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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 17.4.4.パウロ六世への謁見

2010年04月20日 | ルフェーブル大司教の伝記
パウロ六世への謁見

 「もしも教皇聖下が私に謁見の機会を下さるなら. . . . 」
 しかし、全く思いがけない事にブサンソンでのミサの後、ドン・ドメニコ・ラベッラルテ(Don Domenico Labellarte)神父が近寄ってきたとき、ルフェーブル大司教はこの謁見の可能性を信じていなかった。

 このイタリア人司祭は、フラスネ(Frasne)近郊に住むアルベルティーニ・デ・ブッタフォコ伯爵(Count Albertini de Buttafoco)のアンジェリーネ婦人を介して、教皇の私的な友人であるキエティ (Chieti) の大司教から送られており、ルフェーブル大司教にこう保証した。

「何かが変わりました。あなたは謁見が出来ます。キエティの大司教が、あなたの教皇聖下への謁見の責任を引き受けてくれます。」

 大司教は承諾し、ドミニコ会修道女たちによりその訪問が期待されていたファンジョ(Fanjeaux)訪問の後、運転手のマルセル・ペドゥローニによってアルバノまで行った。そこで予期せぬ事が起きた。マルセル・ルフェーブルが、謁見を求める簡略な懇願書を書いたのだ。

「私はカトリック教会に反対して行動するつもりなど御座いませんし、まして聖下を傷つける事などはことさら考えてもおりません。もし私が発した何らかの発言、あるいは文書が聖下を傷つけてしまったのでしたら申し訳ないと思っております。」

 パウロ六世は動揺して、国務聖省長官ヴィヨ枢機卿に電話をかけた。枢機卿は、感じやすいパウロがルフェーブル大司教に対して譲歩するままになるのではないかと恐れた。通話の終わりに枢機卿は言い張った。
「立会人もなく、聖下はルフェーブル大司教に謁見を賜ることなど出来ません。聖下は立会人が必要です。ベネッリをお選びください。」

 1976年9月11日の人気のないカステル・ガンドルフォ内で、午前10時30分にルフェーブル大司教はパウロ六世から謁見を賜った。べネッリ大司教は既に教皇の事務所に待機していた。彼は一言も発する事なく、ルフェーブル以上にただモンティーニつまりパウロ六世を監視していた。

 「あなたは私を非難していますね。」パウロ六世が苛立って口火を切った。「私が近代主義者であるとか、プロテスタントだとか。これには我慢できません!あなたは悪しき業をしています。」

 ルフェーブル大司教は、教皇聖下が個人攻撃を受けていると思っているのだと感じた。

 パウロ六世は自分の言いたいことを言い終えてこう言った。
「ではあなたの番です。話しなさい。」

「教皇聖下、私は“聖伝主義者の指導者”などではなく、むしろ多くの信徒や司祭ら同様に信仰を守り、さらにまた聖下への服従を望みつつも引き裂かれている一司教であります。現在私たちは、公会議以降に採られた方針が、私たちを聖下の前任者の教皇たちから引き離していることを認識しております。平服に身を包んだ修道女たちは歓迎されますが、2日前に私が会った修道女たちなどは平信徒の身分に変えさせられ 、司教様は彼女たちに修道服を放棄するように要求して修道院に5回も来ました。同様に、永久に変わらない公教要理と自分たちの叙階当時のミサに忠実である司祭たちは外に蹴り出され、それからもはや司祭とは言えない人々が快く思われているのです。」

「認められないことは、公会議の要求を拒絶することです。」

「私は自分が常に行って来た事を続けているだけえです。30年の間、私は司祭養成に努めましたが、突如として聖職停止処分に付されたのです。」

「それは、あなたが改革、つまり公会議を承認したくなかったからです。」

「おっしゃる通りです!この公会議がもたらした成果をご覧下さい。空っぽになった神学校を。一方で、私たち神学校には、様々な困難にもかかわらず35名の召命があります。」

「どうして公会議を受け入れないのですか?あなたはその全公文書に署名したではありませんか。」

「私には署名しなかった公文書が二つあります。」

「その通り、二つです。信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)と現代世界憲章(Gaudium Spes)です。」

 ルフェーブル大司教はこう思った。「その時、私は、教皇聖下を顧慮したからこそ私は他の公文書にも署名したのに、と。彼は続けた。

「それにどうして信教の自由がいけないのですか?」

「それには、グレゴリオ十六世やピオ九世が教えた事に一語一語そのまま反している表現が入っているからです。」

「これについては脇に置きましょう!私たちがここにいるのは、神学を論じる為ではありません。」

 ルフェーブル大司教は、心の中で「これはひどい話だ、信じられない!」と思ってしまった。

「あなたには公会議に反対する権利などありません。あなたはカトリック教会にとって躓きです。あなたはカトリック教会を破壊しています。恐ろしいことです。あなたはキリスト者らを教会と公会議に反対するようにそそのかしているのです。良心の呵責をあなたは何も感じないのですか?」

