自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

想い・念・意思・病&エネルギーの話

2013年08月04日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

二つの困難を比較して・    平成25年8月4日

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私たちは往々にして、矛盾したことをしている。

それに気が付いているとしても、気が付かないにしても・・

 たとえば、一つの症状を抑えるために、

ほかの症状を 引き起こしてしまう。

例をだせば、喘息を止めるために、ステロイドなどの

副作用の強い薬を使う。

 

或いは、傷みを止めるためにモルヒネのような薬を

取らざる得ない。

二つの困難を目の前にして、どちらをとるかと言われれば、

たぶん人は、大きいと思われる困難はどちらか、判断して

それを和らげるためには、より小さい困難を

受け入れようとするだろう。

それは病に限ったことではない。

 

悪いと承知で、背に腹は代えられないと

行動に出るときもあるだろう。

飢え死にしそうな子供を目の前に、親は

隣の庭の果実を盗むことは厭わないだろう。

ストレスが過剰になったサラリーマンは 

会社がひけてそのまま家路につく気力もなく、

肝臓に悪いことを知りつつ、

酒を浴びるほど飲んで 泥酔したくなることも

あるだろう。 

”わかっちゃいるけど、やめられない”

ことが 私たちの生活にはつきものだ。

育児に疲れ、もう限界と心身症の手前に

行くことを予感した、母親が、選ぶ一つの

方法がある。

それは、社会に出ること。働くという、大義名分を得て 

育児から離れることだ。

すべての ケースにあてはまると

思わないが、 これも、心理的に 自己破壊を

逃れる作戦の一つともいえる。

病の症状が出たとき、人は 副作用が出ると思っても

薬 を とることを選ぶ。

何故なら、ほとんどの人は、自分の体、

胃や心臓、血液、神経の力は 

自分の意思で、コントロールできないと

信じているからだ。

そして、この一般的考え方を(それは社会的通念でもあるが)

受け入れ、自分の心がそれに従うことに何も疑問を感じない。

そうこうして、何となく、今までの習慣を続けていく。

 

人類の本質的に持つ病への恐怖も、こうして積み重ねられた

社会的通念の上に、 築き上げられたものだろう。

形而上的セラピーでは そのようには考えない。 

肉体の内臓器官 そのものは、物質である~と

認識するからだ。

物質は 力 はない。   

知性もない。

力と知性 を兼ね備えているのは、物質ではなく

私たちの 真の心であり、物質的なものはその心が

意識してかじ取りしたとき、従わざる得ない。

その心は、揺れ動く、根無し草のようなもので、

いつかは必ず訪れる、肉体の死とともに葬られる心である。 

体の優位性を認めている心でもある。

 

それを、小我(小さな自分)と呼ぶ。

一方、物質的な心と異なる、常に存在する真の心(実存的心)

がある。

その真の心に属する自分を(大我)と呼ぶ。

そして、小我 が 物質を上位に見据えて大我を

忘れている間は、

私たちの身体は、物質的法則と社会的

常識的通念のもとで動く。

今の心 と書いて、念 という一文字になる。 

想いが心になり、今の心を重ねると

念となり 念が強くなると、意思となる。

意思は 行為を決定していく。

たとえば、人が次のようにいうとき、

”環境を意思の力で向上させる。

 病気を意思の力で回復させる。”

それがどのような結果を生むかは、

その意思は どういう念をもとに、発しているかを聞けば

おおよその将来の結果がみえてくる。

 

人間の 身体 に対する信念は、哲学、宗教、生理学 

などいろいろな分野にわたり、形成されているだろう。

もし、唯物的な観点で、これらの分野をみているのならば、

その人の信念は唯物的となり、

意思も、物質的な 属性の上にしか及ばないだろう。

たとえば、喘息の人が ”必ず治す”と意思する。

その 意思のもとになる念(今の心)が、肉体は

物質だから、物質(薬)で直すしかないと信じていれば、

ステロイドなどを投与していくだろう。

結果、副作用が重大になり、喘息以上に

苦しむ症状が出ることもあるのだ。

反対に、大我を知り、今の心 (念)を

大我にゆだねるのならば、その決意(意思)は

必ず、症状の軽減 もしくは 変容につながる。

 

人間の生体が いかに不可思議なものかは 

偉大な医師ほど知っているものである。

心身一如~つまり、体と心は切り離せない ことを

知っている医師は 患者に寄り添うことを知っている。

何人かのお医者様は その真実を公に提示して これまでの

身体の取り組み方を変えようとしておられる。

(H.25・12月以降のブログで詳細を発表します)

恐れの念 が 病 と、いかに関係しているかという話は

以前にも、ブログで取り上げている。

人は誰でも、恐れを潜在意識に抱いている。

その念を変容させるのが、心身一如の観方であり

心が変われば、体[物質]は変わるという真理だ。

心がどう変わればよいか?

ストレスを取り除くこと。

そのためには?

心をおおらかに保つこと。

安心感を 深呼吸とともに吸い込むのだ。

安心感はどこからくるのだろう?

ここからが アートマセラピー、形而上的セラピーの

本髄となる。

人が安心感を得て、どんなときにも笑顔で対処

できるとしたら、

それは真の自分の姿は、本来、健康そのもの、円満で

愛を与えることに悦びを感じる存在であるということを

頭と心と体に浸透させることしかない。

 

エディ夫人の手記を読むと、次のような実例が出ている。

ある男が 診療所で、コレラ患者が死んだ寝台に

自分が寝かされたと信じ込み、その恐れで、

コレラの病の兆候が表れた。

コレラに感染するのは、物質的感染によるが、

そうではなく、自分の創造(想像からくる)により

こうした病状を顕わしたと 担当医師は判断している。

 

あるいは、子供の病気に対して、異常な恐れを

持っている母親の想念が、子どもの病を引き寄せる場合。 

”自分の子供は、きっと、友達から、感染して

くるに違いない” と その母親は 学校に行く子供

の後ろ姿を 毎日心配そうに見つめ、送り出す。

すると、その恐れが実際、風邪などの流行性病いを

子どもに引き寄せてくるという実例を エディ夫人は

著書で挙げている。

自分の子供に向かい母親が

”あなたは病気のようね”

”休んだ方がいいわ。”

”薬を飲まなければ”

という 不安の裏付けのような言葉を

まだ症状が出る前から 言い続けていると、

本当に子どもが病気になると エディ夫人は

述べている。

その反対に

”大丈夫。”と 母親が自信をもって、子供を

明るく励ますことで、子供は少々の疲れも

病気に結びつかず、元気で過ごすことができる” (155) 

と付け加えている。

 

話しを戻すと、心にフト湧いた想いが度重なる

回数思うことで、今の心、つまり念 になる。

念は何かを造りだすエネルギー体であるから

その念をどのような方向にもっていくかで

幸不幸を造っていく。

だからこそ、大我と小我 の違いを理解したうえで

自分自身に このように言い聞かせる。

”私は 暖かい太陽のよう・・・与え続けても

エネルギーが消耗しないし、

与えて周りを生かすことが大好き。

生かし生かされ 喜びと調和を周囲の人達と

共有するのだから・・・” と。

それが 実現したとき、すでに 困難はない。

二つの困難として、比較する対象がなくなるだろう。

 

参考)

Science and Health With Key to the Scriptures

by Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientest,

in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition

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