田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

ベラの切り身でコショウダイ

2008-09-29 22:04:27 | 忘れがたい釣りや山
昨日の関門の釣り、H氏がベラの切り身を餌に、釣り上げた40センチを超す立派なコショウダイ。私は関門海峡での船釣りを始めて16年、未だに釣ったことがない。餌は生きエビか、高価な本虫でないと釣れないと思っていたが、勘違いでした。甲板の釣り人、全員目をまんまる、言葉を失いました。今日、H氏に電話して美味かったかと聞くと、「美味しい、大きすぎて半分しか食べてない。カワハギの刺身もグッド」とのこと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2008/9/28

2008-09-28 21:39:28 | Weblog
田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもので、23日の秋分の日を過ぎると、朝晩、ぐっと涼しくなりました。
日曜日の今日、暑くもなく寒くもなくの釣り日和、コーラル丸で小倉港を朝7時に出港。
おでん屋のS氏、工務店のS氏とその友達のH氏といつものメンバー。

(温かい海水)
コダイ、カワハギを面白いように皆さん釣り上げる。
しかし、私の方は、あたりはあるが、空振り続き、だんだん無口になり、まず竿を取り換えて、これでダメで、仕掛けを一度、二度と変え、やっと周りの釣り人と同じペースに。
釣りはいつまでたっても初心者。
ビールを飲むため、魚の鱗だらけの手を洗うと、バケツに入れた海水、風呂のような温かさ。
川端船長も「魚が温いねー」とあきれる。
おでん屋のS氏は「錘が暖かいです、海水温が高いんですねー。」
地球温暖化を実感。

(大物オンパレード)
 カワハギ来いと、念じながら仕掛けを上げ下げしていると、グーと重い引き。
大きそうとゆっくりリールを巻く。
この引きは大物と思いながら上がってきた魚を見ると、30センチ近いタカバ。
「タモタモ」とおでん屋のS氏に頼んですくってもらう。
アラカブ・タコポイント(瀬)に移動して、釣れたベラの切り身でアラカブを狙っていたH氏、根ガカリかもと言いながら、ゆっくりリールを巻き上げる。
今度は私がタモを持ち、海面を見ていると、40センチはある立派なコショウダイ。
ベラの切り身で釣れるとは知らなかった。
甲板であばれるコショウダイに全員、目が真ん丸。
納竿直前、立て続けに、ルアーでおでん屋のS氏、30センチ程の真鯛とタカバ。
今日は、めったにない、大物オンパレードでした。
今日は大潮だったのが良かったか。
(私が釣ったタカバの写真、冒頭に) 

(釣れる時は突然終わる)
5日前と同様、コダイ、カワハギ、タコ、大漁で、釣れた釣れたと帰港直前の船の甲板でだべっていると、川端船長、
「なんだ、コダイかと、言っていても、突然釣れなくなる。
カワハギ、ベラも同じ。
釣れるうち、ありがたいと思って、大事に釣りなされ」と。
野菜でも、花でも考えると同じ。
種の蒔き時があり、収穫の時期がある。

 今度の日曜、またコーラル丸で釣り。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2008/9/24

2008-09-25 00:58:32 | Weblog
田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。
昨日は秋分の日、コーラル丸で最近釣れ始めたというカワハギを釣りに出港しました。
おでん屋のS氏、工務店のS氏、これも工務店のH氏にその親戚の方の5名の釣り客。

(カワハギ)

先週の金曜日、川端船長の船長仲間が赤坂沖でカワハギがたくさん釣れ、ためしに次の日いくと、なるほど、カワハギ大漁。
この話を聞いて、ポイントに向かう船の上で、おいしいカワハギの刺身に煮つけは約束されたと、皆さん、ニコニコ。
仕掛けを投入すると、たいくつしない程度に、カワハギの切れ味のよい強い引きとともに、小ぶりなカワハギ。
これにコダイ、青ベラ、最後は、マダコのオンパレート。クーラーボックスは7分方で十分な釣果。(カワハギを釣った時の写真、冒頭に)

(梨の木)
釣りの前日、川端船長が我が家に寄ってくれ、見事な梨をたくさんプレゼント。
飯塚市のさらに南の田舎に、ナシ園をもっている知り合いがあり、この畑の梨の木、二本を買い取っているそうな。
消毒と施肥は農家がやり、摘果や袋掛け、収穫は川端さんという約束で、もぎたての梨をおすそ分けにいただいたもの。
もぎたての梨は新鮮で甘さが素晴らしい。

(自家製蜂蜜) 
工務店のH氏は、川端船長の古くからの釣り友達で、北九州の緑の多い町に住んでおられる。
庭先に、蜜蜂を飼っておられ、一つの巣箱から、10リットル近くの蜜を収穫。
この日、コーラル丸に乗船すると、私に一ビンこの自家製蜂蜜を「どうぞ」と。
貴重な無添加物の蜂蜜に感激。
釣りの合間に、ミツバチについてのH氏からのレクチャー。
刺されないかと聞くと
「一度刺されたが、防護服を着ているので、大丈夫」
 川端船長が、私の直方の別荘で蜜蜂を飼いたいので、世話してほしいというと
「群れを分けて、差し上げるが、毎日、様子を見る必要がある。
特にスズメバチが巣を襲うので、それを防ぐ必要がある。」
 スズメバチはどうやって追い払うのか聞くと、
「スズメバチの捕獲器があり、それを巣箱の前に置くが、基本的にスズメバチが来たら、たたきつぶせば良い」とのこと。
こわーと思いました。
近所の方に刺さないよう、特に子供が好奇心で巣箱に触ると困るので、
「いたづらしたら、ダメよ、この蜂蜜あげるからと、一ビン、近所の子供たちにあげている」とのこと。
H氏の近所の子供たち、幸せと思いました。
蜜がどこからくるか、知ることができ、甘い蜂蜜を味わえる。
ちょうど、この日、中国の友達が出張で我が家に夕食によってくれ、取れたての、ベラ、カワハギ、タコの刺身に舌ずつみを打ち、そのあと、このいただいた蜂蜜を小皿に移し、スプーンで味わいましたが、自然な素晴らしい甘さに、「これは美味い」でした。

 明日は、竹田農園で、草刈、日曜日は釣り。遊びの秋です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2008/9/21

2008-09-21 18:11:17 | Weblog
田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。
午前中は、熱帯のスコールを思わせる激しい雨。
お昼から上がり、妻と車で竹田農園で、1時間ほど畑仕事。

(堆肥置場の下を畑に)
農園のお隣の土建屋のI氏から、いただいた大量の草、畑のあちこちに厚く積み上げ、程よく腐り、虫に食われ黒々とした堆肥に。
秋野菜の種蒔きに、この堆肥を一か所に集め、空いた畝を耕すと、よく肥えた立派な畑に。
大根、アスパラ菜、ワケギを植えて、今日の作業完了。(畑をパチリ、冒頭の写真、回りの緑はイノシシ君に勝利したサツマイモの葉)

(江藤正翁)
畑仕事をしていると、近所の江藤正翁(元南海ホークスのエース)が、「天気になったな」と家から出てくる。
「40日前から、足が痺れる、戦争に行ったり、スポーツをしたり、仕事をしたりいろいろあったが、こんなにえらい目に遭うのは初めて。
医者も時間をかけて養生しなさいとのことで、ボツボツやるよ。」と。
杖を使って歩いているが、スタスタと傍目にはしっかりしている。
「11/9に飲み仲間でバス旅行にいくので、また一緒に行きましょう」と言うと、「良くなっていたら行くよ」とニッコリ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の随筆(パソコンの底から出てきました)

2008-09-21 13:06:50 | 戦前・戦中の日々
今日は、朝から雨、晴耕雨読といこうと、パソコンの中の、古いデータを見るともなく見ていると、一年前に亡くなった父の古い原稿をたぶん、妻が、ワードの練習に打ち込んだものがありました。
私は読んだ記憶が無い。
幹部候補生になった経緯を綴ったもの。
7年前、亡くなる6年前で80才になる直前に書いたものと思われる。
竹田農園で私とつきあってくれている、江藤正翁と同じ生まれ年で、終戦も台湾で迎えたというのも同じ、僅かの差で、生き残ったというのも同じの人生だったと改めて、知りました。
ワードで6ページとやや長いです。
ご参考。



運命の一瞬 - 安藤中尉

第一章

 昭和十八年(1943)七月、私達初年兵の観測班は既に要地防空隊として神戸に展開している本隊に追及した。
わが中部軍七三部隊山岡隊安田中隊は神戸市兵庫区三菱重工業和田岬造船所内の突堤上に陣地を構築していた。
兵舎の屋上には七糎高射砲三門が据えられていた。
この陣地に来てからは、屯営で受けた体罰的制裁は全くなかったが、実戦に即した訓練は毎日激しく繰り返された。
 朝夕今治・神戸航路の定期船を陣地から眺めては郷愁の念に駆られていた。
私は残念ながらこの和田岬陣地に来てからは初年兵観測班の員数外に置かれる「ダメな兵隊」になっていた。
理由は色々あるが他日又語るときがあるだろう。
八月になって泉南の貝塚海岸で山岡部隊の高射砲実弾射撃演習が行われたが、初年兵の中で私だけ一人が、和田岬陣地留守隊の一人に入れられたのである。
いかに無視された「ダメ兵隊」であったかが知れる。
そして、二日目になって中隊長安田中尉の「如何なる初年兵も一度は実弾射撃の体験をさせろ。」の一言で、私はやっとこさ貝塚海岸に中隊長のお情けで向うことができたのである。
私がどんなにみじめな気分で、和田岬から貝塚に向う軍用自動貨車の古年次兵(こねんじへい)の中にたった一人のダメな員数外初年兵としてポツンと乗ったか。
もう落ち込みに落ち込んだのである。
同乗の古年次兵は「こいつがダメな初年兵か。」と言わんばかりに私をジロジロ眺めていた。
私には本当に針のむしろであった。


第二章
 この貝塚の射撃演習が終了してすぐに、山岡部隊の陸軍兵科幹部候補生の採用試験が行われた。
当時の神戸防空隊の配備は
(1) 湊川公園に山岡部隊本部
(2) 摩耶山中腹371高地   砲隊 一ケ中隊
(3) 灘区都賀川口      砲隊 一ケ中隊
(4) 兵庫区和田岬      砲隊 一ケ中隊
(5) 刈藻島(かるもじま)  砲隊 一ケ中隊
 他に照空(しょうくう)中隊が布陣していた。
 試験場は湊川公園近くの湊川国民学校である。
小学校は当時国民学校と呼ばれていた。
当日、安田隊の砲隊、観測班の初年兵有資格者が集合、試験場に向った。
今まで初年兵はこの和田岬陣地から外に出たことはなかった。
しかも、引率者はいなかった。
初年兵だけの外出である。
指揮は金子博がとった。
この日は日本晴れ。
素晴らしい好天気であった。
三菱造船所の正門には保安詰所が設けられている。
この門を出る時は部隊敬礼を行って通過。
歩調をとる。
カツカツと軍靴の響きが高くなる。
折りから附近にいた造船所員が私達の行進を眺める。
「ワッ、見事な兵隊さんだ・・・」と言った声が私達の耳に入った。
地方の人がみとれる程私達の行進は見事だったのである。
この声を耳にした初年兵一同の足音が更に高くなり晴れがましい思いを経験した。
 この頃、神戸市電は神戸防空隊の兵隊の乗車は無料にしていた。
湊川国民学校に到着。
丁度夏休みのこととて国民学校の校庭には児童の姿は一人もなく、夏の暑い日差しがコンクリート造りの白い校舎に照り映えて白々と私達の眼に厳しかった。
各隊から参集した多くの初年兵達は各教室に収容され緊張した顔で学科の筆記試験に臨んだ。


