transform の意味 平成25年8月21日
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形而上的療法を明確に説明するにあたり、
エディ夫人は次のような辛辣なコメントを
紹介している。
”医師会に敬意を表して、わたしは フィラデルフィア
の有名な治療医学の教師、ベンジャミン・ラッシュ博士
の言葉を好意的に引用する。
彼は次のように引用したのである。
”ヒポクラテスが、最初に天地万物に自分の名をつけ、
あとで それを病む人々にばらまいたことは、どれほど
の悪戯であったか、はかり知らない。’
ハーバード大学教授、ベンジャミン・ウオーターハウス
博士は彼自ら 学識者によるいかさま療治には、嫌気が
射していると 明言した。
イギリスの王、ウィリアム四世の外科医、ジェームズ・
ジョンソン博士は次のように言った。
”私は、長年にわたる観察と熟慮に基づいて、
私の良心的意見を述べるが、もし、この地球上に
一人の内科医 外科医 薬剤師 助産医 化学者 薬種商
あるいは 薬剤もなかったら、病気も死亡率も
ずっと少ないに違いない。’
ロンドンの博学な教授、メーソン・グッド博士は
次のように言った:
”人体組織に及ぼす医学の影響は、最高に不確かなものである。
ただいえることは、それが 戦争と疫病と飢餓をすべて
合わせたものよりさらに多くの人命を破壊してきたことである。’
ペンシルべニア大学医学研究所 並びに、臨床医学の
教授,チャップマン博士は、発表した論文の中で述べている:
”われわれの科学の記録を調べて、いろいろの場合に
私たちが押し付けられている、無数の仮説に全く
ウンザリする。
これ以上に、人の想像が誇示されているところはない、
そして、人の発明がこれほど、豊富に展示されている
のであるから、もし、これほどの不合理、矛盾、虚偽
に充ちた不面目な意見を帳消しにされて、
なお、あまりあるのでなければ、それは、私たちの虚栄心を
満足させたことであろう。
対立する医学上の学説を、一致させることは、私たちの
周囲に流れる気体を配置したり、自然の中で固定し、
反発する相容れない性質のものを和解させるのと
同じほどに、実行不可能な仕事である。
困惑した、曲折多い、私たちの生涯は ホーマーの
サイクロポスが 洞穴の中で手さぐりしているのに、
似ている。”と。”(162~3)
現代の医療は、エディ夫人の時代とは比較にならない
ほど発達を遂げている。
実証的証拠のない、これらの意見は、一方的で、
偏った意見として多くの読者がとらえるかもしれない。
ただ 現代と、エディ夫人の時代の間に、変わっていない
ものが 唯一あるとしたら、それは エディ夫人の
提唱する形而上的癒しの論理 かもしれない。
これは、今も昔も、私たちが精神的アプロ―チで病を
克服したときに働く力だと思う。
エディ夫人の形而上的癒し には 私たちが神の似姿
をもってして生まれてきたのだから、不完全さは
そこにはないという徹底した信念がある。
現代人に、神という、概念は、なくても、社会生活を
送ることができる。
多くの人たちは、神を、自分とはあまり縁のない、
特定の宗教界の概念と認識しているだろう。
神 は、はるか遠くに押しやられて、一日のうち、
株価や為替のレートを気にしても神を気にすることは、
まず、無いだろう。
その場合、神 を枠の中に制限して考えているから、
あるいは、日常の枠から外に考えているから、
遠くの存在に感じるのだろう。
前者の場合は、神を、特定枠に修めている。
~教の神、~教団の神、というように。組織の中にだけ、
神はいると思っている人たち。
後者の場合は、神は すべてに偏在しているエネルギー
だということを、知らないひとたち。
エネルギーは波動でもある。
神の、その波動に包まれると、幸せ感につつまれたり、
誰かにやさしい言葉をかけたくなったり、
穏やかな心で 勇気が湧いてくる。
私たちの日常生活の、プラスのエネルギーの源でも
あるかもしれない。
それゆえに、形而上的癒しが可能になる。
コトバ、想念、波動 が変われば、それがすべてに波動
として影響を与えるから、顕れている、現象も変わる。
体も変わる。
病の状況も変わる。
それを、神の奇蹟 という人もいるが実際は、
その人自身の中の 愛や調和 の 波動が真実の言葉(神)
の波動 と共鳴しただけに過ぎない。
エディ夫人も そのことを著書で繰り返し、述べている。
たとえば;
”The erring human mind is inharmonous in itself.
From It arises the inharmonious body.
To ignore God as of thrusting Him aside in
times of bodily trouble, and waiting for the
hour of strength in which to acknowledge Him,
we should learn that He can do all things for us
in sickness as in health." (166)
協会訳)
誤っている認識を持つ人は とかく、心が不調和である。
そこから、肉体的な不調和が生まれる。
体に 問題が或るときは 神 を脇に置いて無視し、
健康になったら、神を知ろうと その時を待っている。”
私たちは、一般に、あらゆる物質的療法手段を尽くして、
かなわないとなると、最期に神頼みをする。
しかし、その時点でその人は、物質的治療を第一義と
しているので、芯底、心から、神に祈りを捧げているか
といえば、そうとも言えない。
我々の神という言葉に対する抵抗感を、神へのアレルギー
と名付けてみた。
神という言葉自体に抵抗を感じ、神に祈る ことは、
弱い人間だけがする行為だと、考える人達。
あるいは、神を日常生活で、たびたび、口に出すことは、
狂信的な人と思う人たち。
神の資質が自分の生命に流れているということは
ファンタジーの世界という人たち。
こうして、神 という話題が出ただけで、このような
レッテルが貼られ、神アレルギーの人達は、聞く耳を閉ざす。
transformation という言葉をご存じだろうか。
日本語では適訳が思いつかない。
一般通念や観念を飛び越えて、非日常的 かつ、きわめて
自然な 新しい自己発見と、今の自分を飛び越えることを
意味した、スピリチュアル的な言葉として使う。
蝉が何度も transform するように私たちも、実は
人生、何度か、transform している。
そして、一番の大きな脱皮には真理の言葉 もしくは
神体験 が不可欠なのだと考えている。
真理の言葉(神)が自分の体の波動の中でとらえられた
とき、あるいは、心と体が一つであると体感認識した時、
トランスフォームが叶う。
そのとき、おのずから 病の人の、症状が変わっていく
現場に私は何度も遭遇している。
transform は、自己変革でもある。
神に対するアレルギーすら超越して、本来の自分への回帰・・・
現在進行形・・・今も、着々と、行われていることなのだ。
参考)
Science and Health With Key to the Scriptures
by Mary Baker Eddy
published by The First Church of Christ, Scientest,
in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition