自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

人は本来善か悪か?

2013年08月06日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

形而上的癒しに必要な考え方・・・人は善なりとは?

******************2013.8.6

 

 神、創造者 の存在があるとしてお話しを進める。

私たちは、髪の毛一本 自らの意思では造れない。

私の~と言っている 物質的体も、持ち物も

あの世に持越しができない。

 

それでも、まだ、私 という意識は 残っているのなら、

(事実 あの世からの霊界通信でそう報告があるように、)

私 は 物質的存在ではないということになる。

それでは、その私 は、 善なるものか?

悪なるものか?

それとも、両者渾然としているのか?

もしも、神が、人を善なるものとして造ったのなら、

悪 は 存在しているように見えるが、実際、悪 

は存在するのか?

形而上的哲学でいえば、それは、いずれは肉体と

同様、消滅するものである~と考える。 

そう考えると、不完全に見える状態、不幸という時、

それらは、霧や雲のようにあるのだが、

でも太陽が当たれば、そうした

水の変形事物は、雲散霧消して 本体の水 

に立ち戻るだけに似ていて、

悪も、光という実在の中では、存在せず、

影の闇に現れた、

一時的な現象と とらえられている。

さらに進めて、本体の水 を 善とするのなら 

その水がいかように姿を変えても、結局 

水になるわけだから、善しか

存在せず、人間の本質も、そういう意味で

最後に残るのは善的資質

だととらえるのが、形而上的癒しに

必要な考え方となる。

 

同様、不幸 な状態が今、現れていても、

本質は善、すなわち、幸である

のだから、その不完全な顕れを論じるより、

いかに 幸 に戻し得るかを

考えたほうが有意義だ。

病も 癒そうとするとき、病の原因を追究

するより、スポンと一飛びして

健全であるという本来の状況を受け入れる

心持になることが、

有意義のようだ。

もし、神が 人を善でもあり、悪でもあるように

造っているのなら、向上 とか 進歩 

とかいう意味が曖昧に

なるのではないだろうか? 

進歩したと思いきや、突然、それが、

退歩に向かう途上であったり

したら、前向きに進むという勇気を

どのようにして維持できるのだろうか? 

無難に現状維持、可も不可もない、適当に

安全で心地よい今を維持することのほうが、

大切に思われてくるのだろうか?

 

悪の性質は神が造ったものとして受け

入れられるだろうし、その個人悪の結果、

生み出される 社会悪も 極端に言えば、むしろ

健全な悪 として 受け入れる神学者も

出てくるかもしれない。

なぜなら、神と悪魔は一心同体なのだから。

 

キリスト教では、善なる霊 と 真逆な意味で 

という言葉を使う。

"Flesh fusteth against the Spirit"

と聖書に書かれているように。

’肉の欲するところ、霊(神の)に反す”

と訳せると思うが 霊と肉とは 合体することは

できない。

ヴェーダ哲学でも、肉身(なまみ) 

を 物質的 と理解する。

そして、 悪 は、肉[物質的心) 

から出るもの、という理解は

聖書のいうところと、同様である。

 

形而上的癒し では、もっとこれをつきつめて

徹底化する。

この場合の癒し を 体の病 や 心の病に

限定はしない。

この場合の 癒しとは、もっと、広範囲の意味で

人生全般にわたる、不幸に対する癒し、あるいは

不運に対する、癒し、 にも応用できると思う。

 

形而上的癒しでは自然治癒力協会の癒しも

エディ夫人の提唱する、クリスチャンサイエンス 

癒しでも、端的に表現すれば以下のようになる。

完全であるという神の資質と その資質の表現された

私たちの本質を理解することが、環境を、あるいは、

身体を 自分の欲するままにコントロールすることが

できるということである

他のいかなる癒しの方法も、決して誤りとはいえないが、

しかし、決して本質的な 根本から変える方法というより、

代替的方法、対処療法にすぎないように思う。

 

エミール大師や、多くの 先達の人生の達人が

実際 布石をしめしてくれたように、

”真理 を理解して、それを徹底的に信頼すること”に

よってのみしか、真の意味での、エディ夫人のいう

科学的癒しの力 は実現しないということだろう。

 私たちは、そうは言っても、徹底的に真理を信じ

それを実現するということは 現代生活の中で

至難であることも本当だ。

生きていくということは、どこかで妥協し、

調子を合わせ、真っ正直な本音を隠し、

周囲を良く観ながら、要領よく公平に

対処していくことでもある。

筆者もそういう 現世的対応用の脆弱な自分

を良く知っている。

鏡を見ながら、これは私ではない と呟いても

世間はそれで通用しない。

徹底して、神人ぶれば、それはどこかで、やはり、

嘘になるだろう。

なぜなら、私には 体と心(三次元対応の)

がある以上、それなりの

演出が必要になるからだ。

頑固に、聖なる自分で徹しようとすれば、

水 清ければ 魚が住めぬ” 

の諺どおり、孤立を余儀なくするか、

ヒマラヤの奥地で導師や同士たち

と徹底した隠遁生活を送るしか手はないだろう。

 

でも、一つだけ、実行できる手段があるような

気がする。

それは、天稟に載せた 同じ重さの重りで

釣り合っている今 があるのなら、どちらかの

重りを少しとるだけでバランスは崩れるが、

一方の目方が増えるという

考え方にそって、少しずつ、無理なく、

浮世離れした生き方の比重

を増やしていく方法だ。

 

物質的な方向に向いている自分の心の重りを 

どんなに小さくても、

気が付いたときに、可能な範囲で、

天稟(てんびん)から

ピンセットでつまんでとってみる。

少しずつそうしていけば、周りの環境を

驚かすことなく、 本来の自分の資質を 

何もしなくても

少しでも より重く しかも現実的に、

実践していくことができるかもしれない。

物質的な心 は、 ベールをかぶって、

ちらちら見え隠れしているが

同時にアートマの大我も、自分の中で

声を出していろいろな場面で

促してくれているのも知っている。

 

虚栄心やプライド、比較する心や、劣等感、

裁く心や委縮しすぎる心、物への執着や、

その執着が満たされた満足感 それらも、

よくよく考えるまでもなく自分の本質的な心 

ではない。 それを現実生活の中で

どのように自覚した分、肉体的

自分の表現する言葉や所作の中に 

それと反対の大我の心を映し

出していけるのかが、今、こうして

生きている意味であるのだろう。

そして、癒し を体現するときには、

一切、肉体的自我を超えて、

アートマ意識で自己や相手に向かう。 

今はその修行をしている

毎日なのだろう。

 

 自然風景無料写真 に対する画像結果

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする