眞實と正義の定義 平成25年8月25日
**************************************
南インドのバンガロールから 車で3時間半走らせた小さな
プッタパルティの村に、サイババ師は生まれ、そこから基本的に
離れることなく一生を過ごされた。
1990年の夏、自ら創設した大学の生徒たちに 数日間にわたり、
ヴェーダ哲学の夏期講習会が開かれた。
その、実録講話記録が私の手元にある。
師は、ヴェーダについて、印度人の学生たちに、ご自身の詩
を カルナタカ語で、歌うように、唱えてから、本題に
はいるのが常だった。
以下 講話実録から、ご紹介したい。紫色の出だしの
”高山の天をも 摩する頂きに見えるものは、神の偉大さと
荘厳さと 壮大さである。
遠い森林と 広大な砂漠にあなたが見出すものは、
神の至高の静寂と平安である。
太陽と月と大空の無数の銀河系に発見するものは、
神の栄光と美しい輝きである。
地上を 彩る村、町、都会の住民に反映しているのは、
神の愛と創造性である。
この宇宙であなたが、巡り合うすべての美しいものは
あらゆる美の源泉である、聖なる主を思わせる
捧げものである。”
以下、講義部分)
カルナタカ州の詩人、マランマ は、神の遍在する 美 を
次のコトバで単純に、しかも、魅力的に表現しました。
”ハスの花は湖の飾り。家は村の飾り。月は空の飾り”
世界に あなたが観る美しいものは、すべて、あらゆる
美の唯一の根源である 聖なる主の反映でしかありません。
それ故にこそ、 ウパニシャッド[須田注:ヴェーダの中のカテゴリー)
は 神をサッティヤム、シヴァム、スンダラム(真善美)
と説明しました。
人間の飾りは マーナヴァターム(人間の神性)です。
このマーナヴァタームは 人間社会に不可欠です。
その人が 高名な学者であっても、優れた科学者
であっても、偉大な政治家であっても、真の人間性
の開発は、すべての人にとって、最も大事なものです。
社会、州、国家、の発展は、マーナヴァダーム すなわち
人間の 精神的位階の発達に比例します。
すなわち、真の人間性が失われるならば、社会と国の
名誉も失われるでしょう。
人間の名誉は、その徳性 と 誠実さによって、決まります。
人間性を育てることは今日の学生にとって、もっとも
不可欠のものです。
人間的価値は 霊的な環境において、進歩し栄えるものです。
種子を 土に植えて、規則的に灌水すると、種子は発芽して、
良い実を結ぶ木に生長します。
その代り、種子をブリキ缶に入れておいて、水をやるのなら、
それは 腐って死ぬだけです。
同じように、徳性と高潔さ は 人間の心に栄えることが
できます。
徳性は人格と行動の成です。
徳性は、人間をより高いレベルに向上させます。
太古から、インドはその霊的な富を、世界の他の国々
と分かち合い、世界中に、徳性と高潔のメッセージ
を広めていきました。
徳性と高潔のみが、真の真実永遠の社(やしろ)です。
徳性が存在しなければ、人類は破滅するでしょう。
今日 我が国 と世界の最高の必要は、道義 を
求めています。
あらゆる、場所、あらゆる状況において、道義を守る
ことはきわめて必要です
徳性は 諸感覚の統御 によって、達成されます。
自分自身を統御できる人だけが 他の人たちを統御できます。
自己規制ができないものが、どうして、他人に規律を
強いることができるでしょうか。
自分の言葉と行動の間に 調和ある場合のみ、人間は
自分の人生で偉大なことを成就できるのです。
人が、自分の説教することを実践するのなら、
その人は ふつうの人間ではなく、マハトマ(偉人)
である。
人があることをいい、別のことを行うのならその人は
人間ではなく、動物に過ぎない。
現代社会では、言葉と行為のあいだに、一致がありません。
コトバと行為の間に調和があるなら、それはサッティヤム
(真実)です。
想念と言葉と行動の間に調和があるのなら、それは
リタム(正義)と言われます。
今日の学生は 感覚のコントロールが何たるか知りません。
これは サミヤマ(自己制御)です。
人間だけが このサミヤマを行うことができます。
人間は感覚を野放しにすることによって、その神性を失って
います。
感覚器官の制御 はサンスクリットで ダマム と
呼ばれています。
ダマムを達成した人は ダーンタ と呼ばれます。
私たちが、今の世界に必要としているのはダントゥル、
すなわち、感覚器官を制御している人々であって、
ヴェーダントゥル、すなわち ヴェーダに精通している
人ではありません。
こんにち、ヴェーダンタ哲学は雄弁と、誇示に限られて
います。
ヴェーダンタの実践は衰微しています。
それゆえ、アーナンダ[至福)が、稀にしか味わえないのも
不思議でありません。