第三章
 二日目は面接試験である。
私達は控室にて待機。
面接室は別教室に設けられ、一人一人が呼び入れられた。
面接を終えた兵隊達は控室に帰ってもその様子を語る者はいなかった。
この時、控室に監督者がいたかどうか今は思い出せない。
しかし、私語がなかったことから推すと多分いたのであろう。
段々と進んで、いよいよ私の番である。
 中隊随一のダメな兵隊とレッテルのはられた私も幹部候補生に採用されたいとは思っていたが、先はその希望も無為に終わるだろうと予想していたから、他の初年兵程の緊張はしていなかった。
そのかわりに何ヶ月振りかに陣地の外に初年兵だけで外出できるのが嬉しくて途中の三菱造船所内の風景から私の職場であった愛媛県新居浜市の住友機械製作KKを偲んでいた。
住友機械には徴用工も入れて五千人が働いていた。
三菱造船所の規模に比べてもそう遜色はなかった。
神戸市電の沿線風景も市民の姿も本当になつかしかった。
湊川公園の部隊本部前にはビオフェルミンの大きな広告塔が立っていた。
 さて、私の前の番の初年兵が終わって帰って来た。
どうでもええわいと思っている試験でもヒョッとしたらヒョッとするかもしれんと思っていると矢張り体が固くなる。
控室を廊下に出る。無人である。
すぐ隣の面接室の前に立って大きく深呼吸をする。
いや溜息をついたのかも知れない。
静かに引戸を開けると右側には大きな幕が張られて仕切られ、私達の通路がニ米巾程に作られている。
そして、その正面には大きな鏡が見える。
廊下の床から天井まで届く大きな鏡である。
引戸を開けた私の全身が写っている。
フウン、わしもそう捨てたもんではないなあと鏡の中の軍服姿の私を見つめた。
その鏡の前を右に入ると面接室である。
私は歩みながら鏡の中の服装を点検する。
襟布(えりふ)はいいか、釦はいいか、帯革(たいかく)は所定の位置にあるか、帯革は四ツ目と五ツ目の釦の間が定位である。
帯革はゆるんでいないか、剣吊り釦は外れていないか,手を添えて急いで点検。「ヨシ」。
私は脱帽して官姓名を名乗り、十五度の陸軍礼式をして面接室に入る。
中はガランとして何もなかった。
中央に生徒机が一脚、試験委員の三人の将校が座っている。
それから次々と質問が三人から交互に放たれる。
何とかスラスラとは行かなかったが、大声で答える。
最後に大東亜戦争への覚悟を問われる。
もう此の答は決まっている。「日本民族百年の大計の為、米英を打ち破って東洋平和、世界平和の礎、捨石になります。」と。
滅私奉公のみ叫ばれている時代である。
滅私とは、我が身を滅することではない。
私欲,私情、私利、私心などの個人の利害に優先して公即ち日本国家、民族、社会の為に力を尽くすことである。
 「ウン。」
と将校達がうなずいた。
私は多分、大真面目で大声を張り上げながら、つまりながらも叫んでいたのであろう。
この時代の若者は私のように思っている者が多かったのである。
戦場に立つこと即ち死である。それでも、その死を超えて戦場に向ったのである。現代日本人の中には「死ぬことが判っているのに何故銃を把ったのか。何故拒否しないのか。
何故逃げないのか。
その時代の指導者にうまく騙されていたのだ。」という人がいる。
私はこの人々に対しては無言である。
 さて、三人の将校達は私を見て笑っていた。
面接が終わってから試験委員長安藤中尉から講評があった。その一節に、・・・・
 「あの大鏡は何のために置かれたのか。残念ながら、そこに思いを馳せる者はいなかった。
但し一人だけ活用した者がいる。
面接する前に服装の点検を行った者は、たった一人である。・・・・・」と。
不意に意外の環境下に置かれた個人の行動、特に独断専行が観察されたのである。
 こうして試験は終わった。私は殆んどこの試験結果は期待していなかった。
帰隊したら隊舎屋上の陣地では、いつもの通り初年兵の訓練が続いている。
砲隊班は早速訓練に参加した。
観測班の私は少しでも参加時間が遅れるようにと、下でグズグズしていた。
ヒョイと上を見上げると、初年兵班長の西迫(にしさこ)軍曹がむつかしい顔をして私を眺めている。
イヤ、ビックリ。
コイツはイカンとあわてて外出套を着替えて屋上に駆け上がった。
軍曹が「下で何をしていた。」と詰問する。
もう破れかぶれである。
「ハイッ。六甲おろしの涼しい海
風に吹かれてボーッとしておりました。」
周りにいた古年次兵や初年兵が一斉に私の方を振り向いたのがわかる。
こんなことは初年兵の私の言うべき言葉ではない。
「風に吹かれてボーッとしていたのであろう。」とは班長や班付古年次兵からよく言われていたのである。
加古川の屯営では「加古川の風・・・」であった。
 九月に入って命令が出た。午後九時の日夕点呼で連隊命令が下達された。
   金子 博   愛媛  観測
   早川一也   徳島  砲隊  
   木口常三   茨城  砲隊
   金森秀雄   徳島  砲隊
   細川清水   高知  砲隊
   竹田光雄   愛媛  観測
私は安田中隊の最下位で幹部候補生に採用された。
命令伝達が終わって外に出ると、古年次兵の話声が聞こえてきた。
「竹田ってありゃ何だ。ドンナ奴だ。」
「観測におろが。」
「あいつか。あんな奴が・・・もう世も末じゃ。」
 私もそう思う。
私は笑っている安藤中尉を思い出した。
大鏡の前の服装点検で安藤中尉が私を拾い上げたのだ。だが、中隊長以下誰も知らないから、私の合格を不思議がるのだ。


第四章

 幹部候補生教育が早速始められる。
都賀川砲隊陣地の近くに神戸製鋼所の二階建ビル一棟が提供された。
教官は網本義包(よしかね)中尉で、幹候班長として一人伍長がきた。
私は今この班長の名前を忘れている。
各砲隊、照空隊から集合して来た。
何人いたか。
これも忘れている。
しかし、九月から一月にかけて行われた幹候教育は私の軍隊生活の中で最も楽しかった時代である。
ここでは反対教育が行われた。
観測・砲隊の反対教育である。
従って、私は観測兵であるから砲隊教育を受けた。
この幹候隊教育が終わると甲乙分離の試験がある。
甲種幹部候補生は予備役将校に、乙種幹部候補生は下士官になる道が開かれる。
 幹候隊班長には候補生の中から二名宛当番がつく。
この当番にあたった私は或日、班長個室の掃除に向った日、班長は留守であった。班長の机の上には、班長の候補生に対する評価表が開かれたまま置かれていた。
最後には各候補生の総合評価がしるされていた。
見るともなく見てみると、私の評価は「下士官適」と大きく書かれていた。
「ヤッパリナ」と私は納得した。
 甲乙分離試験が学科・術科ともに完了したとき、砲隊・観測の全候補生は七糎高射砲の周囲に集められた。
砲側に立ったのは安藤中尉である。
この時には各候補生は自分の成績はほぼ積算して自分の序列を胸算用していたのだが、私には無関係である。
何しろ、班長の評価は「下士官適」だからな。
この班長の評価が重要なことは勿論である。
 私は安藤中尉を取り囲んだ候補生の輪の最後列にいた。
もう乙種幹部候補生になることは間違いない。
甲なんかとてもと思っていた。
安藤中尉は色々な質問をした最後に七糎高射砲の部分名を質問した。
ところが誰も答える者がいなかった。
暫らく沈黙の静かな時間が流れる。
砲隊の連中には分かりすぎた質問である。
安藤中尉が皮肉な声なき笑いを顔に浮かべた。
成績の良い連中はここでしくじったらと考えて答を渋ったのである。
安藤中尉の笑いはこの候補生の心理を見透かしていたのである。
「今畜生、これが黙っておれるか。」私は大声で「ハイッ」と挙手した。
それから二問・三問と続いたが、結局は誰も答えず、私が全部答えた。
当否は別である。
 「ウン」安藤中尉が頷いた。
私は大声で全部答えて、甲になりたい奴は何してんだと心の中でわめいていた。「そこの候補生は誰だ。」
「ハイッ竹田候補生」
「ウン」と顔を縦に大きく振った安藤中尉の頷いた笑顔が深く私の胸に印象づけられた。


第五章

 やがて甲乙分離の結果が発令された。
昭和十八年度山岡部隊甲種幹部候補生は、金子博、小西二郎、早川一也、木口常三、金森秀雄、竹田光雄、六名である。
私はビックリ仰天である。
山岡部隊甲種幹部候補生六名のうち五名が安田隊である。
小西は刈凛島の砲隊である。因に小西は宇和島の出身である。
 戦後、復員したとき今治から一緒に加古川高射砲隊に入隊した矢野孝基(兵長で復員)-山岡部隊照空中隊に在隊―が、
「お前が幹部候補生に採用された命令を聞いた時はビックリ仰天した。」と私の顔をマジマジと眺めてあきれていた。
器用に世間を渡る彼の人生では、不器用な私など馬鹿の代表だと思っている。
彼には私の甲種幹部候補生合格が理解できないのだ。
 とにかく、安田隊のダメ兵隊,観測兵としては員数外の兵隊が二等兵として入隊、一年八ヶ月で陸軍予備役少尉に任官したんだからな。
誰よりも私自身が驚いていたのである。
 この原因は、
(1)鏡の前の服装点検 
(2)甲乙分離試験最後の三問への応答であると私は思っている。
安藤中尉が大いに干与している。私は安藤中尉の人を見る目を裏切れないと思った。
人の運命は、単純なこれだけで左右されることがある。
私のこの二つの事項が安藤中尉に取り上げられなかったならば、私は一兵卆として、ダメなボヤスケ兵隊として南方戦線にトックに放り出されていただろう。
 私が神戸防空隊から南方派遣軍に転属を命令され一隊を引率神戸駅を出発した時、見送ってくれた山岡部隊将校連の中に、相変わらず微笑をたたえた安藤中尉の姿があった。
 さらば、安藤中尉。
 昭和十九年も押し詰まった十二月七日の夕暮れであった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2008/9/15

2008-09-15 17:47:30 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
秋野菜の種まき、植え付けの時期。
昨日、竹田農園で妻と一働きしてきました。
夕方には、小倉室町のお月見大会に。

(畝づくり)
今年は、農園の隣の土建屋のI氏から、仕事で刈り集めた草、4トン車分を頂き、畑の横の空き地に山積み、畑にも一部畝に積み上げ、それが腐って立派な堆肥に。
ネギの植え付け、大根、カブの種まきのため、畝つくり。
余分な堆肥を一輪車で畑の空いた部分に移動、土が見えてきたところで、牛フンを撒き耕す。
黒々とした立派な畝が出来上がる。
植え付け、種まきは妻に任せて、私は竹藪に入り、真竹を3本切り出す。
小倉室町のラーメン屋のI氏がこの日の夕方の室町のお月見祭りの準備をしており、私は、当日のカッポ酒の竹と竹のオチョコ作りを引き受けたもの。
お昼過ぎには二人とも作業完了、林の木陰で簡単な昼ごはん。
2か月もすれば、おいしい秋野菜が食卓に。

(栗の初収穫)
農園の林、5年前の台風で、貝塚伊吹の大木が5、6本倒れ、そのあとが空き地に。
3年前、妻の反対を押し切り、栗の苗を一本植えたが、今年、イガグリが10個ほどなる。
熟れたクリが地面に落ちている。
イノシシに食われたかと思ったが、3割ほどはイノシシ君が試食していたが、7割は無事。
これを集めて我が家に持ち帰る。(収穫したクリをカゴに入れてパチリ。冒頭の写真)

(江藤正翁)
○先日、娘の結婚式で出かけたハワイで買った、ハードロックカフェのTシャツをお土産に、農園の近くの江藤正翁(元南海ホークスのエース)のお宅に。
「しばらくぶりじゃな」と雑談。
「おいちゃんは、海外に行ったことがあるか?」と聞くと、「満州と台湾」と一言。
戦時中、士官学校で満州、終戦は台湾だったことを思い出す。
恐れ入りました。
○先日のオリンピックの弱かったプロ野球チームについて、感想を聞くと、
「ピッチャーが悪い。
特にコントロールがまるで駄目。
私たちが現役の時のピッチャーの方が、いいコントロールをしていた。(別所、杉下など)
ソフトバンクの馬原は、球は速いが、コントロールがダメ。
一つも成長していない。
球が速いのはあたりまえ。
私はピッチャーだったから、ピッチャーからしか見ないが」
○「このひと月、足がフラフラしたが、大分良くなった。
そろそろ自転車に乗ってまわろうかと思う。
家にじっとしているのは、良くない。」

(お月見)
カッポ酒用の竹を40センチ程の長さに切ったものを10本、竹のオチョコを20個程リュックに入れて、小倉室町に夕方。
錦龍のI氏のサンマ焼き、焼きそば作りの手伝いをしながら、呉服屋のU氏がやっているカッポ酒屋を見に行くと、好評で飛ぶような売れ行き。
珍しいのと、切りたての竹の香りが好評だったようす。
曇り空だったが、10分程、満月が現れ、お月見の面々(100人程)、盛り上がる。

今日は、お月見で飲み過ぎて、二日酔い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キラウエア火山溶岩流続

2008-09-15 00:22:37 | Weblog
キラウエア火山、私の少年時代から、溶岩が続々流れていると、雑誌で読んだことがあり、どんな山かと不思議でした。
訪ねてみて、よくわかりました。割れ目噴火で、溶岩台地(屋島、デカン高原に同じ)が出来、あふれて、写真のように溶岩が流れ出て、ハワイの自動車道路も通行不能。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハワイで遊んできました

2008-09-11 23:44:33 | 忘れがたい釣りや山
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
9/6~9/11日、ハワイで遊んできました。
娘の結婚式がハワイであり、双方の家族だけの小人数を幸い、オアフ島、ハワイ島を参加者で駆け足観光。
現地の小さい観光会社にHPで直接申し込み(但し日本語)安く小回りの利く観光でした。

(アオウミガメ)
ツアー会社所属の日系人のケンさんが、オアフ島を半周のツアーに車で案内してくれる。
アオウミガメを見ましょうとのことで、美しい島の東側の海岸に。
800キロのかなたの小島に繁殖地があり、そこからこの浜に20匹の決まったカメがやってくるとか(縄張りがある)。
この浜に、ワカメが密生しており、それを食べに来る。
運がいいとカメが浜辺に上がり、甲羅干しをするとケンさん。
浜辺に人だかりがしており、行ってみると、なるほど、野生のウミガメ。
感激しました。(下の写真)


(結婚式と披露宴)

小さいホノルルの教会で結婚式があり(素朴)娘は、式直前、緊張と衣装がキツく倒れるも、衣装を急遽、仕立て直しで本人も気合いが勝って元気に。
次男は前日、ホテルの前のワイキキの浜辺で日光浴し過ぎて、軽い日射病でこれもダウンしたが、這うようにして教会に、なんとか祝いの花びらシャワーに参加。
トラブル続きでしたが、雨降って地固まるで、両家の気持ちも一つになり、いい結婚式と披露宴でした。

(キラウエア火山)

ハワイ島に飛行機で翌日、元気になった長女夫婦と次男と妻の5人で。
地元の元気な女性のガイドが運転するワゴン車で、一路、有名なキラウエア火山に。

ここが太平洋プレートのスタート地点で、溶岩が湧き出し、島ごと、西へ西へと移動、島は沈んでいき、オアフ島のような火山のカルデラが残るが、1万年前の噴火が最後。
さらに西に進むとサンゴが上に伸びて島は残るが島本体は海面下に沈み環礁に(ミッドウェー)。
何億年かでアジアプレートとぶつかり、いくつかの島は、地上に出て、そのサンゴ部分が、我が家の近所の平尾台のような石灰岩の台地に。
まだ地上に出られないサンゴの山が、マグマに触れると、炭酸ガスが出て、南九重の赤川温泉一帯の炭酸温泉のメッカを作る。
キラウエア火山帯の一帯の溶岩台地やら、溶岩が海に流れ込んで激しく水蒸気とガスを噴き上げている光景に、日本列島のルーツを見た思いで、これにも感激。(上の写真、後ろに見える噴煙は溶岩が海に流れ込んでいるところ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アオウミガメとハワイの浜で対面

2008-09-11 22:48:10 | Weblog
ハワイ、オアフ島の東の浜辺で見かけた、アオウミガメ。
監視員がいて、浜辺にカメが上がってくると、周り4メートルほどに、赤いロープを浜辺に置き、カメに触ってはいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする