田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
父の葬儀には、多くの皆様から励ましのメールやら、お香典をいただきありがとうございました。
(49日が過ぎるまで)
コーラル丸の川端船長、熱心な浄土真宗の信者らしく、49日が過ぎるまで、コーラル丸での釣駄目。
農業が良くて、漁業はは49日まで釣駄目というのは、おかしい、本職の漁師が身内が亡くなって、49日も仕事をしないというのは、生き残った者の生活がなりたたないと疑問に。
ネットで見てみると、漁師町では、葬儀と同じ日に、49日の法要も済ませて、葬儀の数日後には釣にいくとのこと。
これが本当と安心。
もっとも、葬儀で気合いがはいって疲れが残り、今のところ、朝早く起きるのは嫌で、釣りはもうしばらくお休み。
(香典返し)
葬儀が終わってからも、何人かの友人から、お香典をいただき、どうしたものかと思案。
香典返しは、北九州の若者の役に立つことに使おうと、封切りなった「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」の映画を見に3人の若者を誘う。
S氏32歳、H氏25歳、SA氏17歳。
皆さん、北九州市の若い方の就職支援センターに顔を見せてくれる若者。
映画を見た後、小倉室町の錦龍で評判のチャンポンを旨い、旨いと食べて解散(冒頭の写真)。
お香典をくださった皆様ありがとうございました。
お返しはこのように、有意義に使いました。
(いい顔)
先週亡くなった父の顔、口元を引き締め、満足そうないい顔。
父が6年前、孫の一人が、中学の騎馬戦に出たのをきいて、62年前の22歳の時、陸軍少尉で台湾で終戦となり、引き上げるまでの体験記を書いていたのを読みなおしました。
憲兵隊ともめたり、仲直りして、運動会で騎馬戦で大勝利したりといった内容。
忘れがたい思い出だったようで、その時の勝利を思い出しながら去っていったのだろうと推測した次第。
(以下がその文章。400字原稿用紙20枚と長く読むのには忍耐が必要。終戦直後の日本人の様子がよく分かる。この世代が戦後の日本の復興の担い手になったのもうなづける)
J君、運動会で大活躍、騎馬戦では逆転の大勝利を収めたんだって!
じいちゃんも久し振りで若き日のあの日を思い出した。
昭和18年(1943)4月9日、山陽線尾道駅上りホームに私は立っていた。
上り列車の到着を待つ一刻。下りホームに渡る陸橋の降り口僅かのところに、一本の若桜が今は盛りと満開の花を誇らしげに爛漫と咲き誇っている。そよと吹く微風もなく四月の陽光は、さんさんときらめいている。 今治港を数百人の歓呼の声に送られた現役入隊のたかぶる心を抱いて若人四人がこの桜花に見入った。 本居宣長の
しきしまの
やまとごころを ひととわば
あさひに にほう やまざくら
日本男児と生まれては、常に理想としたこの歌の心は、今このホームに立つ若人四人の心であった。 この駅の構内に独立する満開の桜は、吉野桜ではあったが、・・・。 やがて、汽笛一斉私達は、中部軍第七三部隊加古川高射砲第三連隊の営門をくぐった。 二十一歳の春であった。
昭和二十年八月十五日 、敗戦。
私の身分は
「陸軍兵科見習仕官、竹田光雄、昭和二十年一月十日、陸軍少尉に任官。
予備役編入 即日応召」
所属部隊、野戦独立高射砲第八十二大隊
大隊本部 一、七糎船舶高射砲編成三ケ中隊 十八門七百名
私は本部勤務。 任務は、
大隊兵器掛将校。大隊築城掛将校。兼務大隊本部陣営具掛。炊事掛。
戦闘中は、監視掛将校。大隊本部警備掛将校。
敗戦を知ったのは八月十七日。十八日、十九日は大隊長以下、処置なく、ただもう茫然としていた。 かくてはならじと大隊長以下情報収集に努力したが,徒労に終わった。 上級部隊である第八飛行師団桃園飛行団、台北における台湾軍司部、台湾防空司令部への連絡は全く杜絶。
大隊が動き出したのは二十日。
大隊長 松原大尉。 指揮班長 網本中尉
経理班長 片山中尉
軍医 井畔(いぐろ)少尉、 植村見習仕官。
副官 井ノ口少尉、 竹田少尉。
(木ノ内少尉、中村中尉は現地除隊)
取敢えず大隊は如何にすべきか。大隊本部の方針は如何にすべきか議せられた。 第三中隊から室少尉が本部に配属せられた。
大隊長以下敗戦処置による軍隊がどうなるか誰もしらなかった。
大隊長の第一声は、東京で大隊の兵器をすべて天皇陛下に奉還する。
大隊長の考えは、敗戦国軍隊のものでないことは明らかである。
結局、山口高商卒、商社マンとして世界を駆け回っていた片山中尉の意見が取り入れられた。 片山中尉は延々と敗戦とは何か、敗戦によって国はどうなるか、軍隊はどうなるかを世界各国の実例を挙げて雄弁をふるった。大隊長以下納得。以後大隊の主導権は片山中尉を中心に動いた。
(1) 中国大陸からは福建軍陳儀が基隆から上陸(鍋、傘、天秤棒をかつい
だすごい部隊であった。)
(2) 武装解除に備えて、高射砲十八門は一ヶ所に終結。はじめは私がこの任務に当たったが、桃園を出るとき、第一中隊飯塚少尉と交代。
(3)台中州ニ水に移動。
(4)台中州南投街に移動・
この時、将校は帯剣。兵は銃剣を携行。明治精糖株式会社より三十甲歩(日本の約三十町歩)さとうきび畠借り入れに成功。
(5)このさとうきび畠で農作業。食糧の確保に努める。(自活隊となる。)
(6)その他現金収入のため、自動車 六台・・・輸送業、 床屋開業・・
皇室御用の理容師がいた。
(7) 大隊の資金 三十万円 (大隊の軍費転用)
わたしは大隊本部の農作業、床屋営業を任せられた。 水牛親牛八頭、子牛三頭、農機具、小麦、野菜の種苗など片山中尉の世話を随分受けた。
この時、桃園地区に松井大尉指揮の高射機関砲隊が松原隊に編入され、、新しく南投地区治安維持のため補助憲兵岡垣分隊が配属された。長の岡垣少尉以下補助憲兵は北海道歩兵旭川連隊の出身である。
第一章
明治製糖南投工場の蔗糖倉庫が私達の宿舎に当てられた。 三百坪。壁も屋根もすべて孟宗竹によって作られていた。 私達が到着した時には、長年の蔗糖の汁が床に溜まり、その上にスクモ(籾殻)がまかれて厚さは二十糎に達し、蜜蜂がブンブン飛んでいた。 「ヒヤッ」 これが、私達の第一声である。 驚いていてはことにならん・ 早速会社に交渉して、わら束をもらい出して尚その上にばら撒き、糖蜜が全く見えなくなるまで敷き詰めた。 何たって三百坪は広いもんな。 歩いたら足がスーと沈んで、みんな踊っているようだった。
天幕で仕切って、将校室、下士官室、兵室を区切り、蚊帳を吊ってヤレヤレで一日は終わった。 将校室は室修少尉、竹田少尉。下士官室は最古参の営外居住曹長後藤外軍曹、伍長連中。兵は本部勤務の通信、衛生、自動車、経理、兵器、炊事、陣営具の各掛兵。南投街に居住したのは大隊長以下約八十名。
大隊長以下将校は、私達とは別に明治製糖の役員宿舎に入った。 私は一度もこの宿舎には出かけなかった。
第二章
生活は兵営に準じた。
午後七時、日夕点呼のため週番仕官松原少尉があらわれた。 松原少尉は私の一期後である。 いつもなら週番仕官があらわれるまでには、週番下士官・週番上等兵の指揮のもとに各班長がそれぞれ各班をまとめて週番士官の点呼を受けるばかりで終わったのだが、今夕は違った。
私も初めは気が付かなかった。 いつまでたっても点呼が終わらないのである。 三百坪の宿舎いっぱいに兵達の笑い声がドッと揚がるのである。 「アレッ」と気を付けて見ると、隣の下士官室から大声があがっていた。後藤曹長である。 酒に酔っている。 後藤曹長の酔声は、週番仕官の若い松原少尉に向かっている。 後藤曹長は軍隊生活が長い。 色々な経験も経ている。 いわゆる千軍万場の強者である。 東京出身の幹候出の若い少尉になりたてのホヤホヤで、まだ湯気が出ている 坊ちゃん少尉は、この軍隊で鍛えられた古参曹長に向かうには一寸貫目が不足していた。 「メンコの数でこい。」 これが古参
兵の切り札である。 一日早く入隊した同階級のものでも、この古参兵にはかなわない上下の格はどうしようもないのである。 後藤曹長は若い少尉をいじめる文句にはことかかない。 日頃、階級によって抑えられた兵の喜ぶこと限りなし。 後藤曹長の一声一声にまた兵は同調して騒ぐ。 それに力を得て曹長の声は一オクターブまたあがる。 はてしがなかった。 松原少尉は処置なしで立ちすくんでいるようである。
仕切り幕の中で室少尉は苦笑いしている。 室少尉は東大経済出身、神戸製鋼に勤めて、この時、二十八歳である。 室少尉は第三中隊付だから、本部のこの騒動に出る幕はない。 苦笑いする室少尉を横目で見ながら、「シャアナイワイ」と、私は室の外に出た。 松原少尉が照れたようなショゲた顔を私に向けた。 下士官・兵の姿は一人も見えず、天幕の仕切りの中である。 松原少尉が一人でウロウロしている。 週番下士官・週番上等兵の姿はなかった。 兵達には点呼を受ける気持ちはサラサラない。
宿舎の中は曹長の酔声が一際高く響き渡り、同時に下士官と兵のドッとはやす声ばかりであった。
私は舎内をだまって一番奥まで歩いていった。 そして怒鳴った。 「今笑ったのはどいつだ。 答えろ。」 兵がドッと笑った。 これが私への答である。
「わしには声を聞いただけで、誰だかよくわかるぞ。」 とたんに兵の笑い声が消えた。
今本部の将校で下士官兵と寝食を共にしているのは私だけである。 他の将校は明るい電灯の下で、畳の上にヌクヌクと休んでいるのだ。 この松原少尉もその中の一人だ。 下士官兵の声まで一人一人見分けられるのは、私だけである。 「誰だかわかるぞ。」と言った私の言葉の意味は下士官兵たちが一番よく知っている。 静まり返った兵たちをよそに、後藤曹長の叫び声が空しく倉庫の天井にいつまでも響いていた。 「曹長はほっとけ。早く。」と松岡少尉をうながした。 点呼を終えて少尉は一人宿舎を離れて闇の中に消えた。
翌朝、私は後藤曹長を呼んだ。 曹長は私の前に膝を揃えて正座した。 昨夜の勢いはどこえやら、小さくかしこまっていた。 曹長は昨夜自分のとった行動が何を意味するかよく知っているのである。 酒は冷め果ててゲッソリとしている。 「曹長、昨夜は面白そうだったなあ。 みんな喜んでワアワア言うとったが、わしはつい聞きそびれた。 もう一度聞かしてくれ。」 「ハア。」 「どうなんだ。」 「ハア。 ・・・すみません。」 曹長は手をついた。 私はだまって、曹長の姿を眺めていた。
第三章
私は、毎晩、兵を十名づつ夜間外出を許可していた。 門限は十時であった。
後藤曹長は営外居住であったので、この規定は適用されなかった。 ところが、この曹長が補助憲兵の上等兵にやられたのである。 憲兵は曹長が十時以後に酒に酔って町をウロツイテいたのが引っ掛かったのである。 後藤曹長は直ちに営外居住証を示したが、役に立たなかった。 最近、この営外居住証は更新されていたのである。 曹長はこれを知らずに無効の営外居住証を示したのである。 曹長は補助憲兵上等兵にコテンコテンに油を絞られて帰って来たのである。 普通では考えられないことである。
この原因は、敗戦によって、甲種幹部候補生で曹長の階級であったものが、そのまま曹長を命ぜられ、曹長事務職を取ったのである。 この者の姓名を私は忘れてしまったが、この曹長が満足に曹長事務職が取れなかった。 彼は 後藤曹長に新しい「営外居住証」の交付をしなかったのである。
上等兵に絞られた後藤曹長は更に酒をあおって帰って来た。 新しい事務掛曹長は平あやまりに謝ったが、それでも曹長の胸はおさまらず、昨夜の騒動となった。 松原少尉もこれ以上騒ぎを起こすのは好まず、後藤曹長の件は不問に付された。
第四章
事件の首尾は明らかになった。 翌晩、私は外出を許可した十名に一応の注意を与えた。
(1)文句があるなら素面で来い。 いくらでも聞いてやる。
(2)今後、酒の勢いでやった言動には容赦せん。
(3)今後こんな騒動を起こした奴は、「乗船名簿」から削除する。
(丁度この頃、内地へいつ帰れるかが話題の中心であった。 船に乗
らんと内地へは帰れんから、私は乗船名簿から削除すると脅した。
なーに 私にそんな権限なんかありはせん。)
(4)補助憲兵には又任務があるんだから、その任務についてはやむを得ん。
しかし、もう敗戦で、昔とは事情が違う。 今度の曹長が上等兵に絞られるのは納得がいかん。 憲兵だって、星の数がものを言うんだ。 今度わしが巡察将校になったら、憲兵宿舎をでんぐり返してやる。 憲兵と問題があったら、すぐわしの所へ言うて来い。 わしが星の数にものを言わしてやる。
(5) 気を付けて行け。
第五章
私は大声でいつも兵に、憲兵には今に目にもの見せてやるからなとしゃべっていた。 私には目算があった。 ある日、ひょっこり、この宿舎には姿を見せたことのない網本大尉が姿を見せた。 中尉から大尉に進級していた。 「竹田少尉、憲兵隊とあんまり面倒を起こさんでくれ。 大隊長殿も心配しておられる。」 私の目算はこれであった。 私の高言は大隊長まで届いていることが確認されたのである。 憲兵隊にも私のことが伝わっていた。 岡垣隊長はじめ隊員達はどう対処するか相談していると言う。 網本大尉は面倒は起こしてくれるなと念を押す。 そこで私は曹長の名は伏せて、兵の夜間外出について憲兵隊がうるさく取り締まるので面白くないんだと、簡単に事情を説明した。
「わかった。」 網本大尉は、もう軍隊は昔と違うということに理解を示した。 憲兵隊には大隊長から話が通され、憲兵隊の取り締まりは大幅に緩和され、外出した兵はのんびりと休養して外出を楽しむようになった。
第六章
大隊長は南投街に移駐してから、南投街の日本人、台湾人住民、明治製糖の職員・従業員の世話になっているので、親睦のため運動会を開きたいと企画を出した。 無論、兵達の士気を鼓舞する意味もあった。
当日、原住民や日本人官民多数がつめかけた。 場所は日本人小学校である。 好天であった。 おそらく敗戦後このような催しは皆無であったのだろう。 観客の顔は楽しそうな笑顔であった。 松原大隊長の意図は成功である。
私にはこの運動会には出場する予定はなかった。 ところが、番組の進行番組の中に大隊各隊対抗の騎馬戦が組まれていた。大隊本部も参加することになっていた。 その指揮官に突然指名されたのである。 網本大尉からである。 網本大尉は神戸防空隊で幹部候補生教育を受けた時の教官である。 昭和十八年九月から昭和十九年一月までであった。 私はその後陸軍機甲整備学校(東京世田ヶ谷)に入校。 昭和十九年八月十五日卒業。 原隊の神戸に復帰した時には網本中尉は出征していた。 私も出征。 仏印サイゴン南方総軍司令部転属、ビルマ方面軍配属の途中、高雄で乗船沈没のため、基隆の防空隊に転属になった。 この防空隊の作戦室主任が、教官網本中尉であった。 私は取り敢えず作戦室勤務になった。
網本大尉からの指名を受けた時、私は一言のもとに快諾した。 久し振りの小部隊指揮も楽しみであったが、それにも増して、「騎馬戦」そのものに興味もあり、また自信があった。
大隊本部の兵員だけかと思って兵の集合場所に行ってみると、大隊本部の兵だけでは少ないので、駐留憲兵隊と合同とのことである。 憲兵隊かと私は心の中でつぶやいた。 後藤曹長の件で憲兵隊にはわだかまりがあるし、また憲兵隊が私の言動に反感を持っていると言う情報は、とっくに私のもとにも届いている
連中が私をどんな顔をして迎えるだろう。 大隊本部・憲兵隊に、集合・整列を命じる。 流石に北海道の歩兵から選抜された補助憲兵隊は、体格が立派である。 身幹順に整列させると先頭はすべて憲兵、大隊本部の通信、衛生、自動車、経理の連中は後尾である。 高射砲兵といっても事務的に廻された兵の体格は劣弱である。
さて、立派でたくましい面魂の憲兵は流石に動きがハキハキと活発で見ていても気持ちがよかった。 「竹田少尉である。」と名乗った。 憲兵の目が一斉に私に集まった。 彼らの目に親しみはない。 「アレッ。」といった不思議そうに私に向けられた視線が、次には「コイツカ。」といった敵意が感じられる。 私は目をそらさず、憲兵一人一人の目を見返すようにズラリと整列した憲兵の列に視線を流した。 私は憲兵と対決したような気分で緊張した。
思ったとおり小部隊の指揮は楽しかった。 第一先頭の憲兵の動きが良かった。 速歩行進は流石に歩兵である。 膝は伸びるし、裏足で行進する兵など一人もいなかった。 それに反して大隊本部の兵は格段の見劣りがする。「シャアナイワイ。」と私は思う。
入場を終わる。 対戦相手は、松井高射機関砲隊である。 指揮官は島少尉。 「用意。」で、馬を組む。 私は先頭の憲兵で最も体格の良い馬に乗る。 ガッチリとして乗り心地は全く上乗。 六四kgの私を乗せてもビクともしない。「コレハイケルワイ。」と私は上機嫌。 しかし、私を乗せる憲兵は何と思ったろうか。 私と憲兵の皮肉な廻り合わせを考えるとおかしくもあった。
私の隊と島隊の馬は各十五騎。 戦闘開始に先立って、私は馬を進めて私の隊の前に立った。 「私の馬に習って馬を組み直せ。」 私は前馬と後馬が手を組んで作ったあぶみの手の結びを離れさせた。 乗り手の両足が両側にブランとぶら下がる。 そして後馬の自由になった手で乗り手の両足をシッカリと抱きかかえさせた。 これで前馬の両手は自由になった。 列中の馬は私の示したとおりにした。 「馬は噛み付きも蹴りもするんだ。 前馬はわかったか。 相手の馬は引き倒せ。」
この騎馬戦は、乗り手の落馬を以って勝敗とするルールである。 単純に乗り手を落馬さすか、馬を崩して乗り手を落馬させるかが勝負である。 馬の組み方についてはルールはない。 「わかったか。」 私はもう一度叫んだ。 「わかりました。」 返事は元気よく返って来た。 兵達は私の新しい馬の組み方を呑み込んだようである。 元の位置にかえり島隊を見渡す。 島隊の陸容は通常通りである。 「勝った。」 私は勝利を確信して心の中で舌を出した。 島隊はノンビリと戦闘開始の合図をまっている。 我が隊の馬は、新しい馬の組み方で防禦力を完璧にして、攻撃力が二倍にも三倍にも跳ね上がっている。 それに攻撃精神が充実。 憲兵隊の体力が以上の作戦遂行に威力を倍加させている。 私はもう敵を腹中に入れた気でいる。
掛かれの合図が出される。 「行くぞ。 ソレッ。」
私の馬を先頭に時計回りに進む。 列中の馬がその後に続いて長くなり螺旋状に廻る。 島隊も島少尉を先頭に右回りに進む。 私の馬が島隊の後尾に迫る。 私は、「右に向け。」と号令。 私を先頭に我が騎馬隊は縦一列から横一列になった。 島隊は縦一列のまま右旋回している。 「かかれ。」 私の号令一下、我が隊は島隊の横腹に一斉に襲いかかった。 先制の功である。 敵騎を一騎ニ騎と追い落とす。 混戦の中、全体の戦はどうなっているかわからない。ふと気が付くと、私の馬の右真横に島少尉の顔が見える。 私の馬は立ち直る暇がなかった。 島少尉の両手が私の肩にかかる。 私の体は45度右にギュッーと傾いた。 普通ならここで落馬である。 私の両足を抱えた憲兵の手に力が入る。 前馬がギューと力を入れてふんばる力が私の体に伝わる。私は90度傾いている。 島少尉の顔がすぐ上にある。 だが私は落ちなかった。 憲兵の必死の力が私を支えている。 私はかまわず島少尉の腕を掴んで引きずりおろした。 島少尉がポカンと間抜けた顔をして、私の体にぶら下がりながらユックリと地上に落ちていった。
私は再び馬上に体を立て直した。 見渡すと島隊の騎馬は全滅している。 残る馬は我が隊の騎馬である。 落馬した崩れた馬の島隊の兵がポカンと運動場に突っ立って、勝ち誇った我が隊の騎馬を眺めている。 「よし、元の位置にかえれ。」 整列して見ると、我が隊は落馬一騎。 十四対0の完勝である。 しぶい顔をしていた憲兵達が大口を開けて笑っている。 「勝ちどきだ。 ソレ、エイエイオー、 <、<、 」 入場して来た時の憲兵とは雲泥の違いである。 憲兵の生き生きとした笑顔が今も目に付く。 退場して、「解散。」を命じる 兵は喜び勇んで散っていた。 私は入場から退場・解散までニコリともせず笑顔は見せなかった。 網本大尉が「竹田少尉にこんな一面があるとは・・・。」と不思議そうな顔をした。 して見ると、私は騎馬戦では普段見せない顔で戦っていたと見える。
第七章
昭和二十一年二月二十七日、豊予海峡より瀬戸内海に入る。 佐田岬先端の元要塞跡の美しさ、海の深いブルーの美しさが、ああ故国に帰ったんだとの感を深くさせる。呉軍港では、天城・日向などの沈没した姿を淋しく眺める。 日向は昭和九年、小学六年の修学旅行で乗艦見学している。 大竹元海兵団跡に収容され、英軍の検査を受ける。 頭からDDTの粉をバケツであびせられる。
翌二月二十八日、大竹駅発復員列車で東に向かう。 広島の原爆の凄さに度肝を抜かれ、昼過ぎ尾道駅に降りる。 この列車からの下車者は私を含めて三人であった。 発車までの間、同部隊の連中と何となく話をしていた。 突然、ニ車輌程前方から、「竹田少尉ドノ、竹田少尉ドノ。」と連呼する声が聞こえる。 誰だろう。前の車輌には我が部隊は乗っていない筈だがと、そちらの方を向く。 幾つかの顔が窓から出て手を振っている。 憲兵達である。 私の胸に何とも言えぬ感動が込み上げる。 思わず彼等の車輌まで駆け寄った。
「竹田少尉殿、元気で。」と手が伸びて来る。 思わず誰彼無しに伸びて来る手を握り締める。 「お前達も元気でな。」私は大声で叫んだ。 列車が動き出した。 窓で振る手がヒラヒラとゆれて見る見るうちに列車は、視界から消えた。 後には薄く汽車の煙がたゆたっていた。 薄日のこぼれる風のない静かな昼下がりの長いホームが続いている。
気が付くと陸橋のたもとである。 山側に桜の木が一本立っている。 何の傷も無く平々凡々と独立している。 私が入営のときは満開で送ってくれたが、今は裸木で黙って迎えてくれる。
私は尾道駅から東に向かったが、西からこの尾道駅にかすり傷一つ負わずニ年十一ヶ月振りに帰って来た。 私の戦争は、尾道駅から始まって尾道駅で完結した。 桜はその象徴であった。
父の葬儀には、多くの皆様から励ましのメールやら、お香典をいただきありがとうございました。
(49日が過ぎるまで)
コーラル丸の川端船長、熱心な浄土真宗の信者らしく、49日が過ぎるまで、コーラル丸での釣駄目。
農業が良くて、漁業はは49日まで釣駄目というのは、おかしい、本職の漁師が身内が亡くなって、49日も仕事をしないというのは、生き残った者の生活がなりたたないと疑問に。
ネットで見てみると、漁師町では、葬儀と同じ日に、49日の法要も済ませて、葬儀の数日後には釣にいくとのこと。
これが本当と安心。
もっとも、葬儀で気合いがはいって疲れが残り、今のところ、朝早く起きるのは嫌で、釣りはもうしばらくお休み。
(香典返し)
葬儀が終わってからも、何人かの友人から、お香典をいただき、どうしたものかと思案。
香典返しは、北九州の若者の役に立つことに使おうと、封切りなった「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」の映画を見に3人の若者を誘う。
S氏32歳、H氏25歳、SA氏17歳。
皆さん、北九州市の若い方の就職支援センターに顔を見せてくれる若者。
映画を見た後、小倉室町の錦龍で評判のチャンポンを旨い、旨いと食べて解散(冒頭の写真)。
お香典をくださった皆様ありがとうございました。
お返しはこのように、有意義に使いました。
(いい顔)
先週亡くなった父の顔、口元を引き締め、満足そうないい顔。
父が6年前、孫の一人が、中学の騎馬戦に出たのをきいて、62年前の22歳の時、陸軍少尉で台湾で終戦となり、引き上げるまでの体験記を書いていたのを読みなおしました。
憲兵隊ともめたり、仲直りして、運動会で騎馬戦で大勝利したりといった内容。
忘れがたい思い出だったようで、その時の勝利を思い出しながら去っていったのだろうと推測した次第。
(以下がその文章。400字原稿用紙20枚と長く読むのには忍耐が必要。終戦直後の日本人の様子がよく分かる。この世代が戦後の日本の復興の担い手になったのもうなづける)
J君、運動会で大活躍、騎馬戦では逆転の大勝利を収めたんだって!
じいちゃんも久し振りで若き日のあの日を思い出した。
昭和18年(1943)4月9日、山陽線尾道駅上りホームに私は立っていた。
上り列車の到着を待つ一刻。下りホームに渡る陸橋の降り口僅かのところに、一本の若桜が今は盛りと満開の花を誇らしげに爛漫と咲き誇っている。そよと吹く微風もなく四月の陽光は、さんさんときらめいている。 今治港を数百人の歓呼の声に送られた現役入隊のたかぶる心を抱いて若人四人がこの桜花に見入った。 本居宣長の
しきしまの
やまとごころを ひととわば
あさひに にほう やまざくら
日本男児と生まれては、常に理想としたこの歌の心は、今このホームに立つ若人四人の心であった。 この駅の構内に独立する満開の桜は、吉野桜ではあったが、・・・。 やがて、汽笛一斉私達は、中部軍第七三部隊加古川高射砲第三連隊の営門をくぐった。 二十一歳の春であった。
昭和二十年八月十五日 、敗戦。
私の身分は
「陸軍兵科見習仕官、竹田光雄、昭和二十年一月十日、陸軍少尉に任官。
予備役編入 即日応召」
所属部隊、野戦独立高射砲第八十二大隊
大隊本部 一、七糎船舶高射砲編成三ケ中隊 十八門七百名
私は本部勤務。 任務は、
大隊兵器掛将校。大隊築城掛将校。兼務大隊本部陣営具掛。炊事掛。
戦闘中は、監視掛将校。大隊本部警備掛将校。
敗戦を知ったのは八月十七日。十八日、十九日は大隊長以下、処置なく、ただもう茫然としていた。 かくてはならじと大隊長以下情報収集に努力したが,徒労に終わった。 上級部隊である第八飛行師団桃園飛行団、台北における台湾軍司部、台湾防空司令部への連絡は全く杜絶。
大隊が動き出したのは二十日。
大隊長 松原大尉。 指揮班長 網本中尉
経理班長 片山中尉
軍医 井畔(いぐろ)少尉、 植村見習仕官。
副官 井ノ口少尉、 竹田少尉。
(木ノ内少尉、中村中尉は現地除隊)
取敢えず大隊は如何にすべきか。大隊本部の方針は如何にすべきか議せられた。 第三中隊から室少尉が本部に配属せられた。
大隊長以下敗戦処置による軍隊がどうなるか誰もしらなかった。
大隊長の第一声は、東京で大隊の兵器をすべて天皇陛下に奉還する。
大隊長の考えは、敗戦国軍隊のものでないことは明らかである。
結局、山口高商卒、商社マンとして世界を駆け回っていた片山中尉の意見が取り入れられた。 片山中尉は延々と敗戦とは何か、敗戦によって国はどうなるか、軍隊はどうなるかを世界各国の実例を挙げて雄弁をふるった。大隊長以下納得。以後大隊の主導権は片山中尉を中心に動いた。
(1) 中国大陸からは福建軍陳儀が基隆から上陸(鍋、傘、天秤棒をかつい
だすごい部隊であった。)
(2) 武装解除に備えて、高射砲十八門は一ヶ所に終結。はじめは私がこの任務に当たったが、桃園を出るとき、第一中隊飯塚少尉と交代。
(3)台中州ニ水に移動。
(4)台中州南投街に移動・
この時、将校は帯剣。兵は銃剣を携行。明治精糖株式会社より三十甲歩(日本の約三十町歩)さとうきび畠借り入れに成功。
(5)このさとうきび畠で農作業。食糧の確保に努める。(自活隊となる。)
(6)その他現金収入のため、自動車 六台・・・輸送業、 床屋開業・・
皇室御用の理容師がいた。
(7) 大隊の資金 三十万円 (大隊の軍費転用)
わたしは大隊本部の農作業、床屋営業を任せられた。 水牛親牛八頭、子牛三頭、農機具、小麦、野菜の種苗など片山中尉の世話を随分受けた。
この時、桃園地区に松井大尉指揮の高射機関砲隊が松原隊に編入され、、新しく南投地区治安維持のため補助憲兵岡垣分隊が配属された。長の岡垣少尉以下補助憲兵は北海道歩兵旭川連隊の出身である。
第一章
明治製糖南投工場の蔗糖倉庫が私達の宿舎に当てられた。 三百坪。壁も屋根もすべて孟宗竹によって作られていた。 私達が到着した時には、長年の蔗糖の汁が床に溜まり、その上にスクモ(籾殻)がまかれて厚さは二十糎に達し、蜜蜂がブンブン飛んでいた。 「ヒヤッ」 これが、私達の第一声である。 驚いていてはことにならん・ 早速会社に交渉して、わら束をもらい出して尚その上にばら撒き、糖蜜が全く見えなくなるまで敷き詰めた。 何たって三百坪は広いもんな。 歩いたら足がスーと沈んで、みんな踊っているようだった。
天幕で仕切って、将校室、下士官室、兵室を区切り、蚊帳を吊ってヤレヤレで一日は終わった。 将校室は室修少尉、竹田少尉。下士官室は最古参の営外居住曹長後藤外軍曹、伍長連中。兵は本部勤務の通信、衛生、自動車、経理、兵器、炊事、陣営具の各掛兵。南投街に居住したのは大隊長以下約八十名。
大隊長以下将校は、私達とは別に明治製糖の役員宿舎に入った。 私は一度もこの宿舎には出かけなかった。
第二章
生活は兵営に準じた。
午後七時、日夕点呼のため週番仕官松原少尉があらわれた。 松原少尉は私の一期後である。 いつもなら週番仕官があらわれるまでには、週番下士官・週番上等兵の指揮のもとに各班長がそれぞれ各班をまとめて週番士官の点呼を受けるばかりで終わったのだが、今夕は違った。
私も初めは気が付かなかった。 いつまでたっても点呼が終わらないのである。 三百坪の宿舎いっぱいに兵達の笑い声がドッと揚がるのである。 「アレッ」と気を付けて見ると、隣の下士官室から大声があがっていた。後藤曹長である。 酒に酔っている。 後藤曹長の酔声は、週番仕官の若い松原少尉に向かっている。 後藤曹長は軍隊生活が長い。 色々な経験も経ている。 いわゆる千軍万場の強者である。 東京出身の幹候出の若い少尉になりたてのホヤホヤで、まだ湯気が出ている 坊ちゃん少尉は、この軍隊で鍛えられた古参曹長に向かうには一寸貫目が不足していた。 「メンコの数でこい。」 これが古参
兵の切り札である。 一日早く入隊した同階級のものでも、この古参兵にはかなわない上下の格はどうしようもないのである。 後藤曹長は若い少尉をいじめる文句にはことかかない。 日頃、階級によって抑えられた兵の喜ぶこと限りなし。 後藤曹長の一声一声にまた兵は同調して騒ぐ。 それに力を得て曹長の声は一オクターブまたあがる。 はてしがなかった。 松原少尉は処置なしで立ちすくんでいるようである。
仕切り幕の中で室少尉は苦笑いしている。 室少尉は東大経済出身、神戸製鋼に勤めて、この時、二十八歳である。 室少尉は第三中隊付だから、本部のこの騒動に出る幕はない。 苦笑いする室少尉を横目で見ながら、「シャアナイワイ」と、私は室の外に出た。 松原少尉が照れたようなショゲた顔を私に向けた。 下士官・兵の姿は一人も見えず、天幕の仕切りの中である。 松原少尉が一人でウロウロしている。 週番下士官・週番上等兵の姿はなかった。 兵達には点呼を受ける気持ちはサラサラない。
宿舎の中は曹長の酔声が一際高く響き渡り、同時に下士官と兵のドッとはやす声ばかりであった。
私は舎内をだまって一番奥まで歩いていった。 そして怒鳴った。 「今笑ったのはどいつだ。 答えろ。」 兵がドッと笑った。 これが私への答である。
「わしには声を聞いただけで、誰だかよくわかるぞ。」 とたんに兵の笑い声が消えた。
今本部の将校で下士官兵と寝食を共にしているのは私だけである。 他の将校は明るい電灯の下で、畳の上にヌクヌクと休んでいるのだ。 この松原少尉もその中の一人だ。 下士官兵の声まで一人一人見分けられるのは、私だけである。 「誰だかわかるぞ。」と言った私の言葉の意味は下士官兵たちが一番よく知っている。 静まり返った兵たちをよそに、後藤曹長の叫び声が空しく倉庫の天井にいつまでも響いていた。 「曹長はほっとけ。早く。」と松岡少尉をうながした。 点呼を終えて少尉は一人宿舎を離れて闇の中に消えた。
翌朝、私は後藤曹長を呼んだ。 曹長は私の前に膝を揃えて正座した。 昨夜の勢いはどこえやら、小さくかしこまっていた。 曹長は昨夜自分のとった行動が何を意味するかよく知っているのである。 酒は冷め果ててゲッソリとしている。 「曹長、昨夜は面白そうだったなあ。 みんな喜んでワアワア言うとったが、わしはつい聞きそびれた。 もう一度聞かしてくれ。」 「ハア。」 「どうなんだ。」 「ハア。 ・・・すみません。」 曹長は手をついた。 私はだまって、曹長の姿を眺めていた。
第三章
私は、毎晩、兵を十名づつ夜間外出を許可していた。 門限は十時であった。
後藤曹長は営外居住であったので、この規定は適用されなかった。 ところが、この曹長が補助憲兵の上等兵にやられたのである。 憲兵は曹長が十時以後に酒に酔って町をウロツイテいたのが引っ掛かったのである。 後藤曹長は直ちに営外居住証を示したが、役に立たなかった。 最近、この営外居住証は更新されていたのである。 曹長はこれを知らずに無効の営外居住証を示したのである。 曹長は補助憲兵上等兵にコテンコテンに油を絞られて帰って来たのである。 普通では考えられないことである。
