田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

海の幸、山の幸(2010/3/28)

2010-03-28 23:06:53 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
名高い漁場の山陰汐巻に釣りの予定が、中止。
船長さんから、「今日釣りに出たが、まったく釣れなかった。釣れ出すといくらでも釣れるので、今度釣れる時おいで」とのこと。
良心的な船長。
当てが外れた私と工務店のS氏、急遽コーラル丸の釣りに飛び入り。
冒険家のM先生も誘う。

(SOS)

今日は、コンビニ経営のMZ氏とその幼友達K氏も一緒。
K氏は現在は八女で果樹園と養鶏をやっているそうだが、元々は内航船の無線係。
控えめだが、話し出すと軽妙。
「いままで、2度、遭難のSOSを打った。
一度は函館沖で時化になり、側を航行中の800トンの船が荷崩れから転覆。
すぐSOSを打ち、自分の船も救助に。
太平洋航路の大型貨物船もかけつけ、周囲はたくさんの救助の船。
しかしひどい時化で目の前で救助を求めている人を自分の船も救えない。
あわてて海に傾いた船から飛び込んだ人は、海の冷たさに力つきて次々死んでいった。
2名助かっただけ。
秋田から函館まで急遽駆けつけてきた、初代の南極観測船・宗谷がこの2名を救ってくれた。
さすがと思った」等々。
コンビニ経営のMZ氏がアジを引っかけたところでパチリ(冒頭)。

(ワカメ)
アジを家族で食べる分くらいは釣るが、爆釣には程遠い。
甲イカにチャレンジ(失敗)したあと、ワカメ刈り。
先々週私とM先生、たくさん持ち帰って毎日、ワカメを食べているが、美味しい。
長い柄のついた鎌で岸壁に生えたワカメを刈る人、それをタモで掬う人、船が岸壁と適当な距離を保つように鳶口で調整する人と役割分担。
おいしいワカメ欲しさに全員、大わらわ。(下写真)


私は、冷蔵庫にワカメ満タンのため、根っこの部分を一本持ち帰る。
夕食前刻んで金網かごに入れ熱湯をかけると、粘々の美味しいトロロワカメが出来た。
これを熱いご飯に絡めて食べるとなかなかの味。

(畑仕事)
東京孫見物等で、農園の手入れ、しばらくお留守。
冒険家のM先生の畑は草の勢いがすごいとのことで、釣りから帰宅、ひと風呂浴びて、妻と竹田農園に。
カブはトウがたち、黄色い花。
この上に、隣の畝に敷き詰めた枯れ草を乗せ、空いた畝に大根、菜っ葉の種まき。
移した枯れ草の山の下は、草が生長せず枯れ、空いた畝はホクホクのいい土で一石二鳥。
(下はホークで枯れ草を移動させているところ)

この空いた畝、昨年暮れまでヤーコンを栽培していたが、掘り忘れたヤーコンが出て、妻に聞くと、まだ食べれるとのことでラッキー。
畑から収穫の大根、ヤーコン、ワケギを並べてパチリ。


奥のミカンはデコポンでコーラル丸で取ったワカメを土建屋のI氏にお土産と差し上げたら、くれたもの。
物々交換。
数日は我が家の食卓、新鮮な海の幸山の幸。

 今度の日曜日、飲み仲間でバスを仕立てて、国東半島に花見の予定。
竹田農園の隣にお住まいの江藤正翁(88歳、元南海ホークスのエース)もいっしょ。
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小田原の松永安左エ門住居 記念館 東方見聞録(2010/3/21~24)

2010-03-24 22:39:23 | 松永安左エ門の足跡巡り
 田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
東京の長男夫婦を訪ねて孫見物、そのあと、小田原の松永安左エ門記念館、近江八幡と遊んできました。

(今日は原宿、明日巣鴨)

徳島に住む長女から、原宿の表参道にブチ何とかというベビー服の店があり、そこで長男と長女の子供(孫)にベビー服を買ってプレゼント頼むと。
羽田に降りて、山手線の原宿下車、プチ何とかのブランドの店を地図片手に訪ねる。
20代、30代の若者が道路の両歩道にあふれかえっている。
人・人・人さすが、原宿。
世界ブランドのファッションの店が軒を並べているというが、私が知っているのは、シャネルのみで、後は聞いたこともない、商品を見ても良いのか、悪いのかさっぱり分からない。
買い物の後、噂の表参道ヒルズに入り込んで、パチリ(冒頭の写真)。
長男宅で晩御飯をごちそうになり、孫をダッコし、翌日は、ジジババの原宿と噂の巣鴨に。
(下は巣鴨の商店街)

