自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

父の寿命

2012年12月21日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

与えられた生の余時間

12月21日                    

 

5月21日(金曜日) 

朝6時 排尿(360cc)

午後12時半 もち雑煮ときな粉にまぶして、2ヶ

午後4時半 排尿(400cc)

午後6時半 夕食、寿司ごはん、味噌汁(シジミ、豆腐)、

サラダ(筍、ホタテ、きゅうり、大根)

5月22日(土曜日)

深夜1時 排尿(600cc)

午前3時 排尿(600cc)

午前7時半 排尿(350cc)

午前9時半 朝食

午後3時 排尿(400cc) 無色透明

午後3時半 おやつ そばがき

午後6時半 排尿(400cc)無色透明

この日をもって、ほとんど、尿が正常に戻る。

 

5月23日(日曜日)

午前4時 排尿(600cc)

午前6時 排尿(700cc)

朝食 8時にとる

午後1時 排尿(400cc)

午後6時 排尿(400cc)

こうして父の体はかなり正常に戻った。 

血尿もなく、食欲も出て、体温も平熱になる。

私は父に最終検査を国立病院にするように勧めた。 

一週間の入院を余儀なくされるが、

完全に回復したことを証明するのには、

これが一番だと思った。 

主治医は入院当日、父を、ナースステーションの

一番近い部屋に置いた。 

先回、入院をするよう、すすめられたときの父の容体はかなり

重篤だったからだ。 

しかし、検査を進めていくうちに、

父の体は正常にもどったことを証明した。

入院最終日までには ナースステーションから一番遠い

奥の部屋に移されていた。

 

”良く、ここまで回復しましたねえ。彦田さん”

と主治医が驚いていたと父は嬉しそうに私に話した。

後日、父がその時なんと答えたかを聞いて、私は苦笑した。

父の答えは、

”はい、娘がいろいろインドで修得したみたいで。 

 なんとか治療とか、セラピーとか・・・”と父。

主治医も

”へえ? インドセラピーって、結構すごいんですねえ” 

と答えていたと、父は 笑いながら、私に語った。

 

2004年、こうして父は元気を回復した。

しかし、母の手紙にあった、2007年、私自身、父に 

酷かもしれないが こう話した記憶がある。

”調子が悪いけどなあ・・”という父の投げかけの言葉。

”お父さん、申し訳ないけど、今回は私、

直せないかもしれない・・・

2007年の2月だったと思う。

何故こう答えたのか理由はない。

ただ、何が何でも、このセラピーで直すことは

不当であるとだけ感じていた。

運命を感じたのかもしれない。

あるいは、ほんとうに、父の体を’04年のときのように、

改善させることは力不足だと思ったのかもしれない。

むしろ、前者だったような気がする。

縁あって、私のところに、セラピーに来られても、

数回の施術で去って行かれる方もいるように、

或いは、来られても、セラピーができないと

私からお話しすることもあるように。

 

それでも、調子が格別悪いときなど国際電話で

母からの知らせを受けて、

飛んで帰った。

極端な時は、東京から、デリーに着いた翌日に、

父が倒れたと電話がはいり、

トンボ返りしたこともあった。

その父も もういない。

 

2007年6月、”恭代(やすよ)がインドにいるのなら、

もう、病院に入ろう。

病院に入ったからには、医者の言うことを素直に聴こう。” 

と父は入院に踏み切った。

幸いに、父の主治医が2004年の主治医の後輩にあたり、

前回の父の検査入院の時の、父の自然治癒力体験の話し

を聞いたことがあるという

そのため、私の願いも聞き入れていただき、

一切の薬の点滴はなく、

食事ができなくなっていた父に水分補給の点滴を

してくれていた。 

 

 

7月10日にインドから帰国、病院に直行して父を

見舞ったとき、声が出なくなっていた父が

私の顔をみて”かえりたい”とかすれ声で呟いた。 

点滴の方法、緊急の時に2004年の時の主治医の

先生が駆けつけてくださること、

ケアマネの紹介や諸々の手続きを経て

父の願いどおりに、8月、父は自宅に戻った。

そして、一月もたたないうちに父は、

母と私が見守る中、静かに息を引き取った。

 

一瞬、私たちが父の枕元でうたたねを

してしまった、明け方4時ごろのことだった。

ふと、目を開けてみると、すでに父の

呼吸が止まっていた。 

しかし、あまりにも、穏やかで、

生きているときそのままの父の寝顔に

自分の幼いころの祖母の死を重ね

合わすことはできなかった。 

あの時は何故かとても、薄暗い中、

死の異臭とともに、

いたたまれない気持ちを幼心に刻んだ。

父の安らかな顔に、白い布をかぶせたくなかった。

翌日、甥御や姪御、父の孫たちが、

弔(とむら)いにきた。

 

彼らも、まるで 静かに仮眠している

おじいちゃんの周りで、

遊ぶかのように、明るく、はしゃいでいた。

’怖い’とか’おどろおどろしさ’とか、

死という特別な感覚すら、

彼らには感じられなかったのかもしれない。

それほど、父の横たわる、部屋には、

明るさと清浄な空気の流れすらあった。

私は、数日、父の亡骸のそばで眠り、

葬儀の送り人が来るまで、

一緒の部屋で過ごした。

 

涙が出てきたのは、それから、

数か月たってからだった。

ヴェランダの地平線にかぶさる、緑の丘陵をみながら、

部屋でポカンとしていたときだった。

思い切り、慟哭したい気分に襲われた。

”お父さん、どこへ行ってしまったの?” 

聞き分けのない子供のような質問が 

口からついて出た。

心のタガが外れた。 とめどなく、

突き上げる感情を抑えることはできなかった。

半時間以上、”お父さんお父さん”と

口に出しながら、心の赴くままに、

涙を出し切った。

もう二度と会えないという感覚が 

実感として、戻ってきたのだった。

 

何故だか、父の魂は遠くにいて近くにいる。 

近くにいるようで、すでに、次の霊的条件を見つけて、

生まれ変わりの準備をしているような気もする。

同時に、残された母、今、一人、日本で

私の帰りを待っている母を 

彷彿と心に浮かべている。

 

 

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父へのアートマセラピー記録

2012年12月20日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

渾身の自然治癒力セラピーが効果を出した・・

12月20日                   2004年

********************

昨日からの続きです。・

 

2004年5月14日

夜9時

”腹が痛い、力が入らない”と父。

横になっていた布団から起き上がれず、押し入れの桟(さん)に

手を伸ばしてつかみ、てこの原理を応用して、体をようやく起こす。 

尿(250cc)の色、茶褐色。

この数日間の血液そのものが出ていたが、

尿の色がようやく薄くなった

 

5月15日

深夜3時 尿(300cc)

明け方5時 バナナ半分、ミルクゼリー半分、お茶半カップ

午前7時  お茶半カップ、グレープフルーツ

午前8時  大便正常、尿250cc、 父の体を拭く、下着を

取り替える

午前8時半 おかゆ、大匙スプーン5、トマト半分

午後12時半 脈拍正常値72/分、排尿250cc、キノコ茶カップ一杯

午後2時30分 キウイフルーツ 1ヶ

午後4時 ご飯一杯分のおじや、シジミ8ヶ、卵1ヶ

午後6時 排尿(250cc)、ほうじ茶色(血液の赤味は抜ける)、キノコ茶

午後7時 うどんスパゲッティ―風(茶碗に2/3)、シジミの味噌汁 

お椀半分、おじや小皿に一杯

 

この日をもって、山場を越えたと感じた。

血尿が薄くなってきたこと。 食欲がでてきたこと。 

セラピーは一日、最低4~5時間、トータル時間で手当て

をしていた。

 

5月16日(日曜日)

深夜12時44分 排尿(500ml)ほうじ茶色 カルピス水飲む

午前4時30分 排尿(300ml)

午前8時20分 排尿(200ml) ヨーグルト入りカルピス水、

コップ一杯

午前9時30分 熱37度に下がる。 

おかゆ(卵、シジミ、菜っ葉入り)お椀一杯、オレンジ半ヶ食べる

昼12時 排尿(200cc)

午後一時 寿司(まぐろ3ヶ、いくら1ヶ、貝柱1ヶ)、キウイフルーツ

と生クリーム

午後5時40分 排尿(400cc)

午後6時30分 リンゴ半ヶ、うどん少々、オレンジジュース一個分

午後11時30分 排尿(380cc)、 おかゆとジュース(オレンジ)

2杯

熱は正常に戻りつつある。 

排尿が増えたということは腎臓の働きが良くなっている証拠だ

尿の色も、ほうじ茶色、つまり、血尿には違いないが、かなり 

薄くなっている

 

5月17日(月曜日)

午前4時半 排尿(300cc)

午前10時半 排尿(300cc)、 朝ごはん:おかゆ一膳、

オレンジジュース2ヶ分

排便あり

午後3時半 おかゆⅠ膳、(卵1ヶ、オクラ、鯛のスープ、シジミ大5ヶ)

排尿(250cc)

午後6時 排尿(200cc) 色がとうとう、黄色になった。

(かなり濃い黄色) 父の体を拭く

午後9時 夕飯 (卵1ヶ、トマト少々、豆腐1/4) オレンジジュース

1ヶ分

午後10時45分 熱が平熱になる。 

36度、排尿(250cc)完全に血の気のない、色。

安心が大きくなった日でもある。 

平熱であること。 

食欲もかなり出てきて、排尿に、血液が混じっていないのは初めてだ

 

5月18日 

自力でトイレに行けた

早朝5時半 排尿(400cc)

午前9時 朝食、おかゆ一膳、ゆるい便少々

午後12時半 排尿(400cc)

午後5時 排尿(300cc) ピンク色(血液?)、ゆるい下痢

午後8時 夕飯(シジミと鯛のスープ、寿司3ヶ~うに2ヶ、いくら1ヶ)、

餅(黄粉)半ヶ、プリン半分

午後9時 排尿(250cc)

 

5月19日 

朝 父は自力で、起きてトイレに行く。

早朝5時 排尿(400cc)

午前8時30分 オレンジジュース一杯、お雑煮(シジミの出汁)1ヶ、

きな粉餅1ヶ

午後1時 排尿(250cc)

午後1時半 昼食 スパゲッティ―(トマト2ヶ、ウナギ、大葉3枚、

ニンジン)

 

5月20日

朝7時 排尿(390cc)

午後1時 下痢

午後3時 排尿(390cc)

午後7時 夕食 おかゆ(シジミ)、カボチャ、コロッケ2ヶ)

午後8時30分 排尿(600cc)

深夜3時 排尿(390cc)

おなかの調子が今一つのようである。 

下痢止めはとらない。 

自然治癒力で、悪いもの[毒素]排泄の一環であるからだ。

 

 続く~

 

 

   

                         

 

 

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母の手紙

2012年12月19日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 12月19日   父への渾身のセラピー体験の手記

***************************************

 

デリーの拙宅で昔の書類の整理をしていた。

母が数年前にしたためた、手紙が出てきた。 

宛先は当時、自分が役員として関与していた

現地企業の出資会社のK社長であった。

母の手紙は意外だった。 読み進めるうちに、

当時のことがよみがえった。

 

母の手紙をそのまま、ここに公開させていただく。

この手紙は、父の亡くなる年2007年の冬に

書かれたものだった。

その年の前後は、日本にいる母から 

”父が緊急事態だ” という連絡を 何度かもらって、

その都度、私の上司にあたる、

K社長のご理解を得て、帰国を重ねていた。

 

”日頃 娘がひとかたならぬ、お世話に 

なっておりますこと、心より篤く感謝いたしております。

また、このたび、突然予期せぬ事態に娘を巻き込み、

多大なご迷惑をおかけいたしましたこと、

深く陳謝申し上げます。

娘が社長様に送るという近況報告のメールの

原稿を読みました。 

全くその通りでございまして、

私が国際電話で娘に頼みました。 

その時は、主人の容態が急変し、

近年にない、最悪の状態となりました。 

しかし、現在、危機を去り寝たり起きたりの

生活ではありますが、気力と精神力で娘のセラピーを

受けながら、身体を維持している状況です。

 

私自身去年9月 せき込みがひどく、診察に

国立病院へ行ったところ、緊急入院となり…

帰宅後は多量の薬を持参しましたが、一切、

薬に手をつけず、頼りにすることないまま、

娘の治療(アートマセラピー)により、

徐々に回復。

現在は全くの健康体に戻り…娘のセラピーの

底知れぬ力に驚き、有り難いと、日々の生活に

励んでおります。

 

今回も常識とは逆に、手の施しようもないほど、

最悪の場合のみ、病院に入れる(注:父を)覚悟

でおりました。

皆々様にご迷惑のかからぬように、最善の

注意をしてまいりますが、現在の主人の様子で小康状態が

どれほど持続するか、運命に任せる気持ちでございます。 

何卒、よろしくご理解のほどお願い申し上げます。

株式会社 00工機  

xx社長様、奥様へ  平成19年5月10日   0田 0子” 

 

とある。

母の達筆な筆力のある文章を見ながら、

当時を思い出した。

父の最悪な事態とは、その手紙の数年前に

さかのぼる。

その時、私はインドに在住。 

父が国立病院に通っていることは知らなかった。

脳梗塞のように、しびれが下半身に残り、

足を引きずるように歩き、なおかつ、

腎臓に炎症がみつかり、

”次回血尿が出たら、即 入院だから。 

ベッドを確保しておきますから” 

と主治医に言われているほどだった。

たまたま帰国していたとき、父が血尿を排し、

主治医のY医師の言葉を父は想いだした。

 

その話を聞いて、私は父に、勇気ある

申し入れをしてみた。

自分のセラピーで、たぶん、改善される気

がするから、入院しないで、身を娘に任せてもらえるか?

という提案だった。

今まで、父にセラピーを施術したことはなかった。

しかし、父は、二つ返事で、”そうしよう” 

と言って、母にその場で、病院に電話をかけさせた。

繋がると、自ら、受話器をとり、主治医に 

”娘が帰国していまして・・・ええ、ベッドはキャンセル

させてください。

家で療養して、また、先生にご連絡いたします” 

と 静かで確かな口調で、決断を伝えた。

 

この時の、アートマセラピーを施術しながらの、

父の闘病記が母の自筆の手紙とともに、インドの

住まいを整理していたときに、今回、見つかった。

読者の方が興味を持たれるかどうかわからない。

事実を事実としてお伝えしたいと思う。 

 

2004年5月11日(火曜日)

深夜12時ごろ、父が口からアブクを出して、

高熱を出した。 

トイレに行きたくても体が言うこと聞かず、

母から連絡を受け、実家に向かった。

 

5月12日(水曜日)

9時40分、朝、実家に着く。 

幸いに熱は下がる。 味噌汁を父は自分で作る元気がある。 

パンと味噌汁を食べる。

それからは食欲なし。 夜10時、高熱。 

たまたま実家に泊まってくれていたMさんの手助けを求め、

父の重い体の体重を二人で受けながら、トイレに連れて行く。 

排尿できる。

 

5月13日(木曜日)

朝食に食べたものを吐く。

父、病院に電話。 5時までに入院するようにという、

病院の指示。

それを拒絶して、本格的セラピー開始。

高熱。 排尿は2~3時間置き。

セラピーを施しながら、父は流動食(蜂蜜、葛湯)を取る。

 

5月14日(金曜日)

”少し気分が良い”と父。 トイレに行くのにも、

今までのように、体の重さをこちらに

預けながら歩くのではなく少々のサポートで

自力で行くだけの力が出てきた。

緑茶、カルピスの蜂蜜割りを飲む。

3時半PM、350ccお小水(血尿] 便は親指大

 

今晩は2日ぶりに風呂に入る余裕ができた。 

父の背中を熱いお湯を含ませたタオルで拭く。

 

            

 

続く・・・・

 

 

 

 

 

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母と娘 ~ 気に障る言葉

2012年12月18日 | 介護と自然治癒力

 12月18日                                

 母の転倒::右肩強打

 

ギータとクリシュナ神の話を連載させていただいている。

気分転換に、介護の扉を開いてみたい。

part1)

母の話である。 

前回は 父の墓参りに行ったときの事を綴った。

あれから、ずいぶん時間が経過しているし、母との関係も改善がみられている。

改善と言っていいのだろうか? 

安定剤を飲んでいるわけではないのだが、筆者に対しての母の応対が安定してきている、

という言い方が適当なのかもしれない。

ところで、今回、12月4日、日本を出発するにあたって、母にどのように言いだすべきか、

考えた。

不安に陥らないよう、かつ、パニックにならないよう、切り出しが肝心に思えた。

はっきり、”これからインドに行くから” というべきか?

お茶を濁して、”少し東京からいなくなるから” と 彎曲に伝える方が無難か?

詰まる所、”しばらく会えないけど、大丈夫?” と念を押さなければならないだろう。

等々、いろいろな問いかけを考えたが、やはり、本当のことをいうことにした。

 

出発4日前 11月下旬インド行きの予定を切り出す。

”あら、まあ、いつ帰ってくるの?” と、電話越しに母は驚き、

”カレンダーに印つけておくからね”と言いながら、ペンを走らせている様子。

その翌日、”昨日、あなたは、どこか遠くへ行くとか言っていたけど、どこへ行くの?”と 

母から、電話が入り、再び昨日つけたはずの、カレンダーのマークを再確認。

さらに、数日たって、出発前日12月3日夜、母 と会って、食事をして、再再度、予定を告げる。

 

ところが、当日、成田飛行場に向かっているバスの中でケアマネからSMSに連絡が入る。

緊急事態やいかにと想い、メールを読む。

”お母様が娘さんと連絡つかないと言って慌てていらっしゃいますが・・

何か、’私の言葉がいけなかったか?’と気にされてます” 

すでに、もう、母の記憶には、私がインドへ行くという観念はない。

そうそう、ケアマネの方には、インド行きの話をお伝えしていなかった。 

改めて、母には今日12月4日、インドに立つことは話していることをお伝えして、

留守中のケアーに関してもお願いをする。

 

幸い、母は今、常備薬と言って特になく、なんとか、毎日の生活の

リズムが身についているので、留守中、私以外の家族に、

世話を任せることもできた。

週3回、朝から夕方まで、デーケア―の施設で過ごし、

週2回はケアマネ―ジャーの派遣してくださるヘルパーさんが、

自宅で母と会話しながら、掃除などの世話をしてくださる。

私自身、週に一度か二度は母と会って食事したり、セラピーを

したりしていたが、インドにいる、

この3週間は夫に時々、母のところに行って様子を診て

もらうことにしている。

 

不調が全くないということはないが、母の健康が維持され、

五体四肢とりあえず、正常なのがありがたい。

時々、あちこち、”痛い” ”しびれる”と支障が出るものの、

杖もつかず、デーケア施設での時間を楽しみ、

バスで送られ帰宅同時に、生き生きとした声で、

”今帰ってきたわよ” の電話をもらう日課だった。 

この電話を受け取ることができるということが、

母にとっても、私にとっても 有り難い。

 

そんな母の日常生活に、時々’魔がさす’こともある。

母が、インドに行く数週間前に家の廊下で転んだ。

右肩から転倒。 

かなり激しく打ったと、母から翌日連絡を受けた。

数日後、母と会食。まだ、“転んで肩が痛い、手も挙げられない” 

様な事を言うので、強打したらしい、

早速、手当をして、強打した箇所の”詰まり”を解いた。

すると、15分もしないうち、頭が割れるように痛いという。

“大丈夫。強打して詰まっている所と頭の痛いその箇所

とが連携しているから、今、痛みがあるの。

頭が解けていく過程だから、 そうしたら、打った肩

も楽になっていくからね。

今は、肩の痛みが、頭の痛みに転化して 

ガンガンするのだと思う・・・”

などと言いながら、手当しているうちに、

頭の痛みも消え、肩の打撲の痛みも和らいだようだった。

 

こうした場合、打って傷みとして現れている場所を

解くことによって、連携している身体のほかの部分が

痛むことがしばしばある。

母の場合、強打した肩を十分に解かない場合、

知らずに頭の血管にも悪影響を及ぼさないとも限らない。 

念入りに解くことが必要だ。

それは、打った箇所を解いている時、頭の部分に

ガンガンとした痛みを覚えていることでわかる。

脳梗塞とかいうのも、実際、肩や脚を強打して、

そのつまりが上層に転化していき、

頭に変化をもたらす場合が多いと考えられる。

 

私の父がそうであった。

天井にぶら下がっている電球を取り換えようとして、

脚立から転倒した。

頭や肩を打ったらしい。 

生憎、現場におらず、海外に住んでいたときだったので、

その時は何も手当をすることなく時間が過ぎた。

その話は、後日、父の足がマヒしてきて、スリッパが

脱げていても気がつかないという状況で、初めて知った。

そこで、帰国した折、数週間にわたり、父の打ったと

見える足(膝小僧からふくらはぎにかけて)と頭を丹念に解いた。

すると、ジョジョにマヒも感覚が戻り、ずって歩いて

いたのが、かかとを上げて歩くことができるようになった。

 

そういう臨床体験があるので、今回も、母の打ち身の箇所

を丹念に解くことは必要だった。

こうして、五体満足でも、人は贅沢だ。

心の寂しさが 満ち足りなさに変わり、ついつい小さな

不平不満が募り、愚痴となる。

”寂しい”という感情は、常につきものではあるが、

健常者でも 老いも若きも、生きていて ”寂しくない”人

はいないだろう。 

家族に囲まれていても、いなくても、人は時々、寂しさに

襲われるものなのだろう。

 

part2)

今までブログで’寄り添う介護’という意味合いで、

介護する側の心の持ちようを検討したことがある。

それは、母の要求や心の赴く 言葉の表現に、なるべく 

逆らわないように接し、

まずは受け入れるということだった。

でも、最近の私は、母の一人の”人格”を おもむろに

認めたうえで、母への向き合い方。

接し方を変えてきている。

母が、忘れることも承知で、誤解されることも承知で、

何度も、同じ説明をしたとしても、

根底には、健常者に対して接するように母に対している。 

脳が壊れている、とか、委縮しているから理解不能だと

いう観念を持たないようにしている。

母の人格の健全さを、心の奥底で信じている。

そうこう、接しているうちに、母も、今まで言いたい

放題の自我を 若干、コントロールできるようになった。

 

”これを言ったら、娘の気分を損ねるかもしれない” と 

母の経験から判断できるようになってきた。

たとえば、母が一方的に”私の非”を、”思い込み”から

責め立てる電話が、かかってくるとする。

以前の私だったら、どんな話でも聞いて、

”冷静に”対応しようと努力する。

そのうち、”母の思い込み”が原因であることにに対して、

”もの申す的”態度になり、話を切り返す私がいる。

すると、母はむきになって、反論する。

結局最後は、水掛け論ならぬ、母の怒りに 

まくしたてられて、いきなり、途中で、電話を切られるというのが

大概の筋書だった。

 

今は、そういう母の” スイッチが入った”電話に対して、

”黙って、聞いて” こちらから、

静かに、それとなく、受話器を置くことにしている。

実家でも、母の顔色が”突然”灰色がかって、目が座った

状態になりそうなときは、わかる。

その時は、母との座をたつか、その場を離れる。

母の頭の回線スイッチがOnになった、と私は表現する。

母の母でない要素がにじみ出てくる瞬間を咄嗟(とっさ)

にキャッチして、その状況になるべく身をおかないようする。

 

そうこうしているうちに、私自身、体験が増えてきた。

どうしたら、精神的に母と距離を置くのかということを、

無意識に考えるようになったようだ。

勿論、一緒にお手伝いいただいている ヘルパーさんや 

ケアマネの方との 情報交換や連絡は

密になってくる。 皆様の献身的なお心遣いのおかげで 

母は見守られている。

 

今回、成田飛行場に向かう、リムジンバスの中で受け取った、

ケアマネ―ジャーのFさんのメールにはこう書かれていた。

お母様から以下のような連絡を受けています~という前書きで、

“娘に何か気に障ることを私(母)が言ったかもしれない。

そのために、娘が電話に出てくれない。連絡がとれなくなった”・・・・

 

自分(母)が、娘(私)に、気に障ることを言う ~ 

こんな言葉が母の心にあることを知って正直嬉しかった。

”人が人の気持ちを察する余裕”、それは、自己主張が強いとき、

自己防護したいとき、そんな時には、なかなか、持てない。

これは、健常者でも、老齢者でも、認知症の人でも、同じではないか? 

~ ふと、そんな気にさせる、母の一言だった。

 

 

 

 

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クリシュナ神とヨガ

2012年12月17日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

 

12月17日   アルジュナとの会話から

 

”Let man uplift the self (ego)by the self; 

let the self not to be self-degraded (cast down).

Indeed, the self is its own friend; and the self is its own enemy." (1)

協会訳)

真なる自己によって、自我意識を高めよう。 

[本来の]自己を決して卑しい自己にするなかれ、

自分こそ、自己の親友であり、また、同時に敵にもなるからだ。

 

この言葉は端的に 自己の中にあって”葛藤する自分”と

”本来の自分”との違いを示している。

本来の自分、アートマこそ、一番の友人であり得るが、

感覚に流される自分は、惑わし苦悩をもたらす、

虚の自分であり、自己の中にある敵でもある。

 

インドで、面白いエピソードを聞いた。

ヒマラヤの奥地に、齢(よわい)1000歳とも

それ以上とも言われる仙人(ヨギ)が住んでいるという。

信仰深い、マハラジャ(王様)が、その仙人を

探し出す試みをした。

やっとのことで、その仙人と会うことができ、

マハラジャは おもむろに、仙人にこう聞いた。

” どうぞ、私の城にお越しください。 

あなたを歓待いたしましょう。 

このようなところで一人で住まわれて、

さぞかし、寂しいことでしょう。 

さぞかし、孤独なことでしょう。”

ヨギは答えた。

”私は一人ぼっちではない。 

だが、貴方が私の前に現れて、私が一人ぼっちで

あることがわかった。

貴方がまた、私の前からいなくなれば、

私の一番信頼おける 友が常に私のそばに

いてくれるのを知っているので、

決して、寂しくはない。 

ご心配なく。”

王様はヨギの言う意味を完全に理解しないまま、

山を下りた。

 

ここでヨギの言う、一番信頼おける友 とは、

だれの事だろうか?

それは、ヨギの中にいるアートマだ。 

アートマはちょっとした俗世間の震動にも

雲隠れしてしまう。

一人でいれば寂しくないということは、

一人の静寂の中でこそ、ヨギはアートマを

自分の姿として自覚し、沈黙の中で、

満たされた 時を過ごすことができる

ということだろう。

王様のような、権力者や常に、領土を守るため

に戦いを意識している統治者には、およそ、

見当がつかない心境であったに違いない。

クリシュナがここでいう、友とは、

そういう意味合いだろう。

私たち誰でも、一番信頼おける友を心に持って

いるのと同時に、一番手ごわい、敵もまた、

心の中に存在しているのだ。

 

さらにクリシュナ神は続ける:

”For him whose self(ego)has been compared

 by the Self(soul), the Self is the friend of the self:

but verlily, the Self behaves inimically, 

as an enemy, toward the self that is not subdued."

協会訳)

エゴ(自我)と真の自分とは比較される

対象であり、真の自分こそが、自我意識

の友でもある。

しかし、その真の自分が、時として、

わが物顔に振る舞う自我意識に対して、

敵のように、敢然と向かうこともある。”

 

人はある時までは、肉体の欲望に対して、

自我意識が引きずられることを許容することができる。

しかし、その、或る時 が 過ぎたとき、 

自分の本来のアートマ意識が、目覚める。

その時、わが物顔に肉体と心を操る、

自我意識 に対して、真なる自分が、

敢然と立ち向かうという。

 

その ’あるとき’ がいつなのか? 

人それぞれ、魂の段階を上っているように、

それぞれ、その時期が異なるのだろう。

もしかしたら、今生ではなく、来世に

持ち越すのかもしれない。

あるいは、すでに、その”あるとき”を 

今、自覚している人たちもいるだろう。

 

いずれにしても、自己の中にある、

二つの自我、それを、クリシュナ神は 

ギータの一節に、表現している。

 

ヨガとは、本来の意味は 神との融合を顕わす。

クリシュナ神は、 誰もの自己の中の、

神への自覚を促すとともに、ヨガはその

意識から始まることを教えている。

 

 

(1) Bhagavad Gita VI:5~6

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