田舎生活をしていると、読書の時間は十分ある。最近は、松永安左エ門著作集を読んでいる。松永安左エ門は傑出した実業家、茶人、登山家、歴史家、随筆家、そして遊び人。東京電力の実質国営化のニュースを最近は耳にして、松永安左エ門の戦後の電力会社の民営化と、電源開発のため、料金を66%値上げを断行した下りが痛快だった。値上げ反対の各層からの声にひるむことなく、電気料金の値上げとそれを元にした電源開発で戦後の高度経済成長の基礎を築いた胆力と見識の深さには驚かされる。見ていてバカバカしくなる最近のテレビの国会中継も、松永安左エ門の時代なら面白かったろうと思った次第。下のような内容。昭和36年、松永安左エ門の88歳頃に書かれた思い出話。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(松永安左エ門著作集 第4巻 p431)
7割5分の値上げ方針
九電力がともかく発足したが、最初に実施したのが二十六年八月の料金値上げである。この事件で吉田内閣と公益委の対立が起こった。
吉田首相が「公益委でなく私益委員会だ」と私をしていわしむれば、見当違いの非難を浴びせて、永年の間柄であった松本委員長と対立状態になってしまったり、私が「電力の鬼」ということにされてしまう原因となったのがこれからである。
・ ・・まず最初に当面したのが二十六年の渇水である。・・・このときは朝鮮事変がおきて電力需要はますます増大する傾向にあった。
渇水のひどい例をあげると、二十六年十一月十三日には全国の発電所がわずか二百二十万キロが稼動したに過ぎない。今日東電だけでも四百万キロ以上が動いているのであるから(三十六年六月)いかにひどかったかが伺われるが、この頃は法的な使用制限を行った。それも東北・北陸・関西・中国地区では九月分は、四・五月分の使用実績の五割制限、休電日を週に三日も設ける状態であった。この事情は十月に台風があって一時緩和されたものの、二十七年三月まで続いた。・・・供給状態の悪さというものは今日からみればちょっと想像もつかない。
そこで急がれたのが電源開発であったが、九電力が発足したといっても料金は経常収支すらつぐなわない状態で、まして新規投資の資金を借り入れることなど、到底おぼつないなありさまであったから、この料金問題というのは結局、開発資金対策でもあったわけだ。つまり急を要する問題であった。・・・・・
それはさておき七割五分の値上げの方針が伝わると、俄然大きな反響が捲き起こった。総司令部(GHQ)がそれゆえに定率償却に反対したことは先に書いたとおり。国会、政府筋も大反対だった。二十六年八月に実施した三割値上げ案では総司令部では賞与費用というケチな項目まで削ってきたが、ともかく実施できた。これが第一回である。二回目二十七年五月の改定の時はさらに大騒ぎになった。このときは僕が反対した電源開発促進法のことも絡みつつあっが、ともかくひどい反対だった。
奥むめおさんが、「主婦連」を作ったのも、確かこの電力料金の値上げ問題からであったと記憶している。
「電力再編成というのは、米国から九匹の乳牛を輸入したようなものである。これに適正な料金を払うということは餌を与えることだ。その飼料を十分与えず、また三度のものを二度にするというのであれば、長く国民を養ってくれる乳はとれない。親牛も死んでしまう。子供が可愛いのであれば飼料代を嫌がるのは間違いである・・・」と参議院商工委員会で奥むめおさんの質問に応えて説明したこともあった。このたとえ話は荒れ狂う国会の反対論を、いくらか沈静させる効果があったようだ。後年箱根で奥むめおさんに会ったとき「アノ松永さんの牛乳論で、私どもは反対の気勢を大分ソガれましたよ・・・」ということで大笑いになった事もあった。以来奥さんとも仲良くなって今日に到っている。
分かっているはずの政府が、私からいわせると全く駄々っ子みたいだったのは政治家の良識何処にありや? と今でも思う。反対の先鋒は安本長官兼物価長官の周東英雄君であった。・・政府側の意向として値上げ反対を伝えに来たが、少しも理論的なことを言わない。私が「しからば電気事業の自立ができなくしておいて、今後の急激な電力需要にどうして応ずるのだ。資金も集まらず採算がとれない形は、単に電気事業だけの問題ではない。日本の復興をどうするんだ・・・」と詰問するんだが、彼はただ急激な値上げだから困る。政治は政府の責任である。といっているに過ぎなかった。・・・・
