田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

2007/3/21

2007-03-21 20:35:10 | Weblog
田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。

 春分の日の休日、うらうらとした春の陽気に誘われ、竹田農園に妻、仲良しの若者A君とで春野菜の準備に出かけました。

(三人寄れば)
 A君には、草が生え始めた畝を備中鍬で耕してもらう。
高校2年で、陸上競技をやっていただけあり、フォームは初心者そのものだが、結構早く、丁寧。
私は近所の土建屋さん宅から鶏糞を手押し車に2杯貰って、トマトとヘチマの予定の畑に運搬。
妻は、この一月、藪を刈り取った潅木を田んぼに積み上げていたのを、枯れたと見て焚き火。
働き手が3人いるので、仕事はスイスイとはかどる。

(アラカブと猫)
 昼食は、妻が燃やした焚き火の残り火をバーベキューセットにスコップで移し、暖をとりながら、自宅から持参の弁当を食べる。
農園の隣に住む、江藤正翁(85歳、元南海のエース)と土建屋のT氏も加わり、ビールに焼酎。
先日、関門で釣ったアラカブを煮付けて江藤翁に差し上げたが、とても美味かったとのこと。
野良猫が2匹、住み着いており、これに時々、残飯をやっているが、アラカブの骨と頭をやると大喜びだったとのこと。
この猫丁度食事の最中、付近を歩いていたが、普段食べる野ねずみとは違った、関門のアラカブを食べて、満足気に陽だまりで昼寝。

(田舎の子供の遊び)
 今年62歳のT氏が中学生時代のこの田舎での遊びが話題に。
学校に行く前、竹筒の入り口を狭めたウナギ仕掛けにミミズを入れ、それを横の小川に仕掛ける、鳥を捕らえる罠を山に仕掛ける(当時は松林で、下草を綺麗に刈っていたとのこと。今は藪でイノシシの住処)、特にウナギは調子がいいと、2、3匹入っており、小刀で捌いて食べたが美味かったとのこと。
今もウナギは居るのかと聞くと、小川をコンクリート壁で覆ってしまったので、もう居ないだろうとのこと。
T氏の父上が酒が好きで、沢の水をせき止め、100坪ほどの池を作り、小鮒を入れて、大きくして、寒鮒の時期酒の肴に食べていたとの事。
T氏、この池に6年前、ウナギの稚魚を60匹ほど入れて、そのままにしているそうな。
今から見に行こうかと持ちかけられたが、ビール3缶で酔っ払って止めにする。
(写真はそのときの食事風景,缶ビール3本が効いたのか、手がぶれたか、目が回っていたらしく無茶苦茶ピンボケで,すみません。)

(竹の子)
 T氏が竹の子を取っていかないかとのことで、A君、妻と3人で、T氏がイノシシに食われないように30メートル四方をトタンの塀で囲った竹やぶに行ってみる。
長靴を履いた足で、腐葉土が積もった地面を探ると、なるほど、1センチほど地表から頭を出した竹の子が次々と見つかる。
7、8本、まだ小ぶりの竹の子を掘り上げ、これは、A君のお土産。
トタンの塀の向こうも立派な竹やぶだが、トラクターで掘り返したようにイノシシ君で食い荒らしている。
イノシシ恐るべし。
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2007/3/18

2007-03-18 20:47:53 | Weblog
 田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。

北九州の上空1500メートルには摂氏零度の寒気が腰を下ろしているとかで、朝から冷え込みの厳しい関門にコーラル丸で釣に出ました。

(アジ、釣れ始める)
 同行のパソコン屋のI氏が言うには、昨日寄った釣道具やでアジが釣れ始めたと聞いたと、耳より情報。
新日鉄の埠頭近くに船を止め、船長以下6人、撒き餌を詰めたサビキ仕掛けを投入。
程なく、オデン屋のS大将が釣れた!と、30センチ近くの立派なアジを釣り上げる。
この後、コンスタントに小ぶりのアジ、25センチ前後のコノシロが絶え間なく竿を曲げる。
ビールのピッチも快調。
冬が去り、関門にアジが戻ってきた様子。

