田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

高下遠征隊 父の随筆(2022/9/5)

2022-09-05 22:08:10 | 戦前・戦中の日々
台風11号の接近で、今日は我が家で台風対策。
物干しざおを地面に置いたり、車庫の補強柱を取り付けたり。
準備が終わり、家でゴロゴロしていると、横浜に住む妹から、亡くなって15年になる父の随筆が古いパソコンから見つかったとの連絡。
 父は誰が読むともなしに、原稿用紙に思い出話を書き散らしていて、読んでみると面白いものがいくつか。
 私が気に入っていたのは、小さいとき友達と冒険で田舎に遠征して、迷子になりかかり、なんとか戻れて、父の母親(私の祖母)の顔を見て泣き出したという話。
 小学校の時の思い出話の「進軍ラッパ」も印象的な随筆だが、この迷子の話も、それと匹敵する小品。
 しかし、この迷子の物語は、私のパソコンからは消え失せ、妹に聞いても、分からない、しかし、今日出てきたというもの。
 下のような随筆です。

   高下遠征隊      竹田光雄

 私の物心がついたころ、多分五歳くらいだったのだろう(1928年 昭和3年頃)。私は大坪通りに住んでいた。家は小さな駄菓子屋だった。その頃父は二階で、手動の手袋製造機を使って手袋を編んでいた。
 この近所には実に多くの腕白小僧がいたものだ。私たちのガキ大将は「ターチャン」であった。口は立つし、力も強かった。
ある日のこと、このターチャンが「高下というところは魚がいっぱいいるんだ。そしてそれが手で何ぼでも取れるんぞ。わしもよーけ取った。」とのたもうた。私たちはそれを聞いて、「じゃあ、わしらにも魚が取れるか」と「取れらい、何ぼでも」「お前、高下に行く道知っとるんか」「知っとらいや」とターチャンは胸を張った。「行こう行こうや」となって、早速意見がまとまった。しかし実際に出かけたのは、ターチャンと米屋の寛ちゃんと私の三人だけだった。大坪通りを北上すると旭町に出る。角に白石煙草店があった。旭町を東へ、当時は木造の総社橋を渡り、祇園さんの前から一路東へ、少し行くと鳥生の町を出て外れる。北も南も東も見渡す限りの青田、青田の田園風景が続いている。麦が穂を出しかけていたから、多分初夏の頃だったのだろう。先頭は無論ターチャンである。とある川に当たると、ターチャンは、「この川の先がそうじゃと」と指差した。深そうな川で葦が沢山繁っていた。さあもうすぐだと私たちは張り切った。「ここじゃ」とターチャンは叫んだ。無惨やな、ターチャンの言う高下は満々と潮の満ちた入り江ではないか。「何? これが高下か」私たちはポカンと海水の満ち満ちた入り江を眺めた。ターチャンは「ウーン」と言ったまま土堤にひっくり返った。私たちも同様だ。入り江の向こうの海辺に大きな松が一本、その下に小さい小屋があった。空は青々とよく晴れて、時々白い雲がゆったりと流れていた。いつまでもこうしておれず帰途についたのだったが、何故かターチャンは元の道には出なかった。
 ターチャンはがむしゃらに麦畑を歩いていく。「どこへ行くんぞ」「帰るんじゃ」ターチャンは振り向きもせずに、麦畑をどんどん進む。私たちもその後に続く。「あそこの大川まで行くんじゃ」その頃の大川土堤には旧藩時代に植えられた松が数百本、数千本、いや数万本大きく聳えて私たちの目には黒々と長い松並木として映っている。これなら道に迷うことはない。土手には人家は一軒もなかった。やっとこさ辿りついたが、大川の手前には御物川が流れている。小さな私たちは渡るに難儀をした。大川の土堤は砂盛なので、ズルズル崩れて実に難儀だった。お互いに手を取り、体を押しあげてやっと堤防の上に出た。もう時間はとっくに昼を過ぎている。この時、私たちは凄く腹がすいているのに気がついた。流石我等のリーダー、ターチャンである。「待っとれ」と言ったかと思うと土堤にある大きなイタドリを取ってきて私たち二人に食わせてくれた。それから野バラが沢山あったが、その芽を摘み取って皮をむくと結構軟らかく食べられた。私たちは大満足した。
 家に帰ったのはもう昼もかなり過ぎた頃だった。家の者は誰も心配はしていなかった。その頃はこんなものだった。
 ターチャンの本当の名前は知らないし、その後どうなったのかもわからない。


 私の記憶では、最後は祖母の顔を見て、突然父が泣き出し、祖母は驚いていたが、何も言わなかったというラスト。この小品は、妹が父の許可を得て、かつて妹が作ったホームページ(今は消滅)に載せたもので、父はラストを書き換えたものと推測。書き換えない方が良かった。
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父の台湾出兵記 3/3 (2021/1/8)

2021-01-08 16:09:09 | 戦前・戦中の日々
既に83歳で亡くなった私の父が22才、台湾に出兵した時の出来事を、終戦から40年たった62歳の時、住んでいた四国今治の同人誌、ひうちに、寄稿した記事。
 コロナで自宅でゴロゴロしていても暇と、捨ててもよい本を整理していて、見かけて、貴重な当時の記録なので、ブログに残しておくことにしたもの。
 これが最終稿。

 印象に残ったのは、13隻の輸送船が護衛艦3隻に守られて、台湾の高雄からサイゴン目指して出港したものの、父が乗った船が故障で一隻取り残され、修理しているうちに米軍機の大規模な爆撃で港内に沈没、その時は、高雄市内に上陸しており、乗る船もなく、結局台湾にとどまることになった顛末。
 出港した残りの船は、全滅したと噂された。(ネットで調べると、無事サイゴン近郊の港にたどり着き、現地解散。)
当時は生きるか死ぬかは紙一重の運とよく分かる。

空襲中、要塞内部の地下壕に居た。今日の空襲は可なり大規模だ。時間が長かった。外の様子は全く分らない。終って出て見ると、この日の敵の主目標は海岸交通施設と停泊船舶の様である。帰途下山路から諸所に薄い黒煙が上っているのが望見された。火気は見えなかった。内港には相当数の大小船舶が沈んでいる。これはひどいと思った。私の乗ってきたと思われる一際大きい船が貨物港沖合二百米位の所で、白日の青い海に座りこんでいた。真横に見える。逆光にきらきら光る水面と舷がすれすれである。ブリッジ丈が水上に塔の様に立っていた。後日この沈没船はやはり私逹の乗船と判明した。こうして私達は船を失ってて陸上に残された。行先のない浮浪部隊になった。武器のない飯許り沢山食うお荷物部隊に成り下っ た。高雄空襲に当って友軍機はー機も見なかった。この後二月中、南方行きの便船を待って高雄で待機したが、内地からは遂に一隻の輸送船も此の港に入らなかった。船がないとも言い、又来る船すベて撃沈されて着かないのだとも言われた。真相は分からない。戦況はどうなっているのか? 通報は何もなかった。指揮系統も解らなかった。いつごろだったか、高雄市中のどこであったか、或船団の最期をきいた。
昨十二月二十七日、高雄出港の船団は正月三日、海南島沖で護衛艦隊が飛行機で先ずやられ、四方に散った戦力のない輸送船は待ち伏せていた敵潜水艦に時間をかけてゆっくり、一隻又一隻と嬲り殺しのようにやられ、殆んど全滅したと云う。私達は輸送船の沈められ方に、 やり場のない悔しさに身の置き所がなかった。獲物を狙うハンターの残忍な笑いを憎んだ。南海の制海、制空権が最早彼の手にある事は明白である。此の風説をきいた時、それは俺達の船団だとは言いそびれた。唯十二月二十七日出港だけを確かめた。風説の原出所は判らない。
出港の日の故障。パィプのひび割れが私達の生と死を分けた事は間違いない。終戦直後私の父は愛媛県庁復員関係機関で私の所在を確かめた所「佛印のサイゴンに居る」と言われ、生存を信じて一安心したそうである。これは私が転属命令地のサイゴンに到着した事を意味するから此の全滅説は単なるデマだったのだろうか。現実には以上の経過を辿って私はサイゴンへは到着していない。そして後に台湾軍に編入された私達の経歴は内地に伝わっ ていなかったのである。


もう一つ印象に残ったのは、台湾で配属されたキールンの高射砲部隊の隊長が、兵隊を点呼していた父を何度もビンタをくらわして罵倒したことがあり、それ以降、行動は将校団とは距離をおいて、兵隊と寝食を共にすることにしたとのくだり。解は現場にありで、手ごたえと自信をもって生きるには、一番確実な手を22才の父は見つけて選んだと、感心。

それから間もなく、週番士官勤務中の日朝点呼で、兵の整列している前で、私はいきなり殴られた。理由は何だったか忘れた。「貴様等若憎の幹候は学校出ているだけで将校になれたのだ。実力は星一ツか二ツだ。その亊を忘れるな。実力だけの事をしておればよいのだ。俺は貴様達は兵隊だと思っている。将校面はけしからん」と 酒の匂いをプンプンさせながら罵られた。列兵は顔色もかえずに見ていた。私は兵の方に真っすぐ顔を向けていた。私は以来大竹に復員して尾道に復員列車で下車する迄隊長のいる将校団には要務以外、必要以上には寄り付かなかった。その間殆んど兵と行動を共にした。そして幹候は本当に星一ツか二ツの実力しかないか、よく見ろと頑張った。これは私一人の心意気の積りであった。軍隊は メンコの数が物言う世界でもあったのである。