「全く何も。」

「あなたには良心がないのです。」

「私はカトリック教会を存続するという良心があります。良い司祭を養成しているのです。」

「それはウソです。あなたは教皇に反抗する司祭たちを養成しているのです。あなたは、彼らに教皇に反抗する署名と宣誓をさせているではありませんか。」

「私が?!」

 ルフェーブル大司教はこう回想する。この信じがたい申し立てを聞きながら、私は手で頭を覆ってしまいました。依然として頭を覆っている自分、さらにこう主張している自分に気づく事が出来ました、と。

「教皇聖下、聖化はどうしてそんな事を私に言う事が出来るのですか?私が教皇に反抗する署名と宣誓を司祭たちにさせているなどと。では、その‘宣誓’の写しを私に見せて頂けませんか?」

 パウロ六世は驚嘆した。彼は、恐らくはヴィヨ枢機卿から伝えられた事を真相だと余りにも信じきっていた。さらに彼は続けた。

「あなたは教皇を非難しています!どんな命令を私に下さるおつもりですか?私は何をすべきですか?私の辞表を受領して下さい。そうすれば私の地位に就く事が出来るんじゃないのですか?」

「ああ!(頭を手で覆い)教皇聖下、そういう事を仰らないで下さい。そうです。そんな事は仰るべきではありません。話を続けさせて下さい。聖下は御自分の手の中に解決策をお持ちなのです。聖下はただ司教様方に一言、“聖伝と、聖伝によるミサと秘蹟、及び永久に変わらぬ公教要理に固執するこれらの信徒グループを思いやって歓迎しなさい。彼らに礼拝の場を与えなさい”と仰るだけで良いのです。これらのグループはカトリック教会となるでしょうし、聖下はその中に召命を見出し、彼らはカトリック教会において最も優れた人材となるでしょう。司教様方はそれを認めることになります。神学校を私に残して下さい。そして聖伝の実験をやらせて下さい。私は、エコンの神学校にやって来る、聖下によって命名される委員会を通して、真に聖座との正常な交流をしたいのです。しかし、言うまでもなく私たちは、この聖伝の実験を守り継続しつづけることを望みます。」

「良いでしょう。それについて考え、祈り、教皇枢密会議と教皇庁に助言を求めます。これは難しい問題ですから。(結論が出れば)あなたに手紙を書きます。では一緒に祈りましょう。」

 パウロ六世とルフェーブル大司教とはラテン語で「主の祈り」と「聖霊に向かう祈り」さらに「天使祝詞」を唱えた。パウロ六世は歩行もぎこちなくルフェーブル大司教を隣の部屋に案内した。

「対話は不可能ではありませんね」と締めくくって二人は別れた。

 しかし、パウロの決断とは一体どの様なものであろうか?2日前にジャン・ギトンは、教皇に聖ピオ五世のミサをフランスにおいてはむしろ認めることを提案していたが、ギトンに教皇モンティーニは回答した。

「認める?そんな事は決してできません!エコンで見受けられるあの聖ピオ五世と言われるミサは、第二バチカン公会議非難の象徴になっています。私は、象徴によって公会議が非難されることなど決して認めません。もしも例外が設けられるとしたら、公会議全体が異議を唱えられ、仕舞いには第二バチカン公会議の使徒的権威が疑われることでしょう。」

 実際に、この教皇による決断、ラテン語で書かれ、さらにタイプされた18ページから成る1976年10月11日付きの手紙に明確に表わされた決断は、ルフェーブル大司教の提案を拒絶するものだった。パウロ六世は「第二バチカン公会議と教皇の権威を一緒に認める事」を大司教が拒否したので、その「反乱」と「本質的な点に関する歪められた教会論」故にルフェーブル大司教を叱責した。

 「あなたは自分だけが聖伝に関する判事であると主張しています。・・・あなたが言及する“聖伝”の概念は誤っています。聖伝は固定されたもの、あるいは死んだもの、つまり歴史上のある限定された時点での、カトリック教会というこの活発な有機的組織体の生命を凍結してしまう、何か静的なものではないのです。」「カトリック教会の聖伝の内」で、不変の聖伝と、現代風に変えるべき聖伝とを“識別する”資格を有しているのは教皇と公会議である、と。

 しかし、誤っているのはパウロ六世の教会論である事を告白しなければならない。何故なら、天啓の二つの源泉の一つである聖伝は不変だからである。さらに、聖伝とは基準である。つまり、聖伝が有する幾つもの導管、つまり教父、公会議、教皇、博士、典礼と共に、この聖伝の正確な反響音以外の何ものでもないものでなければならない教導権の基準である。教皇によるこれらの叱責の背後には、進化し、生ける聖伝という誤謬や、自分自身が基準であることを欲する絶対的な教導権、つまり新しきローマの教導権の顔が見え隠れしている。

 「ローマは解決策を封じ込めてしまったのです。そこにはもう開かれた態度を取るの気配はありません。ローマで、彼らは私の答えを待っています。さて、唯一の返答は事実にあり、と思っています。私たちはエコンの神学校の存在によって対応します。さらに、私は人々を照らして啓発し、そして有効な秘蹟を彼らに授ける為に、ヨーロッパ中を行き、世界を駆け巡り続けるでしょう。“Omnia instaurare in Christo”、つまりキリストの内に万事を確立し復興する為に。」

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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