二十七年の値上げを当初の水準でいうと三割六分五厘にあたり、二回あわせると六割六分になって、最初の目標というか、九電力の希望した七割五分には達しないまでもホボ近いところになる。この二回の料金値上げは、公益事業委員会のやり方が強引なものと世間が取りはやした。大阪に行ったとき、新聞記者が来て、
「電力料金の値上げは政府も反対している。それでも実施なさる積もりか?」
「当たり前だ。政府は何もわかっちゃいない」
「しかし政府は値上げさせないといっている」
「ソンナ政府ならぶち壊してしまえ・・・」
といっておいた。これが新聞に出たから今度は与党が怒り出した。国会に私を呼び出して、ソンナことをいったのは事実か? と聞くから、
「大阪でシャベッタのはそのとおり、趣旨は間違いなし」
と証言したから、今度は議員連が呆れたような顔つきだった。
ともかく国会も政府も値上げには猛烈に反対である。・・・需要家が両院の代議士に働きかけていたのだから、文字どおり天下上げての反対である。しかし結果からいうと賛成者がホンノ一部の学者を除いて全くなかったからこそ二度の値上げが出来たといえる。つまり私一人が悪者になれば済むからだ。
そう考えて私は譲らなかったのだが、その結果、公益事業委員会のなかで強いのは松永であると伝えられ、「電力の鬼」というあまり有難くない名を頂戴した。
二度目の料金値上げの公聴会で広島に行ったとき、・・・三井造船の社長だったと思う人が・・心から納得してもらえなかったようだ。そして値上げには反対であることを申し述べていた。私は「皆さんの立場はよくわかるが、ご自身の産業の利害からのみ論じてはいけない。産業というものはお互いに発展することが必要である。電気事業は基幹産業であるから、その供給力を高めることは国全般に繋がる問題であるから、苦しいでしょうが、大所高所から判断して欲しい・・・」との趣旨を語った。そのとき私は失礼だが戦後の経営者は粒がちいさくなったなあ! としみじみ思った。概ね自己の立場から利害をいっているに過ぎず、経済全般というか、ともに栄えるという考え方がみうけられないことである。
・ ・・・
そんなことで第二回の値上げは二割八分となり、二十七年に実施したが、当初から考えると六割六分五厘の値上がりである。二回分を合算しても約一割私の考えより低かったが、いうなれば、これが定率と定額の償却方法の差である。二十九年まで続いた電力の割り当て制にたいし、経済界の大半は実際は料金の料よりも電力量の量であった。二十六年でも、禁止を目的としているかのような二段料金の高い方を使ってまで操業度を上げていた企業もいくらもあった。朝鮮戦争の影響もあって、景気は上向いていたので物を作れば売れた時代であり、操業度の向上で固定費は下がるのである。・・・
二十九年に割り当て制度が廃止され「もはや戦後でない」と経済白書は三十一年に名文句をハイたが、それにはこの二度の値上げと再編成(電力会社の民営化)が大きく貢献したことを今でも信じている。政府も財政資金で開発の援助を行ったが、値上げによって開発資金が直接獲得でき電源開発が軌道に乗り、電力供給が増加した。またこれによって外資導入も出来るようになったと思っている。
この料金問題と並んで苦心したものに需要増加の見通しを決める増加率のとり方と言うことがあった。・・二十六年以降三十六年までの電力需要の伸び率は平均十一・五パーセントという高い実績になった。・・・私が8パーセントを主張すると・・・経済安定本部では3パーセントだと主張していた。・・・
一方、電力会社に対し職制、機構の点についてこんなことをいった。「大きくすべからず」である。私はその点で各社社長に十分注意することというので一札とった。形式的なことで無論法的な効力はないのだが、いわば肝に銘じてもらいたかっのである。そこで社長連が集まる機会を捉えて、約束する意味で署名捺印してもらった。するとこのなかには社長でなく代理人がきているところもある。こんなところは署名を躊躇していたから少しおかしくなった。
「社長に電話して許可を得ますからしばらく待ってください」
などと言うも人も出る始末である。・・・新電力会社の発足に際しては、なるべく簡素にして経費の節約を図らせる心がけを要望したものであった。・・・運営機構を簡素化することによって、セクショナリズムに陥ることを避けようとしたものだが、その後の実情は必ずしもこの趣旨が貫かれているかどうか、ちょっと疑わしい気もする。
・・・
(p471) なぜ私が電源開発法に反対したか。いうまでもなく国営事業は能率があがらず、したがって経済的でもなく、サービスも悪い。第一自由闊達な民間事業でないと、民族永遠の生命源である人が育たないからである。こんなことを今さらクドクドいう必要はないが、電気事業の国営論は常に出る意見であり、今後も飛び出してくるであろうから(ことに今次の社会党の政策綱領になっている)、電気事業の国営という考え方に触れておこう。・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(松永安左エ門著作集 第4巻 p431)
7割5分の値上げ方針
九電力がともかく発足したが、最初に実施したのが二十六年八月の料金値上げである。この事件で吉田内閣と公益委の対立が起こった。
吉田首相が「公益委でなく私益委員会だ」と私をしていわしむれば、見当違いの非難を浴びせて、永年の間柄であった松本委員長と対立状態になってしまったり、私が「電力の鬼」ということにされてしまう原因となったのがこれからである。
・ ・・まず最初に当面したのが二十六年の渇水である。・・・このときは朝鮮事変がおきて電力需要はますます増大する傾向にあった。
渇水のひどい例をあげると、二十六年十一月十三日には全国の発電所がわずか二百二十万キロが稼動したに過ぎない。今日東電だけでも四百万キロ以上が動いているのであるから(三十六年六月)いかにひどかったかが伺われるが、この頃は法的な使用制限を行った。それも東北・北陸・関西・中国地区では九月分は、四・五月分の使用実績の五割制限、休電日を週に三日も設ける状態であった。この事情は十月に台風があって一時緩和されたものの、二十七年三月まで続いた。・・・供給状態の悪さというものは今日からみればちょっと想像もつかない。
そこで急がれたのが電源開発であったが、九電力が発足したといっても料金は経常収支すらつぐなわない状態で、まして新規投資の資金を借り入れることなど、到底おぼつないなありさまであったから、この料金問題というのは結局、開発資金対策でもあったわけだ。つまり急を要する問題であった。・・・・・
それはさておき七割五分の値上げの方針が伝わると、俄然大きな反響が捲き起こった。総司令部(GHQ)がそれゆえに定率償却に反対したことは先に書いたとおり。国会、政府筋も大反対だった。二十六年八月に実施した三割値上げ案では総司令部では賞与費用というケチな項目まで削ってきたが、ともかく実施できた。これが第一回である。二回目二十七年五月の改定の時はさらに大騒ぎになった。このときは僕が反対した電源開発促進法のことも絡みつつあっが、ともかくひどい反対だった。
奥むめおさんが、「主婦連」を作ったのも、確かこの電力料金の値上げ問題からであったと記憶している。
「電力再編成というのは、米国から九匹の乳牛を輸入したようなものである。これに適正な料金を払うということは餌を与えることだ。その飼料を十分与えず、また三度のものを二度にするというのであれば、長く国民を養ってくれる乳はとれない。親牛も死んでしまう。子供が可愛いのであれば飼料代を嫌がるのは間違いである・・・」と参議院商工委員会で奥むめおさんの質問に応えて説明したこともあった。このたとえ話は荒れ狂う国会の反対論を、いくらか沈静させる効果があったようだ。後年箱根で奥むめおさんに会ったとき「アノ松永さんの牛乳論で、私どもは反対の気勢を大分ソガれましたよ・・・」ということで大笑いになった事もあった。以来奥さんとも仲良くなって今日に到っている。
分かっているはずの政府が、私からいわせると全く駄々っ子みたいだったのは政治家の良識何処にありや? と今でも思う。反対の先鋒は安本長官兼物価長官の周東英雄君であった。・・政府側の意向として値上げ反対を伝えに来たが、少しも理論的なことを言わない。私が「しからば電気事業の自立ができなくしておいて、今後の急激な電力需要にどうして応ずるのだ。資金も集まらず採算がとれない形は、単に電気事業だけの問題ではない。日本の復興をどうするんだ・・・」と詰問するんだが、彼はただ急激な値上げだから困る。政治は政府の責任である。といっているに過ぎなかった。・・・・
二十七年の値上げを当初の水準でいうと三割六分五厘にあたり、二回あわせると六割六分になって、最初の目標というか、九電力の希望した七割五分には達しないまでもホボ近いところになる。この二回の料金値上げは、公益事業委員会のやり方が強引なものと世間が取りはやした。大阪に行ったとき、新聞記者が来て、
「電力料金の値上げは政府も反対している。それでも実施なさる積もりか?」
