田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。
日本列島は、台風並みの突風と寒波で、コーラル丸も、昨晩、釣り中止決定。
今日は、午後から竹田農園にジャガイモの植え付けに妻と出かけました。
(焚き火)
時々、湿った雪が舞い、気温は4度程度。
農園に着くとすぐに、バーベキューセットを取り出し、枯れ枝で着火、直径10センチ余りの枯れ木を、目たてしたてのよく切れる鋸で適当な大きさに切り、焚き火。
よく燃え、燃料費0の素敵なストーブの出来上がり。
焚火の側にいると、冷たい冬の風も苦にならず、ポカポカ。
(ジャガイモ)
DIYで買った、鶏糞、牛フンをたっぷり畝に撒き、三鍬で耕すと、ホクホクとした、よく肥えた畝が出来上がる。
妻がここに、ジャガイモの種イモを半分に切り、埋めていく。
作業が半分終わったところで、農園の隣の家に住む、江藤正翁(元南海のエース)が来てくれて、作業中断、温かい焚き火を囲んで、雑談。
ビールも。(冒頭の写真)
(二重契約)
江藤翁、
「知り合いの毎日新聞の記者の藪田氏が、新聞を送ってきてくれた。
パウエルの二重契約が話題になっているが、実は、江藤翁も1949年に社会人野球の大洋(今の横浜ベイスターズ)から、プロ野球にスカウトされた際、南海と阪神の両球団と契約を結んだと、責められ、1949年は一年間出場停止処分になった経緯を書いたと、2/20付の記事を送ってきた」とのこと。
温かい焚き火にあたりながら、ビール。
当時のいきさつを聞かせてもらった。
当時、南海の一枚看板の別所投手を巨人が強引に引き抜き、南海ホークスはピッチャーの補強が急務。
江藤翁に南海に入団して欲しいと、法政の2年先輩の鶴岡監督が、これも法政のOBの戸倉勝城大洋監督(のち、阪急の監督)に何度も会って、依頼。
二人の先輩の勧めで、南海入団を承諾。
するとこれも法政の5年先輩の若林忠志氏、当時、阪神の監督兼投手が、下関に来て、いっしょに食事、突然、「鶴岡さんには、話がついているから、阪神に入れ」と。何の準備も無かった江藤翁は驚いたが、それならと、用意された契約書に拇印を押す。
これが二重契約と大問題、とうとう、1949年は一年間出場停止。
戦争で法政のエースから学徒出陣でブランク5年、27歳での一年停止はつらかったとのこと。
父上の、「野球は止めてしまえ」との意見に傾きかかったが、何度も、南海ホークスの代表が自宅(今の江藤翁のお住まいと同じ敷地にあった)に見えて、一年辛抱して南海にはいるようにとの、話で、1950年に南海入団、その年は、15勝程、翌年は27勝で、第一回のオールスターの開幕投手に。
(当時のダイナミックなピッチングフォームは、2007/11/18のブログのhttp://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/e/1740c5bde3da08d255bd9d1b42cd4af4
に。)
当時は、今のようにしっかりしたコミッショナーは無く、巨人軍が実質のコミッショナー。
強引に巨人に移籍した別所がお咎め無く、自分が何で出場停止1年かと、悔しかった。
4年前、私が勤務先のT社をリストラになつて、農園で、ショボショボ畑を耕していると、
「まだ若いんだから、ガンバリなさいよ」と野太い声をかけてくれたことがあり、随分と、心に響いた事が昨日のよう。
こうした経験があるから、江藤翁の言葉には、重みと温かみがあったのだと思った次第。
毎日新聞の記事、下に。
毎日新聞 2008/2/20 (北九州版)
パウエルのはるか以前、「二重契約」と認定され、一年間の出場停止処分を受けたプロ野球選手がいる。南海で投手として活躍した江藤正さん(85)=行橋市在住。南海と入団交渉を進めていたが、49年春、一瞬の隙を突き阪神が契約を締結。南海は翌日、契約無効として連盟に提訴した。
両球団の監督は江藤さんと同じ法大出身。厳格であるべき契約が先輩、後輩の気安さで語られたことが悲劇を生む素地となった。「阪神の若林さんから『ツル(南海・鶴岡監督)と話はついている』と聞かされ、疑心などなかった。ぼくはどっちでもよかったんだ」
実はこの少し前、巨人による別所の引き抜き事件が起こった。連盟裁定は巨人に甘く、その矛先が江藤さんへの厳罰につながった、と見る向きもある。
その年の秋、阪神から南海にトレードされたが、汚名を着せられ、27歳の1年間を棒にふった。
「パウエル? ぼく(のケース)とは違うだろう」(藪田尚之)
今度の日曜日、飲み仲間の小倉室町錦龍のI氏のお誘いで、祭りのお手伝い。広場で焼き芋を焼いて、売れと。3月2日、10:30~、バナナたたき売り、ガマの油売り、ピリッとした祇園太鼓と、見どころ多し。常盤橋界隈が中心。したがって、釣りは休み。
日本列島は、台風並みの突風と寒波で、コーラル丸も、昨晩、釣り中止決定。
今日は、午後から竹田農園にジャガイモの植え付けに妻と出かけました。
(焚き火)
時々、湿った雪が舞い、気温は4度程度。
農園に着くとすぐに、バーベキューセットを取り出し、枯れ枝で着火、直径10センチ余りの枯れ木を、目たてしたてのよく切れる鋸で適当な大きさに切り、焚き火。
よく燃え、燃料費0の素敵なストーブの出来上がり。
焚火の側にいると、冷たい冬の風も苦にならず、ポカポカ。
(ジャガイモ)
DIYで買った、鶏糞、牛フンをたっぷり畝に撒き、三鍬で耕すと、ホクホクとした、よく肥えた畝が出来上がる。
妻がここに、ジャガイモの種イモを半分に切り、埋めていく。
作業が半分終わったところで、農園の隣の家に住む、江藤正翁(元南海のエース)が来てくれて、作業中断、温かい焚き火を囲んで、雑談。
ビールも。(冒頭の写真)
(二重契約)
江藤翁、
「知り合いの毎日新聞の記者の藪田氏が、新聞を送ってきてくれた。
パウエルの二重契約が話題になっているが、実は、江藤翁も1949年に社会人野球の大洋(今の横浜ベイスターズ)から、プロ野球にスカウトされた際、南海と阪神の両球団と契約を結んだと、責められ、1949年は一年間出場停止処分になった経緯を書いたと、2/20付の記事を送ってきた」とのこと。
温かい焚き火にあたりながら、ビール。
当時のいきさつを聞かせてもらった。
当時、南海の一枚看板の別所投手を巨人が強引に引き抜き、南海ホークスはピッチャーの補強が急務。
江藤翁に南海に入団して欲しいと、法政の2年先輩の鶴岡監督が、これも法政のOBの戸倉勝城大洋監督(のち、阪急の監督)に何度も会って、依頼。
二人の先輩の勧めで、南海入団を承諾。
するとこれも法政の5年先輩の若林忠志氏、当時、阪神の監督兼投手が、下関に来て、いっしょに食事、突然、「鶴岡さんには、話がついているから、阪神に入れ」と。何の準備も無かった江藤翁は驚いたが、それならと、用意された契約書に拇印を押す。
これが二重契約と大問題、とうとう、1949年は一年間出場停止。
戦争で法政のエースから学徒出陣でブランク5年、27歳での一年停止はつらかったとのこと。
父上の、「野球は止めてしまえ」との意見に傾きかかったが、何度も、南海ホークスの代表が自宅(今の江藤翁のお住まいと同じ敷地にあった)に見えて、一年辛抱して南海にはいるようにとの、話で、1950年に南海入団、その年は、15勝程、翌年は27勝で、第一回のオールスターの開幕投手に。
(当時のダイナミックなピッチングフォームは、2007/11/18のブログのhttp://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/e/1740c5bde3da08d255bd9d1b42cd4af4
に。)
当時は、今のようにしっかりしたコミッショナーは無く、巨人軍が実質のコミッショナー。
強引に巨人に移籍した別所がお咎め無く、自分が何で出場停止1年かと、悔しかった。
4年前、私が勤務先のT社をリストラになつて、農園で、ショボショボ畑を耕していると、
「まだ若いんだから、ガンバリなさいよ」と野太い声をかけてくれたことがあり、随分と、心に響いた事が昨日のよう。
こうした経験があるから、江藤翁の言葉には、重みと温かみがあったのだと思った次第。
毎日新聞の記事、下に。
毎日新聞 2008/2/20 (北九州版)
パウエルのはるか以前、「二重契約」と認定され、一年間の出場停止処分を受けたプロ野球選手がいる。南海で投手として活躍した江藤正さん(85)=行橋市在住。南海と入団交渉を進めていたが、49年春、一瞬の隙を突き阪神が契約を締結。南海は翌日、契約無効として連盟に提訴した。
両球団の監督は江藤さんと同じ法大出身。厳格であるべき契約が先輩、後輩の気安さで語られたことが悲劇を生む素地となった。「阪神の若林さんから『ツル(南海・鶴岡監督)と話はついている』と聞かされ、疑心などなかった。ぼくはどっちでもよかったんだ」
実はこの少し前、巨人による別所の引き抜き事件が起こった。連盟裁定は巨人に甘く、その矛先が江藤さんへの厳罰につながった、と見る向きもある。
その年の秋、阪神から南海にトレードされたが、汚名を着せられ、27歳の1年間を棒にふった。
「パウエル? ぼく(のケース)とは違うだろう」(藪田尚之)
今度の日曜日、飲み仲間の小倉室町錦龍のI氏のお誘いで、祭りのお手伝い。広場で焼き芋を焼いて、売れと。3月2日、10:30~、バナナたたき売り、ガマの油売り、ピリッとした祇園太鼓と、見どころ多し。常盤橋界隈が中心。したがって、釣りは休み。