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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 17.2.2.教皇権 確保の試み

2010年04月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
教皇権 確保の試み

 聖ピオ十世会会員たちの入籍に関する問題を解決するに当たり、創立者は間もなく、聖ピオ十世会それ自体への聖職者たちの入籍を可能にする教皇権の獲得のために、ローマの省庁との交渉を始めた。彼は、修道者聖省(the Sacred Congregation for Religious and Secular Institutes:現在の奉献・使徒的生活会省)だけではなく、聖ピオ十世会の使徒職には一切のテリトリー的な制限がないという理由で布教聖省と、そして司祭の使徒職を支援し、聖職者の任地配属の均衡を保つために設立された団体として聖職者聖省などの管轄内に置かれるという形態をとる聖ピオ十世会を想定していた。

 先ごろ、聖職者聖省は、(リヨンの)プラド司祭会のような誓願宣立のないいくつかの司祭会の監督をと要求して来た。

 大司教は言った:「この計画は目下のところ調査中ですが、修道者聖省はそれをためらっているようです。」

 1971年2月に、彼は聖職者聖省に対して聖ピオ十世会のために申請を立てた。当聖省秘書のパラッツィーニ大司教は彼に対し好意的で、役に立つ忠告を与えてくれた。それから2月11日、ルフェーブル大司教はローマから聖職者聖省長官ジョン・ライト(John Wright)枢機卿宛に聖ピオ十世会を紹介する手紙を書き、“司祭叙階候補者たちを呼ぶ権限”と、聖ピオ十世会を推薦する手紙を依頼した。この枢機卿は、おそらくパラッツィーニ自身によって書かれたものであろうが、ライトとパラッツィーニの2月18日付けの署名を添えて、依頼されていた推薦状を彼に渡した。この手紙の中では、世界中いたる所への聖職者の配属を担当するこの省庁(ここでは聖職者聖省)の計画実現に、大きな支援を差し伸べる事が出来ると言及し、“聖ピオ十世会を治めるサピエンテス・ノルメ”つまり「聡明な諸会則」が称賛されている。

 しかし、ライト枢機卿は、聖職者の聖ピオ十世会入籍に関しての言及を一切しなかった。大司教は再度試みた。それは5月11日のことであり、ライト枢機卿と会見した彼は、“聖ピオ十世会入籍の特権”を口頭で依頼する。二日後再びその依頼を書面で繰り返した。

 5月15日のこのポルポラート(porporato=緋の衣を着た男=枢機卿)からの返事は、「今までやって来たように、いくつかの司教区に会員を入籍させ続けなさい」であった。そんなことにはへこたれない! 1971年11月に大司教は再度試みる。ライト枢機卿は彼と会うと激励した。

「大司教様、あなたがなさっている仕事は、現在、カトリック教会における最重要計画の一つです。」

 1972年2月11日の手紙の中で、大司教は再び念を押して、事は素早く進展していることや、自分にはシオンとアオスト(Aoste)の司教たちからの支持があることなどを伝えた。

 これら一連の道程は、普通ではなかった。教会法によればピア・ウニオを設立した司教区のマミ司教こそ、ピア・ウニオ所属聖職者の暫定的入籍のその全ての責任を負うべきだったのだ。

 パラッツィーニ大司教は、フリブールの司教の強い反対を知っていたので、1972年3月10日、聖ピオ十世会の神学校創立を受け入れたシオンの司教に手紙を書いて聖ピオ十世会への教皇権授与についての彼の意見を尋ねた。3月18日と、さらに4月15日の二度に渡り、ネストール・アダムは、大司教の依頼を温かく後押しした。

 実際には、シオンの司教にとって、ローマ直轄の聖ピオ十世会とその神学校を見ることに不満はなかったであろう。1971年の9月7日、スイスのロマンス語圏での使徒職に携わるグループの18名の司祭と2名の修道士たちがヴァレー州のモンタナで会合し教育聖省長官のガロンヌ(Garonne)枢機卿に手紙を書いた。彼らはエコンの神学校についての不平を伝えた。

「隣接する諸教区内で完璧主義の種をまき、聖職者たちの間では分裂を、そして信徒たちの間では不穏な状態を作ろうとしています。」

 自らもその一員であった司教会議の会議中、アダム司教はローマでライト枢機卿と会い、“このゲリラ攻撃”に対してルフェーブル大司教を勇敢に弁護した。しかし、司教は、ガブリエル・ガロンヌと会うようにとマルセル・ルフェーブルにしきりに要求した。

 1971年11月22日、“とても親切な”ガロンヌ枢機卿は、サンタ・キアラ出身で、神学生時代の同僚と会見したのだが、彼はただ、自分がその長である省庁(聖職者聖省)により発行された司祭養成のためのラツィオ・フンダメンターリス(the Ratio fundamentalis=基本理念)をどのように実行しているのかについて尋ねただけであった。

 ルフェーブル大司教は、「枢機卿閣下、おそらく御省庁の規範に従っているのは、私たちだけです!」と言う事が出来た。

 この会談の後、ガロンヌは、エコンでの“生活、発展、さらに、教育学的及び教義的な傾向をよく見守る”義務をネストール・アダムに確認した。

 この段階では、マミ司教の沈黙と進歩的スイス人聖職者からの反対にも拘わらず、聖職者聖省へのルフェーブル大司教の接触は、1972年4月には教皇権獲得へと向かう途上にあった、ローマにとって、ピア・ウニオと神学校の存在には問題がないと言えるだろう。

 その時である、アメリカ合衆国在住の、いざこざを巻き起こす一人の報道記者ヒューゴ・マリア・ケルナー(Hugo-Maria Kellner)氏が、ライト枢機卿宛に手紙を書いて「潰して」しまった、

「聖職者聖省がルフェーブル大司教の神学校を支援しているのは本当ですか?しかし、彼は教会法の規則を尊重しませんし、あなたの所に行ったのも、他の省庁の方針が気に入らないからです!」

 これにライトは怒り、大司教に対する支持を差し控えてしまった。

 それに怯むことなく、ルフェーブル大司教は、当時まだ顧問役を務めていた布教聖省に赴いた。聖ピオ十世会にとって、“司祭職が非常に危険に晒されているか、でなければ、放棄されている、アフリカや南アメリカなどに見られるような地域において”その使徒職を遂行することは可能である事を彼は説明した。私たちが見てきた様に、当該諸国における聖ピオ十世会による使徒職の将来性は確かに存在していた。それにもかかわらず、布教聖省長官アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)枢機卿は、当布教聖省には権限がないと説明した。

 ロッシ枢機卿による責任逃れの回答が遅れたことにより、11月6日、ついに大司教は、修道者聖省とそのアントニウッティ枢機卿に---これこそまさに権限を有している聖省ではなかろうか!---に向かった。ところが、残念にもイルデブランド・アントニウッティはこの最後となる依頼に決して答えなかった。そして1974年8月1日、長官職に就いたままで亡くなったのだった。

 こうして、聖ピオ十世会は教皇権を獲得できなかった。ルフェーブル大司教は諦めた。マミ司教は黙っているのか?残念!少なくとも、アダム司教は、時々エコンの神学校を訪問した。アダム司教は、2度ほどエピネ神父によってそこに連れてきたが、エピネ神父はアダム司教の口から溢れ出たという賞賛をその耳で聞いた。

「うわあ!すばらしいですね、これは大仕事ですよ。これを見ることが出来て非常に嬉しく思います。」

 しかし残念ながら、彼の肯定的態度も、間もなく、フランス司教らの扇動によって動かされたローマからの圧力によって粉砕されてしまう。


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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