「当たり前だ。政府は何もわかっちゃいない」
「しかし政府は値上げさせないといっている」
「ソンナ政府ならぶち壊してしまえ・・・」
といっておいた。これが新聞に出たから今度は与党が怒り出した。国会に私を呼び出して、ソンナことをいったのは事実か? と聞くから、
「大阪でシャベッタのはそのとおり、趣旨は間違いなし」
と証言したから、今度は議員連が呆れたような顔つきだった。
ともかく国会も政府も値上げには猛烈に反対である。・・・需要家が両院の代議士に働きかけていたのだから、文字どおり天下上げての反対である。しかし結果からいうと賛成者がホンノ一部の学者を除いて全くなかったからこそ二度の値上げが出来たといえる。つまり私一人が悪者になれば済むからだ。
そう考えて私は譲らなかったのだが、その結果、公益事業委員会のなかで強いのは松永であると伝えられ、「電力の鬼」というあまり有難くない名を頂戴した。
二度目の料金値上げの公聴会で広島に行ったとき、・・・三井造船の社長だったと思う人が・・心から納得してもらえなかったようだ。そして値上げには反対であることを申し述べていた。私は「皆さんの立場はよくわかるが、ご自身の産業の利害からのみ論じてはいけない。産業というものはお互いに発展することが必要である。電気事業は基幹産業であるから、その供給力を高めることは国全般に繋がる問題であるから、苦しいでしょうが、大所高所から判断して欲しい・・・」との趣旨を語った。そのとき私は失礼だが戦後の経営者は粒がちいさくなったなあ! としみじみ思った。概ね自己の立場から利害をいっているに過ぎず、経済全般というか、ともに栄えるという考え方がみうけられないことである。
・ ・・・
そんなことで第二回の値上げは二割八分となり、二十七年に実施したが、当初から考えると六割六分五厘の値上がりである。二回分を合算しても約一割私の考えより低かったが、いうなれば、これが定率と定額の償却方法の差である。二十九年まで続いた電力の割り当て制にたいし、経済界の大半は実際は料金の料よりも電力量の量であった。二十六年でも、禁止を目的としているかのような二段料金の高い方を使ってまで操業度を上げていた企業もいくらもあった。朝鮮戦争の影響もあって、景気は上向いていたので物を作れば売れた時代であり、操業度の向上で固定費は下がるのである。・・・
二十九年に割り当て制度が廃止され「もはや戦後でない」と経済白書は三十一年に名文句をハイたが、それにはこの二度の値上げと再編成(電力会社の民営化)が大きく貢献したことを今でも信じている。政府も財政資金で開発の援助を行ったが、値上げによって開発資金が直接獲得でき電源開発が軌道に乗り、電力供給が増加した。またこれによって外資導入も出来るようになったと思っている。
この料金問題と並んで苦心したものに需要増加の見通しを決める増加率のとり方と言うことがあった。・・二十六年以降三十六年までの電力需要の伸び率は平均十一・五パーセントという高い実績になった。・・・私が8パーセントを主張すると・・・経済安定本部では3パーセントだと主張していた。・・・
一方、電力会社に対し職制、機構の点についてこんなことをいった。「大きくすべからず」である。私はその点で各社社長に十分注意することというので一札とった。形式的なことで無論法的な効力はないのだが、いわば肝に銘じてもらいたかっのである。そこで社長連が集まる機会を捉えて、約束する意味で署名捺印してもらった。するとこのなかには社長でなく代理人がきているところもある。こんなところは署名を躊躇していたから少しおかしくなった。
「社長に電話して許可を得ますからしばらく待ってください」
などと言うも人も出る始末である。・・・新電力会社の発足に際しては、なるべく簡素にして経費の節約を図らせる心がけを要望したものであった。・・・運営機構を簡素化することによって、セクショナリズムに陥ることを避けようとしたものだが、その後の実情は必ずしもこの趣旨が貫かれているかどうか、ちょっと疑わしい気もする。
・・・
(p471) なぜ私が電源開発法に反対したか。いうまでもなく国営事業は能率があがらず、したがって経済的でもなく、サービスも悪い。第一自由闊達な民間事業でないと、民族永遠の生命源である人が育たないからである。こんなことを今さらクドクドいう必要はないが、電気事業の国営論は常に出る意見であり、今後も飛び出してくるであろうから(ことに今次の社会党の政策綱領になっている)、電気事業の国営という考え方に触れておこう。・・・