とげぬき地蔵というのがあり、体の悪い部分はこの地蔵の同じ部分を洗ってあげるとよくなるとのこと。
これも人の海の巣鴨商店街のお年寄りの群れをかき分け地蔵のあるお寺に着くと、なるほど、50人程がお行儀よく良く並んで順番待ち。
この門前町のような商店街を覗くと、衣料品の店には還暦祝いの赤いパンツ、食品はケーキではなく、塩大福・干物にこれも順番待ち。
家具屋の店先は和室用に椅子がズラリ。
薬屋も自慢の特効漢方を置いている様子。
妻は干物の質がいいと、干しエビを二袋と塩大福。
私もここなら商品の善し悪しを考えることが出来る。
赤いパンツでなく、赤い野球帽や赤い鍬を置いたほうが、売れるぞと言いたくなる。

(小田原の松永記念館)
松永安左エ門は昭和46年、97歳で亡くなる直前まで、現役で活躍した傑出した日本人。
実業家、茶道家、登山家、文筆家、歴史家、遊び人とどれをとっても、図抜けており、亡くなって40年近くなるが、この方の残した文章は読み継がれており、私も、30年前に買った、松永安左エ門著作集は座右の書。
戦後の25年間亡くなるまで暮らした家が小田原に、松永記念館としてあるというので、訪ねてみた次第。
すぐ近くに大倉喜八郎の別邸をそのまま使った料亭山月でご機嫌の昼食を取り(1500円と安い)、トコトコ坂を下ると松永記念館。
(料亭山月の前で。ランチは1500円、ソバ定食がおいしい。食事+邸内を見学できる。要予約)

松永の著書では「ほんの爺さん、婆さんと女中一人の尻つぼみ生活を楽しんでいる。ふた部屋の家」とあるので、どんな家かと思ったら、最初は二間だったが、建て増しを続け、平屋建ての結構な邸宅に。
しかし、簡素で品がある。(下の写真)

庭も広く、大きな池。
説明員がおられ、故郷の壱岐をイメージしたとのこと。
(池の前でパチリ)

松永の茶飲み友達は、松永は庭作りがうまい、何年か立つと、木が生長し、石が苔むし、金をかけないのに見事な庭が出来ると。
この5000坪の庭園に足を踏み入れると、心が洗われる気分。
竹田農園で焚き火しながら、読書している時の気分。
来てよかった。

(近江八幡)

そのまま、新幹線で下り、近江八幡で一泊。
翌日雨の中、近江商人の邸宅が並ぶ街並みを散策。
何軒か一般公開しており、近江商人の心構えが家訓として紹介されており、読むと「義を先にして利益は後、金を稼ぐのは結構だがこれを世の中の役に立つように使えよ」と。
(この広間は江戸時代、行商用の蚊帳を作る作業場だったとのこと)

アメリカから来た若者が起こした、メンソレータムの近江兄弟社もこの街並みにあり、気品を添えている。
ここは掘割が町を横切る水郷。
説明パネルを見ると、昭和40年代、ヘドロが1.6メートル堆積、悪臭と蚊の巣窟で、埋め立ての計画が進んでいたとのこと。
しかし、町の有志で、ヘドロを浚渫し、立派な掘割の景色を取り戻したのこと。
目先の利益を追えば、国の予算もついた埋め立てをしたほうが正解だが、これを跳ねのけて手弁当で浚渫を選んだ近江八幡の人は偉い。
遊覧船で掘りめぐりの楽しみ、フナずしを昼食に堪能して、よみがえった掘割が地元に観光客を呼び、金を落とさせているのを目の当たりにして、近江商人の心意気は今も健在と感心。
(下は、きれいな掘割を川船で遊覧。1000円/人で3月から乗せてくれる。瓦ギャラりーの横に船着き場。水郷に出る船は4月からがメインでこちらはもっと野趣に富むとのこと)


 夕方には我が家に。
今度の日曜日、山陰汐巻に鯛釣りの予定。
釣り日よりになりますように。
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春の雨(2010/3/15)

2010-03-16 23:14:31 | Weblog
昨日の月曜日、予定していた畑仕事は雨で中止。
前日のワカメを竹田農園の近くにお住まいの、江藤正翁(元南海ホークスエース、88歳)と土建屋のI氏に届ける。
お二人とも酒の肴じゃとニコニコ。
畑は春の雨に打たれて、野菜日に日に濃い緑、休んでいる土は枯れ草に覆われ現在熟成中。
イノシシ除け柵の中の左端はグリーンピース、隣はジャガイモ・まだ土の中、玉ねぎも向こうでスクスク。
全て、無農薬・無化学肥料。
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ワカメ刈り(2010/3/14)

2010-03-15 17:15:22 | Weblog
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
前日の雨もあがり、昨日の14日はコーラル丸で関門で釣りでした。
冒険家のM先生と、別グループの3人の計5人の釣り人。
狙いはアジ、甲イカ。

(コノシロ大漁)

新日鉄の船着き場近くのアジポイントに船を止める。
二日前、同じポイントでアジがたくさん釣れたらしい。
魚探にもはっきりした魚影。
大漁の予感。
程なくして一人がアジを上げる。
そのあとコノシロの25センチ。
アジが釣れると歓声、コノシロが釣れると溜息。
釣れる魚の8割がコノシロで、どうしたらコノシロは美味しいか皆さん経験談。
一番人気は3枚に下ろし、皮から包丁を入れて骨切り、これをから揚げにして、そのままビールのツマミでもいいし、酢漬けで南蛮漬けもいける。
この料理は2週間前、我が家でも初めてやり、アジより人気。
コノシロ、アジを釣ってポーズ。(冒頭の写真)

(ワカメ刈り)
3月は岸壁のここかしこに、ワカメが新しく生えてくる。
これを長い柄の鎌で刈り、波間に漂うワカメを大きなタモで掬うのを皆さん心待ち。
大潮の引き潮どきが狙い時。
お昼過ぎ、川端船長、
「帰りにワカメを採りましょうか」と。
皆さん大喜び。
川端船長の秘密ポイントに船を走らせ、私ともう一人が交代で鎌で岸壁に生えたワカメを刈り、M先生たちがタモで掬う。(下の写真)

前甲板は、15分で新鮮なワカメの山。
これをビニール袋に詰め込み、ワカメ採り終了。

(調理)
今日は魚も大漁で18L入りのクーラーボックス満杯、ワカメもビニール袋2つで、30kgはありそう。
元々の釣り道具が20kgはあるので、合計70kgはある荷物。
これをよっこらしょと担ぐも余りの重さに、50メートル歩いたところでギブアップ、タクシーを止めて城野駅まで。
城野駅では、お年より、障害者用のエレベーターでホームまで。
年とって自分の体を運ぶのもままならなくなるだろうが、一歩踏み出すのに青息吐息で、こんな気分だろうと実感。
小波瀬駅まで妻に車で来てもらって、ようようのことで我が家に。
上り口で今日の獲物をパチリ。(下の写真)

まずワカメを妻と分担して大鍋でサット湯ガキ、茎は甘酢に漬けて食べることに。
湯がいた葉の部分はよく水気を絞って、デパート等で雨降りの時置いている細長いビニール袋にこぶし大にしたワカメを入れ、結びめをつけ、またこぶし大のを入れの繰り返しで3つに分け、冷凍後、結び目を挟みで切って都度食べれるように。
出来上がったところでパチリ。(下の写真)

12本出来、こぶし大の塊は36個。
冷凍庫には保存しきれず、御近所にもおすそ分け。
夕食にワカメをワケギとあえ、味噌汁にも入れて食べると、歯ごたえがあり、美味。
体にもよさそう。
次はコノシロで夕食後作業開始で終わったのは夜中の12時。
我が家の食糧事情は一気に好転。

 来週は孫見物で東京。あちこち観光して戻る予定。
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ナタマメの種(2010/3/10)