↓ 原稿全文 とても長い


こどもたちへ(第三回)
——おやじの二十二才——

第三章空の守り

 昭和十九年十二月二十七日、出港の朝。今朝はいつもより早く起き、甲板に出る。少し曇りの様だ。本船の目と鼻の先に海軍がいた。びっくりする。護衛艦隊がつくとは…知らなかった。昨夜迄はいなかったのである。全船の眼が艦隊に集中した。軍艦。此の鉄の城はどうして、こんなに我々の血を騒がせるのであろぅ。日本独特の櫓檣(ろうしょう)が高々と聳えて見える巡洋鑑一隻。とに角大きく堂々と見える。ねずみ色の艦体に記傷や汚れはなかった。重巡か軽巡か私には解らない。大口径二連装の大砲が心強かった。そして後部カタパルトに搭戤された艦載機一機が私達の目を惹いた。ねずみ色一色の艦体の上に高々と乗った飛行機がいやにはっきり見える。黄色か白色か銀色であったか? 艦体と異なった色で目立ったのである。何故迷彩をしないのか不思議に思う。側に小さく駆逐艦が二隻寄添う様に並んでいる。全将兵、思わず色めき立った。此の護衛艦を見た時、私は我等の連合艦隊の健在を 疑わなかった。無敵艦隊未だ健在なりと頼もしく思う。軍艦マーチが思わず口をつく。台湾沖航空戦以来レィテ戦の戦果を信じて疑わなかった。一方には海没を常識とする矛盾と合せて私には戦局の行方はどうなっているのか、よく解らなかった。無装備で此処迄来た船団に一転して、これだけの艦隊を付けると云う事はバシー、南支那海の渡海が如何に困雜なる状况にあるかを雄弁に物語っている。又この十三隻の船団が南方作戦にとって、かなり重要なものだと思われた。
 時が来て、各鑑船の煙突から薄く煙が上り、先頭に巡洋、それから駆逐艦、輪送船と一隻一隻と錨をあげて、ゆっくりと出て行く。そして港外で船団を組むのであろう。私逹の乗船も錨をあげた。次は俺達かと思い乍ら出港して行く船団を眺め乍ら何とはなく、体を熱くしていた。最後の一隻が出て行ったが、私逵の乘船は動かなかった。動く気配は全くなかった。「どうした」「……」将校以上兵員は殆んど甲板に出ていた。今迄港内にぎっしりといた艦船の姿は既になく、広い水面が広がっていた。重苦しい沈黙と不安が船中を覆った。ざわめきとどよめきが湧き上り、瞬く間にともからへさき迄全船騒然となった。
高いブリッジの手摺りにかなぐりついた鈴成りの兵逹からか?「エンジンパィプにひびが入った」と波のうねりの様に、唸りの様に此えてきた。信じられなかった。思わずブリッジを見上げる。古船ではない。新造船なのだ。油圧か気圧の急激な上昇の為だったろうか。いつかの夜の故障で漂流した事を思い出した。流言だと思った。次に修理はすぐ出来る。に簡単に出来る。応修理完了次第船団を追及すると矢次早に伝えられた。護衛は付くのか。 誰かが叫んだ。護衛なし。何処からか伝わってくる。顔が強ばった。私達はつい今迄目と鼻の先にいた巡洋艦と駆逐艦の雄姿を思い浮べた。此の日飛行機の護衛があったかどうか覚えていない。何機か上空にいたようにも思うが定かでない。どこからか「わあッ」と喚声があがった。あとはシーンとした。顔を見合わせる許りで、お互い落ちつかなかった。正午がきた。修理はどうなっているのか。何の情報もなく待機、船倉におりる者はいなかった。そして夜がきた。翌朝迄には修理が出来る。翌朝出港追及と決定。一隻だけの単独航。と次々と情報が伝わってくる。私はもうこれで終りだと思った。護衛なしの鈍足船では船団追及はむつかしい。敵潜水艦の巣バシー海峡、南支那海は单独では乗切れない。対空兵器は何もな い。不安のうちに夜が明けた。護衛艦なしの迄の高雄迄の航海にそれ程不安は感じなかったが、一度び軍艦の姿を見ると、とたんに護衛がつくか、つかぬかで心は不安に揺れ動いた。この夜は仲々寝つかれなかった。
 廿八日晴れ。エンジンパィプの被害は意外に大きく修理は三日かかると伝わる。被害の場所や状況の詳細について発表は何もなかった。修理完了次第出港すると云う。絶望感決定的となる。誰もあまりしゃベらない。だまって飯食って寝て起きる。士気はどうだったか覚えていない。が旺盛とは言い難かったろう。関心は唯一つ。出るのか。出ないのか。
これ等の情報は別に船長からも、輪送指揮官からも正式に発表されたわけではない。だが軍隊内のロコミの正確さには本当に驚かされる。そして早い。風に乗って現れ、あっと言う間にどこかに行ってしまう。私は此の情報源がどこにあるのか知らない。兵と兵の間には一種の精巧な伝達組織がある。彼らの耳にはアンテナ、目には 望遠鏡、口にはスピー力―としか言い様がない。だから 此の時は、何か新しい情報はないかと私の方から兵に間いた。兵には部隊を越えた連携があるようだ。何か命令か指示が出されていたのであろうが、記憶していない。変な話だが正式情報は何も党えていない。当然小川隊長から船内幹部会の様子を間いたようにも思うが余り記憶はない。或は隊長丈が知っていてもらさなかったのかも知れない。
その夜二十二時。警戒警報発令。寝込みを叩き起こされ、いきなり下船退避命令が出た。全船騒然、眠気もなにも吹っ飛んで目が冴えた。装具全部を持って船中に一品も残すなと命令される。兵の行励は退避訓練など問題にならん程早かった。船内点検、隊の最後に甲板に出る。陸地部に灯火見えず。敵機情報全く伝えられず不明。舷側に僅かに照明あり。足下覚束なし。海面には唯喑が拡がっていた。
 私は此の数日的から下痢を起こして体にカが入らなかった。食事も朝から少ししか取っていなかったのである。 熱も痛みもなかった。渥美衛生軍曹から下刺止めを貰ったが完全にはとまらなかった。非常呼集の緊張感があった。下船タラップ一ケ所にて牛歩、遅々として進まず。 順番を待つ。その間に又下剰が起こる。幸いブリッジの傍だったので、急いで船員用の便所に行く。帯革、軍袴、 袴下、褌、拳銃、鉄帽等々と何と紐の多いことか。狭い 便所の中で、軍刀をぶつけたり、大図のうがおちたり、うんざりする。大型の九四式制式拳銃は放り拾てたかった。幸によごさずに用を足して軍装を整える。装着競争でもこんなに真剣に急いだ事はなかった。この間に隊は下船してしまいはせんかと随分気がもめる。一 時間もかかった様な気がした。
 小汽艇が船と陸地をピストン輸送していた。上陸で終りかと思ったら、それから夜行軍が始った。小川隊の指抑は隊長から私に委ねられた。隊長も体調を崩しているようである。暗闇の中のアスファル卜を蹴とばすような激しい軍靴の音を立てて暗の中を各部隊が四列縱隊で駆け抜けて行った。吐く息づかいが激しく私語する者もなかった。両側並木で路巾は広かったが人家は少なかった。 途中で又下痢が起こる。横の隊長と木村伍長に耳打ちして、左側の暗い畑に走り込む。芋畑か?大きな畝がきってあった。これが昼間であったら見られた図ではない。誰かに感謝すべきであったろうか。幸いに此の時小休止の命令で漸くの事で隊に帰る。今思うと人の顔が見別けられたが、警報下に何処に照明があったのだろう。街灯 でもついていたのだろうか。行軍再開。軍刀と図のうを吊った带革が下痢腹に食い込む。たまりかねて軍刀は肩にかついだ。それからも随分歩いた。高雄郊外を目指しているのであろう、どことも解らない所で大休止かかる。 私語する者もなく、ごろりと地上に横になるとそのまま寝入った。眼がさめて見ると、バナナ畑の中である。朝になっていた。曇り空であった。近くに農民の泥練瓦造りの粗末な家がバナナの葉陰に数戸あった。そこで顔を洗って少し気分が落ちついた。しかし疲労と空腹の為か 皆ボケッとしている。何となく起きているという風であった。木村伍以から異常なしと報告がぁった。握り飯が出た。腹を押えてみたが、別に異常はなく下痢は治ったようだ。小川隊長も疲れているのか余り話はしなかった。 下船命令以後、爆音は全く聞かれず、空襲はなかった。何の為の下船退避の強行軍か割り切れなかった。状況も地理も全く不明で言われるままに動いた。
 甘九日午後快晴。船に帰らず。高雄新駅前の邦人小学校に移る。児童の姿はなかった。各隊幹部は小学校傍の二階建邦人クラブに入った。入口の広い部屋の中に玉突台が一つポッンとおかれていた。長く使われていないのか、薄くほこっていた。此の日は輪送指揮官以下千六百人裸になってシラミ取り作戦を展開、校庭一杯に散開、褌一つになっての大作戦であった。私も襦袢を引くり返してシラミを取ろうとするが、そのいる所が判らない。夏襦袢の色が南方向きに迷彩色のワサビ色なので余計分からない。いないと思ってい着るとモゾモゾとくる。全くやり切れない。見ていた関東軍にいたという見習士官が笑い乍ら教えてくれた。日にすかしてみると、白く光ってみえるので虫も卵もはっきり解る。いるわ、いるわ、どうしてこれが判らなかったのだろう。馬鹿じゃろかと思った。縫い目という縫目、釦穴という釦穴にびっしりと卵が一杯である。一般家庭の人に想像出来るだろうか。 中には褌の縫い目に迄びっしりといて始末に困っている奴もいた。縫い目をそのまま上から爪で押すとピシビシと連続音である。白い光っている丸い卵。久し振りに皆でわいわいがやがやと笑い声をあげた。潰れた卵は平たくなって仲々とれなかった。十三日以来今日迄風呂に入ってい ない。シラミの卵は人間の体温では三日位でかえるそうである。だから増えだしたら早い。取りきれない。高雄の気温が適温でこの二~三日中に急に増えたらしかった。 輪送指揮官以下兵に至る迄夢中でシラミに挑戦した。ノミ取りで毛づくろいしている猿の集団に見えた。本日始めて清水で体を拭う。
 初空襲に会う。小学校庭の露店堀りの幾重にも続く堅壕に急いで飛び込む。上空を飛ぶ敵機が自分丈を狙って飛んでくる様に錯覚する。誰も同じと見えて壕の壁にピタリと体を張り付け、鉄帽を被って恐る恐る南東から 北西に向う双発双胴のP38を見上げる。かなりの高度だ。 水平飛行である。続いて低くP51七機の編隊がきた。初めて見る米軍機である。頭上を迎過した。市街上空で編隊を解いた。高雄防空隊の対空砲火を初めて見る。市街方面に射擊音と爆弾の破裂音が聞こえる。P51のすぐ後に高射砲弾の爆煙がポカリと浮いた。数連射で終った。いい着弾点だ。風はなかった。P38は飛行機雲を残して あっと云う間に南に消えた。P51は編隊を組んで無傷で帰った。P38は威力偵察の様にも思えた。水平飛行を崩さなかったからである。兵一名、二十粍機関砲の不発弾を拾って、もてあそび、手の指三本を吹きとばした。輸送指棟官から不発弾発見の時は直ぐ届けろと命令が出た。 何人かの兵が直ぐ届けてきた。長さ十糎程の茶色の機関砲弾は味方のか敵のか私には見ても判らなかった。拾った現場は校舎逛のブールだと云うので行って見たが水は一滴もなかった。水浴びの期待は見事に外れた。
三十日快晴。午前警戒警報。直ちに空製警報に切り替る。我々の所在は高雄中心街、内港、要塞や旧高雄貨物駅から数キロ南東に離れた新駅付近の軍事施設もない所なので、前日同様目標になることもなく、大した事もあるまいと、皆たかをくくった幹部一同クラブの二階で^暑さにうだって昼寝をきめこんで、起きようともしなかった。兵に指示もしなかった。輪送指撣官、各隊長は別の所にいた。軍規全くたるむ。全く軍隊といえるものではなかった。兵も小学校舎に宿営して幹部と同じような状態であった。少数が自発的に壕に入ったようである。がこれは私の推察である。実戦を知らない私達の愚かさであった。飛行機はこの高雄の防空隊に任せておけ、俺逹は関係ないと思っていた。
 爆音が近づいてくる。防空隊出身は小川少尉と私である。眼は閉じていたが飛行機には関心がある。単発音ではない。編隊音である。爆音の近付き方が昨日と違う。航路角零だ。つまり真上に来るのだ。それも高度はあまりない。早い。近い。他の速中は素知らぬ顔で寝ている。
私はこれは危ない。退避するには遅すぎる。まさかとは思うが鉄帽だけでもかぶるかと廊下に這い出した。もう一人私の後に続いた。ヒュルルーンと変な音が耳を掠めた。やられたと思った。鉄帽を頭にやると同時に廊下に伏せた。頭を伏せ切らぬうちに、目の的に真っ赤
な紅蓮の火柱が下から上に向って凄い早さで噴き上った。目前の一間巾のガラス窓一杯に火焰がパット横に広がった。音がしたかどうか覚えてない。ただ火、火、火である。部屋に ゴロゴロ鲔の様に転がっていた連中が飛び起きた。階段に殺到する者、反対の窓から屋根に飛び出る者。声はなかった。右往左往。一瞬の出来事だった。真赤な火の色が美しかった。油脂黄燐焼夷弾だった。あれだけの火柱と焰の拡がりと至近弾であったのに二階はガラス一枚割れなかった。クラブの裏庭に落ちたものであった。五、六米で直撃一巻の終りであった。あちこち油脂黄燐がベタべタついて、いつまでもメラメラと焔をあげた。民家の人達も手がつかず唯騒然としていた。各隊の兵が各幹部の身を心配して、多数かけつけ幹部の装具行柳 を二階の窓から下へ放り出したり、焼夷弾の消火に当った。駆けつけるのが早かったので彼等は近い校庭の壕にいたのだと思った。前日に飛来した敵機の恐らくは空中撮影によって、校庭の露天壕にうようよ入っている我々を確認しての攻擊ではなかったかと想像した。クラブの留守番が最近空襲も多くなったがこの辺に爆弾が落ちたのは始めてだ。高雄への焼夷弾も初めてだと話していたからである。機種、機数、投弾の状況全く不明、何も彼 も不明、不明で空襲は終った。とんでもない防空将校だと一人くやんだ。幸いにして部隊に被害はなかった。これが小型五十瓩(キログラム)にしろ爆弾であれば無傷ではすまなかったろう。後に此の五十瓩(キログラム)爆弾の至近弾はキールンで初めて経験。前から襲来の爆風で五、六米吹っ飛び瞬間の意外の風圧に体中がしめられて、息が止った。
 年末三十一日晴れ。渥美衛生軍曹が小川隊長に報告に帰った。此の船に乗った衛生下士官はたった三人であった。 余り少ないので私は嘘だろうと言った。三人はともかく少ないのは事実だったようだ。渥美軍曹以下各隊の衛生兵は船全体の衛生管理の為、輸送指輝官の直接指揮下にいた。此の船から上陸した時点で下痢患者が多発、発生の模様で、中でも重症の三人は赤痢の疑もあって、高雄陸軍病院に二十九日入院させた。翌日病院に行くと入れた病室にいないので、病院事務室に聞いたら知らないという。正規の入院手続きが終っていたので、そんな馬鹿な事があるかと、慌てて病院中を走り廻って探したが見当らず、困り果てて若しやと重症病棟室に行って見ると、 廊下に毛布をしいた丈で寝かされていた。ホッとして行ってみると別に何の手当てもしてない様であった。しっかりしろと激励して、これは大変だと輸送指抑官とその兵の所属部隊に報告に帰り、その翌日早く薬を持って重病楝に行くと彼等の姿はなく、又慌てて探して見ると今度は三人共霊安室に安置されていたと云う。三日で三人の生命はあっと言う間に消えた。病院には南方戦線からの患者、戦傷者が溢れて収容し切れず、治療するにも適当な薬が不足して、治撩が行き届かず、唯べッドに寝ている丈だと云う。ベッドのない者は毛布を敷いて廊下にそのまま横になっていると云う。その方が涼しくてベッドよりは楽なんだと言っていた。軍医も衛生兵も手当の仕様がないのだそうだ。あれではどうにもならん。本当の処置なしだと軍曹は泣き笑いの様な複雑なしかつめ面をしてため息をついた。是を聞いた連中は皆そんなに本当にひどいのかと念を押した。そして顔を見合わせて、改めて私達のおかれた立場を振返った。後日軍曹たちが手続きをして遺骨は病院に預けたと言っていた。私達の船から出た最初の戦病死者であった。遺族にはどんな知らせが行くのであろう。私の下痢も下手をすればと思うと背筋が冷たかった。三種混合注射が利いたのかも知れない。自分の事として胸に此の話を刻みこんだ。病院の状況から南方戦線の激烈、酷烈さが私の考えている様な生優しいものでない事がうかがえる。
 元日と二日は静かにすぎた。船からの連絡は何もなかった。修理もどうなっているのか' 私逵には全く解らなかった。エンジンパィプの亀裂がどの程度であるか知らないが、すぐ直ると問いたのに、時間がかかりすぎると、不思議に思った。故障からもう一週間になる。或は川南エ業の技術の欠如か。材料の粗雑さかと考えた。後にキールンで、トヨタの四屯貨車の始動発電機の磨耗した連動コロ、十数個を取替えに公用出張で出した兵はすぐ帰ってきた。部品はなかった。JIS規格、SR60の棒鋼を指定。製作の方法、寸法を指示したが、材料がなかった。仕方なく、台北に自動車掛天野兵長を派遣、漸く目的の部品を製作、入手した。天野兵長はコロ製作に関連して台湾の民間鉄工所の技術は互換性のネジが作れないと併せて報告した。信じられなかった。が大変重要な報告だと受け取った。
 終戰直前、新式十糎臼砲の試作に成功したから見学に来いと軍司令部から台湾軍各部隊の兵器掛に召集がかかり、台北郊外の松山にある台湾一と言われるその工場の鋳造工場に出向いた。工員は一人もいなかった。一門の鋳鉄パィプを加工したと見られる簡単な製品がおかれていた。一見てき弾筒を大きくしたようなものであった。軍司令部の若い少佐参謀が苦心の開発談や、その機能、取扱法、更には新臼砲による対米ゲリラ作戦の展開を張り切って説明した。ー人で担送できる軽量と正確な射角を規定する分画器が画期的だと言った。私は後の方で工場を観察していた。広さは三百坪もあったろうか。大量の黒い鋳物砂。五屯級と見られるキュポラ。建物の内外に積まれた多数の鉄製鋳物型枠。これだけの設備を持ち乍ら此の臼砲製作に軍参謀が苦心したと言うのが不思通であった。考えられる事は材量不足と鋳造技術に連携する鍛工、施盤、熔接等の技術者、技術水準の低下ではないか。今では、私は此の輸送船の故障を修理するには台湾の鉄の技術が徹底的に不足していたと思っている。
正月三日晴。昼前警戒警報発令。輸送指部官の命令で 小川隊から高雄耍港司令部に命令受領に行く。私が出た。道順をクラブの留守番にきいて、自転車を借りて行く。市街地に入り、高雄の中心街に出て北方の丘稜に向う。途中空襲警報発令。あのサィレンの音は何時きいても嫌なものである。広い道路に人影なし。走り易いわいと委細構わず飛ばす。誰かが兵隊さんと呼んだ。ちらっと見る。防空壕からだ。壕は道路端に高さ二米位のぺトンで固めた卜—チカの様に見える。突然P51が道路の真上を 南から北へと飛び乍ら掃射して来た。真後ろからいきなり轟音がおそって来た。始めての経験。乗っていた自転車が横倒しになった風も提灯もなかった。そのまま道路脇の雨水溝に肝を潰して転げ込む。体を横にして無理矢 理体を半分捻じ込む。軍刀と図のうが邪撖だった。ビーン、ビーンと鋭い金属音を立てて目の前を機銃弾は道路を斜に突切って、デパートの白塗りのコンクリート壁にめり込んだ。道路から白煙が上った。跳飛する銃弾。飛行機の降下音と射撃音。本能的な恐怖感で体が硬直した。短いが長い時間。爆音が消える迄動けなかった。それでも目だけは浅い角度で上昇する敵戦岡機の後尾を見てい た。爆音の消え去る方向に耳を澄まして、安全を確認しながら目に泌みる白い壁のめくれた弾痕をなぞって見た。弾丸は見えなかった。数十糎の間隔をあけて、下から上へ斜に並んで、白塗りのコンクリー卜に丸くあいた弾痕に見える地肌のねずみ色。弾痕は意外に大きかった。機銃ではなく機関砲だったかも知れない。白昼の夢でも見 ている様で、腑抜けの様になっていた。誰も出て来なかった。気を取り直して自転車に飛び乘りー目散に走った。空襲の合間を狙って、飛行機に追われながら司令部にたどりついた。 
 受領者はまだ揃っていなかった。若い少佐が早口で命令を下逹した。もっとゆっくり言えと言いたかった。どこかの曹長が復唱した。私は半分も聞きとれなかった。少佐が退室した後で、一番若そうな下士官をつかまえて半分写しとった。どんな命令だったか覚えていない。どうせ大した命令でなかったのだろう。それにしても早口の口頭命令を書き取る下士官の命令受領の腕には感心した。帰って掃射の話はしたが肝を浪した事は黙っていた。
高雄要塞司令部は高雄市街北部の海岸部の丘睦にあった。要塞施設はどうなっているのか私の目には判らなかった。多分地下に総てもぐっているのだろう。全山緑に覆われていた。全市街、内外港が一望出來る景勝の地でもあった。南麓の登山口附近は公園にでもなっていたのか 高雄神社もあったと思ったが私の思い違いかも知れない。日本人住宅街も山麓を走る鉄道沿線に在った。後日桃園防空に当っていた頃、高雄大空襲中との情報を聞き、急遽高雄に向った。そして此の日本人住宅地を中心として電話器、電話架線を片端から収集して大隊の通信施設を整備した苦い思い出がある。爆裂の廃墟と化した町に、死傷者は見当らなかった。トラックニ台分収集した。
 空襲中、要塞内部の地下壕に居た。今日の空襲は可なり大規模だ。時間が長かった。外の様子は全く分らない。終って出て見ると、この日の敵の主目標は海岸交通施設と停泊船舶の様である。帰途下山路から諸所に薄い黒煙が上っているのが望見された。火気は見えなかった。内港には相当数の大小船舶が沈んでいる。これはひどいと思った。私の乗ってきたと思われる一際大きい船が貨物港沖合二百米位の所で、白日の青い海に座りこんでいた。真横に見える。逆光にきらきら光る水面と舷がすれすれである。ブリッジ丈が水上に塔の様に立っていた。後日この沈没船はやはり私逹の乗船と判明した。こうして私達は船を失ってて陸上に残された。行先のない浮浪部隊になった。武器のない飯許り沢山食うお荷物部隊に成り下っ た。高雄空襲に当って友軍機はー機も見なかった。この後二月中、南方行きの便船を待って高雄で待機したが、内地からは遂に一隻の輸送船も此の港に入らなかった。船がないとも言い、又来る船すベて撃沈されて着かないのだとも言われた。真相は分からない。戦況はどうなっているのか? 通報は何もなかった。指揮系統も解らなかった。いつごろだったか、高雄市中のどこであったか、或船団の最期をきいた。
 昨十二月二十七日、高雄出港の船団は正月三日、海南島沖で護衛艦隊が飛行機で先ずやられ、四方に散った戦力のない輸送船は待ち伏せていた敵潜水艦に時間をかけてゆっくり、一隻又一隻と嬲り殺しのようにやられ、殆んど全滅したと云う。私達は輸送船の沈められ方に、 やり場のない悔しさに身の置き所がなかった。獲物を狙うハンターの残忍な笑いを憎んだ。南海の制海、制空権が最早彼の手にある事は明白である。此の風説をきいた時、それは俺達の船団だとは言いそびれた。唯十二月二十七日出港だけを確かめた。風説の原出所は判らない。
出港の日の故障。パィプのひび割れが私達の生と死を分けた事は間違いない。終戦直後私の父は愛媛県庁復員関係機関で私の所在を確かめた所「佛印のサイゴンに居る」と言われ、生存を信じて一安心したそうである。これは私が転属命令地のサイゴンに到着した事を意味するから此の全滅説は単なるデマだったのだろうか。現実には以上の経過を辿って私はサイゴンへは到着していない。そして後に台湾軍に編入された私達の経歴は内地に伝わっ ていなかったのである。台湾、内地間の交通は杜絶。連絡も全くなかったと断定出来る。以上で海南島沖で全滅したと言われる船団は私達も含めてサィゴン転属命令による内地出発の十二月十三日迄解っているがそれ以後は甲府の全陸軍留守業務部隊には終戦時全く資料が届かず推定で処理されていたのである。全滅していれば私は当然戰死になつている筈だ。而も行きもしないサイゴンに私は居る事になっている。十二月二十七日高雄出港の巡洋艦と駆逐艦の名を私は知らない。戰史を調べれば、此れだけの手掛りで全滅説の真偽は解かれるだろぅが私は知りたいとも思わない。
私はこの全滅説をきいた時、私逵の乗船が沈んだ高雄の正月三日空襲と関連があると思った。恐らくは南方各地を中心とした全戦線的な米軍の戦略作戦の一環だろうと思った。この後に米車は呂宋島に大作戦を展開したからである。速合軍が欧亜に用いた常用戦略でもあったのである。
 こうして内地から台湾へ無防備七隻の船団が護衛艦なしで無傷で高雄迄迎りついたのは、此の戦役終末期に於ける内地発進の南方輸送作戦の中で台湾に到着した唯一最後の成功であったろうと私は思っている。残念乍ら後半に、一は高雄港に、一は海南島沖に殆んど同時に沈みはしたが。その高雄迄の成功の條件はどこにあったのか。それは朝鮮西岸を北上、南下を秘匿し、大陸沿岸を南下する航路の新着想により米軍の意表をついた意外性にあったのであろう。此の作戦をたてたのは誰であったのであろう。この作戦の完壁さは作戦期間中空襲、雷撃共に一度も受けなかった事が明白に證明している。敵機、敵潜の目を完全に脱れたともいえる。反面その間、一隻の友軍艦船漁船も見なかったのは内地ー大陸―南方の,海上交通が此の時点で完全に杜絶していた事を意味する。これは又此の航路を選んだ作戦の常識を越えた意外性をよりよく明示していると思う。或は米軍の作戦と次の作戦の空白期間と空白地域を運よく我等の船団は順調に通過したのかも知れない。昭和五十七年正月に四十年振りに会った同窓生の医師雑賀晴彦が「阪大時代の教授に大東亜戰争中昭和十九年末期に台湾に到啬した輸送船は一隻もないと常にきかされていた。それなのにそんな例があるとは…」と繰返し繰返し不思議がつていた。これで私は益々此の作戰の優秀性を確信した。普通、鹿児島からキールン迄の三日航路を私達は十日間の大陸沿岸迂回航路を取ったのである。
 高雄上陸後ー週間はどんなに暑くても(午前十時には 三十度Cを越えた)汗が全く出なかった。顔が赤くなって体が火照るだけである。熱発のデング熱かマラリヤにでも罹ったかなと思ったが、一週問たつと今度は体中汗が吹き出して、それからは正常に庚った。
高雄に待機中は専ら戦局は噂で口から口に伝えられた。真偽いずれとも判らなかった。風説の一つにこんなのがあった。軍人専門の飲食店に肉を食わせる店があると聞いて、見習士官許り四人で出掛けた。肉は水牛の黒い焼肉であった。冷えると独特の臭みがあって喉につかえた。この店で合流したフィリッピンから飛行機で休養に来たと称する特操見習士官二人の話。耳よりの話であった 「日本の勝利は確保された。アメリヵの屈服は時間の問題だ。何故ならば見えない飛行機が今殆んど完成されている。第一段階としてフィリッピンに投入されるからだ」 その原理はなんだと聞いたら飛行機に当った可視光線を完全に吸収して反射しない新塗料が発見された。それは飛行機に塗った塗料の被膜を可視光線が抜けて飛行機の胴体に沿って屈折して向うへ抜けて行ってしまうんだ。 だから反射光線がないから見えないんだと云う。彼は人間がマントを着た姿で更に説明を加えた。二十二才の安気な私達は納得した。日本の科学技術陣を信頼した。彼等は又殺人光線の話をした。陸軍技術本部で開発、突験中で三十米の距離で、ねずみ一匹を瞬間に殺す威力があるという。不可視熱線だといった。突用化は時間の問題だと断言した。いつ、どこで、なにが、なにを、どうしたと條件の揃わない話を何故信じたのだろう。ニコニコ笑い乍ら話す彼等の話をきいていると信じたくなるのだ。 神戸安田隊の将校連がマッチ箱位の大きさで、戦艦一隻が沈む爆弾が出来るとか、東條が余り威力が凄いので、その製造を中止させたとか、京大段原博士が実験中失敗して死んだので、その後継難で中止になったとか話していたのを思い出した。ニ十年八月の広島新型爆弾の情報で第三中隊室修少尉(岡山)が原子爆弾だとすぐ言明した。松原大隊長は新型爆弾に耐える壕を早速作れと私に命令した。が私には見当もっかなかった。私達の大隊には原子爆弾の言葉すら室少尉以外は知らなかった。片山中尉はそんな壕なんか出来るものか、好い加減にしておけと笑っていた。
 透明飛行機、殺人光線、恐るべき小型爆弾の真相は私には解らない。唯言えることは陸軍で、唯一の機甲整備学校で国軍の機甲車両の劣悪さを休験、特に訓練用に使用の支那事変初期の一~五号戦車にふれた時、更に血の一滴と言われた石油が如何に枯渴しているかを知った時に、この戦争は勝てないと信じた。が心の中に勝ちたいという願望が渦巻いていたことも事実である。塗料を塗るだけで、見えなくなる飛行機。どんなぼろでもよい。たった一機あればよいのである。
 一月下旬兵を引率、映画館に行く。以前内地で見た内地の時代物であった。明るい画面で結構面白かったが題名は忘れた。帰路やたらと新品少尉に会う。部隊敬礼を行う。そのうち顔見知りの新品少尉に出合う。おかしいなと思ったが仕方がないので、その度に部隊敬礼を行う。相手は照れたような顔をして答礼した。宿舎で他の連中にきいてみたら、俺もだという。彼奴は俺達と同期の筈だと皆いう。衆議一決。俺逹もと即日少尉の軍装に改めた。任官の申告はどうしたか全く党えていない。私達の分は任官と同時に予備役編入、即日應召の予備役少尉 である。
 乗船の沈没以後、及び高雄及び北方の要塞化された海軍基地小尚岡山。地対空戦斗が激しくなっていった。高雄海軍武官府も直撃弾で破壊された。此の時、武官府の白壁に 人間の手の皮がスルリと脱けて手袋の様にペチャンとひっついていたという話には凄みがあった。民問の被害も漸く表面化していたが本格的に破壊されたのは私達が去ってからであった。
待てど暮らせど南方行きの便船は得られず、私達ごく潰し部隊は遂に台湾軍編入を下令された。これは内地—台湾-南方間の船団による渡海作戦は不可能を意味した。私達は台湾に閉じ込められたのである。こうして一ッ釜の飯を食った混成部隊千六百人は四方に散った。小川隊はキールン防空隊独立野戦高射砲第八十二大隊に転属と決定した。
この当りから何月何日に何があったか、日附は忘却の彼方に消え去ってしまって、忘々漠々としてくる。
 キールン防空隊に転属すれば、最早戦斗部隊であるから自由外出も出来ないだろう。高雄出発前夜、自由外出も今夜限り、柔肌に燃ゆる血潮にふれもせで、花散る無念も手伝って、誰言うとなく、誘い合わせて、血気の連中数人市内にあるという慰安所に出かけた。ほの暗い照明に渦巻く煙草の堙、嬌声、身動き出来ぬ程にひしめく兵の群れ、一種独特の喧騒、一階、 二階の回廊にずらりと並んだアンべラの仕切りに先ず唖然とする。奥へ、二階へと兵をかきわけ進む毎に、度々巡察と間違えられて何とも云えず妙な気分であった。突然腕を摑まれて「兵隊さん二十円」ときた。白いワンピース一枚で裸足の色黒の台湾女性に、雰囲気も情緒も何もあらばこそ、下士官、兵専用の場違いに又々唖然。連中と共に闇の中を空しく引揚げた。
 キールン港東岸の山中、松本記念会館に置かれた大隊本部で大隊長に転属の申告をすませ、神戸以來密封携帯していた小川隊転属命令関係書類は木ノ宮大隊副官に提出した。
 夜の歓迎会食も酣の頃大隊長平野大尉は私の後に来て、右がよいか、左がよいかと私の首筋をなでた。気合いを入れられるなと思った。右は痛いと思ったので左がよいと答えた途端「此の横着者が」と大喝一声凄い力で殴られた。目から火が出た。大隊長は左利きだったのである。 後は何回か間をおいて殴られた。二十回位迄は数えていたが後はあほらしくて勝手にさせておいた。同席の連中は笑って見ていた。私だけかと思ったら大隊本部将校全員が私と同じであった。最後は輪になって踊り乍ら隊長の後へ交替で歌拍子を取り乍ら一人づつ交替で入り代わり立ち代り、一回宛殴った。見ていると撫でる位であった。いつも御開きはこぅして終る例だと後できいた。腹も立っていたので私は思い切り拳を振った。途中台北出張から帰って来た大隊指揮班長作戦室主任が帰りが遅いといきなり隊長に殴られた。此の人が意外や意外、私が教育された昭和十八年度神戸幹候補隊教官網本義包(神戸)その人であった。私は奇遇に驚きもし喜んだ。軍隊生活中に「お前達は可哀想だな」と言ってくれたのは後にも先にも此の人だけだった。今の神戸大学横から秋の見事な紅葉の六甲を越えて有馬に下り武庫川沿いに宝塚迄行軍した思い出は今でもはっきり覚えている。行軍といっても遠足の様なものであった。教官の私達への慰安の為の思いやりであった事は私達によく解っていた。暖かい心の持ち主であった。
会食後私は植村小三郎軍医(盛岡)と同室になった。四十過ぎの此の人は大変温厚な方であった。私は今でも此の人と網本未亡人には年賀状を差し上げている。余りの隊長のひどさに驚いて聞いてみたら軍医は事もなげに、「此の部隊が鯖江で編成以来ずっと此の調子ですよ」と笑っていた。「しかし今日の様なのは始めてです。特別です」「どうして又」ときくと「年寄り許りの所へ若いのが二人も来たから嬉しかったのでしょう」と言う。嬉しくて殴られたのでは堪らんと思った。
 平野隊長は神戸の安田中尉とはまるで正反対の人物であった。特別志願の大尉で凄いワンマンであった。数多い台湾軍防空隊の中で、自ら対空射撃のた第一人者称して憚らなかった。平野隊は十九年台湾沖航空戦でキールンを襲った敵艦載機グラマンを市民の目の前で鲜かに撃墜破して見せた。キールンは地形的に防空し易かった。キールンは大した損害はなかった。市民は勿論軍も官も此の時から平野隊長に絶対の信頼を寄せた。私は職務上台湾 人と接する機会が多かったが、老若男女を問わず絶賛の言葉(日本一もあった)を数多くきいた。中にはパラシュ―ト降下の米兵を捕えた武勇淡を練返しきかせてくれた台湾人もいた。
 彼は常に駿府徳川の旗本出身を称して誇りとしていた が真相は怪しかった。劣等感と優越感が同居していた。 傍若無人で朝から酒気をプンプンさせていた不思議な人物であった。織田信長の前に戦慄した諸将はこんな具合いかと思われる程私は勿論将校連中は大隊長の鼻息を窮って戦々恐々としていた。大隊長と食事していると飯の味がしなかった。一人だけ朝から酒杯を離さず隊長の酒が終らないと私達は箸が取れなかった。隊長が箸をとらないからである。陸軍礼式令がこんな所で睨みをきかせていた。新品少尉の私はいつも飯付けをさされた。飯揚げはしても飯付けをする従兵をつけなかったのである。隊長が留守の食事はのんびりして大変楽しかった。大隊でもずばりと口をきいていたのは経理の片山中尉位であった。山口高商卒の世界を股にかけた商社マン出身の此の人は後年大手商社の重役で活躍した。終戦迄任務上、陰に陽に此の経理さんには助言、忠告を戴き、特に経理面では好意的な取計らいを戴き助かった。台湾人団体護国団、キールン在郷軍人会、桃園郡守等の交渉の時等陰から随分援助して戴いた。
それから間もなく、週番士官勤務中の日朝点呼で、兵の整列している前で、私はいきなり殴られた。理由は何だったか忘れた。「貴様等若憎の幹候は学校出ているだけで将校になれたのだ。実力は星一ツか二ツだ。その亊を忘れるな。実力だけの事をしておればよいのだ。俺は貴様達は兵隊だと思っている。将校面はけしからん」と 酒の匂いをプンプンさせながら罵られた。列兵は顔色もかえずに見ていた。私は兵の方に真っすぐ顔を向けていた。私は以来大竹に復員して尾道に復員列車で下車する迄隊長のいる将校団には要務以外、必要以上には寄り付かなかった。その間殆んど兵と行動を共にした。そして幹候は本当に星一ツか二ツの実力しかないか、よく見ろと頑張った。これは私一人の心意気の積りであった。軍隊は メンコの数が物言う世界でもあったのである。
 後に平野隊長の行動は志願将校の独特のタィプだと知った。新竹州桃園に移駐してから、大隊副官をつとめた井ノ口少尉(福岡)は平野少佐(進級していた)が大隊長から台北に展開していた高雄高射砲連隊に栄転ときまった時、これで平野少佐とおさらば出来ると思うと嬉しくて嬉しくて思わず笑い出したくなって、口元がゆるむのを少佐に悟られまいと苦労したと泌々と私に話したが全く同感であった。一番ひどくやられたのは身近にいた副官井之口少尉だったのである。前副官木ノ宮少尉は免副官の命令が出た時、私と同室していたが喜んでその夜は私と祝杯をあげた。
 復員後多くの人々から将校に如何に、いためつけられたかと言う話許りきかされた。将校が直接兵を制裁する事は滅多にない筈だが余りその話が多いので、俺の部隊は兵より将校の方が余計やられたと言っても、誰も信用しなかった。して見ると平野大隊長は規格外れだったのだろぅか。
 翌日、第三中隊厚地隊に私の同年兵で千葉陸軍防空学校に入校した早川一也(徳島)木内常三(茨城)がいるのを知った。後日木ノ宮副官の設営で一夕キールン市中の日本料亭で三人だけの宴を張り旧交を暖めた。彼等の渡海経験談。沖縄本島沖で朝五時頃大爆発音をきいて、 甲板に飛び出したら、煙が一筋しゅるッと上って、隣の船がなかった。轟沈である。少年航空兵が乗っていた。甲板に放列をしいた高射砲で、潜望鏡狙って水平射撃 (僅かながら俯角六度がとれる)をしたら、砲弾は波を切って海面をけんけん飛びして、遥か彼方へ消えて行った。処置なしであったと。夜更けて静かな人影絶えたキールン海岸を高歌放吟して歩いた。久し振りに晴々した
日本桜の枝伸びて花はアジヤに乱れ咲く
意気で咲け桜花上るがい歌の朝ぼらけ
明日は初陣軍刀を月にかざせば散る桜
意気で咲け桜花僕も散ろうぞ華やかに
咲いた桜が男なら慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け桜花朝日に匂う八重一重
此の一夜は誠に楽しかった。
 取敢えず私は作戦室に配属され網本中尉の指揮下に入った。副官木ノ宮少尉に私の任官月日の確認を依頼。勝手に小尉の軍装をしているのが気になっていたからである。私の学校卒業の官報告示は本部事務室でみた。懐しい名前が九十九名並んでいた。一人一人名的を確かめた。内地部隊は東、中、西部三軍から各四名、他は関東軍、支那派遣軍である。彼等は今いずこの戦野で戦っているのであろう。任官の分はなかった。後日、何処で調べたのか一月十日であると知らせてくれた。官名詐称かと思っていたが安心。そして転属命令書には最終的にはビルマ方面軍転属が誌されていたと教えてくれた。此のあとにイン、メン国境に圧迫される弓、烈、祭の苦戦を台湾軍司令部内に特設の軍防空司令部より直接通報される「防 空情報」で知る度に独りで心を暗くした。
 作戦室勤務の初めての任務は、軍司令部に出張、軍参謀市川少佐の編み出したという、いわゆる市川式戦法の習得であった。軍参謀はこの時点で、米軍の台湾上陸作戦を想定していた。それは我が軍を最も悩ませる米軍の歩兵戦車M 4協同作戦に対抗する最も有効なる戦法であると云う。講義の後、台北練兵場で市川式戦法の演習を実施。数多く作られたタコツボを素掘りの地下道で連絡した地下陣地に潜み、敵戦車に随伴の歩兵をタコツボより狙擊して倒し、そのあと迅速に地下道を経て、他のタコツボより又歩兵を狙撃して倒し己の所在を秘匿して、これを繰返して敵戦車を弧立せしめ、約三米の柄をつけた二キログラムの円錐体爆雷を持って、タコッボより素早く出撃、戦車に挺身、これを爆破する戦法である。この特殊爆雷は特に円錐体の底面方向に向って強烈な爆破力が集中するように設計され、百粍の鋼鉄板に約十糎径の貫通孔をあける威力があった。演習経験の範囲では、歩兵との協同作戦中の戦車の時速五㎞前後の時は、タコツボよりの 戦車攻撃は可能であるが、それ以上の速度の時は戦車に追い付けず、肉迫出来なかった。戦車単独の時は四十㎞をこえた。出撃が早すぎれば空しく戦車のえじきになった。従って相当の訓練を積んでも成功率は甚だ低いと私には思えた。爆雷を装着した竹の柄を持ち上げると爆雷の重みでぐっとしなった。走れたものではない。参加した各部隊の関係将校も狐につままれたような顔をして参謀の顔を見ていた。質問も殆んどなかった。キールンに帰って隊長に報告。翌日本部の将校、下士官に対して市川式戦法の講習をした。爆雷の実物がなかったので平面、断面、側面各図を描いて説明。古手の下士官二~三名が終り迄見当がつかんとぐずぐず言った。実際本当に解ら んのかどぅか私には判然としなかった。新米の私に対する嫌がらせだろうと私はいい加減で打ち切った。後で各人に戦法の感想、可否を聞いてみた。実戰に使えるのかと疑問の声が多かった。私は机上の空論だと断定した。平野大隊は市川式戦法の準備はしなかった。
 本部事務室から約百米北方の独立峰に大隊戦闘指揮所が置かれていた。厚さ一米前後のぺトンで固められた仲々見事なものであった。ここからは外海からぐっと入り込んだキールン港は勿論のこと、市街全域が一望のうちにあった。港をとりまく丘陵地带三ケ所に布陣した各中隊の対空射撃の様子も一目で把握、指揮できる絶好の要所であった。事務室と指揮所の中間の小広場に船舶用七高が一門据えられていた。木ノ宮副官が分隊長となって通信兵、衛生兵のうち、非番兵を指撺していた。この分隊長も副官から私に交代。大隊長からは目標直距離千米以内でなければ絶対射撃してはならんと厳命された。高度、航速、航路角の射撃三元もなく砲手教育を殆んど受けていない各兵を指撺して、素人同然の私は三式曳火瞬発信管を一秒半に切った砲弾を込めた砲を手で右だ、左だと押し、高低角を上げ、下げと指示しながらうろうろする変則の大隊長直轄分隊をあずかる事になった。その後、私の任務は転々と変った。
 私の軍歴から大隊の自動車班は私の指揮にまかせられることになった。トヨタの新車であった。一くせもニくせもある面魂を持った自動車兵はうさん臭げな顔をして 私を迎えた。私は自動車行軍に当って、操縦席、助手席には座らなかった。操縦席の後の荷框に立って指揮した。命令違反の操縦に対しては絶対に許さなかった。「今度の新品少尉はうるさい奴だ。昼ばっかりじゃないぞ」と聞こえよがしに凄む奴もいたが無視した。うすぐもりの或朝自動車兵が一台の貨車のまわりで騒いでいるので行って見ると、朝の定期機関調整に当っていて始動電動機 (セルモータ)を幾ら踏んでも電動機は作動するが機関本体はピリッとも動かなかった。あちこち点検したが、 原因が解らないので騒いでいたのである。
 暫く兵達の後から眺めていた。彼等は結局、セル釦を踏むばかりで「おかしい。昨日迄どうもなかったのに…」と思案投げ首のようである。私は素早く考える。原因は 何だ?燃料はあるか?燃料系統は?気化器は如何?蓄電池容量はどうなんだ? 二次線輪ははずれてないか?点火時期は? 空気調節は? 点火栓は? 空気清浄機は大丈夫か? 始動電動機から機関本体への伝道系統は大丈夫か?結論はすぐ出た。トヨタ新車と旧車との相違点を思い出して見る。もう一度兵達の操作している様子をじっくり観察する。そして電動機の伝導部の故障と確信、直ちに分解を命じた。兵逵は電気関係はむづかしいので手がつけられんと 尻込みしたが強行。数日後、前記天野兵長の台北派遣で作ったコロを交換。始動。私の緊張は此の一瞬にあった。機関は一発で快音を発した。片唾を呑んだ周りの兵達がどよめいた。兵は操縦だけで車の構造、機能、修理手段 を充分に習得していなかったのである。
 小川少尉は此の部隊に転属した時、下痢で体調を崩して、歓迎会食のあと、二日間寝ていた。例の平野大尉は病人がいては隊の士気に関わる。起きれないのなら入院させろと隣の室でわめいた。植村軍医の声は問えなかった。小川小尉は黙って天井を見つめていた。照空隊出身の為砲隊将校となるベく第二中隊配属となった。台湾北端八斗子の電探基地からの敵機襲来の通報が増すにつれて東北岸の要衝ギランに第ニ中隊は派迆されて、キールンを離れた。此の時築城掛中村中尉(中学時代の恩師黒木由之助に風丰言動がよく似ていて、何となく親しんだ)が第二中隊付となり、私がその後任となった。申し送りを受けた時、中村中尉は平野大尉の言う事なんかフンフンと柳に風と吹き流しとけと日焼けした顔に、白い歯を見せて笑い乍ら忠告を残して去った。
 そして此の後、若いからと云うだけで大隊築城掛、兵器掛を主任務として戦斗中は監視掛や大隊本部警備掛も兼ねた。平常には本部の被服、陣営具、炊事掛もやれと次々と諸の掛の兼務を命令された。戦斗、平常任務を使い分けて日夜席の暖まる時はなかつた。
小川隊の兵は各兵種毎に本部、中隊に夫々配属された。小川隊はこうして平野大隊に編入された。
 戦野を馳駆する筈の軍直、野戦高射砲隊であり乍ら、脚のない動けないダルマの様な船舶用七糎高射砲十八鬥( 一本部、三ヶ中隊)を持った此の妙な大隊長を戴いた不思議な部隊で要港キールンの防空、そして八飛師、誠隊の特攻基地桃園飛行場の防衛、防空と終戦迄、殆んど連日防空戦斗に明け暮れるに事なつた。昭和二十年三月十五日で私は満二十三才になった。あれからもう四十年の歲月が流れた。 (完)
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父の22歳の時の台湾出兵記 その2 (2020/12/17)

2020-12-17 14:24:24 | 戦前・戦中の日々
 コロナのステイホームで、時間を持て余して、たまった本の整理をしていて、このまま捨てるのは、もったいないと思いなおした、既に亡くなった私の父が、終戦後40年62歳の時に書いた出兵記。当時22歳の時の台湾出兵の体験談。大牟田の三池港を出港、アメリカ軍潜水艦の目を避けて、幸運にも台湾の高雄港にたどり着いた船中記。
 3回に分けて掲載されており、これは第二回。
 私が面白かったのは、出港して、兵隊の人数の半分しか救命胴衣がないと分った時の顛末。

 皆黙ってブスッとしていた。一体どうしたのかな?と 思い乍ら撫然と座っている隊長にきいた。隊長は黙って 私の顔を見返した。そしてかすかに「ウン」とうなづいた。私の同年兵、木村伍長が答えた。「唯今、救命胴衣を受領してきたのでありますが、員数が足りません。半分しかありません」と困ったような顔をした。これで事情が呑み込めた。私の役割りは唯一つと即座に決断した。中段座席に上ってみると、そこに誰も手をつけぬ古ぼけた救命胴衣が稹まれていた。分配方法がきまらなかったのである。私はすぐに「隊長殿」と救命胴衣の山から一つ取上げて押付けた。「兵に渡してやれ、私はいい」と隊長。「取って下さい」「渡してやれ」と何回か押問答があった。小川少尉はいつかな受け取ろうとはしなかった。周りの下士官、兵が黙って私達二人を見つめている。 当時の我が海上輪送路は海空の激しい敵の攻擊に爆されていた。そして此の船団には護衛艦が一隻もつかなかった。その為誰もが此の船団の内、どれかが必ず、いつか 海没すると言わず語らずのうちに、思いこんでいた。或は全滅も…と思った。無事か、海没か、運命は誰にも解らない。そうした状況の中で思いもかけず、救けの神、 救命胴衣が目の前に現われたのである。そして員数不足であった。皆が皆、とに角現物を手に入れたいと切に望んだ。勢い目の色も変ってくる。時と場合によりけり。 己の命はこの救命胴衣一つにかかる事になる。真剣な皆の切羽っまった気持ちが痛い程私の胸に迫ってくる。隊長が思案したのは無理もなかった。如何に分配するか、 持つ者と持たない者の気持ちを考えて決断しかねたのである。事態の収集は私の役である。「隊長殿、考えて下さい。隊長殿が取らなければ誰も取れません。それに海没の場合、隊長殿が沈んでしまってはどうにもなりません。その時にこそ隊を掌握して下さい。指揮官がいなければ隊はどうなりますか。是非持って下さい」小川少尉 は暫らく黙っていたが漸く受け取った。けれども不機げんにみえた。小川少尉が兵に渡してやれと言うのは隊長としての部下に対する情である。隊長に真先に救命胴衣を渡すのは補佐する私の情であり、立場であり、任務である。それから下士官、体力の弱そうな兵と渡した。胴衣の当らなかった元気な兵達には「俺の廻りに来い」と別に私の周囲に集めた。「無い物は無いのだ。文句があるか。隊長殿には最後迄指揮を取って貰わねばならん。海没の時は俺から離れるな。俺が一緒に死んでやる」死んでやるに力を入れた。ぐるりと周りの兵の顔を一人一人のぞき込むように見た。皆黙っていたがウンとうなづいたような気がした。顔色が何か一寸明るくなった様な 気もした。何だか芝居をしているようで気が引けたが、 そんな事を言っていては、これから先何もできんと割切った。悲想感が急に胸にこみ上げた。私と下士官、兵の間に一つの絆ができたようにも思われた。黄海の冬の水は冷い。今海没すれば、我々人間は五分と持たない。人間は十度以下の冷海水の中では心臓麻痺を起す。救命胴衣なんか邪魔なだけだ。と思っていた。此の夏東京越中島の海洋訓練で学んだ。

 この話は、私が父と今治で一緒に暮らしていた中学か高校生の頃、一度聞いたことがある。「救命胴衣のない兵隊に、俺の周りに来い、一緒に死んでやると言うと、本当にゾロゾロ沢山周りに兵隊が集まってきて、正直、ぞーとして気持ち悪かった」とのことでした。

 以下は、全文、とても長い。



こどもたちへ(第二回) 同人雑誌の「燧(ひうち)」第6号掲載。昭和60年3月
おやじの二十二才

第二章海征かば

昭和十九年冬十二月十三日、出発第一日、船は渺々(びょうびょう)たる東支那海を一路南下の途についた。九州は遥か水平線の彼方に消えていた。乗船出港の興奮も悲哀も、いつの間にか鎮静、船内の空気が落付いてから、部隊付衛生下士官が忙しくなった。腸チフス、コレラ、赤痢、の三種混合注射、天然痘の予防接種実施、これで南方要員千六百人は愈々南方戦線に赴く思いと覚悟を新たにする。混合注射針の大きさに驚く。気温が下ったのか、一寸寒む気がする。まだ皆は甲板にいる様だ。兵の姿もまばらな船倉に私はのんびり寝ころがっていた。
軽く閉じた瞼に思わずも浮かんでくる、未知の米軍の戦力は信じ難い程凄まじかった。加古川できいたガ島戰線から帰った病院下番古兵の話を思い出していた。戦車のキャタビラの下に蹂りんされた戦傷の動けない兵……鬼畜米軍……。前線部隊から送られてくる対米戦斗詳報、 対米情報を集大成して編まれた「米軍常識」=在校中の㊙教範=中に誌された膨大な資料。戦車、火砲、航空機、 自動火器等彼等の陸戦兵器の威力、上陸用舟艇(LST型舟艇は三千屯あった)の能力、更に雄大な作戦は文句なしに無言のぅちに私を圧倒した。米軍反攻の始ったガ島以来、常に戦車を先頭に、自動小銃、手榴弾で武装の歩兵十人程を従えた我が軍とは異質の新式攻擊歩戦協同作戦は旧式の日支大陸戦と勝手が違って日本軍を悩ませた。水陸両用M4 (ブル)の前面装甲は実に百粍であった。砲口初速秒速七百米を誇る我が軍の37粍対戦車速射砲弾は、いとも簡単に弾き返された。対M4に有効な徹甲弾「た」弾は完全に不足していた。我が軍に重戰車はなかった。我が軍の中戦車の前面装甲は僅かに二十五粍。話にもならなかった。張子の虎同然で、戦車戦は望むベくもなかった。応急対策は唯一つ。たこ壷による小銃狙擊(対歩兵)挺身爆雷(対戦車)攻擊であった。三八式歩兵銃、九九式騎兵銃では彼等の自動小銃に対抗出来なかった。マレー作戦に威力を発揮した対戦車攻擊の「ち」弾<毒ガス弾?>は国際法規にふれ、英国の通告に屈して、使用は中止された。十九年の守勢一方の太平洋戦線の我が守備隊に対する米軍上陸作戦は先ず、
第一に、我が軍の伸びきった戦線を分断、攻擊目標を孤立せしめ、
第二に、強力航空機動部隊を主力として制空権を確保、
第三に補助艦化した戦艦、巡洋艦を総動員長時間にわたる艦砲射擊を実施。我が軍の一発の反擊に十発の応射を加えた。我が軍は亀の首の様に引込まざるを得なかっ た。我が軍は損粍をさけ、兵力温存の為、艦砲射撃に対して只管沈黙を守った。水際邀擊の為構築した我が軍の トーチカは激しい敵弾の振動で、さんご礁の水際の浅い砂の上で、ぐるりと百八十度転回、後ろ向きになって役に立たなかった例もあった。
第四(最後)に、我が渾を圧倒したと見るや何百隻と数梯団に、上陸用舟艇を発進せしめ、広く、深い縦陣で 押し寄せた。
我が軍の水中、水際防御施設は数時間にわたる一回の戦斗で消耗、あとが続かなかった。そして橋頭堡が作られた。そのあとは我慢と斗魂しか残らなかった。援軍を送る術はなく、緒戦の我が航空戦略は影をひそめた。「米軍常識」に収められた太平洋戦線の物量作戦経過を示す数十枚の戦斗詳細要図を見た丈で、教官も学生もウーンと目を見張る許りで多くを語る必要はなかった。米軍は一作戦に使った消耗品(銃器さえも)捨てて顧みなかった。私達は銃口蓋、水筒栓に至る迄員数確保に悩まされた。物量不足は私達が身を以て知っていた。機甲整備学校では、私の所属区隊は五十台の車両を持ち乍ら、部品不足、燃料不足の為指揮官車(小型四輪駆動)以下ニッサンキャブ、イスズ、トヨタの四トン貨車等五台しか実動しなかった。近代戦の原動力、血の一滴と言われたガソリンも人工再製油で天然油ではなかった。それも少量割当であった。両手にすくった油は真っ黒で、手の平が見えなかった。その黒いガソリンさえも確保は容易でなかつ た。
 現役引退の訓練用八トン牽引車が太平洋戦線に再び緊急転用され、その壮行会が校内の機甲神社前で全校をあげて盛大に行われたが、まもなく輸送船諸共太平洋に沈んだ。今迄にアッツ、タラワ、クヱゼリン、サィパンが玉砕、幾多の将卒邦人が戦陣に枯骨となった。私達に対米局地戦斗はこれだと言われたぺリリューの勇戦は耳に新しかった。私の経験する戦いもこれ等の戦場と変るまい。
夜が来た。百坪に千六百人の夢は円かに結ばれたであろうか。リズムに乗った船のエンジン音、騒音と振動がフット消えた。夢現の間を往来、窮屈な姿努でまどろんでいた私はすぐ目ざめた。誰も彼も同じ様子で途惑っているようだ。「どうした」「とまったのか」ざわめきが一頻り、淡い照明の中を漣の様に拡がった。停った!! 何故だ。出港第一夜である。殆んどの者が完全に目をさまし、気早な何人かが段階を駆け上って、梯子にとびついた。つられて私も出て行った。甲板に立ち、見上げると 夜空は暗く、星一つ見えない。港だ。港に入っている!! 右に一つ、左に二つ、三つ、薄い霧が出ているのか、暗の中に、にじむ大きな橙色の裸電球がポツン、ポツンと灯っていた。燈火管制はしていない。冬の冷い暗の中に、 灯は大きく暖く私の心をなごませてくれる。岸壁に人影はなかった。倉庫? 幾つも大きな建物の影が濃く見える。案外船は岸に近い。目を落すと音もなく、黒い海面が暗に拡がっている。いつのまにか甲板に出て来た連中が手を舷に、ずらりと並んで、黙って此の橙色の灯を眺めている。「チントウだ」「チントウだそうだ」どこからか、 攝く様な声が拡がった。私は一瞬大陸の青島かと思った。が時間が合わない。有明海の三池から長崎の岬を廻ったのは今日の昼前だった。船団速度八節。それも敵潜の攻擊廻避のジグザグ航法を取って、右に左に針路を変更し乍らの航海である。靑島着は早すぎる。それに大陸の青島なんかに着く筈がない。方角も違う。船団が天草灘遥かに東支那海に乗り出した後は一路南下したものと私は思っていた。誰もチントウを知らなかった。船倉に降りるとチントウは朝鲜だと誰かが言ったが、私は朝鮮のどの辺に当るのか全く知らなかった。一体誰がどうしてチントウと云う名をどこできいてくるのだろう。ふしぎな 話だ。南方要員を乗せた船団は南下するどころか、逆に 意外にも北上していたのである。
十四日早朝に出港。船団は朝鮮半島西岸を北上した。 へえ!! 朝鮮かと溜息ともなく、呆気にとられて又呟いた。本当に意外だった。珍島近海の瀬戸内に似た風景の小さな多くの島影は沖に向う船の白い航跡の後に忽ち消えて行き、右に朝鮮半島が水平に長く僅かに浮いて見えた。 愈々黄海だ。冬の薄日の海を北行するにつれて、寒気が増した。正午前、天候は急変して北風に雪が舞い出し、とうとう激しい吹雪となった。そして視界は閉された。冬の黄海北上ときいた丈で寒氖団の中心に進んでいる様で皆、寒い寒いと連発していた。気晴しに出た甲板から私も、これはたまらんとすぐ船倉におりた。人いきれで 此の方が暖かであった。一番奥の小川隊にかえる。
 皆黙ってブスッとしていた。一体どうしたのかな?と 思い乍ら撫然と座っている隊長にきいた。隊長は黙って 私の顔を見返した。そしてかすかに「ウン」とうなづいた。私の同年兵、木村伍長が答えた。「唯今、救命胴衣を受領してきたのでありますが、員数が足りません。半分しかありません」と困ったような顔をした。これで事情が呑み込めた。私の役割りは唯一つと即座に決断した。中段座席に上ってみると、そこに誰も手をつけぬ古ぼけた救命胴衣が稹まれていた。分配方法がきまらなかったのである。私はすぐに「隊長殿」と救命胴衣の山から一つ取上げて押付けた。「兵に渡してやれ、私はいい」と隊長。「取って下さい」「渡してやれ」と何回か押問答があった。小川少尉はいつかな受け取ろうとはしなかった。周りの下士官、兵が黙って私達二人を見つめている。 当時の我が海上輪送路は海空の激しい敵の攻擊に爆されていた。そして此の船団には護衛艦が一隻もつかなかった。その為誰もが此の船団の内、どれかが必ず、いつか 海没すると言わず語らずのうちに、思いこんでいた。或は全滅も…と思った。無事か、海没か、運命は誰にも解らない。そうした状況の中で思いもかけず、救けの神、 救命胴衣が目の前に現われたのである。そして員数不足であった。皆が皆、とに角現物を手に入れたいと切に望んだ。勢い目の色も変ってくる。時と場合によりけり。 己の命はこの救命胴衣一つにかかる事になる。真剣な皆の切羽っまった気持ちが痛い程私の胸に迫ってくる。隊長が思案したのは無理もなかった。如何に分配するか、 持つ者と持たない者の気持ちを考えて決断しかねたのである。事態の収集は私の役である。「隊長殿、考えて下さい。隊長殿が取らなければ誰も取れません。それに海没の場合、隊長殿が沈んでしまってはどうにもなりません。その時にこそ隊を掌握して下さい。指揮官がいなければ隊はどうなりますか。是非持って下さい」小川少尉 は暫らく黙っていたが漸く受け取った。けれども不機げんにみえた。小川少尉が兵に渡してやれと言うのは隊長としての部下に対する情である。隊長に真先に救命胴衣を渡すのは補佐する私の情であり、立場であり、任務である。それから下士官、体力の弱そうな兵と渡した。胴衣の当らなかった元気な兵達には「俺の廻りに来い」と別に私の周囲に集めた。「無い物は無いのだ。文句があるか。隊長殿には最後迄指揮を取って貰わねばならん。海没の時は俺から離れるな。俺が一緒に死んでやる」死んでやるに力を入れた。ぐるりと周りの兵の顔を一人一人のぞき込むように見た。皆黙っていたがウンとうなづいたような気がした。顔色が何か一寸明るくなった様な 気もした。何だか芝居をしているようで気が引けたが、 そんな事を言っていては、これから先何もできんと割切った。悲想感が急に胸にこみ上げた。私と下士官、兵の間に一つの絆ができたようにも思われた。黄海の冬の水は冷い。今海没すれば、我々人間は五分と持たない。人間は十度以下の冷海水の中では心臓麻痺を起す。救命胴衣なんか邪魔なだけだ。と思っていた。此の夏東京越中島の海洋訓練で学んだ。
因に此の海洋訓練中にサィパン玉砕を知らされた。私達はカッター訓練にかり出され、越中島から幕末に築造された品川の御台場を一周した。御台場は全島、青葉茂れる樹木と、高く伸びた夏草に蔽われていた。瑞々しい緑は夏の陽光に映えて目に鮮かだった。あまりに綺れいで、ヵッターを漕ぐ手を休めて皆、ウワッと思わず声をあげた。御台場の石垣を巡る澄んだ島の緑をうつす紺青のすき透る潮は音をたてて、うねり流れていた。帰路は折柄の引潮の逆流で、行きはよいよい帰りはこわいの唄通りに往路にくらべて疲れ果てた。握り太の長いオールは手に余った。両手の豆がつぶれて、血が渗み、漕ぎなれない腕はパンパンに張った。墨田川に入ってから、ヤレヤレと思うまもなく「オール立て」と何回もやらされた。長くて重いオールは仲々立てられずもたもたした。高等商船学校学生の白いマドロス帽、黒いスマートな制服の艇長は面白がって何回もやらせた。此の日は此の学生にしごかれ通しであった。この憎たらしい艇長は舵を握って笑っていた。区隊長山口中尉はこれを見て切歯、 地方人にやられてぐうの音も出んのか、それでも帝国軍人かと二重にしぼられた。ウンもスンも言う者はいなかった。皆の顔に汗の塩が白くこびりついていた。夏の白日に木場の乾いた材木筏の白さが目に泌みた。どうして材木が白く見えたのだろう。
ともあれ、私は心臓麻揮の件は黙っていた。あとで気がついた。暖い南海に出れば心臓麻痺は起らない答だし、海没した時混乱で小川隊が一団になる事もない答だ。此の時は思い及ばなかった。
午後輪送指揮官から対潜哨戒班を出せと小川隊に命令が来た。哨戒班長は私。兵六名を連れて出た。救命胴衣のない兵が「私が行きます」と志願して来た。何か一つの連帯感が生まれていた。哨所は船首である。前任者の申し送りを受け、私が舳先に、左右両舷に兵三名あて配 置する。元来私達は南方要員の為、真冬にも拘らず薄い防暑服を支給されていた。鉛色の雪雲は低く、北から南へと激しく流れ、吹雪はまともに、北風と共に横なぐりに顔に吹きつけた。多少は防寒の助けになろうかと着装した雨外被は強風に煽られて、ばたばたと音を立てて、捲き上った。五分もたたぬうちに、手足は寒さにかじけて、歯ががちがち嗚った。少々の足踏み位では間に合わない。舷側に寒風を避けて、身をかくす訳にも行かない。 船首にごうごうと押寄せる白浪に、舳先を突込む度に、船は大きく上下動した。ジグザグ航法で右に左に変針する毎に横浪をうけて、ローリングが加わった。その内少しずつ雪はへったが風は衰えなかった。視界はかなり開けてきた。「潜望鏡と魚雷に注意しろ。真直ぐに白い 尾を引くぞ。白波と間違えるな。一直線の白い筋だ。発見したら怒鳴れ」と命令した。発見次第大きな赤旗を振る事になっている。後方のブリッジでは絶えず、これに注意している筈だ。私達は白波の押し寄せる海面を近くから遠くへ、速くから近くへ、右から左へ、左から右へ とゆっくり注意深く、対潜監視の目を向けた。対空監視の要領でやれと指示した。私逹の監視の目に此の船の運命がかけられていると自負し、緊張して勤務についていたが、考えてみると、こんな荒天、高浪、悪視界の三条件揃った悪天候下で、潜水艦攻繫などがある筈がない。まして空襲など考えられもしない。此の船の対敵装備は船尾に短砲一門だけだ。それも爆雷用だそうだ。砲側に爆雷格納庫だという大箱がおかれていた。他に砲はなかっ た。船速八節の船が潜水艦攻擊をうけたらいちころだ。無防備ともいえる船団は浮上した潜水艦の備砲にも対杭できない。後できいたが、船団が魚雷攻撃をうけた時は 各船勝手に、四方八方に散り散りに逃げろと云う命令だったそうだ。そうすればどれかが助かるだろうと云う計算である。対抗防衛の手段はなかった。三十六計逃げの一手しかなかったのである。
二時間の勤務は異常なく後任に引き継いだ。急いで船倉におりる。体中に寒さで感覚がなかった。誰も凍傷はなかった。風邪も引かなかった。若さの故であったろう。この時太陽が雲間に顔を出した。熱帯南方行きのイメージは潰れた。余りの寒さに、これが南方かと悪態をついた。この輸送作戦中唯一の吹雷、あの夏衣袴の軽装、寒かった。ブランコにでも乗った様なピッチング。変針時の横風と横浪のローリング。揺れた。水行二日目は変な体験が続いた。これから何が起るのかと先が思いやられ た。此の後高雄入港迄私は二度と対潜哨戒には出なかった。こんな嵐にも合わなかった。こうして一日中北上は続いた。此の夜針路は西に変更された。
十五日朝、甲板に出ると太陽の位置が変っていた。黄海を横断中と判断。海は静かで、青く、黒く冷々としていた。周囲に陸影なし。ぐるりと見廻したが水平線のみ。 僚船も並んで勇ましく白波をたてていた。前日と打って変って無風の静かな海である。三寒四温の温日に当ったのか、割合と寒さは感じなかった。快晴になった。午前中被雷想定避難訓練を行ぅ。訓練の目的、退避の方法、状況の説明の後、号令一下開始、船倉より甲板迄高さ五米、上部は梯子下部は階段である。上の梯子を各隊に区分。千六百人は一斉に登り始めた。威勢の良い動きもすぐ止った。そう早く梯子は登れない。蟻の行列になった。数珠つなぎの列の動きが鈍かった。時間が掛って緊張感がとけ、何だか運動会の様であった。皆ゆるゆる登っている様にみえた。兵は騒ぎもせずに順番を待っている。早く、急げと叱咤する声もなかった。全員甲板に上る。約三十分。実戦ではこんなに大人しく列を作る筈がない。 阿鼻叫喚の火と水の地獄図絵を現出する事請合いだ。三十分も掛る様では被雷すれば先ず駄目だと私はあっさりあきらめた。講評で沈没時問に就いて、轟沈は被雷沈没迄五分。そして四十分浮いておれば沈没の心配はない。第一回の訓練は「良好」と判定された。変な講評であった。時間短縮について話はなかった。海没経験者はどの隊にもいなかった。夜間の被害では電燈も消えて闇の中で、どうにもなるまい。海没を想定、大牟田で購入した品の中に懐中電燈はニケしかなかった。私は闇中の被雷、難破、漂流を想定していた。大牟田での購入品が果して役に立つ時がくるのであろうか。
この日以後、甲板で過す兵が各隊急激にふえた。夜も甲板で寝ているのには驚いた。甲板の夜は特に冷えた。 被雷時、船倉にいたのでは、万に一も助からんと思ったのであろう。当然である。命は惜しい。人間の本能である。私はそう思った。だから強いて船倉に帰れとは言わなかった。風を引くなと言うのが関の山だ。部厚いシートで覆われた救命艇の中、下や物影に寝ている様であった。気になって、見廻って聞いてみたら、矢張り闇の中で、寒いとふるえていた。救命胴衣を枕にしていた。闇の甲板であちこちしながら曽ての暗夜の透視隠密行動訓練を思い出していた。今の人に一寸先は暗黒の恐怖が解るだろうか。照明に馴れた今の人々に暗々黑々が解るだろうか。
反対に船倉は空いて多少は楽な姿勢で休めた。私はテンホーのコーだと呟いた。甲板の寒さは体の毒だ。船倉の方がずっと暖。私は兵と同じ様に甲板に寝る気にはならなかった。今は暖い方がいい。海没すれば嫌でも冷たさは、たっぶり味わえる。この後も退屈しのぎと訓練をかねて、何回か退避訓練が実施されたが、大した成果もなく、その内にこの訓練も己んだ。梯子も増設されなかった。被雷対策の指示は何もなかった。
十六日快晴。支那大陸沿岸を初めて望む。山東半島か或はその南部かと想像する。支那事変以来数年間、大陸は砲煙弾雨の中にあると云うイメージが強かったが、海も空も青く、柔い日の光をうけて、大陸は薄く水色にみえる低い山々が連って、戦火は感じられなかった。空と 海と山の濃淡の隠かな水色は平和そのものであった。此の日から大陸沿岸沿いに沖合三十~四十キロと思われる海域を即かず離れず南下を続ける。
或兵が携帯口糧の乾パンをボリポリやっているのを目擊。見捨ててもおけず全員を甲板に集め、検査を実施。 口糧袋は粗目で中味は一目瞭然。結果は教育召集のロートルに多かった。軍隊では三十才は老児である。中には一個の乾パンを二~三個に分割したり、異物を入れて袋を脹ませてごまかしている者もあった。要領よくやった積りであろう。ごまかすと云うことが私には我慠ならなかった。地方人がそのまま軍服を着た許りで全く軍隊を知らないと云えた。船中で何もする事がないのだから口でも動かすより仕方がなかったのだろうとも思ったが此の結末はつけねばならない。「一歩前へ」「メガネとれ」「脚を開け」と神戸以来始めて気合いを入れた。 けれども、この足の踏ん張り方も知らない兵、殴られ方も知らない兵をみている内に、何故か白々しく空しかった。此の日から私を見る兵の目が又変った。軍隊生活の中で、私は軍隊という戦斗組織にとって、鞭と飴に象徴される罰と賞は絶対の手段であり、殴り方も殴られ方も又一つの技術であると割切っていた。初年兵の時、毎日殴られているうちに、殴られなかった日は何だか気が抜けた事があった。どうした事かと今でも思い出す。
加古川の連隊で、私の同年兵の高知出身の元気者、田内二等兵が曾て日夕点呼前の、内務班古兵の注意事項伝達中に突然手を揚げた。質問かと思ったら「要領とは何でありますか」と大声で古兵に尋ねた。一瞬内務班がシーンとなった。又繰返して尋ねた。初年兵の誰かが馬鹿がと眩いた。古兵も毒気を抜かれた様な顔をした。次に平手がとんだ。田内はびっくりした様な顔をして目を大きく開いていた。彼には殴られた意味が解らなかった。何回も殴られて、よろめきながら顔を真赤にして大声で質問を繰り返した。古兵の回答は平手打ち丈だった。田内の質問した要領は例えば不動の姿勢の要領とは違ぅのだ。 田内の質問した真意は何だったのか。「要領」とは軍隊でこんな取扱いを受ける意味を持つ。一、軍人は要領を 尽すを本分とすべし。と称えられてはいたが…。彼はニューギニヤ行きになった。
私はもっと要領よくやれと言いたかった。「此の携帯口糧はいざと云ぅ時の非常食だ。大事にしろ。誰も自分の命、食糧は別けてはくれん。命網は誰も離しはせんぞ。考えろ」兵達は大声で「ハィ」と答えた。海没で水にぬれたら乾パンなんか、どうにもならんのに馬鹿な事を言ったものだ。携帯ロ糧は甲乙二種があった。甲は精米八百七十瓦(又は精米六百七十瓦、麦百五十瓦)牛缶百五十瓦、砂糖二十瓦、塩五瓦。乙は乾パン六百九十瓦(三食分)牛缶百五十瓦、砂糖二十瓦、塩五瓦であった。携帯口糧の予備はなかった。兵を解散させてから私は暫らく一人で青い空を眺めていた。乾パンはぬれたらどうなるのだ?
十七日晴。夕方から風が出た。船が大きくゆれた。乗る飛行機がなく歩兵部隊に転属、南方に征く特操見習士官数名に、ブリッジに風呂があるそうだが行ってみないかと誘われた。日夕点呼後であった。輪送指揮官、各部隊長はブリッジに個室があるのだという。そう言えば船倉には下級指揮官しか居なかった様にも思うが定かではない。昭和初年の歩兵一年志願将校は軍装も立派で私達が任官用に持っている軍装とは比較にならなかった。胸に下げた双眼鏡は特に目についた。私達には当時最早入手出来なかったのである。防空将校には必需品だったのだが。仕方なく私は色収差のついた三十円の私が別子銅山峯、赤石山などの山登りに使っていたものを持っていた。これでも地方人としては苦心して手に入れたもので ある。軍靴も牛革であった。私達の編上靴は豚革であった。應召のロートル少尉のとぼけた話は飄々と面白かった。俺は戰争に行って何をするんだと云う人がいた。号令も知らんと言った。私は大声で笑ったが心の中で俺も何をするんだと思っていた。明るい顔で本気かどうかも解らなかった。殆んどの人が所属部隊長よりも年長で、人生経験も豊富で暖か味があった。又社会的地位も高い人が多かった。
ブリッジに上ってみると成程、廊下沿いに個室が並んでいる。ゆったりしている。私達のすし詰めの船倉と比ベてこん畜生と思う。風呂は解らなかった。人影もなかった。うろうろしていて、船の操舵室に入り込んだ。軍人はいなかった。この時気が付いた。船のエンジンが停止していた。止めたのではない。止ったのである。「故障か」ときいた。操舵輪を握っていた航海士は「現在本船は機関の故障で漂流中だ」と普通の声で言った。うねりが大きく感じられる。「船団は?」ときくと「ずっと先の方だ」と答えた。「すぐ直るのか」と皆心配そうにきいた。船長はいなかった。「回復次第船団に追及する」と航海士が前を向いたままで返車した。船団速度八節。本船の最大速度八節では遅れて追付ける筈がない。船窓から前方をすかしてみる。唯闇がある許りだ。何も見えない。風に雨がまじっている様だ。雨がすーと斜に走った。船団を離れたときいて急に気が細った。燈火管制下の薄暗さが余計気を减入らせた。航海士の「心配いりません。寝て下さい」と事もなげな言葉をきいて、何だか 詰らん心配をしている様にも思えた。「潜水艦もいません」と別の声が言った。
十八日快晴。目ざめるとエンジン音快調。急いで甲板に上る。周りに僚船を見る。やっばり仲間がいるのは心強い。ヤレヤレと思う。機関故障は知らなかったのか、 話す者はいなかった。この夜又ブリッジに行き船員と色々話をする。船団速度八節は本船に合わせたものであり、 昨夜の故障は具合よく回復して、ジグザグ航海の船団に 直航、追及した。故障が雨風の夜でよかったと言った。 小さな水中聴音機に興味律々。昨夜の潜水艦はいないと言ったのは此の人だ。舶輪の横に低く座っていた。多少の説明をきいてレシーバーを耳に当てる。船底に受音装置があるそうだ。ザーザーと単調な音が聞える。「浪の音か」ときくと係員が、これが前後の船の推進音と浪の音だと教えてくれた。もう一度レシーバーできいてみたが矢張り私には音はザーザー丈で、さっばり区別が出来なかった。俺は音痴だからなと自ら慰めた。係員は鯨の嗚声も聞えると言った。鯨が嗚くとは知らなかった。かなり離れた艦船のエンジン音、スクリュ音でも判別できます。方角、距離も解ります。と当り前みたいに言った。 そして水中音は聞いていると面白いですよ。潜水艦がいなければねと付け加えた。私連は凄い凄いと感心する許りであった。が素人にも判別出来ない精度では大した事 はないと思った。やはり何事によらず訓練かなと思ったりもした。
そぅ言えば対空監視で敵機発見は耳よりも目の方が早かった。私は目で追及しても隼は八千米、四発の川西大艇はニ万米で見失なった。安田隊の測高機長中村兵長は 真夏の真昼の真上の金星を見る事が出来た。八糎対空望逮鏡を向けてみると、チャーンとそこに星があった。びっくりした。訓練の成果だと思った。
十九日快晴。海の色段々と青から黄色く濁ってきた。
何か異変があったと一人合点していた。大陸の風景はずっと変らず、低い山々が続く。海の青さがなくなって、見渡す限り黄色の濁水となった。誰かが楊子江の水だと言った。異変があったと思った俺はとんだはんちく野郎だ。そう言えば河口から数百秆は長江の水で色が変ると教わった事がある。やはり百聞一見に如かずだ。もうこの濁水の色を忘れる事はないだろう。どこが楊子江の河口だと陸地に目を凝らしてみたが全く解らなかった。此の辺で は潜水艦は先づ居るまいとの事であった。潜航するには 浅すぎる。雷擊をしても爆雷攻撃をうけると逃れる術がない。三十米位だと説明された。そうだろうなと納得させる海の色であった。潜水艦の心配がないと聞いて当分のんびり出来ると喜んだ。心なしか船団速度も少し落している様に思えた。それは海が浅いからだと誰かが言った。三池出港以来船には全く出会わない。大陸の人家でも見える程は近付かなかった。
廿日快晴。楊子江より海に流れ出した濁水の泥の海を行く。壁土をこねている様な色である。中学時代の秋颱風で見たの蒼社川よりも何倍も濃い黄色であった。 泥海の広さ限りなし。快晴続く。気温も稍々上ったのか、 小春日和を思わせた。この見渡す限りの泥の海に、長江の水量と長大さを想像するも実感が湧かなかった。この長江を抱く大陸の広大さを思う丈である。濁水を見つめているうちに、周りを忘れた。不意に思い出した。一句。
蕭条と秋の山道影一つ
海の色から故郷の窓峠の緩やかな峠道と山土の色を思い出した。そして峠道からみた窓の向うの空。静寂、孤影、朝の光、たそがれ…心は故郷の山野をさまよっていた。 昭和十三年、周桑郡大頭の寿喜(すき)心首藤房太郎作である。復員してから作者に会って此の話をしたら、作者は首をかしげて、覚えていないと言った。
兵員一同航海馴れして事もなく、緊張感全くなし。無事に帰れたら愉快な官費旅行だとうそぶいた奴がいた。 私もそうありたいと同感した。甲板に出たり、船倉に入ったり、寝たり食ったりで又訓練皆無。輸送指揮官からも 何の指令もなく過す。
廿一日快晴。航路南南東に向う。台湾海峡横断。濁り海から真青な海に出る。又潜水艦の心配が始まった。甲板に出ている全員が監視員になって海上に視線を走らせた。朝鮮の寒い海から泥の海、そして南国の暖い海。やはり海は青がいい。空も青く気持ちよく快調に進む。靑い海と白い波と進む船団。壮快であった。気温急激に上昇。一足飛びに冬から夏へ、南国に来たとの感強くなる。防暑服で丁度よい。十八、十九日頃から甲板で寝る兵が増えた。私は相変らず船倉で寝る。隊長はどうしていたのか思い出せない。さしたる事もなく銘々勝手なことをして無事平安な航海が続いたのであろう。
この日、真昼間の甲板で夏の様な明るい日光に白くすける様な小さな虫が腕を這っているのを見付けた。これは何だと側にいた兵にきいたらシラミですと答えた。一瞬ポカンとして次に恥ずかしい気持ちが湧き上ってきた。手の平にのせて、つらつら眺めた。神戸で支給された被服に卵がついていたのかと思った。シラミとの付合いは 翌年四月頃迄続いた。後に平野大隊の築域掛となり、雨期のキールンで通称無線山に戦斗指揮所を構築中、連日の雨にうたれ、いつも肌身をぬらして、乾く間もなく、シラミも卵も冷え切って死に絶える迄続いた。キールンは一年のうち晴天は六十日と言われる程雨天が多かった。キールンと台北は馬の背で天気をわけた。キールンから台北に通じる国道はトンネルを抜けると道路を横に画した一線の北は雨でぬれ、南は乾いて晴天でぁった。
軍隊で見たもう一つの凄い奴。南京虫にお目に掛ったのが十八年夏の神戸和田岬陣地。突堤の上の兵舍の板と板の合せ目の中に張り付いていた。神戸は南京虫の名所であった。あの小さい丸くて赤い嫌な奴。退治する薬がなかった。白い粉末薬があったが幾ら振っても一匹も死ななかった。雨が降ると演習休みで初年兵は板の合わせ目を探して、一匹ずつ突き殺して廻った。突くとプーンと臭かった。そして東京世田ヶ谷の機甲整備学校はもう一つ凄かった。夜になると天井からポトン、ポトンと落ちてきた。不寝番に立って兵舍の二階を一廻りして帰って来ると、軍袴に五〜六匹必ず付いていた。 二階は特に多かった。終には二階は省略して見廻りはやめた。寝る時には、たった二足しかない軍足を、手に一足、足に一足はめて寝た。夏の革で汗まみれになったそれでも南京虫は侵入して来た。たまりかねて南京虫当番を四名宛作り、毎朝、早朝点呼前に大釜で熱湯を湧かして、煮えたぎる湯を廊下から始まって片端からぶっかけて廻った。天井板の継目には全部新聞紙で目張りをした。誰かが此処の南京虫は関東軍生え抜きかも知れんと歎いた程しぶとかった。
卒業前三ヶ月位は「あ号」作戦の演習で那須金丸ヶ原 (四十八時間、飲まず、食わず、眠らずの訓練もあった) 海洋訓練で越中島、野戦整備訓練で調布多摩川へ行ったりで校外に出る事が多く、あとどうなったか知らない。私は南京虫には割合強く、朝起きると何ケ所もかまれて、一ケ所毎にかんだ跡が、二つ赤く針の先程ついていた。 弱い奴は真赤に大きく腫らして苦しんでいた。痛いのか、かゆいのか今以て私は思い出せない。入校以来卒業迄に 私は六十キロから五十二キロに体重が娀っていた。首都東京で私達は高梁を食べていた。腹が減って食物の話許りしていた。卒業式の朝誰かが俺達は女の子の話をした事がないと言った。皆その時始めて気がついて顔を見合わせた。体力消耗で演習、勤務に疲れ果てて、かまれても気が付かぬ程眠りこけていたのかも知れない。
廿二日快晴。南国の空は抜ける様な深緑になる。台湾北端に接近。暫らくの間、船の揺れがひどかった。キールン沖は潮流の加減で有名な海の難所だそうだ。船は本当に陸に接岸するかと思われる位接近する。今尾連絡船で来岛海峡の潮流に乗って、今治沖大島の館山に乗りかける様な感じであった。段々と高く迫ってくる突兀と聳え立つ山。立木が一本一本数えられそうだ。緑でムンムンする内地の夏を思わせる。全山の強烈な緑で息がつまりそうだ。台湾だ!! あの山の向うはキールンだと云う。明るい澄み切った南国の空、青くどこ迄も続くコバルトの海、とにかく明るい。海からいきなり、そそり立つ急峻な緑の山を見上げた。冬枯れの日本内地から一足飛びの台湾の濃緑は印象が余りにも強すぎた。その時私は戦争を忘れていた。そうだ。我々は今輸送船に乗っているのだ。今は戦時中なんだと改めて思い出した。船は台湾を左に見て 一路南下、船脚を早めた。海は見ずに陸地許り見ていた。台湾中央山脈の高い山を見る度に、あれが新高山だ、次高山だと言い合っていた。
廿三日晴。高雄到着。此処に入港。左右から長く延びた防波堤。中央に一ケ開いている所が港口である。そして外港の左側に丘稜性の低山が続いていた。一隻又一隻、減速してゆっくり外港へ、そして内港に入る。内外港を区切る山に高雄要塞司令部があった。エンジン停止。大きな水しぶきをあげて錨が下された。広々とした内港、あちらこちらと停泊しているねずみ色一色の貨物船が沢山見える。この時港内に沈没船は見当らなかった。神戸港よりも遥かに広く、内湾型だ。南の方の岸は霞んでいた。流石に南進の一大基地だと思う。外港に停泊船はなかった。先日魚雷数発が防波堤に発射された由、港口から外港の船を狙ったが外れたのだ。爆発音が凄かったそうだ。以来外港の停泊船は全部内港に移された。此処には敵潜水艦が潜んで網を張っていた。虎の尾はすぐそこにあったのだ。知らずに我が船団は通過して来たのだろう。改めて緊張する。強運だと思った。
林立する貨物輸送船のマスト。北に低い山。東から南にかけて倉庫、工場の建物、そのずっと向うに見える青い山々。私達は今波静かな天然の要港高雄に無事入港したのだ。皆ニコニコしていた。手離しで喜んだ。海上十日間、危機は一應のがれた。
今日迄、敵機一機も見ず、潜水艦攻擊全くなし。護衛艦なし。掩護の航空機は最初の日の隼一機のみ。友軍から孤立隔絶した無防備の七隻より成る此の船団が無事高雄迄来れたのは、当時の戦況では奇跡に近かった。米軍の作戦と作戦の間の空白期間、空白地域を此の船団は縫って走ったのであろうか。
廿四日、甘五日、廿六日、停泊。快晴が続いた。空襲なし。上陸はなかった。皆、暇さえあれば甲板に出て周囲の船や港内を走り廻る小汽艇を眺めていた。北方の美しい緑の山々、その麓の船の出入の激しい船着場、それに続く高雄の市街を臨んで一度土を踏んで見たいなとそれ許り話していた。三日間私達はゆっくり休養して次の愈々危険な本番とでも云うベき航海に備えた。
しかし、此の三日間、船中で何をしていたのか全く思い出せない。隊長は船団連絡将校として要塞司令部へ出向、高雄の市街も見て来たように思う。船上から市街を 眺め乍ら色々と街の様子をきいたような気がする。
私は今私達の下着類を出発以来洗った記憶がない。干しているのを見た記憶もない。三池を出港してはや二週間が来ようとしていたのに。ずっと着た切り雀でいたのだろうか。
此の間に船団は次々に新しい船を加えて十三隻に再編成された。各船連絡将校の往来が激しかった。明廿七日 午前九時出発と決定。最終目的地は南方総軍司令部所在地佛印サイゴン。今度こそ、皆の顔に緊張が走った。
朝から終日、陸と各輸送船の間を小汽艇が何隻も忙しく、しぶきをあげて走り廻る。ずんぐり小汽艇に今日は兵員は勿論の事、食料その他の補給物資の梱包が山と満載されていた。港の静かな水面に波瀾を巻き起して快走する小汽艇の活気が前線の戦場に向つて氣負う私達を元気づけた。南国高雄の空はあく迄も青く、高く、広く、澄み渡って、事もなし。時移り、西に傾いた太陽も、夕焼け雲を 赤く染めて、やがて静かに海の彼方に消えて行った。.
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私の父が22歳の時の、台湾への出兵記 1/3 (2020/11/30)

2020-11-30 22:44:52 | 戦前・戦中の日々
コロナのため、「ステイ ホーム」、どこの国でも自宅で過ごすことが増え、アメリカでは、日章旗の日本の遺族への返還数が、今年になって、130枚と急増したとのニュースが2か月程前に。
 アメリカでは自宅の倉庫を整理する人が急増し、既になくなった父親が太平洋戦線で、戦死した日本兵が持っていたものを持ち帰り、そのままになっているのを、その子供たちが見つけて、NPO経由で、日本の遺族に返還してくれたもの。
 数年前の熊本地震をきっかけに、地震に備えて、二階にあるもう読まない不要の本を大量に処分したことがある。
 今回のコロナで、飲み会なし、旅行ダメで家にゴロゴロしているだけでは、能が無いと、また二階の本の整理。
 埃だらけの本箱に、私が高校生活を送った今治西高校で日本史を教えていた、竹本千万吉先生が早期退職したあと、「ひうち」という同人雑誌を発行していて、全11冊が見つかる。
 立派な学識のある、釣りも上手な先生で、捨てるのは、申し訳ないと思うも、また読むかしらん?とページをパラパラ。
 すると、13年前に、85歳で亡くなった父が、22才当時、昭和19年末から20年にかけて、日本から台湾に出兵した時の、体験記が、3回に分けて、掲載されているのが目に。(冒頭)
 一度読んだことがあり、面白いと思った記憶。
 私の父が63歳の時、40年前の記憶をたどりながら描いた思い出話。
 この「ひうち」を愛読し、投稿した方達は、若い方で、既に70歳を超え、大半の方は既に亡くなっているとおもわれる。
 父の22歳の時の、思い出話は、貴重な戦時の無名の兵士が目にした体験記であり、私がこのまま、「ひうち」を廃棄してしまうと、記録がこの世から消え失せてしまう。
 また、今「ひうち」を廃棄せず2階の本箱に置き続けても、私も既に71歳で、私が死んだあとは、子供たちは、捨てるしかない。
 どうせ今は私は、年金オヤジで暇、それに加えてコロナで益々暇なので、この父の書いた記録をブログに残しておくことにしました。
 以下は、その第一回の掲載で、あわせて、3回に分けて掲載されている。
 こうしておくと、私の子供か孫の物好きが、読むかもしれず、歴史を身近に感じてくれるかも。
 社会を生きる知恵やら、危機に直面した時の生き延び方を、多少は知ることが出来る。
私が、この体験記で面白かった個所は、外地出征が決まり、父が教育した新兵を自分が連れていくと知り、人選の責任者が出来の悪い新兵から父の配下につけようとしていると、読んで、出し抜いた個所。

 初年兵の成績序列表を作成意見具申をつけ、中隊長に提出した11月20?日夕中隊長の宿舎に呼ばれた。お前にどこか勤務の希望はあるかといきなり聞かれた。変な質問だがすぐ来たなと思った。どこであっても奉公の気持ちに変わりはありませんと答えた。よし解った。実は連隊本部の意向なのだがという次第であっさり私の外地行きはきまった。このあと人事掛准尉から今回の編成には私の教えた初年兵が当てられると聞いた。そこで私は中隊長に提出していた序列表を書き忘れがあると返して貰った。当時部隊編成要員は中隊の序列の下位から出される不問律があった。私は序列の上下を逆転させた。私の選んだ優秀兵が出されると予想した。命令は予想通りであった。私は快哉を叫んだ。南方行きの船に乗った時兵にはすまないことをしたと後悔した。終戦復員で一人も欠けずに大竹港に着いた時本当に心底からヤレヤレと肩の荷をおろした。