(電池切れ)
数学のS先生が私の背後で、釣っており、ダブルでいい方のアジ。
丁度持ってきたデジカメで写してあげると、ポーズ。
シャッターを押すと、電池切れの表示。
友人のK氏が作ってくれたブログに載せると持ってきたカメラも、電池切れでは処置無し。
温かい日差しが射しはじめ、引っ切り無しに美味そうなアジが竿を曲げて、生簀の中は、魚で底が見えないほど。

(生傷が絶えず)
生簀の蓋を持ち上げていると手が滑り、ゴチンと蓋が落ちて、右手親指に落下。
皮が剥けて、血が少々。
同じ右手の手首、10日前、ラーメン屋の大将のI氏の仲間と紫川の側で彼岸桜を見ながらバーベキューをしていて、炭火を水で消した際、水蒸気が猛烈に吹き上げて、火傷。
まだ包帯取れず。ダブル負傷。
海水で洗っておく。
田舎生活をしていると皮膚の生傷が絶えない。
これは子供の時分からの事で、こうした生傷の絶えなかった、戦後しばらくの世代には、アトピーは無かった。
しょっちゅう傷ついているので、皮膚の抵抗力が強かったためらしい。
子供は田舎で育ったほうが良い。

(M先生のフィリピン行き)
 獲物でズッシリ重いクーラーバッグを担ぎ、M先生と帰路に。
日豊線が一緒で、丁度電車のボックス席が空いているので、そこに陣取る。
横のボックスにいた家族連れが席を離れて、遠くの席に。
袖口を匂ってみると、撒き餌の沖アミ、アジを締めた際のウロコと血のりの匂いがプーんと匂う。
M先生と我々は相当臭いらしい、逮捕されるかもと喋りながら電車でビール。
M先生、89歳の父上とフィリピンの高原にある都市に戦前、ここで亡くなったお父上の母君の墓参りに先月行って来たとの事。
この3月末、M先生は停年で、9月から、単身この都市の高校の数学教師になることを図っていたが、学長と会って、本決まりになったとか。
3ヶ月行って、2ヶ月帰国といったペースかと聞くと、気合を入れてやるとニヤリ。
住み着く覚悟らしい。
目が輝いている。
フィリピンに行ってしまう前に、釣にビールに徹底付き合い。

(妻農園)
 留守番役の妻は、卓球・温泉仲間のご夫婦と、竹田農園に出かけて、草取り、ワケギの収穫に汗を流してきたとの事。
近所の土建屋の親父さんの案内で、竹の子も掘り上げている。
素晴らしく畑は綺麗になったとのこと。
このご夫婦、ご主人が来年停年で竹田農園の共同経営者になってくれるかも。
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2007/3/12

2007-03-12 23:59:47 | 忘れがたい釣りや山
 田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。

コーラル丸は川端船長、用事のため釣に出られず、困った時の関門フィッシングで門司の関門フィッシングの愛好丸で今が釣時のアラカブ釣に出かけました。

(沈没船引き揚げ)
 7時過ぎ、まだ門司の山並みから日が出てない関門を船は、普段行かない、巌流島横まで走る。船長がイイよーと声をかけると、6人の釣り人、生きたカナギを餌に一斉に投入。このあたりはどちらかと言えば、砂地でキス・コイチポイントのような記憶。すぐ強い竿を引き込む当たりで25センチの良い型のメバルがダブルで釣れる。
このあとも全員にコンスタントにメバル・アラカブが次々と。
しかも型がいい。
隣で釣っている常連と思しき釣り人が言うには、先月巌流島の横に沈んでいた貨物船を引き揚げて、ここが穴場。
沈没船が邪魔して海峡の幅がこのあたりは狭くなりすぎ、関門を行き交う船がひしめき合って、漁船は近寄れなかったとか。
そのため、砂地だがいい型のアラカブがワンサといるという。なるほどと納得。

