自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

Sri Aurobind の言葉から~

2012年09月25日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

シュリ オーロビンド という聖人がインドにいた                  9月25日(火曜日)    

         

ニューデリーに、その方のパートナーが設立された、

オーロビンド・アシュラムと呼ばれる、宿坊がある。 

聖人オーロビンドの哲学を勉強したり、瞑想したり

して集まる施設だ。 


私はここで、良く、この協会メンバーの手作りの

お香を買い求めた。

自然の香料で練り上げられた純性のお香で、アシュラム

で生活する方達が制作している。


この聖者の言葉を 今日は、ご紹介したい。 

” Our outward happenings have their seed within...."


意味は

”現象界で起きていることには、必ず、その内側に種がある” 

ということ。


”因果応報”、”蒔いた種は自ら刈り取る””自業自得” の言葉

が日本語にもある。

因や自業という言葉が、オーロビンド氏のいう、種にあたる。

その種がなんであるかそれを見分けるのが簡単なようで難しい。

 

現象界には、肉体の眼に映る事柄と、映らない事柄がある。

あるいはその両方が組み合わさったもっと複雑な現象もある。

例えば、花が咲いた、文字通り、その現象の裏には種がある。 

(肉体の目に見える場合)


例えば、国家試験に受かった。

その現象の裏には、地道な勉学と、目標という強い意志の

種があった。

(肉体の目に見えない種)


例えば、自然災害が起きた。

その現象の裏には、低気圧前線や台風の発生があった。

だが、これらを、”種”と言えるのだろうか?


それが原因ではない。 

原因は ”台風が室戸岬を直撃” したことだろうか? 


否、”台風や、大雨を降らせる前線/低気圧” がどうして、

発生したかということだが、それは気象予報士

答えられないだろう。


台風や竜巻や津波の、自然災害の種とは何だろう?


オーロビンド氏ならどのように答えるだろう? 

他のインドの聖者が答えているように、こう答えるかも

しれない。

天災は人災だと。 


天災の種は、実は私たちの心の中にあるのだと。 


これは不可解な答えだ。

心或る方なら、この行間の意味合いを理解する


私たちが、大自然の被創造物の一つであるという事実。

私たちの想いは、大自然に影響を与え、波動として

繋がっているという事実。


そして、そのことを忘れて横暴に、傲慢に、自然を破壊

することに無頓着になっている私たちもいる。 

 

自然の摂理という言葉がある。


私たちにとって、一番大きな、自然の摂理は地球の

自転と公転が、規則正しく守られていることだ。 


この摂理に反して、どこかが少しでも狂えば、私たち

の地球の安全は、ないかもしれない。 


星と星とが衝突する可能性に、一喜一憂していては、

人類の生活の安定があり得ない。

 

人にも、生きて行く摂理がある。 

自然と対照的に、その摂理を人間は守って生活して

いるかといえば、大いに疑問だ。

 

その摂理・道理とは何か?


世界中、それぞれの国に国教があり、どの宗教でも、

摂理に関しては、同様の内容だ。

例えば、汝、盗むなかれ、殺すなかれ、貪ることなかれ、

姦淫することなかれ、欺くことなかれ、などなど。

 

以下はモーゼの十戒といわれるもの:

  • 主が唯一の神であること
  • 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  • 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
  • 安息日を守ること
  • を敬うこと
  • 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  • 姦淫をしてはいけないこと
  • 盗んではいけないこと
  • 偽証してはいけないこと(を言ってはならない)
  • 隣人の家をむさぼってはいけないこと

 

仏教では、いかなる摂理があるのだろう?

八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、

正念、正定 

を規定する。


それぞれ、正しい見方、正しい決意、正しい言葉、

正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい想念、

正しい瞑想にあたる。


回教やヒンズー教など、摂理の規定は これらの項目

とほぼ、同様だ。

倫理やモラルと呼ばれるものも共通する。


これらが、人の摂理だとすれば、その摂理に反したとき、

自然界はどのような影響を受けるのだろうか?

 

人間の摂理に反した集団行動は、大災害の種をまいて

いるというのが、答えである。


つまり、自然現象を異常現象に変え、自然災害などを

もたらす種がまかれていくということだ。


人の心が荒れれば、自然が荒れる。 

人の摂理が乱れれば、大自然の営みも乱れる。~と

インドの聖者は説く。 

 

古来、厄病がはやったとき、稲妻や日照りが、農作物

収穫にダメージを与えたとき, 神の怒りと恐れ、僧たちが 

鎮めるための祈りをささげた。 


だが、神は、人の罪に対して罰は与えない。

人間の集団行為のマイナスエネルギーの蓄積は、自然の

営みに影響を及ぼし、災害を生む種となる。


自分たちの行いを自分達で刈り取って、貸し借りゼロ

にするという、バランス修正原則だ。


”行いをバランスととる”考え方は 他宗教でも見られる。

たとえば、聖書には”良き行いを天の蔵に積む”という

比喩があるし、”悪い行いと善い行い(生前の)を天秤に

かける”(コーラン=回教の聖典)という比喩がある。 


今風に言えば、銀行に善行をあづけて、悪行をしたとき、

その預金をおろして罰金を払い、最後に預金がなくなると、

その人の家や土地を取り上げられ、負のバランスに

充てられることになる。


そのため、家族まで離散する状態に陥ることもあるかも

しれない。

 

自業自得という言葉の意味は、”自分の業(行い)は

自分で得る(処理する)のが理である。”ということ。


聖者達は、自然災害を、そうした理由から、カタルシス

(浄化作用)とも呼ぶ。 


人間が摂理を守らなければ、悪業(カルマ)が積まれ、

一定に達したとき、その悪業(カルマ)の自浄作用

として、悪(異常気象や自然災害)が表面化する

いうのだ。


毎朝、神様・ご先祖様に、きちんとお勤めをして、

道を守り、愛顔愛語で日々生活しておられる方達は 

摂理を守って生きているといわれる。


みんながそのような生活を送れることは理想だ。

残念ながら、毎日のニュースを見ている限り、そう

ではない。 


中には、手を差し伸べておられる人も多くいらっしゃる。

中には、自分の生活とは関係がない、手を差し伸べる

ゆとりはない、自分の生活で精一杯だ~と割り切る方

も多い。

 

ましては地球の裏側で、多くの子供たちが飢え死に

していても、内戦で親を失った子供たちが、学校に

行けず、彷徨っていても、生まれたばかりの赤ん坊を

一本の注射針がなかったために、失った母親の慟哭も、

私たちの日常の生活には ほとんど届くことはない。

 

聖者は、”私たちは手のひらの指のようだ。 

一本づつ離れていても、手の甲でつながっている。”

という。


他人と自分とはつながっている。

他人の不幸を、自分の不幸として、とらえて

あげられるか? 


他人事としてみていないだろうか?

他人が摂理に反しているとき、それに対し

小さな声をあげることができるか? 


それは過ちだと。

見て見ぬ振りをしていないだろうか? 

自分は正しいからと、自己満足に浸っていないか?


連帯責任ということはどういうことか?  

他人も自分の、根本は繋がっているという言葉、

手の指どれかが傷つけば、ほかの指がその負担を

強いられる。


誰かが不幸なら、自分もどこかで不幸に感じる

本来の心を忘れている。  

 

自浄作用とか、カタルシス、あるいは、バランス

をとることという表現で説明してきた、大自然の現象だが、

自然治癒力セラピー当協会も、同様、唯心論的立場

をっている。


唯心論というのは、”すべての現象の種というのは、

私たちの心の中にある”  

という考え方であり、病気に対しても、


~病は気から~という 一般的に私たちが使う言い回しも、

考えてみれば唯心論的発想だ。

 

唯心論とな何か?

三界は唯心の所現” という言葉がある。 


三界とは現象界の中の、欲界、色界、無色界をさす。

それぞれが、欲望世界物質界、 ”受想行識界”のように、

感情を受けて造られている世界を意味する。


この三つの世界が、私たち生きている世界、現象界を

つくっているわけで、この世の中に現れる事象は、

結局、私たちの心の在り方が、

現象として、現れたものだという考え方 だ。


心の在り方とは、心の向き方でもあり、置きようでも

ある。


病も気から、という言葉通りに、気持ちの持ち方を変えれば、

病は好転したり、癒されたりするものなのだ。

 

環境は自分の心の向きようで変わるのだ。

さらに言えば、一人ひとりの心持は、自然界の現象

さえも動かし得る大きなパワーであるということだ。


”心”とはいかに壮大な、形無き実質なのだろう。

 

通常、日常生活を送る中、私たちは自分の心さえコ

ントロールできず、生きている。


感情とは馬のようなもの、本来の自分が手綱を持って、

方向を決めて暴走しないように気を付けなければ

ならない。


ところが、ほとんどの場合、我々が馬にひっぱられて

いる有様だ。

馬の手綱さばきを上手に運ぶためには、馬(感情)

の性質を知らなければならない。

 

そういう意味で、

10月から心の解剖をヴェーダの理論から切り込んで

いきたい。

 

自分が乗っている馬の手綱さばきは、結局 

自分自身の手でする以外にない。


馬とは? 手綱とは? 御者とは? そのような事から、

一緒に考えていければと思う。

 

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チュチュとチャチャ

2012年09月23日 | ペットロスの癒し

 

チュチュとチャチャ

チュチュとチャチャの改訂版です。

チャチャ語る・・・・・

  僕らはヒマラヤ生まれの兄弟。 

     6年前、印度から日本に海を越えてやってきた。

 

  僕たちはもう、天国です。

  チャチャは黒と白のけなみ、チュチュは白とゴールド、

  黒なのに、何故 チャチャかって?

  それは、イタリア人のように、陽気で、チャオ!って

  人になついて寄って行くからなんだ。

 

  チュチュは、僕と違って人見知り。

  名前の由来は、デリー・カーンマーケットの犬やさんで、

  こごんで眺めていた(飼い主になる)やすよさんに、

  近寄ってきて、チュって、小さな 雀のような舌をだして、キスをしたそうだ。

  だから、こんな名前になった。

 

ところで、

  僕(チャチャ)がはじめにダウンした。

  ブログ(H.24/11月20日前後)にいろいろ書かれているようだけど

  僕は、腎臓に尿が逆流して、集中治療室とやらに一日危篤状態でいたけど、

  見舞いに来た、Yの手当で急激に異常値が下がって、

  退院OKになった。

  自宅療養。 

  亡くなる前の4~5日間の写真、ベッドに乗って、

  カメラ目線で・・・いい顔しているでしょ?

  最後の瞬間はYに見守られて、魂は僕の体から出れた。

  意識は最後まであったんだよ。

 

チャチャが飼い主のひざの上で、命つきたとき・・・

チュチュ語る

  チャチャの葬式は、僕も見守っていたよ。

  粛粛と行われていた。

  チャチャがいなくなって・・

  なんだか急にさみしくなった。

  今まで一緒に歩いていた、

  鶴川の銀杏並木の散歩道、

  道端の花の香りも、

  見慣れた風景総てが

  木々の木漏れ日さえも

  以前とは、どこか 違っていた。

 

  まるで、太陽に影がさしているかみたいに

  同じ光の輝きが 変わっていた

  なぜか、いつも、飼い主は、

  ”チャチャ、チャチャ”と口ずさんで

  何をしてても、どこに行っても、

  チャチャを思い出させる思い出いっぱい。

 

  僕とチャチャは、4つ子。

  生まれる前から、母さんのおなかで一緒だった

  チャチャ、

  生まれてからも、考えてみたら

  きみとは、片時も離れたことなかったな。。。。

 

そんな時 僕(チュチュ)を撮った写真。

  良く見てくれる?

   白に薄い金髪の並僕の毛が、黒いチャチャの毛の色に

  変色している。

  背中や顔の部分だよ。

  ネガ自体がすでに、こういう色だったんだ、現像の時の

変色ではないらしい。

  そうだよ。僕は知っているよ。

  この写真はチャチャが他界して4日目の散歩の時。

  僕達はいつも一緒なんだ。

  それを気づかさせてくれる証拠ナンダ。

 

  飼い主は、”チュチュとチャチャは合体してしまった” 

なんて、  話していた。

 

そうかもしれない。

  だから、今年の3月、やすよさん(注;飼い主)が、

  ガンジス川に向かっていたとき、

  僕は、いてもたってもいられなくなった。

  アマリリスの花がヴェランダ(デリー)で綺麗に咲き誇って

  いたとき、

  日本では、心臓麻痺のようにして、

  僕(チュチュ)は肉体を脱いで

  二人、チャチャと彼女のもとに、飛び立ったんだ!

 

  チャチャの骨を 聖なる河に流すとき、僕も一緒にいたかった。

  チャチャと一体になった僕も、懐かしいガンジス河で

合流したかった。

  チャチャだけ逝かせないよ。僕たちは一緒だ。

  ”僕(チュチュ)を 置いていかないで!”

  って 魂が飛んで行ってしまったんだ。

 

ガンジス河。

  僕たちの故郷、ヒマラヤから流れている川、

  僕(チュチュ)は、チャチャの骨が 祈りとともに、

ガンジス河に流されるとき、

  一緒にそこに居たかったんだ。


  僕たちが赤ちゃんだった頃、 そう、 飼い主が、いよいよ、

  印度を去るとき、

  僕と、チャチャと、彼女の家族たちと、ガンジス河で沐浴したんだ。

  身を清めたんだよ。


  印度広しといえども、あの聖なる河に入った犬は僕たちぐらいだよ。

 

  その時と同じ場所で、チャチャの分骨が、

  河に流されるのを僕は知っていた。(H.25/4月4日)

  そんな、ガンジス河をもう一度 チャチャと一緒に、

  見たかった。

 

  3月31日にYがガンジス河に到着して

  翌日の夜明け前。

  僕は彼女の夢枕にたって、”もう、行っても良い?”

  って聞いたんだ。


  しぶしぶ、承知してくれたから、

  僕は、その朝、6時に(H・25/4月1日) 

  心臓発作で 肉体を抜けて、ガンジス河めざして、

  Yとチャチャのもとに、

  飛んで行った。


  そして、 Yの供養のもと、

  僕たち魂は、兄弟仲よく、天国に旅立った。

 

  僕たちのことを愛してくれた、

  やさしい、お友達たち、

  忘れないよ。

 

 

 

 

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老け顔にならない!”今”を生きるとは・・・

2012年09月22日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

”久遠”と”永遠”の違い。              9月22日(土曜日)2012年

***************************************************

 

”久遠の今”という言葉は聞きなれない方が多いと思う。  

久遠と永遠とは違う。

永遠は、時間の推移だ。  

久遠は、時間を超越している。 

 

円の中心点を思い浮かべていただきたい。

円の中心から半径を決めて一回りコンパスを動かすと、

最小の円から、

無限大の円まであらゆるサイズの円が書ける。


この半径を時間と仮定していただきたい。半径はいくらでも

延ばしたり縮めたりできるが、円の中心は動かない。 

中心が動くとぶれてしまい、円は描けない。

 

さて、この円の円周に枠取られた領域を”空間”と仮定する。

”空間”も”時間”と同様、いくらでも 拡大したり 

縮小したりできる。 


宇宙大の無限の大きさから、電子大の微小なサイズまで

自由自在だ。 

 

この中心点に もし、私たちの心の注枢軸のピンを留める

ことができれば、時間や空間に、左右されない境地にいたる。

そこが久遠の点になる。

 

久遠の点に留まることができれば、”時間” にも”空間” 

にも影響されないのと同時に、時間の長さも空間の広さも 

自由自在にコントロールできる。


身近な例でいえば、4畳半の茶室が宇宙の空間の広がりを

感じさせたり、長時間が ”あっという間にたった”という

感覚は、時間も空間も相対的で

あるという良い例だろう。


深く集中したり、観想でこの久遠の点に意識を持っていく

時間や空間の認識を忘れている体験はどなたもあるだろう。

 

 

2面的な円の中で、時間と空間を規定するには、コンパスの足の

長さを調節すればよい。 


ただし 中心点が存在しなければ、コンパスの足の長さを決めても 

円は描けない。

 

この中心点は、精神的な世界にもあり、この点を空の点 と 私

は、考えている。


般若心経でいうところの、空(くう)。

そして、その ”空の点”に 時間と空間の無限の拡がりの認識が、

含まれていると思う。


私たちが瞑想するとき、想念をどこに向けるのだろう? 

無心になるということはどういうことだろう?

何も考えなければいいということだろうか? 

何も考えないのと、無心になることとは、違う。

その理由は空の点、久遠の”今の点”に意識をおいているか

どうかの差があるからだ。

 

無心になるとは、この、”空の一点”、”真空の点”に意識を

集中すること

なのだ


般若心経でいうところの、”般若(悟りにいたる大いなる叡智)” 

で知る[観じる]ことのできる 空(kuu)・久遠の今 、

久遠の今にいる、本来の自分を、観想することで、現象世界に

生きて居ながらにして、瞑想中、時間と空間で制約されて

生じる感情や執着の束縛から解放される。

 

 

私の尊敬する先生は無一文の時、愛する女性に結婚の

申し込みをなさった。


生活はどうするのですか?”という女性の問いに、

神様が何とかしてくれるでしょう。大丈夫です。”

と答えられた。

それで、十分な答えだったと、奥様は回想される。

 

宇宙の意思、神、大生命の意思、いろいろな呼び方があるで

あろうが 何よりも、久遠の今 を生きているという意識を

明確に持てる、先生に奥様は、従っていかれる決意をされた。

 

 私たちは ”今” を 生きているだろうか?

今を生きる とはどういうことなのだろうか? 

ほとんどの人は、今を 未来へつなぐ手段として生きている~”

と先生は言う。


私たちの多くは、”常に先を見つめて” 今を生きるのであって、

今を生きている”人は少ないと。

 

多くの人にとって、”今” は先に進むための ”経過道” にすぎない。

現代の子供達と親の意識は・・・・小学校から塾に通わせる。 


泥んこになって土や草の匂いを知らずに、机に向かう。

”名門校”へ進むため。 

中学・高校と偏差値にゆすぶられながら、大学へ進む。

安定した会社の就職口を探す。


生活費というサラリーを保障してくれる会社。

安定した経済生活を保障してくれる伴侶(女性から見て)、

エリート意識は、競争に勝った人がもてるもの。

セレブな生活は、その競争の代償。

 

 

庭の片隅に、小さな野草が花を咲かせていても、雨あがりの

芝生がキラキラとまばゆく光っていても、若木が青々とした

枝を伸ばしていても、

”今を手段”として、生きている人には あまり、意味がない。


次の手段を考えながら、四季の移り変わりに潜む、

大自然の真心に、心を留めず、足早にり過ぎていく。


”今を手段にして生きていること”に気が付かなければ、

”久遠の今” を味わうこともないかもしれない。


”今の今” を生きているとき、当たり前の光景が当たり前

でなくなるかもしれない。


家族との団欒、かわいいペットと交わす無言の会話、

散歩中の空気の香りと季節の足音、何気ない、友人の

思いやりや仕草、太陽の光を反射する露、

小さな芽をもたげた花壇、夜明けを知らせる、野鳥の声、

一日の労をねぎらう、鈴虫の鳴き声・・・


我が家には、丹頂流金の’ちび君’が悠々と水槽を泳いでいる。

5年も我が家の一員になって、今では、筆者のこぶし大ぐらい

にまで生長した。


”君は退屈じゃないの?

水槽の中を毎日毎日、泳ぎ回っているだけで・・・” 


答えが返ってきたような気がした。 

”~いいえ、僕には、”今” しかないから、”今”を 

楽しんでいるから、

”今”生きているから、それしかないから・・退屈ってな~に?”


人間以外の生き物たちは、’今を生きている’という。

今を生きているから、計画を立てながら 今を手段にして

生きる才能はない。


だから、犬も、金魚も、”過去も未来の観念は無い”ようだ

”今しかない”から、”久遠の今” を生きているのだろう。

だから、彼らは、人間のように、老いた顔にならないのだろう。

久遠の今に生きるものは、”年を取る” という観念が無いからだ~。

 

 

 

 

 

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牛 と ハエ

2012年09月20日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

牛の背中は神の背中‥自分のリュックの重さも預けてみたら?

 9月20日(月曜日)  

 

つい最近、クライアントさんが生真面目な顔をしてこんな話をしてくれた。

 

”自分が、今、大きな牛になったから言うのではないけど、

時々ハエになって自分より大きな牛に

乗って、遠いところまで運んでもらおうと思うのです。”


”は?ハエですか?” と私。 ”ええ、ハエは、自分で飛ぶ範囲は

限られるので・・・”とクライアントさん。


”牛に乗っていろいろ経験して、そしたらまた、自分も牛の

姿にもどって、今度は自分の体に止まっているハエをどこか

にもっと遠くに連れて行ってあげれればと思います。


そこそこのところで そのハエが成長して、自分から離れて

いけばそれでいい”

 

この話は面白い。 

そのかたは決して世渡りが上手な方ではない。 

むしろ、仕事に、儲けをから

ませず、損をしてまでも、自分の信念を貫くために、

行動されるかたでもある。

 

牛の体に付いたハエという喩えには、自分が労せずして

遠いところまで牛に運んでもらうということ。

 

ざらに、牛の背中に乗ることで、エネルギーを蓄え、

小さな羽の力では到底行きつくことのできないところまで

つれていってもらえるというメリットもある。 

 

こうして、自分を大きくするための経験をつませてもらい、

また自分本来の姿(牛)に変身して今度はほかのハエ(人)に

自分の体を貸してあげるだけの大きな牛になる~という 

いろいろな意味合いがある。

 

話しが飛ぶようだが、この喩えを聞いていたら、神を信じる

ということも かくあらんと私は感じた。


人はそれぞれ、大なり小なりの、悩みと問題をかかえて

生きている。

考えてもどうしようもないことがあれば、自分ひとりの力では

解決できない問題もある。


無神論者は ”弱い人が宗教を持ち、神に頼るのだ” という。 

そうかもしれない。 

 

だが 本来の信仰とは、物欲や、病平癒などの現世功徳を

祈願する神頼みとは程遠い。

本来の信仰とは、自分が自分らしく生きるために、

道を間違えぬよう、不慮の災難に巻き込まれずに、健康に

日々精進できることを感謝することから始まる。

 

神仏に拝みに行くとき、”何かの願い事”のためではなく、

”感謝するため”にお参りするのが本来の姿であるというのは

この意味である。

 

いろいろな問題というのは大方執着から始まる。 

金銭、愛情、もの、人、プライドなどなど、執着があれば

そこに悩みが生じる。

 

牛という形をとられた神様はこうおっしゃる。 

”あなたの背中に背負った荷物が、重たいなら、私の背中に

乗りなさい。

あなたも、荷物も私が引き受ける。

あなたを私に乗っけなさい。 肩に抱えた荷物も私が負って

あげられるから。”

 

クライアントさんの話のように、その牛(人物)に信頼を

置かなければ、ハエとなって止まることもままならない。


信頼をおいてこそ、目的地に到着することを信じている

からこそ、肩を借りることができるのだ。

 

神への信頼もそれに似ている。神に全部を託することが

できれば、心の重荷がだいぶ軽減するだろう。

 

神の愛によって、万物が結ばれている。 自分が学生の時 

ある歌詞をみつけて、感動した。それは***


 ”ああ神の愛 神の愛、宇宙に満ちて万有(ばんゆう)を、

結び合わせて荘厳の宇宙いまここ顕現す。


もし愛なくば、荘厳の宇宙現ぜず美しき、人と人との睦まじき 

結びの世界現れず。”

 

私たちが心でつながっているとしたら、この愛の引力が働

いているからだ。

そして、その根源の ボルテージの高い電流を流し続けているのが 

神の愛ということである。


その愛に全託したとき、心にある重荷も、現実に抱えている問題も、

とりあえず、自分自身から離してみることができるはずだ。

離してみると、今まで見えなかった局面が見えるだろう。

 

そして、神の愛の電流に乗ることができたとき、まわりが

図らずして動いていく。


必要な人が物が必要なタイミングで訪れたり、必要な物資が

供給されたりする。

いわゆる偶然的必然が起こってくる。

 

人と人はつながっている。 どこかで繋がっているから、

自分だけ幸せだということは考えられない。

自分が幸せなら、誰かも幸せだ。 誰かが不幸なら自分もどこか

で満たされないだろう。

 

神と人とも繋がっている。 

個人的にだ。 それは親と子の関係に似ている。

親を親として認めるのに、あるいは、子供を愛するのに、

それぞれ、どこかの組織に、所属しているという条件は無い。

家庭という最少単位の社会組織は、夫婦と親子で成り立つ。

同様に、 神との信頼関係は自分の心の振り向け方次第だ。 

個人的関係だ。

 

インド・ラジャスタン地方にミラバイという、王族の姫がいた。

彼女はクリシュナ神を自分の夫と信じて、生涯結婚をせず、

信仰生活を送った。

 

宗教組織にはいることは、だからと言って、決して、

意味のないことではない。

サンスクリット語(梵語)で ”サットサンガ” という言葉、

それは、”真理を求める人たちの集会”をさす。


一人で祈ることもよし、しかし、サットサンガで、志を共に

した同志で、祈れば、さらに効果があがるといわれる。

集合のヴァイヴレーションが 祈りの想念を強めるからだ。

同志とともに、真理を求めると、挫折せず、互いに刺激を

与え合って、その道を極めていこうと集中力も高まるだろう。 

 

自分は神を信じないという人も、家族は大切だろう。

何故 家族が大切なのだろう。 愛でつながっているからだ。 

私たちには二つの”りょうしん”がある。両親と良心だ。

 

愛がどこから来るか?私たちの良心からだ。  

肉体の親は両親だ。 

肉体細胞分裂は両親の肉体的結合から始まった。

心の親のDNAだけでつくられているのか? 


否、心は別物だ。 

心の親は宇宙に満ちる良心だ。 

普遍的良心を アートマ とも呼ぶ。また、アートマは、

私達が神と呼ぶところの、最大ボルテージエネルギーの

末端的発露 である。

 

牛の乗り心地はどうだろう。 ためしにあなたも、 

プライドを捨てて、ハエになってみませんか?

誰かの牛の背中に乗ってみる体験も時にはいいものかも

しれません。

特に、神様が変装された 牛なら、なおさら・・・・・

 

     

 コンニチハ…・インド 北ヒマラヤ地方の ヤク だよ・・・

 

 
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要介護の方と心の欲求

2012年09月19日 | 介護と自然治癒力

 要介護の方達の心の欲求                                  9月19日水曜日

わたし達の心の願いはなんだろう?

欲求あるいは、本能的に備わっている要求だ。 

まず、第一に 生理的欲求。 
三大欲求といわれるもの、つまり、性欲、睡眠欲、食欲。


二番目の欲求は安全欲求。 
”不安を回避した安全な環境や場所” を必要とする欲求である。
  
三番目は人間交流関係への欲求。 
他者との交流をはかるため、組織に所属する。
”愛情、友情” をわかちあいたいという要求。
 
四番目は、自尊欲。 
誰でも、軽んじられたり馬鹿にされたりすることは 耐え難い。 
”尊重されたい” と願う気持ちである。

五番目は、認識欲求。 
自分を理解してもらいたい、あるいは他者を理解したい、
そして、もっと、探究してみたいという好奇心を含む、
”自分の世界を広げ” て、認識されたいという要求。


六番目は美的欲求といわれ、
美しいものに対する意識を満足させたいという要求だ。 
対象物は無形有形に限らない。 
一般的には、芸術鑑賞で満たされる。
あるいは、倫理や秩序あるものへの美と憧憬につながる。

最後の7番目の欲求は ”自己実現” と言われる。
自分が一番自分らしく満足できる状態、その自分を実現
したいという要求。 
それは作品の創造につながる。 
自分を表現したいという内面の要求。


この7つの要求は我々が生きているなかで必要不可欠な
基本的要求だ。

それでは、要介護の方達のそれは どこが同じでどこが異なる
のだろう?
Naomi Feil女史はその著”The Validation Breakthrough " 
のなかでいくつかの特徴をあげている。

三大本能欲求と安全に対する要求は変わらない。
ただ、三番目から認知症の特徴的欲求が出てくる。 
人間交流の要求が、認知症患者の場合、”愛されたい” 欲求、
または、”一緒にいてほしい”要求に、変化してくる。


相手とのコミュニケーションを楽しむという相互関係ではなく、
むしろ、一方的に、愛されることを要求する、
病院や施設に 家族と離されて、一人置き去りにされるのが
怖いのも、この愛されたい要求が満たされなくなるからだ。


 
周りのスタッフの方達が一緒にそばにいて、安全が確保され、
一人ぼっちにはならないと理解できれば、次第に心は落ち着く。 
老人は幼児化するというが、まさに、そばから離れないでほしい
という、幼児が母親に愛情を求めるような、形が三番目の要求だ。

四番目の自尊欲は、認知症の方の場合 自分の言うことや
動機などを承認して、認めてもらいたいという要求に微妙に
変化はする。


根本的には、自尊欲を満足させるという意味では変わらないが、
話の途中で 相手から、否定的な反応を受け取ると、
とたんに心を閉ざしたり、怒り出したり、感情的になるのも、
承認してほしいという心が否定されたように感じるからだ。


五番目は 現実逃避欲求という。
一般者が自分の世界を広げたい望む代わりに、 認知症の方は、
自分の安全な居心地のいいところを探す。
その結果 現実の非快適さから逃れたいという要求に変わる。


六番目は平常心に戻る要求だ。 
体の機能が低下していく事を自覚している認知症の方は、将来に、
言い知れない恐怖心を感じるものだ。 
自分はどうなっていくのだろう? このまま、どこまで、
身心が崩壊してのだろう?~と。

私の母の場合、電話をまともにかけられなくなった時、
イライラの極限に陥ったことがあった。
何度か間違い電話をかけた。


 
それは、視力の低下で電話番号を識別できないことと、
せっかちのあまり、番号の押し間違いが原因であったが、
冷静さを失って、自分の無能力さに匙を投げたと言って 
怒り始めた。


私が代わりに番号を押して、一段落した。 
翌日 母が私に言った。

”私が荒れたら、あなたが、~お母さん、今、何かに
憑依されているみたいに、お母さんらしくないわよ~と
教えてね。
そしたら、自分に戻るよう努力できるから・・・” と。

このとき、平常心に戻りたいという要求が 母の心の
どこかで生まれていた。
皮肉なことに、興奮しているときは 何をいっても無駄である。 


”お母さん 今、銀ばあ様(母の祖母)がお母さんに
憑依しているみたいに・・”と 約束通り、声をかけたら、

”銀でも金でも角でも(将棋と勘違いしたらしい)、どうでもいい!”
とスリッパが飛んできた。 


 
だからといって 母が私に頼んだことは嘘だったのかというと、
それも違う。
本人の心のどこかで、荒れている状況から出たいという魂の
本然の要求が必ず生きている。 

平常心を回復すれば、現状をある程度 ありのまま、受け入れられ、
コミュニケーションをとることができる。

最後の七番目の要求は安心した心持で”
死をむかえたい”という要求。
思い残しや やり残しがないように、また、長患いで
周りに余計な負担をかけないように死ねたらという欲求だ。

寝たきりにならないで ぽっくり行きたい という言葉を 
母からも よく聞く。
万が一、寝たきりになっても、自分は見放されないこと、
十分ケアーされること、
寂しい境遇にはならないこと、いつも、
誰かがそばにいることを日頃から話して、母の潜在意識に
残っていれば有難い。


何より大事な事は、母の周囲の人たちは家族も含めて、
”あなたに、長生きしていただきたいと願っている” 
ことを、理解してもらうことだと思う。

 
”私なんか、早く死んでしまった方がいいと思うでしょ? 
長患いしたり、ぼけてしまったりしたら・・・” 
と不機嫌な母は、むきになって、
捨て台詞のように言うことがある。 


それが脅迫的被害者意識から来ていること、本人は気がつかない。
母という存在が世界には一人しかいないこと。 
母と呼ぶ人を誰が疎ましく思うだろう。 母がそれを
信じられないのなら、愛情不足が起因しているのかもしれない。


きっと、母の幼児期からもの心つく年頃まで、戦争という
無常(情)で過酷な生活背景の中、
大家族が、互いに愛という心持を
投げかけ確認しあう余裕が少なかったのだろうと、
憶測している。

以上おおざっぱな見方ではあるが、人間の欲求の基礎は 
健常者も認知症の方達もあまり、変わりはないと感じる。


あるとすれば、自分自身の今後の不安と身心ともに、
コントロールがきかなくなるという恐れの増大。


そのため、介護人や家族の愛情を、これまで以上に欲している
ということかもしれない。
決して相手の言葉を否定をしないこと~と母の
ケアマネージャーの方に、
認知の母と向き合う時の不文律を教えていただいた。

”相手から受け入れられたい” という 4番目の要求を
満足させてあげるためである。

 
認知症の方達の中には、パニックに陥ったり、暴れたりする
方達もなかにはいる。 
そのような時に、平常心に帰りたいという気持ちが、あるのかどうか?

わたしは信じたい。
どんな状態の人の心にも、自分を第三者的に見る目はある。 
それはまわりの私たちに気が付かない状況でかすかに
働いている程度かもしれない。


抗鬱薬や、テンションを下げる薬を飲んでいる方達の場合 
自律神経が薬でコントロールされているので、自然治癒力の
発動は難しい場合もある。

だが、それでも、やはり、魂が生きている以上、上記の要求
はいつでも、稼働する状態であることも確かだ。

具体的に言えば、植物人間になったことのある人の証言だ。

自分の身体が全く融通が効かず、寝たきりのいわゆる植物人間
のような状態で入院していた。
その際、周りで看護してくれている人たちの話の内容は理解
していたということであった。


看護婦さんたちの噂話、お見舞いに来てくれた知人と家族との
会話を、記憶までされていた。
 
微動だに動かない肉体と何も反応のない無表情な顔。 
心まで活動していないと思われていた人でさえ、第三者の
眼を持っていた。 魂の耳といってもいいだろう。

現在、私の一番のご高齢なクライアントは、90歳を過ぎている
女性である。 
要介護5の方だ。


 
すでにセラピーをさせていただいて、数年たつ。
ご家族は 家族のお名前を忘れてしまった 老齢のお母様に対して、
一人の人格者として、対応される。


第三者の眼を持っている方として、一緒にお食事し、ひ孫さんを
抱っこしてもらい、歌を歌って お母様の魂に敬意を払って
接している。 
お母様は、髪の毛も黒く、ふさふさとして、、肌もつやつやされている。

私たちも、日頃から、この第三の眼(傍観者の眼)を鍛えて
いきたい。 
そうすれば、後年、認知症になる確率も減るだろうと 想う。 

その理由は、
その眼を鍛えていることで、感情の波(パニック)に陥っても、 
混乱している自分を演じている役者として客観視できる。
すると、パニックを演じているのがばかばかしくなるだろう。

裁判官のような眼で、冷静に動きを見渡しているという意識がある。
全体を冷静に見れるので、何をすべきかもわかってくる。 

人間関係のトラブルでは、第三者的な冷静な眼で 状況をみると、
複雑な背景が単純に見えてくる。
頭の体操というのが流行っているが、このように、日頃から、
第三の眼を鍛えておくことも、
一つの体操だろう。
 
認知症予防に、役立つ以上に、私たちの日常生活の潤滑油に
なることも受け合いだ。



注] ここでの第三の眼は ヨガや神秘主義者の間で使われる、
眉間の間にある目とは違います。 
   
第三者的に状況を見据える目という意味で使っています。


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