マンションに行く途中の立川駅前で、上手な大道芸。
しばし、見物しました。

 東京の孫たち、母方の爺ちゃん・ばあちゃと、私を駅まで迎えに行くもすれ違いで、戻ってくるところをパチリ。


 翌日、長男と孫で、付近の公園を散歩。
戦時中、日立系の工場が戦闘機の機銃掃射を受けたそうで、弾痕の跡も生々しく、遺跡として保存している。


 今日は、木曜日で、電力の鬼と言われた、松永安左エ門が戦時中隠遁生活を送った、柳瀬荘を見学。
 広大な敷地と、豪壮な邸宅、高価な茶道具類をすべて、東京国立博物館に寄贈し、そのため、今も、よく手入れされ、保存。
 見学は、木曜日だけで、3年前、行き当たりばったりで、訪ねて行ったら、見学できず、塀越しに眺めて帰ったが、そのリベンジというところ。
 松永安左エ門が住んでいた当時と、あまり変わらないのではと、思われる。





 付近も、自然タップリの畑が広がり、火の見やぐらまで、まだ現役ではと思われた。


 最後に、羽田に向かう途中、江藤正翁の次男ご夫婦が営む、有機野菜のお店に立ち寄る。
オープンして4カ月、お客さんも少しずつ増えているそうで、江藤翁の奥様もお手伝いしており、楽しい店。

 場所は、神楽坂で、詳細は、左のブックマークのE-toに。

 最後、羽田空港に着くも、ターミナルビルで、予約していたJALのカウンターを探すも、ANAばかり。
 聞くと、新しい空港ビルが出来、そこには、ANA。
 もともとの空港ビルには、JALと二つの空港ビルにJAL、ANA完全に別れたとのこと。
 あわてて、モノレールに再度乗り、一駅前の、旧ビルにたどり着き、なんとか、セーフで、夜9自前、北九州空港に。

 楽しい、1人旅でした。
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東電への期待 松永安左エ門(2012/8/8)

2012-08-08 21:43:44 | 松永安左エ門の足跡巡り
 田舎生活をしていると、時間は十分あり、読書も好きなだけ出来る。この数年は史記~松永安左エ門著作集~チャーチルの第二次世界大戦~坂の上の雲を順番に繰り返して読むことにしている。今は松永安左エ門著作集。松永安左エ門は電力業で経営者として辣腕を揮い、茶人、登山家、随筆家、歴史家、遊び人どれも卓越した人。下の一節が印象に。

松永安左エ門著作集2巻p262
「佐藤内閣は池田内閣を継承して発足したわけだが、いつまでも池田路線をつづけるべきでなく、今後大いにやってもらわねばならないことが多い。

・・・中略・・・

さてこのように、電力界当面の問題点と産業界の動向を思うとき、私は電力界の指導者であり、また産業界の師表たるべき存在の東電の将来に大きな期待をもつものである。最後に、広い意味において正しい競争によって発展がなされることを望みたい。消費者に対しても排他的よりは協同的、猜疑よりは信頼である。自己企業のみの安定にあまり急であってはならない。それはまた政府の権力介入をさそうことになり、経済的合理性をうしなう危険があるからである。あくまで企業ではあっても、民衆のために働くという自覚を忘れてはならない。」

(佐藤内閣 1964年~1972年)

この文章は、松永安左エ門が多分90歳のころ、電力民営化と設備投資の資金確保のため7割の電気料金値上げを成し遂げて12年、その成果が日本の高度経済成長となって、はっきり目に見え始めた佐藤内閣発足ころに書かれたもの。この東電への大きな期待が実行されていれば、1000年に一度の大津波から福島の原子力発電所を守ることが出たかもと、残念に思ったことでした。
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松永安左エ門の戦後の電気料金大幅値上げ(2012/4/28)