(月曜なのに)
 乗合舟を世話する関門フィッシングの女将さんに今日は、まさか客は私一人?と聞くと、6隻出るとの事。
アラカブを釣るには好都合の潮で、みなさん仕事をサボって釣りに来ているらしい。日曜日で天気がいいと、50隻は釣り舟が狭い海域にあつまる事を考えると納得。船が少ない分、一人当たり配当も多く、今日の私の釣果は、アラカブ、メバル23匹と大漁。関門フィッシングの釣はこれから月曜日にすべき。
船上で隣の常連さんに写真を撮ってもらう。冒頭の写真

(アラカブとビール)
 大漁に気を良くして、帰り道、近所のGさん宅により、好物のアラカブ、メバルを差し入れ。
ちょうど散歩から80歳のG氏が帰ってきて、2週間前貰ったアラカブ、あんまり美味しかったので、お礼の電話をしたと、お礼の言葉。
今日のも同じ場所で釣ったので、美味いと思うとPR。
物々交換でビールいただく。

(新人3人とクルージング)
 今年に入ってコーラル丸釣友の会に加わった、室町のラーメン屋のI氏と居酒屋のT氏、薩摩隼人の0氏(3人とも65歳前後)に私と0氏の奥様で、北九州空港の開港1周年記念のフェリークルージングに。
招待券をI氏がもらってきたもの。フェリーは、コーラル丸で釣の時、彦島~小倉を往復しているおなじみのフェリー。
温かい船室に陣取りビールで歓談、3人とも4月から正式なコーラル丸釣友の会に入会するとのこと。
特にI氏と話していると、いろいろ忘れがたい一言を聞ける。
この日は、持参の双眼鏡(質流れ品、オートフォーカス)で離着陸の各社の飛行機をじっと観察、「JALの着陸が一番上手だった。
中国○○航空は排気ガスがひどい、排ガスが茶色で向こうの景色が見えなかった。中古の機体を使っているらしい。
しばらく乗るのは怖いぞ」等など。
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2007/3/3(リストラ体験記)

2007-03-04 02:51:23 | ルーツはここに?
田舎生活実践屋開業のいきさつ、リストラ体験記                               
 大学入学が1968年、東大紛争の時で、四国の田舎の高校から東京に上京の田舎者の若造の私には、政治の話も、経済の話も、ピンと来ず、うろうろしているうちに、カトリックから無教会までのクリスチャンの学生の暮らす同志会という小さい学生寮の門をくぐりました。
就職の段になって、2社受けて、北九州のT社という、メーカーに入社しました。

入社5年で結婚、妻が農家の末っ子で、実家の両親は既に亡くなり週末は空家の妻の実家に泊まり、畑で野菜を作って面白がっているうちに、子供も3人授かり、気が付くと既に50歳近く。仕事も自分では、会社の役に立っていると実感、そのうち役員ぐらいにはなるだろうと思っていました。

47歳の時、初めて日本列島から出て、アメリカ出張、アメリカ人も面白いと思っているうちに、52歳で中国に出向となりました。中学生の次男がおり、進学を考えて単身。給料はふんだんにあり、物価は日本の四分の一、高級外車で送り迎えという、様変わりの生活は、面白く、学生時代に日本が高度経済成長で活気に溢れていたのと同じ、高度成長と若々しい北京の中国人の若者達と仕事をしたり、遊んだりの毎日で、中国人はアメリカ人によく似ている、これは5、6年は北京で仕事と決め込んだものです。

 赴任して1年、仕事にも慣れてきました。中国の正月の春節直前の1月末、中国の会社も10日間の休みで、一時帰国して、久しぶりに家族に会い、好きな船釣りを思い描いているころ、北京のアパートで何の気なしに、「主よ、私をお守りください」と心の中で、唱えました。
次の日、出勤し、明日一時帰国でウキウキしていると、現地法人の責任者より、ちょっと来て欲しいとのこと。この一年、よくやったと、ねぎらいだろうくらいに思って出向くと、3月末で日本帰国とのこと。面食らったり、ガッカリですごすご九州の我家に。留守を守る妻は拍子抜け、次男は会社をお払い箱かと一言、四国の母は、大事な仕事が日本にあるのだろうとのこと。
九州の本社に出向くと、お前は来年55歳、リストラ対象で、身の振り方を考えるようにとの冷たい一言。

 暗い気持ちで我家に戻り、私の寝室に入ると、一冊の本が目にとまる。30年前、友人夫婦からプレゼントされた、内村鑑三の「続一日一生」。もらったものの全く手付かずで、そのまま寝室に飾られていたもの。手にとると、苦難は恩恵、荒野で神の声に耳傾けよ、等々、心に染みる内村の言葉が目に飛び込んでくる。中国で残り3ヶ月の仕事を終え、サーズ騒ぎの4月末の北京に別れを告げ帰国するまで、毎日、1ページずつ、この「一日一生」を読むことになりました。

 帰国後のT社では55歳の誕生日まて1年あるものの、まともな仕事もポストもあるわけでもなく、それまで、好意的に仕事に協力してくれていた、同僚も、後輩も、気の毒そうに、係わりを持ちたくないといった表情で、遠めに眺めているだけ。さらしものでした。「続一日一生」を読むのが最大の慰めの一年となりました。合わせて、司馬遷の史記・屈原の伝記、松永安左エ門全集で日々これ好日の随筆を読み直しました。初めて作者の真意が分かった気がしました。

 妻にT社での私の立場を概略状況説明すると、2秒ほど考えて、あんたなら会社を辞めるだろう、最後はご飯に塩をかけて食べようとのありがたい一言。

またじっくり考えてみると、身の回りの先輩達は65歳前後で亡くなる方が多い。生きていても健康を害してベットに寝かされておしめ生活。退職金と貯金をかき集めると、10年間、つまり65歳までは好きな釣りやら、畑仕事、山登りをしていても経済的には何の支障もない。10年後、蓄えは0だが、そのころ生きているやら大いに疑問ということで、もし生きていれば、改めて考えたので十分と気づきました。2年前の5月、めでたくリストラとなりました。

それ以来、2年半、釣り人生を決め込んで、北九州で船釣りに興じています。電気工事をしながら毎週小倉の漁港から船釣りに出かける、川端船長とは、意気投合、毎週日曜日、関門海峡に繰り出しています。また、元銀行員のNさんは、クルーザーを玄界灘に出して、アジ・ヒラメを追いかけていますが、こちらもいつでも希望すれば一緒に竿を出してくれます。T社の元同僚達には、漁船とクルーザー各一隻私は手に入れたと煙に巻いています。

また、若い方の就職支援センターを北九州市が始め、相談員をリストラ直後から始めました。若い求職者も私も失業の憂き目にあっているもの同士で、意気投合の日々です。北京でいっしょに仕事をしたり遊んでいた中国の若者達と全く遜色ない、気持ちの純で、若々しい日本の若者と泣き笑いの日々です。就職の斡旋で、地元の小企業経営者と会うことが増えましたが、お互いの心の琴線に触れる会話を毎日のようにさせてもらっています。私の子供達も、頼りない父親を見て、これなら勝てると自信をもったようで、すっかり親離れです。

春節前の北京のアパートで、「主よ、私をお守りください」と何気なく、気持ちとしてはいいかげんに呟いた事が、私の意に反した、北京からの帰国、リストラと続き、つらい、さらし者のような、1年を経て、釣り、畑、山に興じる生活がスタートし、フリーター、ニートと軽蔑される生き生きした若者の仲間に入れてもらい、家族の絆も強めてもらいで、北京でのいいかげんな祈りは、全く私の予想外の形で聞かれたと実感している昨今です。中国では、新年は1月末ですが、私にとっての正月も中国の春節同様、北京帰国を告げられた、1月28日で、「続一日一生」「一日一生」(共に内村鑑三)「眠られぬ夜のために」(ヒルティ)とこの日をスタートに、毎年、この日に本を取り替え毎日1ページ読んでいます。
(下に愛読書の写真 2007/3/3 愛読書)

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愛読書

2007-03-03 15:52:25 | Weblog
左から、「一日一生」「続一日一生」(ともに内村鑑三著)、「眠られぬ夜のために」(ヒルティ著) 読み始めて6年、だいぶん痛んできました。(2008/9/19撮影)
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