2010-03-10 23:08:30 | Weblog
竹田農園で、一番人気のある作物はナタマメ。
ナタマメ茶が、腎臓にいいというので、3年前なくなった父が腎臓が悪いと気に病むので、探したが見当たらず、妻が、種ならあったと、買ってきたもの。
ものは試と畑に播くと、スクスク育ち、この若い鞘をまず私が食べたら、尿糖価が同時期、劇的に下がり(そのころ勤務していたT社の新商品のモニターで用を足した後、尿糖値を測定する便器が我が家にあった)これは、というので、腫瘍の除去手術が必要だが血糖値が230で手術出来ず往生していたラーメン屋のI氏に、半分冗談で差し上げたら、こちらも血糖値が一月後、125に下がり、手術出来たもの。
5年前の話。
I氏の飲み仲間、日ごろの不摂生で、大半が糖尿病と医者の診断で、戦々恐々。
竹田農園で、翌年の夏、この飲み仲間が20人大挙やってきて、バーベキュー。
そのとき畑に生えていたナタマメを取ってきて、そのまま炭火で焼いて、I氏と私が口上を述べて、皆さん、真に受けて、試食。
「これは効果があった」と、自分で栽培する人がいれは、「あのバーベキューの後、450の血糖値が、200に下がった。
あのとき食べたナタマメのせいかねーと、女房と話している」、という人もおりで、農園のナタマメ、初夏のころには、若い鞘をたくさん収穫し、毎月のように繰り返されるにぎやかな宴会のお土産にもっていくことに。
天ぷらにしたり、ヌカ味噌漬けにしたり、おいしい。
蓄膿症気味の人にも効果があり(サンプル一名)で評価は、ジワジワ飲み仲間の間で上昇中。
とくに、昨年は、畑に鋤きこんだ大量の枯れ草効果で、ナタマメ豊作。
2週間、農園に出かけないこともあり、巨大になって、食べそこなうもの続出。
これをあきらめて放置しておくと冬には立派な豆になり、翌年の種になる。
種も豊作。
鞘が枯れて、5月の連休の種まき時を待つばかりのナタマメをパチリ(冒頭)。
「畑に播くから、くれ」、という飲み仲間が数人おり、今後飲み会や釣りのついでに配って回る予定。
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ジャガイモ植え付け(2010/3/7)

2010-03-07 19:03:51 | Weblog
今日は、波浪警報、昨晩川端船長の判断で釣り中止。
海が駄目なら山里があるさ、で妻と竹田農園にジャガイモの植え付けに。
川端船長も飛び入り参加。

(ジャガイモ植え付け)

草をゆっくり腐らせた堆肥と牛フンたっぷりの畝は2週間前、既に準備完了。
ここに私が溝を切り、妻が種イモを置いていく。
今年から、直方のご自宅の近くに畑を借りた川端船長、いろいろと熱心に見物。
25年前に買った立派なヤンマーの耕運機をお持ちだそうで、すぐ追い抜かれそう。
「柔らかないい土ですね」と、おほめの言葉。
そろそろツルが伸び始めた、グリーンピース用に支柱作りも完了。

(杖、釣りざお用竹)

川端船長、近所のお年寄り用に、杖を作っているとのこと。
既に30本作って差し上げたとのこと。
特別な種類の竹で、一本見本をみせてもらうと、根元近く、中ごろの節の間隔が密で、杖にしたときしっかり握れるとのこと。
釣竿にもちょうどいいのではと、言う人もいて、トライしてみようと。
竹田農園の近くにこの竹がないかとのことで、一緒に山道をこの竹がないか探しながらブラブラ。
真竹、トマトの支柱にちょうど良い、細身の竹はいっぱいあるが、この杖用の節の密な不思議な竹は見当たらず、あきらめる。
カッポ酒用の真竹を奇跡の栗の木の近くで一本切り出し、山道に転がっていたクヌギの5メートル程の枯れ木を薪用に引きずりながら船長と農園に。

(90年生きて初めての人)
お昼も過ぎ、畑の横の空き地にバーベキュー用のコンロ、椅子を並べて火を起こす。
先週釣ったアジ、メバルの塩焼き、焼き肉、ビールにカッポ酒。
お隣に住む江藤正翁(88歳、元南海ホークスエース)も加わり、宴会。
昨年秋取り入れのサツマイモもそのまま網に置きじっくり焼く。
「こうしてバーベキューで食べる食事が一番おいしい」と江藤翁。
川端船長は、お酒は飲まない。
体が受け付けないとのこと。
しかし、宴会は好きで、飲み事には若い時からしょっちゅう出かけてきたと、楽しそうに、江藤翁と私の酒盛りしながらの雑談に加わる。
「酒を飲まない人は何人もいたが、宴会には来なかった。
90年生きてきたが、酒を飲まないのに、宴会に加わる人は、船長が初めて」と目を丸くする江藤翁。(バーベキュー風景は冒頭)