2012-04-28 21:09:08 | 松永安左エ門の足跡巡り
田舎生活をしていると、読書の時間は十分ある。最近は、松永安左エ門著作集を読んでいる。松永安左エ門は傑出した実業家、茶人、登山家、歴史家、随筆家、そして遊び人。東京電力の実質国営化のニュースを最近は耳にして、松永安左エ門の戦後の電力会社の民営化と、電源開発のため、料金を66%値上げを断行した下りが痛快だった。値上げ反対の各層からの声にひるむことなく、電気料金の値上げとそれを元にした電源開発で戦後の高度経済成長の基礎を築いた胆力と見識の深さには驚かされる。見ていてバカバカしくなる最近のテレビの国会中継も、松永安左エ門の時代なら面白かったろうと思った次第。下のような内容。昭和36年、松永安左エ門の88歳頃に書かれた思い出話。
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(松永安左エ門著作集 第4巻 p431)
7割5分の値上げ方針

九電力がともかく発足したが、最初に実施したのが二十六年八月の料金値上げである。この事件で吉田内閣と公益委の対立が起こった。
 吉田首相が「公益委でなく私益委員会だ」と私をしていわしむれば、見当違いの非難を浴びせて、永年の間柄であった松本委員長と対立状態になってしまったり、私が「電力の鬼」ということにされてしまう原因となったのがこれからである。
・ ・・まず最初に当面したのが二十六年の渇水である。・・・このときは朝鮮事変がおきて電力需要はますます増大する傾向にあった。
 渇水のひどい例をあげると、二十六年十一月十三日には全国の発電所がわずか二百二十万キロが稼動したに過ぎない。今日東電だけでも四百万キロ以上が動いているのであるから(三十六年六月)いかにひどかったかが伺われるが、この頃は法的な使用制限を行った。それも東北・北陸・関西・中国地区では九月分は、四・五月分の使用実績の五割制限、休電日を週に三日も設ける状態であった。この事情は十月に台風があって一時緩和されたものの、二十七年三月まで続いた。・・・供給状態の悪さというものは今日からみればちょっと想像もつかない。
 そこで急がれたのが電源開発であったが、九電力が発足したといっても料金は経常収支すらつぐなわない状態で、まして新規投資の資金を借り入れることなど、到底おぼつないなありさまであったから、この料金問題というのは結局、開発資金対策でもあったわけだ。つまり急を要する問題であった。・・・・・
 それはさておき七割五分の値上げの方針が伝わると、俄然大きな反響が捲き起こった。総司令部(GHQ)がそれゆえに定率償却に反対したことは先に書いたとおり。国会、政府筋も大反対だった。二十六年八月に実施した三割値上げ案では総司令部では賞与費用というケチな項目まで削ってきたが、ともかく実施できた。これが第一回である。二回目二十七年五月の改定の時はさらに大騒ぎになった。このときは僕が反対した電源開発促進法のことも絡みつつあっが、ともかくひどい反対だった。
 奥むめおさんが、「主婦連」を作ったのも、確かこの電力料金の値上げ問題からであったと記憶している。
 「電力再編成というのは、米国から九匹の乳牛を輸入したようなものである。これに適正な料金を払うということは餌を与えることだ。その飼料を十分与えず、また三度のものを二度にするというのであれば、長く国民を養ってくれる乳はとれない。親牛も死んでしまう。子供が可愛いのであれば飼料代を嫌がるのは間違いである・・・」と参議院商工委員会で奥むめおさんの質問に応えて説明したこともあった。このたとえ話は荒れ狂う国会の反対論を、いくらか沈静させる効果があったようだ。後年箱根で奥むめおさんに会ったとき「アノ松永さんの牛乳論で、私どもは反対の気勢を大分ソガれましたよ・・・」ということで大笑いになった事もあった。以来奥さんとも仲良くなって今日に到っている。