↓ ひうち第五号(昭和59年3月1日発行)掲載の、私の父、竹田光雄 の「こどもたちへ(第一回)」 とても長い。

こどもたちへ(第一回)  おやじの22才

 第一章 さらば祖国よ  南方派遣軍に転属

 昭和19年夏8月15日、私は陸軍機甲整備学校を繰り上げ卒業した。私は22才であった。復帰した原隊は中部軍第73部隊第四中隊通称山岡部隊安田隊である。千葉陸軍防空学校に入校した私の同年兵6名は6月に繰り上げ卒業、うち5名は出征していた。繰り上げ卒業は戦局の急迫によるものであった。要地神戸防空隊として山岡部隊の砲隊は明石、刈藻島、和田岬、大倉山、都賀川、摩耶山371高地に展開。部隊本部は湊川公園にあった山岡部隊長は兄のお蔭で部隊長になれたと噂されていた。兄重厚は皇道派将校として中央で活躍した俊秀と聞いた。
 安田隊はこの時、大倉喜八郎ゆかりの広大な大倉山公園に和田岬から移動布陣していた。当時の神戸市民が大倉山要塞と呼ぶ程この陣地は他陣地に比べ大規模であった。この陣地は二分されて東半分は広場のまま残され中隊の一般歩兵教練に使われた。西半分が主力陣地で中央に高さ5米のベトンで固められた頑丈な戦闘指揮所を中心にして、その東側に10糎高射砲6門は半径50米の扇形に配置され各砲一門宛大トーチカを思わせるベトンで固められた円形掩体の中に据えられていた。10高はドイツから送られた設計図に基づき作られた最新式で内地装備高射砲1800門のうちまだ数えるほどしかなかった。最大有効射撃も従来の7高の8倍といわれた。当時では珍しく砲は射撃三元電動算定機と連動されていた。目標の高度、航速、航路角の三元が与えられると自動的に算定修正されて、連動している各砲のメーターの指針の示す目盛りに砲側装備の各指針を合わせれば砲は自由自在に、迅速正確に、軽々と360度旋回し、90度の仰角がとれ各砲手は間接照準で射撃が出来た。B29撃墜用の新兵器である。因みに明石陣地の10高は手動で重く疲れた。ただ戦局の急迫により日本人向けに改良する時間がなくすべての寸法が日本人体格には一寸大きすぎた。
 20年春3月16日の神戸大空襲に活躍したのは此の安田隊であった。台湾新聞でB29を20機撃墜被害は軽微と報じられているのを見て私は安田隊は日本一だと自慢した。終戦後この日の死者は2598人を数えたことを知った。なんとも言うべき言葉かなかった。
 やがて19年も晩秋の11月、戦局の行方は知る由もなく私は一技一戦闘を目的とした観測初年兵教育に専念していた。砲兵初年兵が羨ましがる程のんびり見える教育であった。私は優秀なる助教に恵まれた。私の初年兵時代の班長西迫軍曹は嫌な顔一つせず、私を助けてくれた。この酒の強い薩摩男児は生涯忘れえぬ人の一人である。そして連隊の初年兵一期の検閲を隊長が意外な顔をした程の好成績で終わった。
 この教育中助教の一人藤林軍曹から或る小休止中に聞いた話は一寸私を驚かせた。加古川の屯営で18年入営の私たち現役への中に危険注意人物が一人いて不寝番に必ず申し送りをしていたと言う。誰だと聞いたら「氏名は忘れた。ただ寝台の場所が練兵場側で内務班の一番端の廊下がであった」と言う。私である。私は黙っていた。何故だと理由を聞いたが、ただ申し送りであったと言う。話はそれで終わった。私は首をひねるだけであった。思い当たるとすれば、明治36年八紘一宇の言葉を初めて造った田中智学の長男澤二が日本改造具体案を掲げて活動した立憲養正会に畏友松山中出身の神野進と交際中に共鳴して15
、16年にシンパとなり、昭和17年東條内閣の政治結社禁止により解散させられたあとも有志とともに非合法活動を支援して、特高の目を避け、梅津寺温泉二階大広間で数日政治講習会に参加したくらいのもので、危険注意人物などと名指しされる程のものではない。ほかに何か理由があったのだろうか。私にはその理由はいまだに分からない。当時神野が今の日本を滅ぼすものがありとすれば、それは共産国だと言った言葉は忘れられない。私は日本の敵はABCDだと思っていた。因みに田中智学は新田義貞の子孫をもって任じ石原莞爾中将の世界最終戦争論に大きな影響を及ぼした人物である。
 初年兵の成績序列表を作成意見具申をつけ、中隊長に提出した11月20?日夕中隊長の宿舎に呼ばれた。お前にどこか勤務の希望はあるかといきなり聞かれた。変な質問だがすぐ来たなと思った。どこであっても奉公の気持ちに変わりはありませんと答えた。よし解った。実は連隊本部の意向なのだがという次第であっさり私の外地行きはきまった。このあと人事掛准尉から今回の編成には私の教えた初年兵が当てられると聞いた。そこで私は中隊長に提出していた序列表を書き忘れがあると返して貰った。当時部隊編成要員は中隊の序列の下位から出される不問律があった。私は序列の上下を逆転させた。私の選んだ優秀兵が出されると予想した。命令は予想通りであった。私は快哉を叫んだ。南方行きの船に乗った時兵にはすまないことをしたと後悔した。終戦復員で一人も欠けずに大竹港に着いた時本当に心底からヤレヤレと肩の荷をおろした。
 正式の転属命令を待っていた11月23日?連隊将校会同で安田隊長以下幹部一同連隊本部に行き私一人中隊留守として残る。この日午前10時頃突如として警戒警報なしのいきなり空襲警報発令。17年4月のドウリットル空襲以来神戸に初めての警報であった。陣地内の警報機が一際高く鳴り響いた。演習ではない。本番だ。各兵舎から一斉に下士官兵が陣地砲座に向かって走る。私は戦斗指揮所に駆け登った。その下を走る兵が6門の砲座掩体吸い込まれるように消えていった。指揮小隊当直通信兵から岸和田上空に敵機。飛行方向不明。と報告第一報を受ける。よし。岸和田なら神戸の対岸だ。機数不明と続いて報告が来た。よし了解。戦斗準備。急げ。私は思い切り叫んだ。観測よし。班長松田伍長が私に向かって叫んだ。第一分隊よし。第六分隊まで次々と分隊長の大声が返ってくる。砲隊先任上杉見習士官は休暇でいなかった。
 号令。敵機岸和田上空。目標方向2000。ベトンで固めた小山のような掩体からドイツ式最新十高六門の太い砲身が高低角30度に一斉にあがり砲口は今や火を吹かんと東の空をにらんだ。迅速正確。戦斗精神旺盛。まことに見事であった。安田隊戦斗準備完了を連隊指揮所に報告。この時まだ神戸市一帯に空襲警報のサイレンは鳴り響いていた。戦斗指揮所から眺められる街のざわめき、工場群の騒音が潮の引くようにピタリと消えていった。目前の楠町の電車通り、神戸駅に通じる湊川神社を通る広い道路から人影が一瞬にして消えた。晴れて明るい初冬の火の光にてらされてアスファルトの黒い色が水を打った後のようにやけに光って見えた。眼下の海岸部の川崎重工の大きな赤い大鉄橋を思わせる門型ガントリークレーンもとまった。神戸中が静まり返った。遠く聞こえていた工業地帯の音も動きも消えた。シーンと耳がなる程静かだ。後ろの六甲山系の黄葉と松の緑が鮮やかだった。大倉山陣地にピーンと緊張の糸が張られた。砲座もシーンとしている。すぐ側の観測班の二メートル測高機長中村班長が戦闘帽を後ろにかぶって東の空をにらんでいる。対空戦闘は彼から始まるはずだ。砲手は何を考えているだろう? 20瓩(キログラム)の弾体は信管測合機に、拉縄手は分隊長の「込め」に耳をすましているだろう。敵機情報はプッリと切れた。
何故厳重な監視網を抜けていきなり岸和田上空に敵機 が侵入出来たのか?疑念がかすめた。通信班長が友軍 機情報を伝えた。宇治山田上空一機。京都上空隼一機。 琵琶湖上空隼一機。伊丹上空九五練習機一機。宇治山田上空は新司偵。近畿全域でたった四機である。指撺小隊が一寸ざわめいたがすぐ静まった。空軍力が余りにも少かったからである。十八年七月であったか神戸上空を連日二十機三十機と西に飛ぶのを見た。支那大陸や東南アジア方面に近く大作戦が展開されると噂が飛んだがその後プッリと途切れた。
中隊長からは何の連絡もなかった。岸和田方向に目を凝らしたが何も見えなかった。爆音もなかった。
私は観測兵である。砲手教育は幹候隊の反対教育約四ケ月だけである。そして志願して陸軍機甲整備学校に入った為実弾射擊の経験はない。どっちみち此の中隊の指揮は私に委ねられている。私がやらねばならないのだ。
私は中隊の鍛え抜かれた戦力を信頼した。私は軍刀を突立てて自信たっぷりに射繫のべテランの様な顔をして報告を受け命令していた。老練の中隊長の代りが若僧の見習士官だ。兵に動揺があるかと陣地全体を注意して見たがその気配はなかった。初陣の全中隊の神経 は岸和田上空に向けられていた。今本部でポカンとして何もせずにいる隊長や隊付将校の姿を想うとおかしかった。あと僅かで外地に放り出される一見習士官の手の内に安田隊はおかれている。彼等の地団太ふんでいる姿を私は想像した。依然として情報入らず。ニ乙、 丙種の内地兵、初めて徴兵された朝鮮出身の屈強な初年兵は兵舎防火班と弾薬運搬班に区分した。
そして一時間がすぎた。誤報だと連絡が入った。緊張がとけ力が体中から抜けた。一瞬ポカンとなった。 空襲警報解除。解散を命じる。兵隊の顔に笑がこぼれた。そして安心だか、誤報への嘲笑だったのか、訳の解らない喚聲が陣地をゆるがした。私はゆっくりと指揮所から降りた。日の光はやわらかく風はなかった。 おだやかな小春日和の日であった。
午後になって本部から帰隊した安田隊長に異常なしと簡単に報告した。長身の中隊長は日焼けした顔に白い歯を少しのぞかせてフフンと言って私を見下すようにして小さく笑った。私もそこでニヤリと笑った。ど素人が最新兵器を使いこなせる訳がなかったからであ る。そばにいた隊付将校三人が誤報でよかったなと高笑いした。正解である。
私は安田中隊のことをもう少し語りたい。安田中尉を初めとして隊付将校三名。見習士官ニ名。準士官一 名。下士官十二名で、その殆どが幹候出身者であったように思う。陸士出はいなかった。一應社会人の故か 軍規でこちこちに固った空気はなかった。加古川の屯営では殆んど毎日の様に志願の十八才位の若い伍長や病院下番の万年一等兵に私的制裁ともいえる体罰を受 けていた。上靴や帯革でなぐられた。せみなき、自転車こぎ、金魚泳ぎ、正座、腕立て伏せ等があった。今となっては各人各様の深い思い出となっているであろう。 神戸へ展開してからはこういうことは殆んどなかった。けれども百年兵を養うは此の一戦にありと猛烈な訓練がこれに取ってかわった。日本にはなかった四発B29 の如きは成層圏で偏西風に乗った時は秒速二百米を越えた。旧式の航速測定機に二百米の目盛はなかった。 対空戦斗は一瞬で終る。敏速正確を求められる所以である。撃墜かやられるか、それは一瞬である。その一瞬の戦斗の為に安田隊は私の知る限り十七年神戸和田岬の狭い突堤の上の八八式七高三門を据えた陣地から此の大倉山に十高六門を据えた今日迄毎日吹き荒れる 寒風に身をさらし、酷熱の太陽に身をこがし、黙々と 実戦さながらの訓練を積んでいたのである。百年兵を 養うのは何の為だ。此の大東亜戦争に私達は何を守るのだ。天皇の為にか。家族か。土地か。財産か。はた また国か?理屈は抜きにして私達の任務は防空である。 敵機撃墜こそが安田隊の任務である。後日私の経験で 一戰斗五分を越えたことは一回しかなかつた。それ程 短くて激しい戰斗を要求されていた。そうした訓練の続く或一日であった。安田中隊長が夕食の途中憤然として私達に日本有数の財閥住友本社総理事小倉正恒が 安田隊の一召集兵士の召集解除を申し入れて来たと話した。山岡部隊長の所へ手紙を送って来たという。解除要請の理由はその財閥系列会社の中に於て重要職務にある彼がいなければ会社の業務に支障を来たし軍需に重大な支障を来すとの主旨である。この兵はまだニ 十才代である。大学を出たばかりである。こんな馬鹿な話があるか。こんな若者が天下の財閥にそんなに重要なのかと隊長は皆に聞いた。そんなに人材はないのか、隊長はその兵の器量を見て判断した。彼を知る隊付将校も隊長にそんな馬鹿な話があるか。財閥に負けるな。財閥の圧力に負けるなと言った。私が四年間在職している住友機械の組立仕上工場の作業進行係、山本某が召集から十日後に召集を解除された。実際に此の人がいなければ工場の作業がうまく進行しなかった為会社から解除を要請した事実は知っていた。しかし 此の件に関しては隊長に同感した。此の話は隊長から二度と聞かなかったが間もなくあった南方派遣要員の編成の時安田隊から出された。兵の氏名は私の記憶にない。この人の運命は自分の与り知らない人々の手によって動かされた。この人はこうした事情を知っていたであろうか。無事生還したであろうか。安田中尉のこれが小倉正恒に対する回答であった。
十一月の末〜十二月始にかけて帰郷休暇を与えられた。十八年七月始めて帰郷した時は、一期の検閲後の休暇で帰ると必ず外地征きだと例になっていた上にその直前に中隊命令で髪と爪を半紙に包んで送っていたので愈出征と思い込んだ人々が駅迄送ってくれた。そうではなかったのだが軍機上だまっておれと命令をされていたので何も言わなかった。心苦しかった。あの時持ち帰った米入り大豆を軍人さんはこんなものを食ベていると町内に回覧された。地方はまだ米だけを食ベていた。和田岬陣地の厠は海の上に突き出されていた。用を足すと未消化の大豆がそのままの形で海の上をプカリプカリと浮いていた。それでも私達初年兵は宿舎の側で建造中の三隻の潜水艦の鋲打ちの騒音を利用して炊事室にしのび込んで一晚水に漬けてある大豆を夜中に盗み出して寝床で一粒一粒その大豆をかみし めた。今度は親にも出征を伝えた。日吉校に恩師村瀬晃夫先生を訪ねた。先生は担任の生徒に私を紹介した。子供達は私の軍刀にふれたがった。私は抜いて見せてやった。
おやじは将校になるとは思はなかったと言ったが軍刀仕立の脇差しを一振り呉れた。帰隊の時、町内や親族 の人も来てくれ前回よりも沢山の人が今治駅迄見送ってくれた。結局私は三回送って貰ったことになった。私は感謝の辞を述べ大東亜戦争の完遂に努力捨石になりますと挨拶。郷土を離れた。
 十二月五日、六日と大阪駅北口の大阪停車場司会部で乗車区分の確認に赴くも何も彼も不明であった。停司には私達の乗る列車編成表がなく逆に司令部員に貴様ねぼけてるんだろうと怒鳴られた。七日部隊本部で編成部隊出発駅と出発時刻を確認。午後停司にて隊長 となる照空隊小川少尉と会ぅ時間を連絡して行くも予定時間に少尉現われず、夕方迄待ちくたびれる。司令部員の應待誠に悪し。夜になって漸く少尉来る。神戸に帰隊した時は二十一時を過ぎていた。安田隊長を始めとする幹部は待ちくたびれて本人抜きの壮行会を呑 めや歌えと盛大にやっていた。隊長以下誠に御機嫌であった。私が帰って来た時中隊長の音頭で乾杯。食うものは私を除いて殆んどなかった。形だけの謝辞を述ベてすぐ閉会にして貰った。予定の時間に大巾に遅れたので仕方がなかったが小川少尉にも中隊幹部に対しても此の日はむかむかしていた。
十二月八日。大東亜戦争開始の日である。あの十六年は早朝から終業迄会社中の五千人が仕事も放り出して繰り返される大本営発表の度にみんな躍り上って唤声をあげた。仕事をせよとは重役以下誰も言わなかつた。会社中のラジオのボリユームは最大にあげられた。 あれからまる三年たった。
中隊の各掛から武器、装具、被服を受け取る。転属書類も受取った。九四式挙銃のばかでかくて重いのが 1番邪魔であった。銃弾も紙箱入りのままだったのですぐ十発は装てんした。炊事の玉置軍曹がこっそり一梱包ほまれを餞別にくれたのが印象に残った。夕方「陸軍兵科見習士官某以下何名本日を以て南方総軍司令部転属を命ぜられました」と中隊長及び隊付将校に申告をすませた。
中隊全員整列した見送りの中を衛兵の捧げ銃の部隊敬札を受け大倉山公園入口の坂を下り神戸駅に向ぅ。松本少尉以下手紙をくれと言われたがハィと返事をしたものの夕の事でむかむかしていたので無論放たらかした。山岡部隊の各中隊から数人あて集まって来た。引率者から報告を受け兵員数を確認。私は官姓名を名乗って部隊として掌握した。軍装点検。行軍乗車の注意を与えた。各中隊長、本部将校の一部が見送りに来ていた。本部の安藤中尉(十八年幹候選抜員長)が来ていた。此の人には思出がある。甲乙幹分離試験の最終の安藤中尉の質問に答える者がいなかった。中尉の顔に皮肉な笑がうかんだ。と私は思った。皆若し間違えたらと躊躇したからである。黙っているのもしゃくなので全部私が答えた。候補生の最後列に私はいたので思い切り大声を張り上げた。正否は別だ。オイッ。そこの候補誰だ。私が答えるとウンと大きくうなずいた。 今晩は終始ニコニコしていた。
私が安田中隊長に挨拶しますと申入れたら「オイ、 オイ」とあわてて手を振られた。他の中隊畏を差おいて自分だけにされると感違いしたようだ。他の中隊長は知らなかったので安田中尉に申入れたのだ。見送りの各将校一同に対して私が唯有難う御座居ましたと御 挨拶申上げますと皆に言って貰いたかったのである。 そこで私は彼等将校連中には挨拶はやめにしてサッサ と、たった今掌握した兵達を指揮して、改札口に予定より早く入った。
大阪駅東口で小川淸少尉の指揮下に入った。東口通路は南北に兵で埋った。相当な兵員数である。深夜の二十四時に大阪駅発車。見送人一人も無し。明るい人影のないプラットフオームは妙に白々しくわびしかつた。ゴトンと動き出した汽車はすぐ闇の中に入った。
一車両定員八十八名の席は楽であった。すぐ眠り込んだ。どこで夜が明けたのか今は覚えがない。一日車中で何をしていたのだろぅ。衛生検査が実施された亊位しか思出せない。下関の手前で徳山か宇部であったろうか。瀬戸内の静かな海に落ちる真赤な大きな太陽は美しかった。落日に照らされた人の顔も何も彼もが朱色に輝いた。皆聲もなく車窓に顔を寄せた。新設されたばかりの関門トンネルを軍用列車は一気に通過。九州に入った。
八幡製鉄の延々と続く大きさにびっくりし博多の町に元寇の昔を偲び真夜中に着いた駅が大牟田であった。
駅前広場で大牟田の各町内会長が大勢迎えてくれた。
民宿とは本当に意外であった。小川隊は駅から南の方の町に泊った。兵隊の区分が終って小川隊長、私と当番兵杉本一等兵は町会長さんの家に案内された。御主人夫婦は温厚な方で米問屋との事である。夜は遅かったにも拘らず一家をあげて歓待してくれ恐縮した。暖い食事と赤々と炭火の入った火鉢。物資不足の時節に此の家の人々の親切が心に沁みた。
 十二月九日。此の町内会長さんは小川隊の為に此の月配給された砂糖、小豆を町内をあげて提供。ぜんざいを作ってくれた。町の人々にとっては一ヶ月分である。大変なことである。当時にあっては貴重品中の貴重品である。十七年新居浜で私が受けた砂糖の配給量は一ヶ月分が甘党の私には口に放り込んだらそれで終であった。町の人々が此の貴重な砂糖と小豆を全部はたいてぜんざいを作ってくれた真心は有難かった。またこんなに美味いと思ったことはない。私が軍隊に入ってこれは二度目であった。最初は那須の金丸ヶ原演習場であった。量はドンブリにニ杯分位も当ったがこれが幹候生かと思える程がつがつしていた。まるで餓鬼であった。
船団が大牟田から出るのはこれで二度目だときいた。 前回の船団は出航後間もなく東支那海で敵潜の雷擊を受け海没して殆んど全滅だったそうである。大牟田市民が何時、何処で此の情報を得たか不明である。単なる噂か流言であったかも知れない。私はくわしくはき かなかった。私達も海没すると思われたのか町内会長さんの老母は私達を見た時、こたつの中で可愛想にと涙ぐんでいた。
こうした老母と同じ気持ちがこうした形で私達に向けられたのであろう。町の人々は私達が海底に沈んで行く者と確信さえしているように思えた。片道キップしかないと思われた私達に対する精一杯の気持ちを表したのだろう。それにしても兵の一部に戦斗帽をアミ ダにかぶり、下駄ばきで軍袴の物入れに両手を突込んで背をまるめてのし歩く者がいた。教育召集兵であった。俺は軍人だぞ、お前等とは違うんだぞと顕示しているとしか思えない。私は大変不愉快であった。この軍を笠にきたとしか思い様のないわがままや不作法に目をつぶって兵隊さん、兵隊さんと労ってくれている人情が、つい一週間前迄町の人々と同じ地方人であった俄兵逹には通じないのかと情なかった。しかし私の 心の中にも出発すれば何が起るか解らぬ地獄絵図の死地に入るのだから大目にしておけという気持ちも強く、 口頭で一言町内の親切に甘え過ぎるなと注意した丈であった。小川少尉から指示命令は何も出なかった。隊長は連日各隊との連絡会議に忙しく留守勝であった。 会議の模様は殆んど語らなかった。小部隊の悲哀をかこっていたようである。
私は十九年夏越中島に於ける海洋訓練の成果を生かすべく独断で杉本一等兵を連れて大牟田の街々の店からロープ綱、麻縄、小刀、懐中電灯その他海没を予想して必要な品々を買い集めた。鉄道運賃が三等一分乗って一銭の時代である。星一ツの二等兵が十日給ニ円五十銭であった。歩兵操典や作戦要務令、砲兵操典、内務書、陸軍礼式令等の教範類に当てるだけで精一杯で 酒保のまんじゅう代も出なかった。民間に於ける私の月給は六十八円。手当七円、半期賞与百円であった。冬背広三揃純毛が九八円(注文服)であった。見習士官の給料は四十円で使う隙がなくあれこれで二百円程持っていた。しかし小刀の肥後守にしても一店に三個となかった。物資の欠乏振りがうかがえた。買い集めを中止したかった。こちらも命がかかっているのでやめられなかった。町の店の人も兵隊さんの為だからと奥にしまい込んである品物も心よく出してくれ、値段も勉強してくれた。無い時は一緒になって同業者の店に案内をして調逹してくれた。町の中に小山の様な所があってトンネルの様になつていたと思うがそこを何度も行ったり来たりした。こうして小川隊全員に当る位の員数は揃った。ただもう有難いの一語につきた。 又是等が全くの無駄物になる事も祈った。
十二月十二日。近くの国民学校に兵を集合させて集めた小道具を手渡し海没の注意を与えた。一人一人の顔を見乍らゆっくり話した。
一。轟沈の時は出来る丈早く水面に顔を出せ。
ニ。沈没寸前海に飛び込んだ時は現場から出来るだけ離れろ。沈没の渦を離れろ。
三。浮遊物は集めろ。筏を作れ。すがれ。
四。一人になるな。集団を作れ。泳ぐな。
五。軍服を脱ぐな。体が冷えるから。
六。自分だけ助かると思うな。死ぬるぞ。
この綱や小刀はその時に使え。常時携帯して離すなと 命令した。
その後木村伍長以下下士官を助教にして各個教練を実施。敬札。不動の姿努。速歩の基本動作を行う。 戦争に行くのに何を今更と言う者もあったが無視した。 速歩で割合に巻き足の者が多かった。巻足とは後から見ると足の裏が見えるのである。ひざが伸びないからである。これを見た丈で兵の個人鍊度がわかるのである。 町内の人々が子供もまじえて見物していた。あまり直すと町の人々に頼りない兵隊だと思はせても仕方がないので一寸注意する程度でヨシ、ヨシと大声でほめ上げておいた。久し振りの大声で少し気が晴れた。兵も 軍人であることを思い出したようだ。
十二月十二日。夜小川隊長から愈々明朝十時出港を知らされた。私は乗船掛りを命ぜられた。具体的に何をするのか隊長に聞いたがただ命令を伝逹した丈でくわしくは話してくれなかった。一寸不安だったが隊長もどうするのか知らない様だった。何とかなるだろうと気にしなかった。私は柬京時代から持ち歩いていた冬衣料品やその他不要品を整理一括して今治に送り返 してくれるように町内会長さんに頼んだ。結構あったが心よく引受けてくれた。前回船団の出た後こうした荷物の動きに対して憲兵隊がうるさかったときいたので可なり日数をおいて発送して貰う事にした。御主人には純綿ネル袴下、襦袢を御礼に受取って貰った。その夜は特配の酒で別れの宴を設けて下さった。御夫婦娘さん老母も心を込めて接待してくれ内地最後の夜を過した。当番兵の杉本一等兵も無礼講で席に入った。 暖い家庭の味はこれが最後であった。
十二月十三日。早朝小川隊は町内会長宅前に集合。 小川少尉が隊長として町の人々に御礼をのべて三池港に向う。手を振ってくれた。一寸淋しかった。大牟田の町の暖い人情が心にしみた。集合時間に少し遅れたらしい。各方面から各部隊がぞくぞく集合して乗船は始まっていた。阜頭は意外に広かった。おりから昇る朝日に阜頭に撒かれた水がきらきら光っていた。あの船だと隊長の示した船は大きく見えた。高い舷側の上で田村見習士官が誘導している。私は部隊より先に先発すべきだったのである。突然船上から大声が飛んだ。 小川隊の見習士官は何をしているのだ。今迄何回か怒嗚っていたのだろう。雷のように聞えた。隊長の顔を チラッと見た丈で乗船口に素飛んだ。私が甘かった。 解らなければそれはそれで手段を講ずるべきだった。何はともあれ乗船口に突立ってやって来る部隊に先着順にタラップを登らせ、後続部隊には待機場所を指示した。怒鳴ったのは輸送指揮官の大佐であった。小柄に見えたが声は大きかった。赤い顔にひげがピクピク動いて見えた。乗船が終る迄舷側からにらんでいた。やっと終って一番最後に甲板に上り、田村にすまんと頭を下げた。この時大佐の姿はなく、田村は、たるんどる。気合いを入れてやると笑った。
我々の乗船は川南工業製造の戰時規格タン力―五千屯(船名は忘れた)最大速八ノットである。えらい鈍足だと思う。南方ボルネオかスマトラに石油の積取りに行く序の片道兵員輸送に利用されたのである。我々の船室は船尾の油槽を改造していた。広さ百ニ坪、乗船収容人員千六百人。中央に四角く席が大きく設けら れ、四面の壁に上中下三段にかいこ棚が作られている。 各段の高さは中腰になると頭がつかえた。小川隊の割当は中段の一坪。たたみニ枚である。船底に降りると 大混雑である。兵の半分はこんな狭い所に入れるかと通路に突立っている。見上げると船倉は高さ五米位で 甲板迄吹抜けで冬の晴れた空が青く澄んで見える。船底はそんなに暗くはない。何処かの大部隊の将校が入れないと文句を言った。輸送指揮官は入るのではない。入れろと厳命した。此の辺が軍隊だ。無茶苦茶だ。
初年兵として鬼の三連隊とうたわれた加古川に入隊したその日、練兵場に古靴、古帽、古服が放り出された。古兵がどれでも取れ。と叫んだ。我勝ちに私達はその古物の山に飛付いた。まごまごしているうちに残り物を取る破目になった。頭が小さすぎた。55糎の頭に合う帽子がなかった。あれかこれかと頭に合わしているうちになくなっていた。結局靴は左十文三分右十一文。軍帽は指三本が入った。服は明治四十二年製で 演習が終るとどこかがほころびた。誰かが合わぬと言うと古兵は馬鹿もん! 体を合わせろと怒嗚ッた。私は服、靴、帽子は体に合わせるものと思って疑いもしなかった。私は入営第一日目にして此の考え方を引繰り返す発想に振り廻された。現役兵には新品がちゃんと用意されているときいたがそれは第二装だけであった。私は毎日夕食後軍服の補修に追われ、なれぬ針で指をさしながら、縫う間に軍人勅諭や各教範の綱領などを大急ぎで党えた。古巻脚胖は少し力を入れるとよく切れた。切れましたと云うと、切れたんではない。切ったのだとよくなぐられた。切れたと脚胖のせいにする地方人意識から切ったと自分の責任を自覚させられた。なぐられて始めて気がついた。こうした発想の転換に手間はかからなかった。文句が多いと言ぅ軍隊言葉も同様に理解した。文句は学問で大いに言えと或る班長は言った。切った。此の言葉の意味は以後軍隊生活で一番身にしみた。実行はむつかしかった。切れた、切ったは盾の両面、裏表なのである。
十九年夏サィパン玉砕後東京港で小笠原島方面の緊急輪送に使われた小さい瀬戸内の島めぐりの様な船に乗せられた。居住空間の狭まさ、悪さに驚きの声をあげた。夏の高温多湿に汗もしとどに私逹はぐったりした。聞きしに及ぶアフリカ黒人どれい船もかくやと思われた。こんな小船でよくも太平洋に乗り出したものだと思った。
「入れろ」の命令で私は詰めに詰めこんだ。まさか 五千屯の大船でこんな目に合うとは思わなかった。他部隊も似たりよったりである。二十人試みにたたみ一 枚に座って見ろってもんだ。冗談ではない。ましてや 完全軍装である。しかし私は入れろの命令を素直に実 行した。出港する迄は各部隊所定の場所を離れるなと又命令が出た。あぐらに座り、その組んだ足の上に又 座る。手足を抜く事も動かす車も出来ない。立錐の余地所か、人の上に又人である。人の上に人をつくらず、誰かが言った。人の上に又人である。誰も答える者はなかった。それでも何とか座り込み、うんうん唸り乍ら寒中に汗を流していた。文句は言わせずで私は現状に従った。
こんな事に気を取られているうちに、船は出港していた。甲板に出る事を許された時、殆んどの者が装備も何も放り出して、我勝ちに甲板に飛び出した。外は静かな冬の海である。三池港は振り返ってみたが、どの辺かよくわからない。丁度長崎の沖を通過中であった。皆陸ばかり眺めていた。私は海風を吸い、うーん と背筋を伸ばし、大あくびをしてすぐ船倉に降りた。兵のいない空いた中段に、手足を伸ばして大の字にひっくり返った。
日本が見えなくなる!甲板から大勢のどよめきが聞えてくる。日本!日本!
それは自然に恵まれた山や谷や河であり、父母妻子はらからの住む国であり、祖国である。日本が見えなくなる。と叫ぶ声の中にこれが母国の見納めかと名残りを惜しむ人の情が溢れている。生きとし生けるもののあわれとでも言えようか。そして死を予感する思も亦潜んでいる。私にはその時死ぬるという感じは全くなかった。何を今更とも思った。俺は生きて帰れると何となく思っていた。理由はない。
午後隼が一機飛来。低高度でゆっくり旋回、北に消えた。敵潜の雷擎をさけるジグザグ航法で右に左にと変針を練返し乍ら船団は白波を蹴立てていた。甲板を吹き抜ける冷い海風に瀬戸内の暖い優しい潮の香りはなかった。護衛艦なし。掩護機なし。前途三千キロ。待っ ているのは爆弾の雨か?それとも泡立つ一筋の白い雷跡か?
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闇夜の光(2011/11/25)