夕方帰宅し、明日、関門フィッシングで釣りに行きたいものと、お天気を調べると明日も強い北東風と外海は4メートルの波とのことであきらめる。
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長網良明氏 こわい(畏)友(2010/3/3)

2010-03-03 00:25:58 | 先生・友人
ペンネーム、昔のメキシコのおやじさんから、コメントをいただき、忘れていた、こわい(畏)友人を思い出しました。この友人が亡くなった時の、追悼文(この友人と暮らした小さい学生寮の会報に寄稿したもの)、ご参考です。


長網良明兄を天に送る          昭和48年卒 竹田慶幸
 
 同志会で、昭和46年から48年まで一緒に生活した長網良明兄を、平成11年7月26日天国に送った。61歳だった。亡くなった原因は、脳溢血、前の日までお元気だったのが、次の朝洗面所で倒れているのを、仕事に出ないので心配して一人暮らしの兄のマンションに駆けつけた仕事仲間に発見された。兄も私も偶然に福岡県の北九州住まい、昭和55年兄が北九州市で弁護士を開業して以来、同志会時代と同じお互いに言いたいことを自由に言えるお付き合いを続けることが出来、「私は長網兄の多分4番めくらいの子分だ」と言っていたのが「子分だった」と過去形でしゃべらなくてはならなくなった。
 兄と同志会で信仰を供にし、遅くまで議論し、啓発しあった当時の同志会の友人達とともに兄の事を思い出し、兄がこの世で仕残したことを代りに果たしたいと思い、追悼の文を書くことにした。
 兄が同志会に入寮されたのは昭和46年の秋だったと思う。当時の同志会は定員18名のところに10名程しか寮生がおらず何度も募集をかけていたとき、長網兄が登戸学寮から移って来られた。入寮願書を見ると年齢は33歳とある。同志会の上の階に住んでおられた高瀬先生に相談すると、「君達と年齢が離れすぎてアイソレイトするかも知れない。登戸学寮の舎監の方に推薦書を書いてもらって、それから許可しなさい」とのご意見。登戸学寮の前野先生が推薦書を書いてくれたのを見ると、達筆で「長網兄は性、温にして重、貴会にとって必ずや無くてはならない人物となりましょう」と書かれていた。この手紙の一節は30年たった今も忘れない。
 入寮してからの兄の部屋はいつも誰かが上がり込んで、出がらしの紅茶をすすりながら、兄の豊富な知識に聞き惚れたり、お国自慢を聞いてもらったり、ワイワイと人の絶えることがないありさま。アイソレイトは杞憂であったとホッとした次第。長網兄は中学2年で結核のため入院。中学の卒業証書はお情けでもらったが、高校には行けなかった。10年で退院し、高校卒資格検定試験を受けて、東大を受験、3度目で合格、しかし入学時の身体検査でまだ完治してないと診断され、休学し2年入院という我々寮生には信じられない経歴の持ち主と判明。兄の部屋に居座る寮生は日に日に増えたのでありました。
 昭和47年の春休み、兄は中学の時中耳炎を患い聴力が落ちていたのを、東大病院で見てもらうと手術すれば進行を押さえることが出来る、と言われ入院・手術することとなった。郷里に帰る金惜しさに寮でゴロゴロしていた私と河野兄に付き添いのお鉢が回って来た。手術が成功裏に終わり、同志会の暇な面々が病室に集まって、ワイワイ駄弁っていて、長網兄のこれまでの手術の回数の話しになった。「結核で2回、盲腸で1回、中耳炎で2回etc.まあ、切られの与三郎よ」と兄が話すので皆笑った。兄はどんなに苦しくてもユーモアで苦しさを突き放す強さと巧みさがあった。
 兄は昭和51年同志会卒業となっているが、昭和51年、司法試験に落ちて、郷里の福岡県直方市に戻っている。私も北九州の会社のサラリーマンで、近くに長網兄が戻って来たので喜んで何度も直方のご自宅に遊びに行っては、兄の母上から腹一杯夕食をごちそうして頂いたものである。そのころ兄が言うには、「東大に行く時は病身でも東京に出れば何とか、自活出来る術を身に付けれると思って出た。しかしこうして職もなく郷里に戻ることになって、電車の窓から懐かしい福智山(北九州地方の名山)の山並みが見えた時、思わず涙がチョチョギレタ」とのこと。ここでも兄はユーモアの人であった。
 兄は父上を殊のほか慕い愛していたようである。同志会でのダベリングの時「兄弟3人で近くの町に父に連れられて出かけたことがあった。その時父が3人にアイスクリームを買ってくれた。あの時のおいしさは忘れられない」と話してくれた。兄が甘えるような気持ちを外に出したのは、私の記憶ではこれが最初で最後である。
 兄が弁護士を開業したのは北九州市であった。当初、どこかの大きい弁護士事務所の雇われ弁護士を考えていたのだが、たまたま私が日曜集会で毎週お邪魔していた山口伊左衛門先生の所に一緒に相談と挨拶に行った時、「最初から独立してやりなさい」と励まされ開業、しかし仕事が無く、電話とお客を待つ毎日。時々山口先生から仕事をまわしてもらって食い繋いでいると兄が話しておりました。山口先生は弁護を頼まれても報酬のことはとやかく言わず、出されたお金を黙って受け取る、欲のないお賽銭弁護士と言われていたそうだが、山口先生も兄の事を「僕とよく似ている」とよく私に話してくれていました。長網兄もお賽銭弁護士だったようです。
 葬儀が終わって一週間して、長網兄の兄上から、兄と親しくしていた方に集まってもらって偲ぶ会を持ちたいと案内があった。下関に住む、同じく同志会の岡崎新太郎兄と一緒に出かけて行った。税理士、司法書士、不動産鑑定士、中小企業経営者といった方が10人程集まって、長網兄を酒の肴に大いに食い・飲み・しゃべりました。弁護士は一人も来ていない。兄の地位・肩書きと無関係に誰とでも心底対等に付き合う人柄を改めて認識した。皆さん、「長網弁護士が、右と言えば確かに右に、左と言えば左に結果はそうなった。結論・本質を見抜く洞察力は誰にも真似出来ない。あんな弁護士はもういない。」「会社の顧問弁護士をお願いしていたが、代わりの務まる人はいない。もう顧問弁護士はおかない」「一人で亡くなっていたので直ぐ警察の検視があったが、担当官がああ惜しい人を亡くした、いい先生だった、と話していた」とのこと。同志会入寮の際、「性、温にして重、貴会にとって必ずや無くてはならない人物となりましょう」との前野先生の推薦の言葉の正しさを改めてかみしめて会場を後にした。
 長網兄亡き後、同志会精神を間近に感じさせてくれる唯ひとりの人になった下関在住の岡崎新太郎兄も私も、時がくれば天に召される。その時まで、回りの人から無くてならない人だと思ってもらえる人生を送りたいものである。

下は、昭和48年の早春、同志会近くの小石川植物園で。向かって右が長網氏35歳、左がtakeda23歳



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農園に春(2010/3/1)

2010-03-01 16:29:51 | Weblog
昨日釣った、関門のアジ、竹田農園でバーベキューと思ったが、朝から雨。
大根を取りに、車で出かけ、5分でバイバイ。
林の外れの紅梅・白梅いまが花盛り。
紅梅は、梅の実を取ろうと25年前に植えたもの。
梅の実は出来たりできなかったりで当てにならず。
白梅は長男の幼稚園卒園記念に幼稚園からプレゼント。
これも25年前に植えたもの。
図体は大きくなったが、これも梅の実はさっぱり。
しかし、ともに花は見事。(冒頭の写真)
手前の木はカリンの木。
これも喉にいいと、30年前植えたもの。
一年おきだがしっかりたわわに実をならす。
カリンの木の手前、色が変わっているのは、畑の堆肥用に、お隣の土建屋のI氏が
2トンの草を山積みにしてくれた跡。
素晴らしい堆肥が土にしみ込んでいるもの。
今年のカリン、鈴なりの予感。

12月初め移植したイチゴ、スクスク(下の写真の手前)。
これも12月に播いた大根も今が取りどき(下の写真の、イノシシ除け柵の向こう)。
枯れ草の山は、半年もすると、立派な堆肥になり、土に戻る。
病気に強く、栄養満点の健康な土が出来上がる。
春先のうっとうしい草の防御にもなるという、一石二鳥のすぐれもの。
土建屋のI氏に感謝。
コメント (2)
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