自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

生きているだけで儲けもの

2013年08月19日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

一人のエゴ意識と戦争       平成25年8月19日

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人の持つ ”偽の心持” の中の一つに、

エゴ意識 と呼ばれる、自己中心性的性格がある。

そして その 自己中心的性格 は 自分に

物事が都合よく運ばれることを願う。

そのために 支配欲 が生まれる。

周囲を 自分の思うように動かすために

他者 を コントロール するために。

それが、権力欲を助長する。

権力を握れば、周囲への支配が容易になりやすい。

配欲も、権力欲も、唯物的な、心から出る。

唯物的 というのは、支配欲、権力欲という

二つの欲望には 精神的価値とは無縁だからだ。

 

このエゴ意識は 一人の人間からでているが、

その意識が、結びつきあうと、組織を動かすことが

できる。

国や世界にも及ぼす影響力となるかもしれない

政治的に見れば、支配権、権力を持てば

実行権利がますから、

自分たちの意思に従わない者を 

仲間うちから、はじくこともできるだろう。

 

こうして、良心の呵責もなく 

罪のない民間人たちを巻き込む

争い始まり、内戦になり、そして、

他国を巻き込むことさえ

あるのだ。

戦争はこうして起きるのかもしれない。

             

人は”コントロール意識”を

他者に向ける人と

自分自身に向ける人

との二つの種類に

大別されるかもしれない。

ほとんどはミックス型だから、どちらの

要素が比重が重いかという話になる。

 

この二つのコントロール意識は、まったく

反比例しそうだ 

'人間の五感を感じる、死を知る心にとって、

苦しみ とか 病 とかは 真実であるだろう。

でも、不滅の感覚をもつ実相の心には、

悪も死 も無いのだ。”

と覚者は言う。

 

”この不滅の実相の心は、

感覚からくる 誤りの想念はない。

怒りも悲しみも、ないから、破壊的要素はない。

破壊的要素がないから、病気も不幸もない。”

  

どんなに精巧な ロボットの眼から

涙がでることを見たことはない。

 

涙は 人の心 から出る。

夢の中で ハラハラしたり

喜んだり、興奮したり、うきうきしたりする。

神経が眠っていても、十分、傷みを感じることも有る。

他者をコントロールしようとする人の

心は唯物的な心といえるが、

結局のところ、存在しない。

存在しないというのは、永久的ではないということ。

あの世に持ち越せないし、その権力意識を

はぎ取ったら、その人には何も残っていない。

 

だから、支配力の強い人間も 結果的には存在しない。

あの世には 支配する という概念は無いだろう。

そういう人にも、涙する時があるのなら、

その人には 心 があるということだ。

心があれば、必ず、心の空点、

実相があるはずだ。

だから、どんな人も、結局は最後

一緒になって、笑いあい、ともに

手をとりあうのだと、信じている。

それが あの世のことか

何世代も後の人生の中での

一コマか、それは知る由もないが・・・

何が ほんとうに 存在するのか?

実存するもの、

究極なもの、

変わらない不滅なもの、

一体何なのだろう?

 

夢の中で”今、夢を見ているんだ” と 

寝ながら 認識しているときがある。

そして、今生きている自分自身、

日常生活の中で、

これは 夢の事なんだ

と思っているときがある。

 

それでも、辛いときはつらいし、

悔しいときはくやしいし

残念なときは、残念だ。

その マイナス感情を 

”今、夢なんだ” と思いながら

マイナス感情におぼれない、

あるいは、執着しないように見ている

もう一人の自分もいる。

”善いことを見て、善いことを聞いて、善いこと口にする”

ようにこころがけよう、と、もう一人の自分が言う。

 

こうして、生きていることも、生かされていること。

生かされているだけでも、儲けもの ~ と言ったのは

明石やサンマ師匠だったとか?

 

そう思えれば、生きているだけで

有り難いと思えるし、生かされていることは、善きこと と 

理解(知るではなくて)できるだろう。

 

これは明言だ。

 

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ブログ満一歳を迎えて:皆様へ

2013年08月18日 | 協会ホームページ

投稿:明日以降は一日おきに    平成25年8月18日

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お盆も過ぎ、ようやく 少し 

秋の気配のする

気持ちの良い涼しげな風を

朝の早いひと時だけ、感じる

ことができる、今日この頃です。

 

さて、自然治癒力セラピー協会、正式名 

Spontaneous Healing Therapy Japan

のブログも、昨日、8月17日で お陰様で

満一年を迎えました。

 

一年間、毎日休むことなく、ブログを

更新させていただくことができました。

皆様からの 見えない 聞こえない、でも 

あたたかい、応援があったからこそ、

励ましのエールが、しっかり、私の心に届いて、

こうして、一年間、書き続けてこられてのだと

思います。

感謝です。

本日から、2年目に入りますが、明日以降は、

8月19日、21日、23日、25日・・・というように、

暫くは、一日置きに、ブログ更新させていただこうと

思います。

よろしくご了承くださいませ。

 

もう一つ、お知らせがあります。

 

秀真伝えの完訳版 に関してです。

今年4月ごろと当初発表させていただき

ましたが、まだ、発刊にいたっていません。

状況としては、思ったより、

壐(おしで)=ほつま文字 の推敲や、

大約、対訳、補注、目次 などの

見直しに 時間がかかり、

予定以上に 出版が、

長引いております。

 

今年中には 完成予定です。

 

ブログを開いていただいた方の

ブログの窓口検索を通して、

以前 何件か間接的な

お問い合わせがあったので、

この場を借りて

お知らせさせていただきます。

 

それでは、これからも

引き続き、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

              

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癒しは自らの内から来る。

2013年08月17日 | 健康と直結する”一元論”について

大師・エディ夫人・キリストの癒し共通点  平成25年8月17日

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アートマセラピーでも、クリスチャンサイアンスでも

野口整体の開祖 野口氏でも、アユールヴェーダの真髄でも、

内科医の内田医師の生理学に対する考え方でも

根本に ”癒しの共通点” があるように思える。

それが何かといえば、いわゆる、心と身体 とは 切り離して

考えることは難しいという、心身一如 の考え方だろう。

心の状況は 身体に影響し、身体の状況は、心に影響を与える

鏡のような 関係と言い換えることができるかもしれない

さらに 歴史をさかのぼり

門戸を広げて考えれば、一般に、奇蹟 として

受け入れられている癒し(例えば、キリストや、聖者達が行った)

や 善き宗教において 信者の語る癒しの奇蹟も、

ある意味、心身一如 の観方で、説明ができそうだ。

心が変われば、体に何らかの変化が起きる。

イワシの頭も信心~というような言葉があるように

イワシの頭も有り難いと拝めば 輝いて尊く見えるように、

私たちの 信念 が 肉体の状況を変えることもある。

”芥子種 ほどの 信仰 があれば、山をも動かすことが

できる~”と 聖書に書かれているように、

私たちの 信念 が、健康を左右するというのが、

形而上(けいじじょう)的癒しの考え方である。

 

言い換えれば、

物質的自分”が ”霊的自分” の実相に連なったとき、

健康面のみならず、いろいろな局面で大きな変化が

みられることになるだろう。

そうはいっても、理屈はそうかもしれないと 

思っても、それを実行に移す となると、

容易ではないだろう。

 

私たちは、常識 良識 社会的観方 歴史的観方 などの 

外部の価値基準を無視して 社会生活を送ることは

なかなかできない。

それらの、観方は、一般社会の、基礎的共通価値判断だから、

”霊的な 形而上的考え方”は その常識と

相克するように 見えるからだ。

 私たちは、そういう教育を受けてきているし、

健康面で、いろいろ注意するよう教えられた事柄、

衛生的、病理学的常識、が 逆に、私たちを

縛る。 そのために、こうしなければ

こうなるという恐れとともに、生きているといっても

いいだろう。

天災人災事故の恐怖とともに、わたしたちは

こうした知識によって、潜在意識に

恐れを 造りだし 積み重ねている。

エディ夫人は以下のように、それについて こう意見する:

”The hypotheses of mortals are antagonistic

to Science and cannot mix with it.

This is clear to those who heal the sick on the

basis of Science.

Mind's governent of the body must supersede the 

so called laws of matter.

Obedience to material law prevents full obedience to

spiritual law, - the law wihch overcomes material 

conditions and puts matter under the feet of Mind.

Mortals entreat the divine Mind to heal the sick,

and forthwith shut out the aid of Mind to heal

the sick, and forthwith shut out the aid of Mind

by using material means, thus working against

themselves and their prayers and denying man's

God given ability to demonstrate Mind's sacred 

power. Pleas for drugs and laws of health 

come from some sad incident, or else from ignorance of 

Christian Science and its transcendent  power." (182) 

 

セラピー協会訳)

物質的(*1)な人が たてる仮説は 

クリスチャンサイアンスと相反し

まじりあうことはない。

補足:(*1)この場合の”物質的な人”というのは

上記に述べた 一般衛星知識によって、教育され

肉体を管理しようとする人たち。

 

このことは、クリスチャンサイアンスの主張に

基づいて治療する人(*2)には明らかなことである。

肉体に対する実相の心の支配は、

いわゆる物質の法則に とって代わる必要がある。

補足:(*2)この場合の”クリス~に基づいての治療”とは、

形而上的セラピーをさしている。 

けいじじょう的 というのは、”心と精神~霊性~によって、

物質はコントロールされる” という 実相哲学の同義的

表現。

 

なぜなら、物質的法則に服従することは、精神的霊的法則 を完全に

認めることの 妨げとなるからだ ― 

この精神的霊的法則の意味するところは、

物質的な状況を 実相の心のコントロール下に置くことをさす。

物質的な心 は、(病いになると)それを癒してほしいと、

真の聖なる実相心に 願い出る。(*3)

 

そのあとで、すぐ、残念な状況下、物質的方法を取る。

こうして、自分の真の心の力に逆らい、

その(クリスチャンサイアンス)究極の助けであるとことの、

(transcendent power=神性復帰の力)を

無視することになる。

補足:(*3)では、物質的な心、即ち、肉体が自分であると

みなしている意識は、自分の本当の心(神聖)に対して

病気が完治したいことを伝えるが、真の心 に任せる

ことができず、即効性ある、薬や物質的療法 に頼ることになる。

その習慣が、神性復帰 という機会を逃すことになると夫人はいう。

 

一般に私たちの 世間的常識では 

病気 は 自己の内在する力(自然治癒)の届かない範疇にある。

ましてや、霊的神性変化 とか自己霊的革新 とか、

自己の実相顕現 とか、そのような神がかった 観念的言葉は、

意味不明であり、科学的でないと、切り捨てられるだろう。

  

それは、言い換えれば、私たちに、”全能な力” が 

もしあったとしても現実的には、無力であり、病気の場合も、その例に

もれないということを 認めることである。(*4)

補足(*4):

まさに 先回のシリーズ、エミール大師調査団

の報告にもあったように、

印度の大師たちは 私たちに ”全能な”力

があるのにもかかわらず、知らずのうちに、

自己規制をしき、その力を自覚せず、

使いこなしていないのが 現代人の姿だ

と 言っている。

 

エディ夫人のコトバを借りれば、究極の癒し を 望むのなら、

”唯一の 在って在るべき力、

 私たちの実相、(Spiritual Mind) 

 不調和の法則を造りだす と仮定するだけでも間違いである”

と言い、以下の 例を挙げている。

 

 

”We say man suffers from the effects of cold, 

heat, fatigue.

This is huann belief, not the truth of being,

for matter cannot suffer.

Mortal mind alone suffers, - not because a

law of matter has been transgressed, but because 

a law of this so-called mind has been disobeyed.

I have demonstrated this as a rule of divine Science

by destroying the delusion of suffering from what 

is termed a fatally broken physical law." (184) 

 

セラピー協会訳)

人は寒さ・暑さ・疲労に影響され苦しむ。

これは、人の信念の顕れであって、実存の原理ではない、

というのも、物質(肉体)は苦しみを 本来感じないからだ。

 

人間の物質的(に影響される)心のみが 苦しいと感じる、

ーそれは、物質の法則が破られたのでなく、いわゆる

心の法則が守られなかったからだ。

このことは クリスチャンサイアンスの法則で こうした

人の持つ幻想的物質的信念を打ち破ることで

それらが迷妄であることを実証してきた。”

の実例として、

”自分は東風が吹くと呼吸が苦しくなる”

という信念を持った 肺結核の患者を夫人がセラピーしたとき、

静かに深く呼吸が整ったところで、風見鶏を見せて東風が吹いている

ことをその患者の五官で認識させた。

 

すると、患者の信念が崩れたのと同時に、

結核症状もそれ以来、消えてしまったという

実例を挙げている。

風と自分の結核に対する患者の信念が変わることで

呼吸困難が治ったのだとエディ夫人は述べている。

つまり、エディ夫人の何かでもなく、風 そのものでもなく、

形而上的セラピーが 肺の機能を左右させていた

信念を変え、信念が変わることで、もともと完全体である

肺の機能を 患者自らが、復活させたと エディ夫人は 言う。 

参考)

 Science and Health With Key to the Scriptures by Mary Baker Eddy

 published by The First Church of Christ, Scientest,

 in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition

 

 

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手の平で生まれたての蝉の写真

2013年08月16日 | 健康のための心の波動

脱皮・飛翔・蝉一考 平成25年8月16日

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真夏の風物詩 蝉~ 

我が家の周りでは今年も、楽しく嬉しく切なく元気な蝉の大合唱 が

 聞かれる季節になりました。

今月に入って 玄関の訪問ベルが なっても、聞こえないほど 蝉の声

はち切れそうな鶴川の森です。

 

色々な種類があるのですね。昨今、カナカナ(日暮)やツクツクぼうし

だけでなく、アブラゼミ や ニイニイゼミ、みんみんゼミなど さまざまな

蝉の声 を 聞き分けようと、時々、耳を 澄まします。

 

 生まれたての蝉

 

さて、先日、 私の手のひら で この子(上)が、固い殻を脱ぎ捨てて、

地上服に衣替えをしました。

生まれたての 羽 は ご覧のように、ウスバカゲロウのように透明で 

青緑色がほんのわずかに 交じってます。

 

その羽は、羽衣のように 繊細で 触ると壊れそうな 薄紙のようです。

 


 

たまたま、明け方近く、公園を散歩していたら足元に、地面から地上に出てきたばかりの蝉の赤ちゃん(寿命を考えた

ら もう、おじいちゃんかも?)が 蟻たちに 囲まれてました。 脱皮が中途半端、羽もでておらず、ほとんど 

殻のまま 動いているが動いていないかのような状況。

これは ほかの虫たちの、餌食になってしまうかも~と手のひらに救い上げ

自宅に持って帰りました。

 

 

4時半に見つけて、すっかり、殻 から抜け出るまで2時間ほど、かかりました。

最終段階 は へその緒のような糸 からの脱却でした。

それは、釣り糸のように透明で、蜘蛛の糸 のように細い 糸。 

殻 と 蝉の本体をしっかりと、つなぎ合わせていました

 

 

蝉は、30分以上、ゆっくり、右往左往と動いて、その糸からの、

完全脱皮を試みていました。 

まるで へその緒のよう・・・だと思いました。

 

自然の智慧が付いているので へんに 手助けのつもりで、

加圧しても良くないと思い、時を待ちました。

 

そうして、彼は、出てきたものの、後ろ足がまだ 縮こまって力が

入らないのか、コロン と 手の中で、仰向けに

転がる始末。

 

 

網戸 に つかまらせてさらに 数時間たつと、 透明な羽が次第に 

色づいてきました。セロファンのように 危うく、脆い 感じだった羽に

飛ぶに足る、空気の抵抗に負けないだけの力強さが みなぎってきました。

 

そうして、大空に飛んでいきました。

 

 

 

その数日前には、お祭りがあり、子どもたちが 公園で花火を楽しんだの

でしょうか?

翌日の朝の公園は その 花火の燃えカスとともに、羽が黒く 焦げて 

飛べずに、転がっている蝉やそのまま、蟻(あり)たちの餌食になった、

蝉たちを 何匹か見かけて、心が痛みました。

 

今朝は 坊やが ” じじ、ここにもいるよ!”と 大きな声で、

おじいちゃんを呼んでいました。

片手には、ビニール袋

に沢山の蝉をいれて、アミトリで 背伸びしながら、おじいちゃんと一緒に、

木に止まっている蝉を取っていました。

 

ほほえましい 光景の一コマ、でも。あの、ビニールの袋の 蝉たちは

あれからどうなったのか・・・と

ちょっと、気になりました。

 

以下のブログ記事(去年9月)を もう読まれた方がいるでしょう・・

去年書いた 蝉の詩 です。

今年は 少し それを アレンジ してみました。同じ鳴き声でも 

心が変わると、違って聞こえるものですね。

  

”オーシンツクツク ” オーシンツクツク オーシンヨー オレシイヨウレシイヨ:ツ~~”

 

ミ^ンミ^ンジ~~~ジ~ンミ~ン meen meen meen mi~~~”

 

元気な蝉たちが 4時15分の日の出とともにうたい始めます。

彼らは、何年も地下で過ごし、地上に出てきて 一週間ほどで 

その一生を終えるのです。

 

最期まで 鳴き尽くせる 蝉 は幸いだ。脱皮途中で 力尽きる子、

野鳥に 狙われて食べられてしまう子、

虫かごに 入れられてしまう子、この世に出てきても 鳴き尽くせない

うちに余命を閉じる。

”種族を残すために残されたわずかなひと時を尋常でないエネルギーを

使って”なき”つくす。

”その鳴き声が私には、高揚した ”臨場感 と はかなさ の協奏曲”

のように聞こえる。 だから、”泣” いているように聞こえてしかたがない。”

 

と去年の夏は 書きました。今年は、そう、思う反面あの歌声は 

きっと、”儚さの協奏曲” というより悦びの凱旋の歌 かもしれないと 

感じてきたのです。

 

地下の 闇の世界 から地上の 光の世界 に上り、脱皮して、さらに、

三次元の天空へと舞い上がる。 

蝉の人生は異空間から異次元への”上昇の一生”だ。 

 

日暮らしは 涼しい空気に誘われて鳴いている。早朝の一瞬、そして、

それから、終日の強い日差しの中で、沈黙して日が沈む前の ひととき、

声をだす。 

その日を 生きていた証のために。

 

”泣く” のではなく、”啼い” ているのだ。 自分に残されたわずかな時間を 

静かに受け止めて、黄昏の中で、 味わい尽くすように:

 

かなかなかなかなかな・・・・・・おもわず、人の命と重ね合わせる。

日暮し蝉の歌は、 切なくも、美しい。

私たちは最期の最後まで、かれらのように歌い続けられるのだろうか?

鳴くき尽くせるのだろうか?

 

これは去年の感慨。今年の私の感慨は以下のよう・・”はてはて、自分 

は まだ 何かを恐れていないだろうか?

慣れて楽な この生活から新しい環境の地上に出て闘うことを恐れて、

まだ 惰眠をむさぼろうとしているのではないだろうか?

暗闇を 妥協して 冒険と隣り合わせの明るさを躊躇していないだろうか?

 

光り に向かって、地上に昇る覚悟はついたのだろうか?そして、

光りの中で 飛翔するための脱皮をする準備はできたのだろうか?

光りの中でたった7日間の 短いときを光りと一体になった生命を謳

歌しながら、精一杯の力を出し尽くせた満足感で悦びの歌をうたいながら

死を 迎えることができるのだろうか?

 

やはり、あの歌声は だからこそ、悦びの 凱旋 の歌、人生の勝利の歌

に聞こえるのだろう。・・・・と

”最後まで歌い尽くせる”(去年の感慨) かを心配するより、まず、脱皮

ができるか~の現実をみつめよう・・・・

 

それが、今年の私の感慨です。

 

     

                          

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先祖霊へ・新たな誕生

2013年08月15日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

子宮を選択する真言   平成25年8月15日

***********************************************

 

 自然風景無料写真 に対する画像結果

一昨日に引き続いて、

幽界のご先祖様が

新たな生命を取得するための 

密教の祈り を”チベット死者の書” より、

ご紹介したい。

この話題と、自然治癒力とどういう関係のあるかと

首をかしげる方もおられるだろう。

 

アートマ という梵語は、私たちの

実相を 意味している。

同義語として、”空” あるいは、

Reality” という英訳語で 

チベット死者の書 では 使われている。 

どんな状況下におかれても 実相を、

想いだすこと、そのことは、

次の新しい母胎を探すときには

不可欠な要素であると、

チベット密教でいう。

 

さらに、出生に関しては、偶然に生まれる

のではなく、自らの意識で選択して

きたということが 前提となっていることがわかる。

 

自然治癒力もアートマ から 発するという点では、

今日の話題と、大いに関係があると思う。

    

チベット死者の書より

 

このマントラ(真言)を唱える人は以下のように

念じる。

” これから 深い真理が述べられる。

導きの光りとともに、あなたの御魂(みたま)が 

しかるべきふさわしいし子宮を選び、

生まれる肉体の形成にはいっていくことを受容したまえ”

 

 さらに、念じる者は 先祖の霊が、新たに

誕生を迎えようとしている、ヴィジョンを心に描く。

そして、 先祖の御魂に語りかける。

 

”今や、誕生の兆しと特徴が表れてきます。

それを 認識し、誕生の場所を観察して、大陸を選択したまえ。

 

’東方のルーパの大陸’に生まれるのなら(*1)そこに浮かんでいる、

雄雌の白鳥で飾られた湖がみえるだろう。

 

補足)*1

*1 の大陸は 須弥山(しゅみせん)と呼ばれる

仏教でいう宇宙の中心にある山の周囲をめぐる

4つの大陸の一つ。

ヴィデーハとも呼ばれる。

ちなみに、私たちの住んでいる現象世界は、

ジャンブドウヴィーパ大陸といわれている。

 

そこへは 行かないように。なぜなら そこへ行けば、

その大陸は至福と安楽は約束されているものの、

信仰が栄えてはいないから(心の安寧は得られない)。

 

もし、御魂が地獄界に生まれるはずならば、

邪悪なカルマのために、号泣するような歌が聞こえるでしょう。

抵抗がきかず、その中へと 入り込むよう強いられる。

陰気な土地、黒い家、白い屋根、地上に黒い穴や黒い道・・・。

そこでは、熱と寒さの耐え難い苦痛を受け、

底から出るためには果てしない時間が必要となります。

だから、そこへは、最大のエネルギーの

抵抗を試みて、決して入ってはなりません。” 

 

生まれからわりの場所を求めて放浪する過程で、先祖の霊魂は

さまざまな 苦しめる憤怒の邪霊に道を邪魔され、さまたげられるだろう、 

と チベット密教では信じられている。

 

そこで、次の真言を送って、御魂が迷わないようする必要がでてくるという。

 

 ”もし、業の深い苦しめる憤怒の邪霊に

追跡されたなら、思わず、彷徨し続けざるを得なくなるでしょう。

 

先頭にいる邪霊、生命の殺し屋は暗黒とカルマの旋風の中、

騒音と雪と雨の混じる中、恐ろしい

雹(ひょう)や嵐と冷たい突風とともに現れ、御魂を追い込めるでしょう。

そして、逃れようとする 私(御魂)は、

地獄界や好ましくないところへ身を隠し保護を求めようとするのです。

 

そこへは行かないでください。

そこへ行ったならば、子宮の扉はとじられ

大きな館や岩、土でできた洞窟、ジャングルや

ハスの花などのヴィジョンが開けるでしょう。

 

恐れからそこから離れたくないと そしてそこにいつまでも 留まりたいと願う。

出ていけば バルドの畏怖や恐怖が待っていると思う。

でも、そのために、望ましくない肉体を受け、

多くの苦痛を与えられることになるのです。

この時のために、深淵な教えがあります。どうぞ、お聞きください。

それを お心に留めてください。”

 

こうして、

その深淵なる教えの真言が唱えられる。

 

”苦しめる憤怒の邪霊が襲い掛かるとき巨大な姿になり、

激怒した様相で、それらの有害な想念や波動体である 邪霊が 

無なる屑 に還元していく様 を 心に描き、

想念して、勇気をもって立ち向かってください。”

 

念じれば、想念すれば、現象界と違い、時間が

ないだけに、その 念じた姿 にたちどころに

変化することができるという 幽界の法則がある。

 

そのような力を有効に利用できるために、

日頃から、私たちも、真の智慧 を養う

ことが必要だと 死者の書で 述べている。

 

”このとき、もし、御魂が、空(くう)=[須田注;物事事象人間の本質) 

それに関する 無上の教え(般若=バンニャー)

を想いだすことができればそれが最良です。

 

もし、御魂が それをまだ 修得してなければせめて、すべての現象を 

幻覚(マーヤ)として理解できるように、人として生きているとき

心霊の力を強化して起くべきでした”

 

もし、迷妄であると考えることが 不可能だとしたら・・・

何かに 魅惑されないよう、心がけ守護神や 無上の慈悲の仏

に それらの真理を瞑想することにより、

自分の実相に近づくことができるでしょう”

 

其の後に、チベット死者の書 では、

極楽浄土へ転移する方法や 人間界への帰還方法が説かれる。

次の機会に また、お話しさせていただきたい。

続く・・・

                                                                                

参考)

バルド・ソドル (Bardo Thodol)  おおえ まさのり 訳  講談社 S56 

 

 

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