寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

東広島の心霊スポット(中編)

2010年10月25日 | 学生時代
ががら第二職員宿舎前の道を過ぎてしばらく行くと左(北側)に折れる道が現れる。附属農場の脇を通って学生宿舎(寮)に向かう長く曲がりくねった上り坂(鏡山2丁目と3丁目の境)を「首切峠」と呼んでいた。当時、峠の東側一帯は非常に寂しい所で夜は自転車で通るのが怖かった。

運動部に所属していた学生は「首切峠」をトレーニングの一環として年中駆け上がっていた。夏季における急傾斜での自主練習があまりにキツいので私は勝手に「心臓破りの坂」という別名をつけて学部内に浸透させた。

学生宿舎(寮)の食堂

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東広島の心霊スポット(前編)

2010年10月25日 | 学生時代
今年の夏、昔の麻雀仲間と昼食を共にする機会があった。大学周辺の環境が大きく変化したことを語り合った後に話は意外な方向に進んだ。対面に座っていた策士の口から低いトーンで「首切峠」という単語が飛び出したのだった。私は懐かしさを覚えたのと同時に背中がぞくっとした。

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広島県の教育を回想する(その8)

2010年08月03日 | 学生時代
極左暴力集団がマルクスという大仰な看板を掲げながらマルクスの著作を舐り回すほど読んでいない(≒かじっただけである)ことは一目瞭然だった。日比野は段田を散々に叩いた後、こう言って止めを刺した。

 「ここから出て行け!」

メンツを潰され真っ赤になった段田は正々堂々と論戦を続けるべきだった。しかし彼は信じられないような言葉を吐いたのだ。

 「お前、このままで済むと思うなよ」

何と恫喝に打って出たのである。教室の雰囲気は一変した。敵意を剥き出しにした学生の眼差しが段田に浴びせられ、彼は退室を余儀なくされた。男を上げた日比野に対してすかさず悪友がキツイ冗談を飛ばす。

 「これで四六時中バットが手放せんようになったのぅ(笑)」

私は違法行為を平然とやってのける過激派が反戦平和を安易に訴える点に違和感を持っていた。囲われ者にあてがわれた問題の多い憲法を護ること(他力本願)で果たして本当に平和がずっと維持されるのだろうか。

核の傘の下でのうのうと生きながらアメリカ批判を繰り返す稚拙さを私達の世代は見抜いていた。大義名分を見つけては大衆を駆り立てて暴れまくる運動は昭和40年代初期においては流行りものだったが、その20年後には早くも廃れていた。時の流れとは実に残酷である。

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広島県の教育を回想する(その7)

2010年08月02日 | 学生時代

教壇につかつかと歩み寄った過激派は「三里塚に一緒に行こう」と語り始めた。ユーモア感覚ゼロのアジテーターは肺病を患う段田安則という風体で煮しめたような服を着ていた。いつもは無関心な学生を前にしてノルマを果たして帰って行くのだが、この日は冒頭から三原の日比野達郎によるねっちこい言葉攻めが続き、段田は調子を狂わされ顔を顰めた。

ニヤついた日比野は「いじり」の天才だった。論理性とフレキシビリティに乏しい過激派は10ほども年下の未成年にいいようにもて遊ばれたのである。私は教室のほぼ中央から滑稽な寸劇を冷ややかに眺めていた。

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広島県の教育を回想する(その6)

2010年07月31日 | 学生時代
新入生は総合科学部(所謂教養部に相当)で一般教育の講義を聴いた。私達の学部は一年半の間に必要な単位を取得し東広島市のキャンパスに移ることが決まっていた。

過激派は何の前触れもなく総合科学部の教室(講義室)に入ってきた。大抵は必須科目である第一外国語(英語)が始まる前(休憩中)だった。貴重な雑談の時間が奪われることを嫌がったのは私だけではない。三原出身の日比野達郎(瓜二つだった)も過激派の行為を苦々しく思っていたうちの一人だった。

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広島県の教育を回想する(その5)

2010年07月30日 | 学生時代
歯抜けのようになった「前進社」跡地前に立つ時、いつも考えることがある。

 過激派は何故原理主義に陥ったのだろうか。大学入学時には並の知能はあったはずだが…。

彼等がおかしな世の中を変えようと立ち上がったことに異を唱えるつもりはない。問題なのは活動が行き詰ってからの流れだ。組織の長にまつりあげられた大して才のない、猜疑心の強い人間が、己の地位を守るために小理屈をこね反対勢力(仲間など)を吊し上げて時には死に至らしめる(粛清する)ようになった辺りから大衆にそっぽを向かれるようになった。

「革命を起こすためには人を殺めてもよい」という歪な思想が市民に受け入れられなかったのは当然だ。私が大学生となった昭和の末において過激派は旧人のように見えた。

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広島県の教育を回想する(その4)

2010年07月28日 | 学生時代
大学東門の左手に過激派のアジト「前進社」があった。最上階にメットを被って覆面をした者が見張り役として立っていることが多かった。反社会勢力の事務所のように監視カメラを数台つければ楽でいいのにと思ったが、資金がなかったのだろう。とにかく「時代錯誤」の四文字がピッタリの人達だった。

極左暴力集団の一員とまともに目が合った時には脳内にALL ALONG THE WATCHTOWERのワウワウソロが流れ妙にテンションが上がったものである。東門と前進社の建物の位置関係を知っているのは平成初期の入学者までだろう(笑)

早世したことにより評価が高まったジミ・ヘンドリックス

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広島県の教育を回想する(その3)

2010年07月27日 | 学生時代

大学には正門、北門、南門、東門の計4つが設けられていた。一般教育の手引(昭和六十二年度)を見ると正門が午前7時に開くのに対して東門は8時からと書いてある。

自転車通学の私は東門から入構するのが通常のルート(下宿から大学までの最短コース)だった。電車通りに面した正門は最も遠回りになるので避けていたのだ。

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広島県の教育を回想する(その2)

2010年07月25日 | 学生時代
昭和62年(1987)年4月8日(水)。グレーのスーツを着て赤いタイをしめた私は〝ヤンキー(滋賀県出身)〟〝黒帯(香川県出身)〟と一緒に下宿を出た。そして裏通りでタクシーを停め入学式会場に向かった。

午前9時頃の広島県立体育館前は騒がしかった。それは浮かれた新入生の声ではなく拡声器のだみ声だった。ヤンキーが「アホがようけおるやんけー」と叫び私達は笑った。ヘルメットをかぶり小汚い格好をした過激派は一様に年を食っていた。昭和40年代初めの熱き日々を懐かしむようなアジ演説には時代に取り残された者達の悲哀が滲み出ていた。

こうした下手糞な大道芸によってお目出度い日は台無しになり忌まわしい記憶として脳裏に刻み込まれることになった。

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広島県の教育を回想する(その1)

2010年07月24日 | 学生時代
昭和62(1987)年3月、入学手続きを済ませた子どもに親は真顔で忠告した。

 「大学は垢が多いけー気をつけにゃーいけんで」

腐臭のする過激派を侮蔑的な漢字一文字で表現してしまう冷淡さに私は苦笑したが、心配無用と返答した。

 「屑高校であれほど仰山の愚かな垢教師を見てきたワシがスッカラカンの左翼思想にかぶれる可能性は皆無じゃ。己の言い分を通すために物をさんざん破壊した田分けが能書きを言ったところで誰が相手にしょーにー」

息子の厳しい口調に親は安心したようだった。私の家では全共闘時代の残党に対する評価は極めて低かったのである。大学の同期の殆どは時代遅れの我侭な連中を歯牙にもかけていなかった(笑)

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記憶の中の友(後編)

2009年11月18日 | 学生時代

Aはこうも言った。「目新しいことを追うのは誰にでもできる。だから本当に自分がいいと思ったことに関して徹底的に調査して独自の考えをまとめればすばらしいものになるよ」

本を読んで蓄えただけの知識をひけらかす人間は所詮「平面体」である。一方、実施検証をした上で結論を出せる人間が「立方体」というのが私の持論だ。広島市に転居して初めて「奥行きのある人間」に出会った気がした。

「多数派に決して迎合することなく己の考えを論理的にまとめて話す」手法は主にAから学んだ。卒業以来一度も会ってないが、顔を合わせる機会があれば「感謝の念」を短い言葉で表したいと思っている。

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記憶の中の友(中編)

2009年11月18日 | 学生時代

Aの父親が育った家は広島西遊廓跡の近くにあった。そこでは祖母がずっと一人暮らしを続けていた。それゆえ父親は老母の元にAを置こうと考え彼も賛同した。この話を聞いてしばらくして共同生活の場(下宿先)を訪ねた時のことである。彼は意外なことを口にした。

「親父と兄弟は勉強ができたが、俺はさっぱりだったよ」自嘲気味に話したものの悲壮感はまるで無かった。他の同期が「第一志望校に落ちた恨み」をネチネチとぶちまけるのとは違い遥かに「大人」だった。「己の学力」を冷静に分析した上で新天地での生活を謳歌しようと前向きに考えていた。

Aは本を読むことの面白さをさらりと説き、私の関心を引いた。そして東京という街を語る際に「クドさ」を感じさせない点は見事だった。「的確で個人的な感情を抑制した説明」は私の胸に強く響いたのである。

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記憶の中の友(前編)

2009年11月17日 | 学生時代

中区東千田町の大学には多くの「都落ち学生」が集まっていた。彼らは阪大や九大を受験して見事に失敗し、嫌々ながら第二志望校に進学したのである。私なども西へ下ったという意味では同類になるのだろうが、決定的な違いは第一志望で入ったことだった。

籍を置いた学部の広島県人の占める割合は2割にも満たなかった。私はマイノリティーに属していたが、その頂点にいたのは東京から来た男(A)だった。Aは東京育ち、山崎努と獅子舞の田村を足して2で割ったようなマスクでとりわけ目立った。歯切れのよい言葉と洗練された所作に田舎者はカルチャーショックを受けたのである。

九州出身者が「格好つけやがって」と対抗意識をむき出しにするのが滑稽だったので「肩に力が入り過ぎているのはむしろお前の方だろう」と私はあえて指摘し火に油を注いだ。Aと口を利くようになった経緯は思い出せないが、おそらく友達の紹介だろう。

Aとは音楽の話をよくした。フュージョンが好きだと言うので「BLOW BY BLOW」のカセットテープを貸した。次の日、彼は「良かったよ」と感想を述べた上でギタリストの名前を尋ね「レプトン(大学北門の対面にあったレンタルCD店)」に向かった。耳が確かで行動力のある人だと思った。

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広島市中区東千田町にあったお好み焼き屋・松浦商店

2009年09月25日 | 学生時代
広島の顔であった「東千田町の大学」が東広島市に移転して学生を相手に商売をしていた店の経営は苦しくなった。時は流れて飲食店や銭湯の多くが姿を消した。

懐かしい学生時代を振り返り「広島市内から消えた店舗」について時々書いてゆこうと思う。第1回目は非常にお世話になった店として「松浦商店(大学近くのお好み焼き屋)」をとり上げる。

店舗は東千田町1丁目4‐19にあり、大学会館から徒歩1分という位置だった。青いビニル屋根に白字で「お好み焼 松浦」と書かれていた。同門でこの店を知らぬ者はモグリである。

昭和55年開店だから私が利用したのはそれから7年後になる。いつ行っても学生であふれていた。同じ下宿の連中と日曜日の昼過ぎに訪れ奥の座敷に上がり手垢とソースで汚れた漫画を読みながら焼き上がるのを待ったものである。

とにかく量が多いことで有名で大食漢の学生には人気があった。入学から3ヶ月もしない内にマージャンを覚えた私は秋口から雀荘に入り浸るようになった。夕方から打ち始め、終わるのが0時過ぎだから、途中松浦から出前をよく取った。

「貧乏学生」の心の支えだった「松浦商店」が閉店したと聞いた時には流石に寂しかった。廃業後、店舗はしばらく残っていたが、とうとう取り壊されて現在は駐車場になっている。冒頭の画像は2004年3月の撮影である。

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平成21年夏の愛友市場

2009年08月27日 | 学生時代

私が晴れて広島市民になったのは昭和62(1987)年4月初頭のことである。大学生の身分となり県東部の田舎町から脱出して政令指定都市で暮らす喜びは非常に大きかった。

昭和末期の広島駅はやぼったい外観で南口を出ると「小汚い陸橋」があり、その右手近くでレトロな「広島百貨店」が細々と営業していた。陸橋はそれから数年して撤去され見通しが良くなったが、駅前は決して繁華街と言えるものでは無かった。

大学入学から既に22年の月日が流れ、「広島百貨店」跡地に巨大な「福屋」が出来て「地下道」も整備され、徐々に「駅前再開発」は進んでいる。それでも「愛友市場」周辺だけは「昭和の雰囲気」をそのまま残しているのだ。

敗戦後の闇市の流れを汲み、狭い敷地には惣菜を売る店、鮮魚店、精肉店、韓国食材を扱う店などがひしめき合い、見る者を飽きさせない。

南区南蟹屋町の新球場(マツダスタジアム)へ向かう道に市場は隣接しているので、観戦客向けに「おつまみ」を売る店が増えた。

市場の入口が「I you ロード」になっているのに気づいた私は久しぶりに中に入ってみることにした。

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