2006年10月31日発行、京都精華大学情報館/河出書房新社、定価1200円(税込)
書店で『KINO』という名も知らぬ雑誌を手に取り「またお決まりの京都賛美かよ」と苦笑した。パラパラめくっていくうちに宮崎学氏の語る「我が京都」に興味深いことが書かれてあった。
‥京都人の県(府)民性を語るとき、確かに『表裏がある』とよく言われる。実はそうじゃない。裏しかない。京都人には裏しかない。少なくとも私にはそうとしか思われない。根性が本当に歪んでいるんだよ。だって私がそうじゃないか(笑)‥『いけず』とは、『意地が悪い』をはんなりと表現した言葉だ。つまり京都というのは、すべてが『いけず』の文化なんだね‥〔本書32ページ〕
最後は現在の日本が抱える病巣を鋭く指摘している。
‥『いけず』が嫌で京都を出たというのに、今の日本ではこのくだらんオバハンのような反応が社会に蔓延している。そこら中が『いけず』だらけだ。困ったもんだよ(笑)‥〔本書33ページ〕
私が京都という「まち」を嫌う理由はその辺にあるのかもしれない。「じめじめ」「ねちねち」した空気が肌に合わず、もうかれこれ10年近く訪れていない。「紅葉を見に行こう」と誘われるたびに複雑な気持ちになる。
2006年1月31日第1刷発行、文源庫、定価(本体¥1523+税)
野崎洋光さんはNHKの番組でよく見かける人で、実にシンプルでおいしそうな料理を作っていた印象がある。彼の文章はとても分かりやすい。京風懐石はあくまでも日本料理の一つに過ぎないと言い切っているところなどは読んでいて胸がすかっとする(笑)。現代人への警句には誰もが考えさせられるはずだ。
‥「とりあえずお腹を満たすことができる」便利な環境というのが、実は現代人の、とくに若い人たちの食生活の中身を貧しくしている一つの要因であると僕は考えています。僕は食事というものをたんに「お腹を満たす作業」と考えている人たちを、皮肉をこめて「養殖人間」と呼んでいるのですが、何の努力もなく食事が与えられる環境にあれば、人間も動物も食べることに対する熱意が薄れてきます。ただ与えられたもので満足して、食べ物に対する真剣さが失われてしまう‥〔本書92ページ〕
‥現代人は噛むことを忘れ、素材本来のおいしさを忘れ、油と調味料漬けになった料理をおいしいと思っている。僕にいわせれば、これは明らかに間違った方向です。そうやって人間が持っている本能的な部分を、どんどん退化させてしまっている。人間の生命力を衰えさせている。その結果が五人に一人の生活習慣病ということではないのかと思えてならないのです‥〔本書195ページ〕
‥うま過ぎるということと本当のおいしさとは違う。過ぎた味つけはやがて飽きがくる。過剰な味つけの料理は所詮いっときのもの。いずれ飽きられます。だから現代の料理人たちは手を変え品を変えて、さらに濃厚な味つけを追いもとめなければならなくなる。それでは本当の意味での食文化の継承とはいえません。毎日食べても飽きがこないものこそ、本当のおいしさだと僕は思うのです‥〔本書203ページ〕
野崎さんの見識に敬意を表するとともに、いつか彼の料理を食べてみたいと思う。
私が東広島市で生活し始めたのは二十歳の時である。当時は田圃や畑だらけで娯楽施設は一切なかった。交差点に信号機がついただけで驚いたものだ。だだっ広いキャンパスはサンダル履きの野郎で溢れ、むさ苦しさがプンプンが漂っていた。夕方からスポーツで汗を流し、夜はマージャンに熱を上げていた。くそ暇な休みの午後はよく釣りをしていたと思う。
ある秋晴れの日曜日、Hと鯰を引っ掛けに寮食堂の近くの池へ行った。その日はボウズであった。帰り支度をしているとHが大声で「お~い、これ松茸じゃないか?」と言う。確かに格好はそれらしい。
「まさか」
「そう言わんとこの匂いをかいでみい」
「どれどれ。ん~、これは間違いない。お前よう見つけたな。はっはっはっ」
「Mの家で料理してもらおうよ」
「うん。それがええわ」
不意打ちをくらったMは一瞬迷惑そうな表情を浮かべたが、かさの開いた太いブツを見てニヤッとした。私達はその晩松茸ご飯をたらふく食った。学食では秋のシーズンにこのメニューを何度か出していたらしい。しかし、私はただの一度もありつけなかったのである。
ある秋晴れの日曜日、Hと鯰を引っ掛けに寮食堂の近くの池へ行った。その日はボウズであった。帰り支度をしているとHが大声で「お~い、これ松茸じゃないか?」と言う。確かに格好はそれらしい。
「まさか」
「そう言わんとこの匂いをかいでみい」
「どれどれ。ん~、これは間違いない。お前よう見つけたな。はっはっはっ」
「Mの家で料理してもらおうよ」
「うん。それがええわ」
不意打ちをくらったMは一瞬迷惑そうな表情を浮かべたが、かさの開いた太いブツを見てニヤッとした。私達はその晩松茸ご飯をたらふく食った。学食では秋のシーズンにこのメニューを何度か出していたらしい。しかし、私はただの一度もありつけなかったのである。
ビデオテープや使用済乾電池を捨てられる日は年に4回ある。今日は2006年最後の収集日。不要になったテープをポリ袋に詰め込んで朝早く捨てた。その数およそ30本。せいせいした。片づけの基本は「徹底的に捨てる」こと。馬鹿みたいに衝動買いをしていた若き頃が今となっては懐かしい。
「定期的に掃除していればここまでは汚れないだろうに...」と朝からボヤキが出た。キーボードのカバーが手あかでベトベトになっている。中性洗剤をかけてもみ洗いすると茶褐色に変わった。コード類も埃まみれで雑巾がすぐに真っ黒になる。1時間かけてようやくまともな状態に。「月に1回は拭き掃除をしよう」と反省はしたが、数日経てばころっと忘れているはずだ。
数年前に横浜中華街の老舗で食した上海ガニの味は今でも忘れることができない。あのワタリガニでさえ、ミソに関しては負けていると思った。臭みをまったく感じなかったのだ。この話を尊敬する割烹の主人にしたが、「ほんまですか?信じられんわ」と取り合ってもらえなかった。あの味を知ってから大きいカニはほとんど食べなくなった。私は決して松茸を買う気にはならないが、このカニだけは毎年欲しくなる。成人病予備軍の旧友Kからの挑発メールを見て、その気持ちは益々強くなった(笑)。
カウンターからネタケースをのぞき、「今日は何を食おうか」と考える瞬間はワクワクする。畜肉と違って魚介には旬がある。その一番おいしい時期に客が自ら調理方法を選択するところに大きな意味があると思っている。
「これはこうして食べてください」と強制するような店には私は二度と行かない。食べ方に「絶対」とか「必ず」というものはないのだから。料理の可能性を最初から閉ざしてどうするのか。
包丁が切れる料理人はどこにでもいるが、舌の感覚の鋭い人は非常に少ない。これは教えてどうなるものでもなく、天賦の才能と言う他ないだろう。懐石で最も力点をおく煮物椀を食べてみれば、大体の実力がわかる。
素材の持ち味を最大限生かす料理に出逢うのが最大の悦びである。客と料理人の感性が見事に合致する時、日本人に生まれてよかったとしみじみ思う。