病は気からの真意 平成25年8月8日
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病は気から という諺は 意味深い。
気 の訳仕方がポイントだろう。
気功の気、気持ちの気、気分の気、気のめぐりの
気 、と並べてみると、気 には 大きくわけて
二つの意味で使われている。
一つは、気(プラーナ)であり、
もう一つは、感情や気分という気持ちの気である。
ここで、病は気から といっているのは、
どちらの意味合いなのだろうか?
気 には 何らかのエネルギーがあるのだろう。
そのエネルギーの、気 が固まると、信念にもなる。
人の信念は、エネルギーだ。
信念が強ければ、それだけ、事象が実現する
可能性も広がる。
今、ブログで 形而上的癒し を取り上げている。
形而上癒し を メタフィジカル ヒーリング ともいう。
私たちは、この形而上的癒し という究極の
癒しの形態の中で占める 人の信念の役割を無視できない。
人の持っている信念によって、病になったり、
病になる前の兆候すら造りだしていることは
今まで エディ夫人の書から 例を出して書かせていただいた。
本人のみならず、家族(特に母親)の心(信念)
の反映は 12歳以下の子供である場合、影響を
大きく与える場合が多いようだ。
担当医師の信念も、同様かもしれない。
医師の言葉は、患者にとっては 力を持つから、
時にして、麻酔恐怖の患者の死の話しで
みたように、結果を悪くしたり
反対に 良くしたりすることができる。
人が霊的になればなるほど、ある意味、
薬剤への信仰 が薄くなる場合が見られる。
それは 病 は 気 から という意味合いを
理解できるからだろう。
人間が霊的になるために、いろいろな意味で
物質的なものを放棄すると、薬剤 も 物質的
なものとして扱うからだろう。
薬には 固有な力がないこと、
その薬に 効果を与えているのは
大方、薬を信じる信仰 が そうさせていると
感じてくるものだ。
実際、麻酔薬が どうして効用があるのか、あまり
知られていない。
麻酔薬が効きにくい人もいる。
筆者の知るインド人は、麻酔を拒否して、麻酔なしで
手術した。
それでも、心を肉体の外に置くことができる
と見えて痛々しい表情は全く見せず、施術中、笑って
医師たちと談笑していたと、その場に立ち会った人
から話しを聞いたことがある。
自然治癒力を考えるとき、肉体機能で、普通、意識で
動かせない、内臓器官、分泌作用、なども、私たちが
手足を動かす能力と同様、ごく 自然 に、私たちの
真の心のコントロールの範疇に置かれていると考える。
自然治癒力を喚起する心、それがこの場合の真の心と、
いえよう。
もし、肉体が独自の意思を持っているのなら、私たちの
肉体意識が死んでも、内臓器官は 独自で動くことも
可能かもしれない。
死を迎えて、真の心が 肉体を去ると、それらの機能
は停止する。
解剖学において、神経の働きで筋肉の細胞に
命令を伝達することで、行動が起こされるとしている。
ところが時として、筋が委縮したり 収縮運動が
できなくなったり、神経伝達が 滞ることがある。
血液や骨、神経は心が想い、脳に伝達され神経を通して
コントロールされるかといえば、常にそうでなはい。
言い換えれば、、筋肉は 常時、自動的に調整されて心のままに
動くことが無いということだ。
かといって、筋肉が勝手に動きを止めたり、硬直
することができる 筋肉の意思 を持っている
ということでもない。
解剖学では、”生命学”あるいは、”命のしくみ”
”自然治癒力と生理学”が、まだ、完全に解明されているとは
言えないのと エディ夫人は言う。
解剖学 という 学問で少なくても、エディ夫人の
生きていた19世紀当時は、解剖学から、人間の心が
どうやって、筋肉を支配できるか研究していた時期が
あったようだ。
だから、エディ夫人は一言 自著でこう述べる。
”Is man a material fungus withoug
Mind to help him?
Is a stiff joint or a contracted muscle
as much a result of law as the supple
and elastic condition of the healthy limb,
and is God the lowgiver?"(160頁)
訳)
人は 自ら救うための 実相の心を持たない、
物質的真菌類なのか?
硬直した関節や、突っ張った筋肉は、
柔軟で弾力ある健康な関節
と等しく、何かの法則の結果なのだろうか?
あるいは、神がその法律の造り手なのだろうか?
暗に、ここでエディ夫人は示している。
私たちは、Mind to help him の保持者でもあるにも
かからわず、その自らを助ける 実相の心 を
忘れてしまっているのではないだろうか?と。
恐怖から、周りの強い想念(思いこみ)から、教育から、
唯物思想から、二元的思考から、
私たちの 本来の、心(生命力)のパワーを
思い出せないのではないか?と。
30代半ば、私は癌宣告を受けた。
重篤の可能性が大ということで、私の知らないところで、
夫にだけ、6か月の集中治療を受けないと、あと、数年の
余命であろうと、告げられた。
主人は そのことを 余命と言われていた間の年月、
私に告げることはなかった。
だから、当然、癌細胞を切り取ったと思い、退院後、
不安な思いもなく、今現在に至る。
エディ夫人の言葉は 当時 読んだことが無かったが
筆者の信じる 自然治癒の力は エディ夫人の考え方
と重なると思う。
エディ夫人の言葉を引用する。
”The ordinary practitioner, examining bodily symptoms,
telling the patient that he is sick, and treating the case
according to his hysical diagnosis, would naturally induce
the very disease he is tryig to cure, even if it were not
already determined by mortal mind."
訳)
一般の開業医は、患者の症状を調べて、病気であると告げ、
肉体欠陥の診断で治療しようとする。
人間的な心(感覚的な心)が、まだ 病気だと決めて
いなくても患者自身 直そうとしているにもかかわらず、
このようにしてごく自然に病を誘発していくのである。
エディ夫人の 自己の霊性の善 を信じ切る強さが
この言葉をいわしめているのであると思う。
参考)
Science and Health With Key to the Scriptures
by Mary Baker Eddy
published by The First Church of Christ, Scientist,
in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition