クリシュナの言葉と、仏教的大覚者の話 平成25年8月11日
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“おお、グダーゲーシャ!
眠りの征服者、アルジュナよ!
私は すべての存在に宿る アートマである。
私は あらゆる存在の開始であり、
途中であり、終末である。“
ギータの言葉 第Ⅹ章 第20節 に書かれている
クリシュナの 言葉だ。
今日は、この言葉の行間の意味合いを考えてみたい。
ここで、クリシュナ は 自分を アートマであるといい、
総ての存在の中の実存であり、大我であり、存在物の
開始 中間 終わりであると言っている。
存在の開始は まだ目に見えないところから始まる。
種 を 考えてみると、アートマ的実在の意味が
わかりやすいと思う。
拙宅のベランダでは朝顔が満開だ。
花は今 咲いているが、実は、朝顔の 種中に、花 は
すでに ある。
種は これから成長していくすべてのプログラムを孕んで
生きている。
つまり、種に発芽から花が咲くまでのすべての情報とエネルギーが
埋め込まれている生命力が実在している。
発芽後、生長期 があり 種族を残す実をつけるために、花が咲く。
花をつけるために 葉っぱは 炭酸同化作用を行い、
根っこは 十分な栄養を土から 吸収し、枝は 蔓をつくりながら
太陽に向かって伸びて行く。
これらすべての働きは、すべての 植物の種 が 持っている、
共通した本能的力であり、言い換えれば、大生命の力にほかならない。
総てが完全に
大自然の営みとして計画され、想念(アイデア)
として 種の中に存在している。
この過程の中にある、命、言い換えれば、自らを生かす力、
生命力、その本体的資質を、別名、私たちは、アートマ
と呼び、誰もが持つ ”大我” とも言う。
アートマや本性は、仏教的に、”大覚” と言う人もいる。
大自然の本性 は、人に関してはその現れかたが、それぞれ、
異なり、多少複雑になる。
人 は 自由意思 あるからだ。
一方 感情想念 は 小我 に属する場合が
ほとんどだから、(悟っている人以外は)、感情の赴くまま
生きることが、必ずしも 幸せをもたらすとは言い難い。
その 小我 を アハムカーラ とサンスクリット語で呼ぶ。
アハムカーラの アハム は、もともとの意味は、
”万物が持つ自分 という意識”
に他ならない。
それが、身体 と同一化したとき、
つまり、自分の身体と自分は同一である と 思ったとき
”エゴ意識”になり、それをアハムカーラ と呼ぶ。
これは偽我であり、大我ではない。
真我ではなく、アートマ を隠す雲のようである。
私たちが 大覚 に なかなか至られないのは、
小我 の 心(mortal mind) を 誰でもが
持っているからだろう。
肉体に属するエゴ意識で、アートマを理解することが
なかなか、難しいようだ。
私たちの 大我 (アートマ) から最初に派生した音
は 仏教的には、阿(あ) いわれている。
仏教のみならず、言霊的にいえば、これは宇宙的真理
でもあり、キリスト教や、神道、などでも、これに
共通した考え方があるようだ。
(詳細は 拙ブログ ”阿吽の呼吸” 参照)
あ音 は ”創造の第一歩の音”、波動 でもあった。
英語で I といえば 私 の意味だが、
I と呼ぶ、 ”私” から 心(mortal~死にゆく~、
mind~心)を
取り去ったものが ”大我” になる。
”至高の実存” という難しい言葉はもっと、
簡単な喩で マハバラータに、次のように言い表されている。
マハバラータは、ギータと並ぶ、インド古典一大叙事詩。
悪魔と闘う 天使のような忠実な信奉者(ハヌマン)は
悪の存在の強さに溜息をつく。
すると、神は こう言って 励ます。
“落ち着いていなさい。
あの悪魔もいつかは 実存でないから 滅びるのです。
それはあなたの 口 で いえば、歯 は年を経れば、
抜けて落ちるが、あなたの 舌 がいつまでも口に
のこるように、
あなたは、最期は、舌 のように、残るでしょう。
悪魔たちは、歯のように、抜け落ちて、口から消える
でしょう。“
アートマは いうなれば 最後まで残る口の中の 舌
のようである~
とここで喩えられている。
私たちの 一般的にいう、心 の 想念や感情 は
結局 口の中の歯 のようなもので時を経れば、落ちて
なくなるのだから、それに 振り回される必要はないという
ことだろう。
それに執着できるエネルギーがあるのなら
最後まで残る 舌 へ、思考と心の面舵を転換させて
長期的な眼で、”今”を見つめることが、難をさりげなく
乗り越えるコツになるかもしれない。
写真はすべてクリシュナ神のイメージ、
ギータの主人公であり、
インド哲学宗教の根本的支柱と
なる 不二一元説の基盤を説く神様。