 分かっているはずの政府が、私からいわせると全く駄々っ子みたいだったのは政治家の良識何処にありや? と今でも思う。反対の先鋒は安本長官兼物価長官の周東英雄君であった。・・政府側の意向として値上げ反対を伝えに来たが、少しも理論的なことを言わない。私が「しからば電気事業の自立ができなくしておいて、今後の急激な電力需要にどうして応ずるのだ。資金も集まらず採算がとれない形は、単に電気事業だけの問題ではない。日本の復興をどうするんだ・・・」と詰問するんだが、彼はただ急激な値上げだから困る。政治は政府の責任である。といっているに過ぎなかった。・・・・
 二十七年の値上げを当初の水準でいうと三割六分五厘にあたり、二回あわせると六割六分になって、最初の目標というか、九電力の希望した七割五分には達しないまでもホボ近いところになる。この二回の料金値上げは、公益事業委員会のやり方が強引なものと世間が取りはやした。大阪に行ったとき、新聞記者が来て、
「電力料金の値上げは政府も反対している。それでも実施なさる積もりか?」
「当たり前だ。政府は何もわかっちゃいない」
「しかし政府は値上げさせないといっている」
「ソンナ政府ならぶち壊してしまえ・・・」
といっておいた。これが新聞に出たから今度は与党が怒り出した。国会に私を呼び出して、ソンナことをいったのは事実か? と聞くから、
「大阪でシャベッタのはそのとおり、趣旨は間違いなし」
と証言したから、今度は議員連が呆れたような顔つきだった。
 ともかく国会も政府も値上げには猛烈に反対である。・・・需要家が両院の代議士に働きかけていたのだから、文字どおり天下上げての反対である。しかし結果からいうと賛成者がホンノ一部の学者を除いて全くなかったからこそ二度の値上げが出来たといえる。つまり私一人が悪者になれば済むからだ。
 そう考えて私は譲らなかったのだが、その結果、公益事業委員会のなかで強いのは松永であると伝えられ、「電力の鬼」というあまり有難くない名を頂戴した。
  二度目の料金値上げの公聴会で広島に行ったとき、・・・三井造船の社長だったと思う人が・・心から納得してもらえなかったようだ。そして値上げには反対であることを申し述べていた。私は「皆さんの立場はよくわかるが、ご自身の産業の利害からのみ論じてはいけない。産業というものはお互いに発展することが必要である。電気事業は基幹産業であるから、その供給力を高めることは国全般に繋がる問題であるから、苦しいでしょうが、大所高所から判断して欲しい・・・」との趣旨を語った。そのとき私は失礼だが戦後の経営者は粒がちいさくなったなあ! としみじみ思った。概ね自己の立場から利害をいっているに過ぎず、経済全般というか、ともに栄えるという考え方がみうけられないことである。
・ ・・・
そんなことで第二回の値上げは二割八分となり、二十七年に実施したが、当初から考えると六割六分五厘の値上がりである。二回分を合算しても約一割私の考えより低かったが、いうなれば、これが定率と定額の償却方法の差である。二十九年まで続いた電力の割り当て制にたいし、経済界の大半は実際は料金の料よりも電力量の量であった。二十六年でも、禁止を目的としているかのような二段料金の高い方を使ってまで操業度を上げていた企業もいくらもあった。朝鮮戦争の影響もあって、景気は上向いていたので物を作れば売れた時代であり、操業度の向上で固定費は下がるのである。・・・
 二十九年に割り当て制度が廃止され「もはや戦後でない」と経済白書は三十一年に名文句をハイたが、それにはこの二度の値上げと再編成(電力会社の民営化)が大きく貢献したことを今でも信じている。政府も財政資金で開発の援助を行ったが、値上げによって開発資金が直接獲得でき電源開発が軌道に乗り、電力供給が増加した。またこれによって外資導入も出来るようになったと思っている。

 この料金問題と並んで苦心したものに需要増加の見通しを決める増加率のとり方と言うことがあった。・・二十六年以降三十六年までの電力需要の伸び率は平均十一・五パーセントという高い実績になった。・・・私が8パーセントを主張すると・・・経済安定本部では3パーセントだと主張していた。・・・

 一方、電力会社に対し職制、機構の点についてこんなことをいった。「大きくすべからず」である。私はその点で各社社長に十分注意することというので一札とった。形式的なことで無論法的な効力はないのだが、いわば肝に銘じてもらいたかっのである。そこで社長連が集まる機会を捉えて、約束する意味で署名捺印してもらった。するとこのなかには社長でなく代理人がきているところもある。こんなところは署名を躊躇していたから少しおかしくなった。
「社長に電話して許可を得ますからしばらく待ってください」
などと言うも人も出る始末である。・・・新電力会社の発足に際しては、なるべく簡素にして経費の節約を図らせる心がけを要望したものであった。・・・運営機構を簡素化することによって、セクショナリズムに陥ることを避けようとしたものだが、その後の実情は必ずしもこの趣旨が貫かれているかどうか、ちょっと疑わしい気もする。
  ・・・
(p471) なぜ私が電源開発法に反対したか。いうまでもなく国営事業は能率があがらず、したがって経済的でもなく、サービスも悪い。第一自由闊達な民間事業でないと、民族永遠の生命源である人が育たないからである。こんなことを今さらクドクドいう必要はないが、電気事業の国営論は常に出る意見であり、今後も飛び出してくるであろうから(ことに今次の社会党の政策綱領になっている)、電気事業の国営という考え方に触れておこう。・・・ 
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松永安左エ門の電力会社建て直しの原型(2012/2/16)

2012-02-16 21:57:12 | 松永安左エ門の足跡巡り
田舎生活をしていると、時間はたっぷりあり、読書も好きなだけできる。今は、松永安左エ門著作集を読み返している。松永安左エ門は戦後の電力民営化に辣腕を揮い、戦後の高度経済成長の基礎を作った人だが、随筆家、茶人、登山家、歴史家、遊び人どれをとっても抜きん出た人。大正十一年、拠点の九州電灯鉄道(九電の前身)と名古屋の名古屋電灯と合併、この名古屋電灯の建て直しの思い出をつづった記事、印象に。この名古屋電灯建て直しと同じスタンスで、より規模の大きい日本の戦後の電力業民営化を成功に導いたと気づく。東京電力はじめ電力業界のほころびが指摘されている昨今、松永安左エ門のこうした見識と行動力には学ぶところが大きい。松永安左エ門89歳で書いた簡潔な文章に驚く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
松永安左エ門著作集(五月書房)第一巻 p424 昭和39年日経新聞掲載 私の履歴書より

九州電灯鉄道と関西電気(名古屋電灯)が合併したのが大正十年の十一月で、それからの二、三年間は猛烈に忙しかった。・・・合併直後は関西電気の名前を踏襲し、広く社名を公募して決めたのが「東邦」で、正確には東邦電力は大正十一年に始まる。・・そもそも名古屋電灯の前身は旧藩時代の失業藩士を救済する目的で企てられた事業で、日本では古い歴史を持つ電灯会社であった。欧州大戦のころから電気の需要は動力用を中心に急激にのび、供給不足がちであったが名古屋地方では特にそれがひどく、さらに故障、停電が連日で市民の憤激を買っていた。・・・・
 そんな状態で東邦電力が生まれるそうそう第一に手を着けねばならなかったのが、中京地方における電気事業の建て直しだった。経営内容もむろんだが、名古屋に乗り込んでみてまず驚いたのは会社が体をなしていなかったことだった。
 広小路にあった旧名古屋電灯の事務所は乱雑であった。電工が使う自転車はどこにでも勝手に乗り捨ててあり、倉庫は廃品と新品がゴッチャになっている。経理は雑でサービスどころではなく、まず事務所の整理、整頓から始めねばならなかった。自分で写真をとって回り、実物を示して改善を要望した。便所には男女の区別をつけ、白壁に塗り替えるといったところから着手した。
 困ったのは停電である。多いうえに、故障するとなかなかなおらない。需要家が怒るのも当然だった。会社の配電室にベッドを持ち込んで、実情をみるとともに修繕作業も指揮した。同時に原因を調べたが、配送電線がひどかった。
 博多ですら市内配線は三千五百ボルトになっているのに、人口が三、四倍もある名古屋でなお千五百ボルト、容量が小さく間に合っていない。そこで配電線の昇圧をはかり、一挙に五千ボルトに引き上げた。この工事を全線にやったのだから、資金も膨大なものになった。
 一方で大口需要先の実業家、県や市の役所筋、有力者を歴訪して、改善について了解を求め約束して回った。桃介(福沢桃介、名古屋電灯の前社長)に対して憤慨していた人たちも、最初は同類が現れたのだからあまり好意を示さなかったが、いつとはなく打ち解けてきた。桃介排撃の急先鋒の一人青木鎌太郎(憲政会代議士)などはのちには熱心な私のシンパになってくれた。しかし停電が解消し、電圧が正常になり、信用を回復するまでには相当な努力が必要だったが、禍が転じて福となり、私にとってありがたい試練となったと思う。
 なぜこんな状態だったか。それは桃介の方針に問題がある。人物のスケールが大きいだけに、細かい仕事には向かない。大同電力が長くそうであったように彼は水力開発に興味があり、一軒一軒に電気をうるようなことは不得手で、卸売りを事業の中心に考えていた。どちらかといえば直接の供給先を持たない主義で、その点が私と違っていた。
 東邦電力になってしばらくして私は名古屋に三万五千キロ二台という当時日本最大ユニットの火力を設置した。これはごく最近まで稼動していたが、建設した頃は名古屋地方、岡崎地方を含めて東邦の総ロード(電力供給力)が約八万キロ、それに匹敵する設備を一挙にふやしたことだった。この火力設備は当時のニューヨークタイムズに大きくとりあげられた。極東の中都市に米国でもない最新設備がみられるとは思いがけなかったと報じていたが、そのときそのときの最高のものを設置するのが私の流儀で、これはいまでも同じ考えである。
 稼働率がよければコストはいちばん安いのだから、問題はロードを増やすことである。そのためには中小企業に電力の使い方をPRしたり、家庭電気機器の普及をはかったりした。電気が安ければ需要はふえる。そこでさらに能率のいい設備をする。いわゆる良循環で基幹産業はこうあるべきだが、これが電気事業にたずさわって以来の私の考えだ。
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松永安左エ門の著書品薄(2011/12/8)

2011-12-08 23:06:39 | 松永安左エ門の足跡巡り
お昼ご飯、小倉室町のラーメン屋の錦龍でチャンポンを食べたくなり行くと、隣に顔見知りのK氏。こちらは、醤油ラーメンを食べたいと。大将のI氏も厨房で手際よくチャンポン、ラーメンを調理。K氏は小倉で仕事が大忙しと聞いているので、寝る間もないでしょう、と言うと「しっかり寝てます。寝つきは悪いけど」と。K氏は随筆をしばしば、同人誌に投稿しておられ、今日は最近号のコピーをいただく。見ると、北海道の山登りの話。趣味は温泉と登山とのこと。お茶も奥様とよく茶会に出るとお聞きしていたので、松永安左エ門は九電、西鉄の生みの親だが、お茶、登山でも図抜けており、その著書もあり、アマゾンですぐ注文できるので、取り寄せましょうと約束。客足が一段落して、I氏も話に加わり、松永安左エ門が生きていたら、電力業界をどうしたろうなーと。壱岐の松永安左エ門の生家、福岡市美術館の松永コレクションをI氏と訪問したこともあり、I氏も私も松永安左エ門を尊敬。

 晩、アマゾンを検索すると、松永安左エ門著作集は「お茶」の5巻、「登山」の6巻いづれも売り切れ(冒頭の写真は我が家の松永安左エ門著作集の5、6)。3、4巻も売り切れ。第2巻は2500円でまだ売りに出ているが、第1巻は25000円の一年前の10倍の高値。今年の正月には2500円程度で各巻手に入ったのに様変わり。東京電力の原子力発電所の事故で、戦後の電力会社の民営化に辣腕を奮った松永安左エ門が新聞でも話題になることが多く、著作集も売り切れ状態と推測。かろうじて残っていた、松永安左エ門自伝を注文。これでK氏との約束はお茶を濁すことに。

 松永安左エ門著作集は、時々読み返して、教えられることがとても多い。
尾瀬の主の平野長蔵氏との会話とか、天神の骨格は松永安左エ門が作ったとか、俗茶の勧めなど、いつ読んでも新鮮。
また、松永安左エ門の遺言も壱岐の記念館で見たが、忘れがたい。
今話題の坂の上の雲に、正岡子規の叔父さんで登場する加藤恒忠との愉快な交友もさわやか。
電力会社の経営についての見識と実行力にも名古屋電燈の建て直しの思い出でうかがい知ることができる。その見識と実行力がより規模を大きくして実施された戦後の電力会社の民営化で見せた活躍も読んで痛快


 松永安左エ門の記念館はまず、戦争中軍部の横暴に抗議して引退・お茶に没頭した埼玉県の新座市にある柳瀬荘、戦後奥様とこじんまりと過ごしたという小田原の住まい跡、またこの小田原の住まいに残した茶道具、絵画を寄贈され松永コレクションとして展示している福岡市美術館、生まれ故郷の壱岐の生家と記念館と私の知っているのは4箇所あり、旅のついでにのぞいてみたが、どこも、簡素、豪壮で訪れると気持ちが洗われる。

今度の週末、名高い漁場の汐巻に釣り仲間繰り出すが、私は、空席がなく、置いてけぼり。
お天気は微妙。
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俗茶の勧め(2011/1/7)

2011-01-07 22:08:58 | 松永安左エ門の足跡巡り
傑出した実業家であり、茶人でもあり、遊び人でもあり、文筆家でもある、松永安左エ門著作集を読んでいると、下のような一節。

松永安左エ門著作集5 p28(わが茶日夕)

風流といえば怠惰のようであり隠退的である。しかしホントの風流は俗気満々の不風流であり、コセコセと齷齪(アクセク)することである。薪を運び水を汲み食物を整え、火を起こし茶を点てることであり、人手に任せず自分で工面し、自分でお給仕をすることである。「風流ならざるところ也(マタ)風流」これが風流の本体であり、心入れの生活茶であるが、ドウモ生まれつき精力の足らぬ人やわがままで世を渡った人にはそれと分かっていても面倒がったり、また何かの考え違いでこの努力の俗茶が出来ない。・・・・・畢竟「茶」は美であり、享楽である。茶の湯は交会の芸術である。諸友はその基づくところを忘れて末の規矩に労したり、道学者の窮屈を学ぶことなかれ。

竹田農園で午後、いつも楽しんでいるバーベキューそのままではないか。
江藤翁(農園のお隣に住む、88歳、元南海ホークスのエース)とのバーベキュー約束の時間がせまると、大急ぎで鍬を放り投げて、これは時間が無いと農園の林に一目散(コセコセ、アクセク)、クーラーボックスから釣って冷凍していたアジを塩を急ぎまぶして金串に刺し、畑で食べれそうなピーマン、ネギ、ジャガイモ等の野菜をもぎ(食物を整え)、薪を運び(冬は必需品、イノシシ除けの鈴を腰に、山道のあちこちにころがる直径5センチほどの木の枝を数本ずるずる引きずり林に持ち帰る)、水道は電動ポンプは壊れてはや15年、バケツに集落の水場からきれいな水を汲んできて、柄のとれた柄杓を投げ込み、これで水をすくって、手洗い、立派な水道(水を汲み)。最後にバーベキューコンロにくべて火を起こす。
竹の小枝を立てて小さい火の回りにくべていくと、本格的な火が起こる。
食べごろに魚、肉、野菜、芋が焼ける。
家族や、友人が集まり(冒頭の写真 2009/5のバーベキュー)歓談、舌鼓(茶は交会の芸術)。
食べたいものは、自分で焼いたり、焼いてあげたり(自分でお給仕)。
カッポ酒の切り出したばかりの竹の色艶、山の鮮やかな緑(美である)。

しかし、欠けていたものがあった。

ビールや日本酒は堪能するが(俗茶ではほどほどのお酒ものむそうな)
お茶は最後まで出ないことが多い。
ここが、進歩ののりしろ。
農園の畑の一角は、茶の生垣。
多分亡くなった妻の両親が植えた。
イノシシ侵入の便利な塀としては利用したが、ついぞ茶として飲んだことがない。
これの小枝を葉の適当についたまま折ってきて、それを、大きめの竹に入れ、井戸水を注いでカッポ酒のように沸かすと立派な茶。
飲み仲間の不良爺さん達、血圧が高い方がチラホラ。
渋柿の若葉を煎じて飲むと血圧にいいらしい。
初夏、農園の渋柿の若葉を摘んできて、沸騰した竹筒の中の湯で煎じて柿茶にしたら、喜んでもらえるし風味がありうまい。
湯飲茶碗は、カッポ酒・茶の残りの竹で即席で作る。

今後は、農園のバーベキューの仕上げは、カッポ茶で行こうと、松永安左エ門の茶の随筆を読んで思って次第。

今度の日曜日、コーラル丸で関門初釣り。
今度こそ、波静かでありますように。
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天神の街を作った人・松永安左エ門(2010/11/5)

2010-11-05 22:30:07 | 松永安左エ門の足跡巡り
福岡市の天神地区は、行ってみると、賑やかで、品がある。
3年前、釣りによく連れて行ってくれるN艇長と世話好きのS女史と3人で博多で食事をしたとき、時間待ちで天神のスターバックコーヒーで道行くあふれる人波を眺めていると、若い人も多く、明るく清潔な街並みに、心がウキウキしたのを思い出す。
やはり時間つぶしで、大丸百貨店の2棟のビルの間の歩行者天国に面した、オープンカフェでビールを飲んでいると、賑やかで気持ちのいい街並みだと、一人で感心したのも懐かしい。

天神の街並みの基礎を作ったのは、後に電力の鬼と言われた、松永安左エ門。
松永安左エ門は戦前、東邦電力を率いて日本の電力業の1/3を傘下に収め、戦時中は隠棲、戦後、電力業の民営化と経営健全化のための、電力料金の大幅値上げ(前後2回、あわせて2倍近くの値上げだったと思う)を官民上げてのブーイングを押し切って断行し、戦後の高度経済成長の基礎を作った人。
その過程で、当時の首相の吉田茂とも仲たがいして、周りがお膳立てして、仲直りで、小田原にあった松永安左エ門の住まいを吉田茂が訪ねて、お茶を楽しんだことがある。
そのあと、吉田茂は「松永安左エ門さんの茶器は見るべきものがあるが、庭は今一」と感想をのべたとのこと。
これを聞いて、「庭は国づくりと一緒で、10年、15年の時間をかけて出来ていくもの」と笑ったとか。
なお、このとき吉田茂が見るべきものがあると誉めた小田原の自宅の茶器・掛け軸は全て、松永安左エ門の死後、小田原の松永記念館に寄贈され、現在は、それが福岡市美術館に移り、松永コレクションとして、展示されている。
お茶に造詣の深い人からは(小林一三)、「松永安左エ門は庭に金を使わないが、年がたつにつれ、いい庭に育っていく」との評価。
天神の街は、松永安左エ門が50年、100年後をにらんで作った庭園のようなもの、年とともに、いい街
並みになっていくと、下の手記を読んで思った次第。

松永安左エ門が昭和39年1月に寄稿した「日経新聞 私の履歴書」 松永安左エ門著作集第一巻
「(九州鉄道<昭和17年に西日本鉄道になる>のこと)
ここらで九州鉄道のことを述べておこう。東電と東力が合併した直後の昭和3年5月から私は東邦社長になっていたが、傍系事業のなかで力を入れたのがこの経営であった。・・・
福岡~二日市間の工事は大正9年にできたが、このとき天神町を起点にしたのは次のような事情からである。博多駅を起点にすることは国営鉄道を喜ばす、一方そのころ福岡市民のなかには福岡側の繁栄を望む声が強かった。福岡市といっても中州を境に博多と福岡に分かれ、博多は神谷宗湛以来の商業地であるが、福岡側は旧城下町を主体に住宅街をなしており、福岡市は下町と山手に別れていた。その福岡というわけである。
そこで天神町に着目したのであるが柳原白蓮が住んでいた伊藤伝右衛門の”あかがね御殿”や取引所の建物くらいが目ぼしいものでまだ静かな住宅街だった。地元の木幡一という男に依頼して、この辺の土地を買い付け、九鉄本社を天神町に置きここから工事を始めた。同時に福岡市の糀屋町で呉服屋をやっていた博多の古い商人、中牟田喜兵衛を説きつけて、ターミナル・デパートを建設させることにした。このため中牟田を小林一三に紹介してその援助を頼んだが、これが現在の岩田屋である。またこのとき九鉄の付帯事業につくったのが春日原球場で、これは長く九州の”甲子園”だった。
 筑後川を渡って久留米市まで延びたのは13年の4月で、市街電車と区分して”急行電車”と呼ばれるようになっていたが、これから大牟田までが長かった。津福まで延びたのが昭和7年、それから先が出来たのは昭和も14年になってからだ。
長い間赤字を続け50円株が10円台になっていたこともあり、その打開は炭都大牟田に延長することであったが、資金は思う通り集まらず、土地の買収も進まず、さらにここでも国鉄側が大牟田乗り入れに反対ということであった。最も苦心したのは中島・大牟田でこの間、栄町からは国鉄と並行して走っているが、この用地の買収も容易に進まなかった。九鉄の不振打開に東邦社員のうちで戦闘力のある進藤甲兵(東力時代の常務で、東京進出部隊の師団長格)を岐阜電力から呼び戻し、九鉄の経営に当たってもらった。
私もたびたび督励に出かけた。大牟田市内の用地は「相場よりも高いものを要求してくるので困る」と進藤が言う。現場の責任者としては無理はないが、
「いくら高くとも買ってしまえ、土地というものは、必ず値上がりするもので少々高く買っても先にいってあのときは安かったと思うものだ。価格にこだわらず、早く片付けろ・・・」などと激励半分しかりつけたものだが、のちには大牟田駅への乗り入れも進藤が話しをつけて解決した。九州鉄道の初めから考えると大牟田~福岡間の開通には22年かかったのであった。
天神町の開発とこの乗り入れは思い出の一つである。」


 竹田農園のお隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース、88歳)とビールを飲みながら、八幡中学時代の思い出をお聞きすると、よく、「われわれのチームは弱く、春日原球場へ行こうが合言葉。北九州大会で勝ち残らないと行けなかった。」とお聞きして、私が、よく分からないという顔をするので、なんで春日原球場を知らないのかと、怪訝な顔をされる。
松永安左エ門の上の手記で春日原球場は、長く九州の甲子園とあり、やっと意味が分かった次第。

 11月21日、飲み仲間で有田方面のバス旅行。福岡市美術館にある松永コレクションを見物予定だか、もしバスが天神を通れば、「ここは松永安左エ門が手がけた、庭園のような街、だから見飽きない」と威張って解説したいもの。

 今度の日曜日・月曜日、ラーメン屋のI氏、M画伯等、ビール好きの不良爺さん達と境港に水木しげるロードを見物に行く予定。
お天気でありますように。
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