この原因は、敗戦によって、甲種幹部候補生で曹長の階級であったものが、そのまま曹長を命ぜられ、曹長事務職を取ったのである。 この者の姓名を私は忘れてしまったが、この曹長が満足に曹長事務職が取れなかった。 彼は 後藤曹長に新しい「営外居住証」の交付をしなかったのである。
上等兵に絞られた後藤曹長は更に酒をあおって帰って来た。 新しい事務掛曹長は平あやまりに謝ったが、それでも曹長の胸はおさまらず、昨夜の騒動となった。 松原少尉もこれ以上騒ぎを起こすのは好まず、後藤曹長の件は不問に付された。
第四章
事件の首尾は明らかになった。 翌晩、私は外出を許可した十名に一応の注意を与えた。
(1)文句があるなら素面で来い。 いくらでも聞いてやる。
(2)今後、酒の勢いでやった言動には容赦せん。
(3)今後こんな騒動を起こした奴は、「乗船名簿」から削除する。
(丁度この頃、内地へいつ帰れるかが話題の中心であった。 船に乗
らんと内地へは帰れんから、私は乗船名簿から削除すると脅した。
なーに 私にそんな権限なんかありはせん。)
(4)補助憲兵には又任務があるんだから、その任務についてはやむを得ん。
しかし、もう敗戦で、昔とは事情が違う。 今度の曹長が上等兵に絞られるのは納得がいかん。 憲兵だって、星の数がものを言うんだ。 今度わしが巡察将校になったら、憲兵宿舎をでんぐり返してやる。 憲兵と問題があったら、すぐわしの所へ言うて来い。 わしが星の数にものを言わしてやる。
(5) 気を付けて行け。
第五章
私は大声でいつも兵に、憲兵には今に目にもの見せてやるからなとしゃべっていた。 私には目算があった。 ある日、ひょっこり、この宿舎には姿を見せたことのない網本大尉が姿を見せた。 中尉から大尉に進級していた。 「竹田少尉、憲兵隊とあんまり面倒を起こさんでくれ。 大隊長殿も心配しておられる。」 私の目算はこれであった。 私の高言は大隊長まで届いていることが確認されたのである。 憲兵隊にも私のことが伝わっていた。 岡垣隊長はじめ隊員達はどう対処するか相談していると言う。 網本大尉は面倒は起こしてくれるなと念を押す。 そこで私は曹長の名は伏せて、兵の夜間外出について憲兵隊がうるさく取り締まるので面白くないんだと、簡単に事情を説明した。
「わかった。」 網本大尉は、もう軍隊は昔と違うということに理解を示した。 憲兵隊には大隊長から話が通され、憲兵隊の取り締まりは大幅に緩和され、外出した兵はのんびりと休養して外出を楽しむようになった。
第六章
大隊長は南投街に移駐してから、南投街の日本人、台湾人住民、明治製糖の職員・従業員の世話になっているので、親睦のため運動会を開きたいと企画を出した。 無論、兵達の士気を鼓舞する意味もあった。
当日、原住民や日本人官民多数がつめかけた。 場所は日本人小学校である。 好天であった。 おそらく敗戦後このような催しは皆無であったのだろう。 観客の顔は楽しそうな笑顔であった。 松原大隊長の意図は成功である。
私にはこの運動会には出場する予定はなかった。 ところが、番組の進行番組の中に大隊各隊対抗の騎馬戦が組まれていた。大隊本部も参加することになっていた。 その指揮官に突然指名されたのである。 網本大尉からである。 網本大尉は神戸防空隊で幹部候補生教育を受けた時の教官である。 昭和十八年九月から昭和十九年一月までであった。 私はその後陸軍機甲整備学校(東京世田ヶ谷)に入校。 昭和十九年八月十五日卒業。 原隊の神戸に復帰した時には網本中尉は出征していた。 私も出征。 仏印サイゴン南方総軍司令部転属、ビルマ方面軍配属の途中、高雄で乗船沈没のため、基隆の防空隊に転属になった。 この防空隊の作戦室主任が、教官網本中尉であった。 私は取り敢えず作戦室勤務になった。
網本大尉からの指名を受けた時、私は一言のもとに快諾した。 久し振りの小部隊指揮も楽しみであったが、それにも増して、「騎馬戦」そのものに興味もあり、また自信があった。
大隊本部の兵員だけかと思って兵の集合場所に行ってみると、大隊本部の兵だけでは少ないので、駐留憲兵隊と合同とのことである。 憲兵隊かと私は心の中でつぶやいた。 後藤曹長の件で憲兵隊にはわだかまりがあるし、また憲兵隊が私の言動に反感を持っていると言う情報は、とっくに私のもとにも届いている
連中が私をどんな顔をして迎えるだろう。 大隊本部・憲兵隊に、集合・整列を命じる。 流石に北海道の歩兵から選抜された補助憲兵隊は、体格が立派である。 身幹順に整列させると先頭はすべて憲兵、大隊本部の通信、衛生、自動車、経理の連中は後尾である。 高射砲兵といっても事務的に廻された兵の体格は劣弱である。
さて、立派でたくましい面魂の憲兵は流石に動きがハキハキと活発で見ていても気持ちがよかった。 「竹田少尉である。」と名乗った。 憲兵の目が一斉に私に集まった。 彼らの目に親しみはない。 「アレッ。」といった不思議そうに私に向けられた視線が、次には「コイツカ。」といった敵意が感じられる。 私は目をそらさず、憲兵一人一人の目を見返すようにズラリと整列した憲兵の列に視線を流した。 私は憲兵と対決したような気分で緊張した。
思ったとおり小部隊の指揮は楽しかった。 第一先頭の憲兵の動きが良かった。 速歩行進は流石に歩兵である。 膝は伸びるし、裏足で行進する兵など一人もいなかった。 それに反して大隊本部の兵は格段の見劣りがする。「シャアナイワイ。」と私は思う。
入場を終わる。 対戦相手は、松井高射機関砲隊である。 指揮官は島少尉。 「用意。」で、馬を組む。 私は先頭の憲兵で最も体格の良い馬に乗る。 ガッチリとして乗り心地は全く上乗。 六四kgの私を乗せてもビクともしない。「コレハイケルワイ。」と私は上機嫌。 しかし、私を乗せる憲兵は何と思ったろうか。 私と憲兵の皮肉な廻り合わせを考えるとおかしくもあった。
私の隊と島隊の馬は各十五騎。 戦闘開始に先立って、私は馬を進めて私の隊の前に立った。 「私の馬に習って馬を組み直せ。」 私は前馬と後馬が手を組んで作ったあぶみの手の結びを離れさせた。 乗り手の両足が両側にブランとぶら下がる。 そして後馬の自由になった手で乗り手の両足をシッカリと抱きかかえさせた。 これで前馬の両手は自由になった。 列中の馬は私の示したとおりにした。 「馬は噛み付きも蹴りもするんだ。 前馬はわかったか。 相手の馬は引き倒せ。」
この騎馬戦は、乗り手の落馬を以って勝敗とするルールである。 単純に乗り手を落馬さすか、馬を崩して乗り手を落馬させるかが勝負である。 馬の組み方についてはルールはない。 「わかったか。」 私はもう一度叫んだ。 「わかりました。」 返事は元気よく返って来た。 兵達は私の新しい馬の組み方を呑み込んだようである。 元の位置にかえり島隊を見渡す。 島隊の陸容は通常通りである。 「勝った。」 私は勝利を確信して心の中で舌を出した。 島隊はノンビリと戦闘開始の合図をまっている。 我が隊の馬は、新しい馬の組み方で防禦力を完璧にして、攻撃力が二倍にも三倍にも跳ね上がっている。 それに攻撃精神が充実。 憲兵隊の体力が以上の作戦遂行に威力を倍加させている。 私はもう敵を腹中に入れた気でいる。
掛かれの合図が出される。 「行くぞ。 ソレッ。」
私の馬を先頭に時計回りに進む。 列中の馬がその後に続いて長くなり螺旋状に廻る。 島隊も島少尉を先頭に右回りに進む。 私の馬が島隊の後尾に迫る。 私は、「右に向け。」と号令。 私を先頭に我が騎馬隊は縦一列から横一列になった。 島隊は縦一列のまま右旋回している。 「かかれ。」 私の号令一下、我が隊は島隊の横腹に一斉に襲いかかった。 先制の功である。 敵騎を一騎ニ騎と追い落とす。 混戦の中、全体の戦はどうなっているかわからない。ふと気が付くと、私の馬の右真横に島少尉の顔が見える。 私の馬は立ち直る暇がなかった。 島少尉の両手が私の肩にかかる。 私の体は45度右にギュッーと傾いた。 普通ならここで落馬である。 私の両足を抱えた憲兵の手に力が入る。 前馬がギューと力を入れてふんばる力が私の体に伝わる。私は90度傾いている。 島少尉の顔がすぐ上にある。 だが私は落ちなかった。 憲兵の必死の力が私を支えている。 私はかまわず島少尉の腕を掴んで引きずりおろした。 島少尉がポカンと間抜けた顔をして、私の体にぶら下がりながらユックリと地上に落ちていった。
私は再び馬上に体を立て直した。 見渡すと島隊の騎馬は全滅している。 残る馬は我が隊の騎馬である。 落馬した崩れた馬の島隊の兵がポカンと運動場に突っ立って、勝ち誇った我が隊の騎馬を眺めている。 「よし、元の位置にかえれ。」 整列して見ると、我が隊は落馬一騎。 十四対0の完勝である。 しぶい顔をしていた憲兵達が大口を開けて笑っている。 「勝ちどきだ。 ソレ、エイエイオー、 <、<、 」 入場して来た時の憲兵とは雲泥の違いである。 憲兵の生き生きとした笑顔が今も目に付く。 退場して、「解散。」を命じる 兵は喜び勇んで散っていた。 私は入場から退場・解散までニコリともせず笑顔は見せなかった。 網本大尉が「竹田少尉にこんな一面があるとは・・・。」と不思議そうな顔をした。 して見ると、私は騎馬戦では普段見せない顔で戦っていたと見える。
第七章
昭和二十一年二月二十七日、豊予海峡より瀬戸内海に入る。 佐田岬先端の元要塞跡の美しさ、海の深いブルーの美しさが、ああ故国に帰ったんだとの感を深くさせる。呉軍港では、天城・日向などの沈没した姿を淋しく眺める。 日向は昭和九年、小学六年の修学旅行で乗艦見学している。 大竹元海兵団跡に収容され、英軍の検査を受ける。 頭からDDTの粉をバケツであびせられる。
翌二月二十八日、大竹駅発復員列車で東に向かう。 広島の原爆の凄さに度肝を抜かれ、昼過ぎ尾道駅に降りる。 この列車からの下車者は私を含めて三人であった。 発車までの間、同部隊の連中と何となく話をしていた。 突然、ニ車輌程前方から、「竹田少尉ドノ、竹田少尉ドノ。」と連呼する声が聞こえる。 誰だろう。前の車輌には我が部隊は乗っていない筈だがと、そちらの方を向く。 幾つかの顔が窓から出て手を振っている。 憲兵達である。 私の胸に何とも言えぬ感動が込み上げる。 思わず彼等の車輌まで駆け寄った。
「竹田少尉殿、元気で。」と手が伸びて来る。 思わず誰彼無しに伸びて来る手を握り締める。 「お前達も元気でな。」私は大声で叫んだ。 列車が動き出した。 窓で振る手がヒラヒラとゆれて見る見るうちに列車は、視界から消えた。 後には薄く汽車の煙がたゆたっていた。 薄日のこぼれる風のない静かな昼下がりの長いホームが続いている。
気が付くと陸橋のたもとである。 山側に桜の木が一本立っている。 何の傷も無く平々凡々と独立している。 私が入営のときは満開で送ってくれたが、今は裸木で黙って迎えてくれる。
私は尾道駅から東に向かったが、西からこの尾道駅にかすり傷一つ負わずニ年十一ヶ月振りに帰って来た。 私の戦争は、尾道駅から始まって尾道駅で完結した。 桜はその象徴であった。