2011-11-25 22:35:13 | 戦前・戦中の日々
南三陸町観光協会の楽天出店のメルマガが届きました。
日本赤十字社の支援で志津川公立病院の仮設建物の建設が始まったそうです。
CTR、MRI等の検査装置もはいるそうです。赤十字社を通しての寄付はこうして有効活用されているそうです。
(写真掲載は著作権の関係で問題ですが、読むのは少数の釣りバカですので、ゴメンなさい)
冒頭の写真。
漁船も北海道から6トンの中古船がはいり、知り合いがサプライズで大漁旗を用意してくれたとか。船体も大きくなり、取れた魚を大量に運ぶことが出来るようになったそうです。
下の写真。

メルマガの申し込みは左のブックマークに。
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 昨日飲み会があり、帰りの電車で夕刊を読んでいると、震災にさいして、数えきれないほどの音楽家が演奏で被災地の皆さんを力づけているとの記事。南三陸町のメルマガでもEXILEの歌を被災した当日の晩、中学生が避難所で歌い、皆さん涙したといった記事があったのを思い出しました。酔った影響か、私が40年前過ごした学生寮の同志会で古い会報に、東京の空爆下で学生寮の同志会でクリスマス祝会をしたという記事が思い出されました。ふと目が覚めると、乗り過ごし、あわててのぼりの最終列車に乗り事なきをえました。今朝、同志会の会報を引っ張り出しその記事を読みなおしました。(創立70周年の記念に古い記事を転載した記念号) 下のような内容。太平洋戦争では、今回の震災の200倍の人的被害が日本だけであり、周辺国も合わせると1000倍。闇の期間も10年と長かった暗い時代。読み返すと、闇が暗い分、輝きがまぶしいのは、EXILEの歌もこの記事も共通と思った次第。
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空爆下の同志会とその綱領
                   小中公毅(同志会 大正6年卒 裁判官)

日本全土が米空軍の来襲を受けその熾烈な空爆下で同志会のクリスマス礼拝がささやな乍ら厳粛に行われたということは同志会五十年の史上特異な出来事として記憶しておいてよい事柄だと思う。当時同志会では内会員中法文医科の学生達はほとんどその全員が学徒応召で狩り出されて、会内には僅かに数名の理工科の諸君が居残り、辛うじて会館を守っておるという心細い状態であった。その頃東京の周辺は連続的に空爆を受け、それが次第に都心に及び、日本橋や神田方面では、その付近一帯が焼野原と化し、連日連夜警報が発せられ、郊外から通勤していた私などはその途中で何回か電車を止められて退避させられた程であった。同志会の内会員諸君も何時爆弾が落ちてくるか判らないという危険にさらされつつ、あの少人数で不眠不休の防空警備に当たらなければならなかったし、外会員としても出ては職場を護り、帰っては自家の防空に忙殺されていて、到底同志会を顧みる余裕はなかった始末であった。
 ところがあの戦争中、外会員の代表格として金曜会をはじめ、会の面倒を見てくれていた田端平四郎君から、恒例のクリスマス礼拝をやりたいが適当な説教者がないから、その際説教をしてもらいたいとの話しがあった。
 私はこれに対しかような場合でもあるから今年はやめにしたらどうだといって体よく断ったのであったが田端君は内会員諸君も是非礼拝だけは捧げたいと願っておるからと懇請せられたので引き受けることにした。実をいうと私は田端君から話をしてくれと頼まれた時に、些か閉口したのであった。それは礼拝の後夜間帰宅の途中でまた空襲に遭うかもしれないということを恐れたためばかりでなく、当時私はクリスト信徒としてあの戦争に心から協力することを潔しとせず、軍部の専横を憎まざるを得なかったとはいえ、既に二人の子供を戦線に送り自らも国家の官吏として間接ではあるが戦争遂行のための公務に従事しており、現実と信仰の調和に苦しんでいた最中であったからであった。しかし田端君らの熱意に動かされ、且つかような際にこそ若い諸君と共に真面目に戦争と信仰との問題を語り合うべきであるとする強い責任感ともいうべつものを覚えたので思い切って出席した次第であった。そんな訳で昭和十九年度における開戦四年目の同志会クリスマス礼拝が行われたのであるが、それは次第に空襲が激化することを考慮して例年より少し早めにすることとして十二月十五日の午後四時開始と定めたのであった。無論その日にも空襲があって江東砂町付近に爆弾が投下せられ、小松川中学はじめ付近一帯に相当な火災が起こって、文字通りの空襲下のクリスマスであった。同夜集まったものは外会員として田端君と私、内会員として杉原俊輔はじめ数名という極めて少人数に過ぎなかったのであるが空襲の危険を冒しての礼拝であり、また多数の外会員が前線に赴いて戦火に曝されておる最中でもあったためか、礼拝はいとも厳粛敬虔に行われ、語るものも、聞くものも真剣にかつ熱心に祈りかつ語り合ったことを今もなおまざまざと記憶し、まことに思い出深いものがある。この礼拝において私は当時の日記によると、「主の生誕と正義の衝突」と題して語ったことになっておるがその話の大要は
 「米英と日本は何れも正義の為の戦いであるとしておるが、神の正義は一あって二はない筈だ。何れが是か非か。又は何れも非かに帰する。神は天にあってこの二つの矛盾した正義感よりする訴えを聴かれてさぞや困っておられることであろう。われらクリスト教徒は今こそ謙虚な心を以って神の御声を聴きその聖断を待つべきである」
 というにあったと記憶する。無論その礼拝の形式、説教の内容は例年のそれに比すべきものがなかったとしても、とにもかくにもあの空前絶後ともいうべき空襲下に於いて、わが同志会がこの貴い伝統的行事である聖誕礼拝を守ることができたという事は、まことに感謝すべき事であり、わが同志会の創立当初からの精神があのように苦難の時においてさえ立派に活きていたのだということを実証しえて限りなき心強さを感じせしめられたのであったが私はあの戦争中の同志会を回顧するときになお一つの、それは同志会にとって更に重要出来事として想起せざるを得ないことがある。これは戦時下における同志会の綱領に関する問題であった。元来人間殺戮を伴うあの戦争なるものは人類相愛を信条とするクリスト教徒にとっては、それはその生を享けた国の名によって始められ而も聖戦という美名のもとに続けられたものである限り、その生活の両面に於いて甚だしい矛盾を感じその精神的苦悩は少なからざるものあつたからであるが、英米のクリスト教風を母教会とし又はその国のミッションからの援助を受けていた教会にとっては一層苦難の立場におかれており、官憲の執拗な圧迫は日を追うて激しくなり教会への強制捜索、備え付け書類の押収、教会主管者達の召喚尋問が行われ逮捕収監の憂き目を見る人も生ずるという事態とまで発展して行ったのであった。私のような取るに足らぬものであったに拘わらず特高警察の監視が転任先にまで及ぼされ「法廷に於いて伝道するとは何事ぞ」と非難せられ面罵を受くることすらあった程であったから、かかる四面楚歌の中にあって教会を守っておられた教役者信徒の方々の苦労は並大抵のものではなかったはずである。この嵐の中にあってわが同志会もまた独りその圏外に立つことは許されなかった。その頃同志会の安全を保持するために一時会の旗印である綱領を緩和して風当たりを避けるべきでなかろうかということが真剣に討議されるにいたったのであった。
 私は当時を回想して同志会が創立五十年の歴史での最大の危機に遭遇したのは実にこの時であった慄然たるを得ない次第である。然しこの重大な危機も阪井会長先生の強い信仰に基づく厳然たる裁断によって免れえたのであった。
 このことは同志会にとってこの上なき喜びであると共に同志会の将来のためにその歴史の上に永く特記されて然るべきものであると信ずるものである。げに同志会はあの堂々たる綱領が厳存し且つ厳守され更にそれが各会員の一人一人に体現されてこそ同志会であり、これこそが同志会の生命である。同志会員となってクリスト教的人格を涵養することができないならば宝の山に入りながら手を空うして去るに等しい。然し私はあの空爆下における以上二つの出来事を目撃経験して同志会創立の精神は過去五十年において脈々として全会員の中にあって活動して来たことを感謝すると共に将来も益々盛んに溌剌として成長してゆくであろう事を確信し、且つそれを切に祈るものである。
(昭和28年発行の同志会会報40号より)
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富田紫郎氏からの年賀状(2011/1/5)

2011-01-05 22:25:57 | 戦前・戦中の日々
年賀状、亡くなった父の小学校の同級生の富田紫郎氏より、届きました。
富田紫郎氏の画いたものです。
見飽きない絵だと思います。
富田氏は父のクラスの最後の遠足で、疲れた旧友を励ますため、列の先頭で進軍ラッパを吹いた少年でした。
詳しくは、2007/7のブログに

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若き日の江藤翁の写真(2009/7/31)

2009-07-31 23:36:55 | 戦前・戦中の日々
先日、竹田農園で江藤正翁(元南海ホークスのエース)とビールを飲んでいて、若いころの写真を見せてもらいました。こんな写真でした。

冒頭は、小学校の6年の時、八幡の高見小学校のリレー選手に選ばれ、八幡市で優勝した時のもの。前から2列目、右端が江藤氏。まだ背は高くなかったが、走るのもボール投げも図抜けていたとのこと。このころ、到津球場に来た、大リーグの試合を見て、ベーブルースが打った特大のホームランに驚いた。


八幡中学3年時(当時の中学は5年まで)の投球。エースになったのは5年から。このころは、バッティングを買われて、ファーストで試合に。


八幡中学5年で、北九州6中学大会で優勝した時のもの。後列左端優勝旗を持っているのが江藤氏。八幡中学、東筑中学、小倉中学、門司中学、若松中学、豊国中学の戦い。一点取られると八幡中学は負けるので、必死に投げて優勝。


学徒出陣で、同期の初年兵で。小倉北方の野戦重砲隊の仲間と。航空隊を志望したが、教官の梅津少尉(前列中央軍刀)の「野戦重砲隊には、お前のような大男も一人はいるから、来い」の一言で、野戦重砲隊。江藤氏は前列向って左端。後列右から4人目が仲の良かった、福田氏(佐賀か長崎、拓殖大学生)。福田氏は台湾への輸送船の中で、就寝中、船が揺れた際、超すし詰めの船内の木製の柱がずれ落ち、頭部陥没骨折で死亡。江藤氏はその隣で寝ていて朝まで気がつかなかった。紙一重の運命。福田氏の遺族に会って、最後の様子を報告したいとずっと思っていたが、叶わなかった。ちなみに私の父は、多分、この輸送船団の一つ前の船団で台湾に。父の船はキールンの港で爆撃で各坐、やむなく台湾上陸、残りの10隻余りの輸送船は、サイゴンに向うも揚子江沖ですべて潜水艦の魚雷攻撃で全滅。これも紙一重の運命。それ以降の輸送船は、台湾までしか行かなかった。
右端に立っているのは、八木下氏でこの方の弟さんがヤギシタハムの社長になる。おじさんが八幡中学の先輩で野球が好き。戦後復員間もない江藤氏を門鉄の野球部に引っ張ったのは、この伯父(叔父?)さんで弟さんが使者になったとのこと。


 プロ野球を引退し、電電公社の労務担当の課長になり、激しいやりとりをしたこともあるが、組合の運動会に、仮装行列に花嫁になるように頼まれ、応じたもの。小柄な組合幹部とのペアでヤンヤだったとのこと。昭和43年頃。NTTの京都全体の運動会。
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江藤正氏に和田氏(回天の乗組員)について話す 農園草ボウボウ(2009/3/23)

2009-03-23 22:36:28 | 戦前・戦中の日々
田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
桜も3分咲き、木々の新芽も至る所に。
WBCの日本対アメリカを勝負あったの8回まで見て、帰省中の次男と竹田農園に。
木陰のバーベキューと大根の収穫。

(草萌える春)

農園の空き地に車を止め、畑を眺めると、草ボウボウ。
特に玉ねぎの畝がひどい草。
今日は時間なく、放置。
この30年の経験から、苗を植えるなり、種をまいておくと、草ボウボウでも、とにかく何か成ると分かっているので、畑さんよろしくと、林の木陰にバーベキューの用意。
妻から、面白かったと渡された「奇跡のリンゴ(木村秋即氏の半生記)幻冬社」読んだばかり。
無農薬、無化学肥料の栽培がいいと言うが、リンゴの場合、非常に難しい。
これを10年死ぬ思いでやりぬいた物語。
ご一読お勧め。(本屋の目立つ所に山積みされている)
まず土づくり、虫やら細菌どっさり、できたリンゴは味が違う。
竹田農園、この路線で耕作してゆきたいもの。

(バーベキュー)
次男と手分けして、椅子を並べたり、火をおこしたり、木切れを集めたりで、焼き肉スタート。
農園の隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース)も加わり、ビール。

(江藤正翁の話)
○先週、訪れた大津島の回天記念館の墓碑名にあった、和田稔氏(映画、出口のない海のモデル)を江藤正翁がご存じないか、聞いてみた。
年齢は和田氏が一つ上、小学校は和田氏が北九州の小倉の堺町小学校(後、静岡の沼津中学)、江藤翁は北九州の八幡小学校。
共に野球好きで、和田氏は一高~東大、江藤氏は八幡中学から法政の予科から大学。
どこかで接点があったのではと思ったが、記憶にないとのこと。
江藤翁が六大学でプレーしたのは、予科2年の時、打撃を買われてファーストでプレー、昭和16年には優勝。
しかし戦争で昭和17年野球中止、18年に学徒出陣。
和田氏の墓碑の写真を見てもらいながら、東大は当時強かったのかと聞くと、笑うだけ。
「東大もいないと、6大学でない。」
○印象に残った同年齢の選手の話になり、小鶴誠氏(ホームラン51本の日本記録を長く持っていた)は飯塚商業の選手で同い年。
八幡製鉄に入り、プレー。
江藤正翁も八幡中学で八幡製鉄と合同練習してたので、よく知っていた。
別当薫選手も同年齢。
慶応の選手。
○田中マー君がスタルヒンによく似ていると以前、江藤翁が話していたので、もう少し詳しく聞きたいと水を向けるも、同じ若い選手ということで、江藤翁がキャッチャーからピッチャーに転向をアドバイスした高校生の稲尾選手(西鉄)の話になり、あそこまで素晴らしい選手になるとは思わなかった。と。
若い人の可能性は、計り知れないということらしい。
 食事とビールが終わったところで、江藤翁とパチリ(冒頭の写真)
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回天記念館で見た遺書

2009-03-16 16:55:48 | 戦前・戦中の日々
回天記念館の展示の資料の中にあった、20歳の青年の遺書。(写真)
ちょうど帰省中の次男とよく似た年齢で、胸が痛みました。
また私は59歳ですが、この青年のような集中力はないと、敬服しました。
内容は
「恩師先輩親類近所ノ方へ 
皆様有難ウ 
思ヘバ 楽シイ二十年ノ人生 
皆様ノご厚意ヲ体シ 笑ッテ突ッ込ミマス 
軍人精神 忠節礼儀武勇信義質素誠ヲ以テ一貫ス 
若桜万朶ノ桜 海軍二等航空兵曹 松田光雄」
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映画出口のない海のモデル(2009/3)

2009-03-16 16:19:29 | 戦前・戦中の日々
3/15に初めて訪れた、山口県、徳山沖の大津島の回天記念館で、係りの方に、出口のない海の映画を見てやってきた、このモデルになった方がいたのかとお聞きすると、
「東大の和田稔氏、野球が好きな方で、映画と同じように、昭和20年7月回天の訓練中浮上できず、米軍の空襲が激しいため救助もできず、亡くなられた。
同年9月、枕崎台風の波により岸に回天が海岸に打ち上げられ、遺体は回収された。
記念館入り口の通路の両側の戦死者の墓碑銘に和田氏のものもある」とのこと。
案内された、地元の特産の御影石に掘られた墓碑銘を撮影。
江藤正翁とほぼ同じ経歴で、生きておられたら良い仕事をしたろうにと、思いました。
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