エコンは“野良猫神学校”?
“ラテン語のミサ”が依然として執り行われ、スータンの着用、厳格な規則が遵守され、“公会議以前の”司祭養成をなし、フランス人司祭志願者たちが殺到している神学校は、フランスの司教たちにとって、悩みの種でしかなかったであろう。
1971年の間、ある誤った報告が、フリブールにおけるルフェーブル大司教の一元協力者によってなされ、フランス司教団の耳に入った。彼らはガロンヌ枢機卿に尋ねた。他の神学校からの離反者を受け入れるこの神学校は一体どういう所なのか、間もなくガロンヌはアダム司教に尋ねた。
「エコンが、司教区の神学校からの神学生たちを受け入れているという話は本当でしょうか?そうなれば、教会法に抵触することになりますよ。」
1972年2月10日、ネストール・アダムは回答し、そこに在学する41名の神学生の内、他の神学校から来ているのは3名だけであり、彼らは、所属する司教区とは教会法的に何の問題もないことを伝えた。ヴァレー地方エコンの影響力に関しての枢機卿からの他の質問に対し、アダム司教は何時ものように決めかねる様子で答えた。
「進歩主義者たちは痛烈に反対し、‘完璧主義者’たちは賛成する傍らで、多くは無関心です。個人的な意見を言わせていただければ、多元主義のためにも彼らのような人々は存在する権利を持つはずです」。
ネストールの言う通りであった。エコンはスイス全土における逆らいの印、あるいは(反近代主義)集結地点となりつつあったからである。3月18日、フリブールへの巡礼に700名のカトリック信徒たちが集まり、決議文を作って、「聖ピオ五世が復興したローマ・ミサ典書が有する完全な合法性の承認と、さらに聖ピオ十世司祭会に対する全面的な支援」とを要求してスイスの司教たちに求めた。
彼らが求めたのはそれだけだった!しかし、ルフェーブル大司教が、この信徒たちの自発的な行動には一切の係りを持たなかったという事を言い加えたい。フランス人司教らは身震いし、カルメル会神学校校長のマルクス(Marcus)神父はパリ大司教区から来た司祭たちの会議中、「司祭養成への野蛮な事業の・・・冒険と、・・・地元司教らの許可を持たない志願者たちの受け入れをする超保守的神学校」とを告発する権威を持つと考えた。「彼らはカトリック教会に確かな司祭たちを与えるとうそぶいている。しかしカトリック教会は彼らを自分たちの者と認めることは出来ないだろう。」切断の包丁は冷たくグサリと降りた。驚くべき事に、この将来の司教はその少し前までは、フリブールの聖ピオ十世会神学校に入学を望むカルメル会神学生たちの件でルフェーブル大司教と手紙のやりとりがあったばかりだった。
本人からの情報を得ようと、フランス司教らは、ナンテール(Nanterre)のジャック・ドゥラリュ(Jacques Delarue)司教を非公式視察人としてシオンとエコンに送った。1972年3月24日、彼は数人の教師及び神学生たちと話す事ができた。彼は手厚い歓迎を受けたのだが、この視察後、アダム司教に言った。
「個々の雰囲気は友好的で. . . . 私は、自分がここに来たのは非難するためでも、賛成する為でもなく、何よりも先ず彼らを知る為だったという事を伝えたのです。」
計画を立てれば、直ちに口ばしを挟み、自分たちとは全く無関係な神学校や、自分たちに対して、これっぽっちの期待もしていない神学生たちに向けられる(少なくとも聖ピオ十世会の会員になろうとしてエコンにやって来た神学生)フランス人司教たちの干渉にルフェーブル大司教は怒りを覚えた。
しかし、1971年に237名に落ち込んだフランス国内の神学校への入学者数を比較する秤において、大半はフランスからやって来た40名の、そして間もなく70名に達する(エコンの)神学生たちが、大きな割合を占めていた事を彼は熟知していた。
特にメナジェ(Ménager)司教は、モー(Meaux)の小神学校からもともとマソン神父が霊的指導をしていた学生たちを魅了し、地元の小神学校からエコンに移って行ってしまった生徒たちの損失に不満だった。彼は自分の“思い”をパリ大司教のフランソワ・マルティ(François Marty)枢機卿に打ち明けた。
ボルドーの補佐司教フランソワ・フルテリエールは、次回のフランス司教総会に向けて、フランス国内の神学校に関する報告書をまとめ上げなければならなかった。マルティ枢機卿はこの司教に、エコンの神学校についてルフェーブル大司教に尋ねるよう要請した。
大司教は率直な提案をもって回答した。
「私は、元トゥールの司教として、対話し、誤った情報を訂正するためにルルドに行きましょうか。」
そこで、パリではパニックが発生し、マルティ枢機卿がエコンにいる大司教に手紙を書いた。
「あなたがルルドにお越しになる事は、我々にして見れば相応しいとも適当であるとも考えられません。」
大司教は彼に直接電話を入れると、当のフランソワ・マルティは、ルルドではエコンについての如何なる議論も行わない事を約束した。
10月30日にルルドで可決された“決議”には、彼らが(約束に反して)エコンについて議論した事が証明されている。事実それはこう言明していた。
「司祭役務に向けた養成は、司教団の枠における司教の責任下にある。それ故、我々は、我々が同意した選ばれた諸神学校で司祭職の準備をしている[志願者]の叙階のみを引き受けるものとする。」
マルティ枢機卿は述べた。
「カトリック教会が望む通りの、・・・第二バチカン公会議が描写する通りの司祭の役務を保護するのは私たちの義務である。」
この公言ははっきりとしている。つまり、第二バチカン公会議は新しい司祭職を考案し、エコンこそがそれを危険に曝す神学校なのだ。
12月11日発行のフィガロ誌と、13日発行のオロール誌(L’Aurore)の中で、ルフェーブル大司教は回答した。エコンにある聖ピオ十世会の神学校は「ジュルネ枢機卿の激励とアダム司教の賛同により」創立されていること、さらに、ローマも聖ピオ十世会を励ましていること、最後に「神学校は原則として、如何なる司教評議会にも依存しておらず、とりわけフランスの司教たちの承認を必要としないこと、さらに、それは聖ピオ十世会の神学校であり、それ故に自主独立したものである」ことなどを説明した。
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
========================

BLOG RANKINGです。クリックで応援して下さい。

にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい
ルフェーブル大司教の伝記の続きをもっと読みたい
と思った愛する兄弟姉妹の皆様は、
クリックで応援して下さると励みになります。
兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します!
========================
사랑하올 형제 자매 여러분, 한국성비오10세회(SSPX) 새로운 웹 사이트를 소개합니다.
“ラテン語のミサ”が依然として執り行われ、スータンの着用、厳格な規則が遵守され、“公会議以前の”司祭養成をなし、フランス人司祭志願者たちが殺到している神学校は、フランスの司教たちにとって、悩みの種でしかなかったであろう。
1971年の間、ある誤った報告が、フリブールにおけるルフェーブル大司教の一元協力者によってなされ、フランス司教団の耳に入った。彼らはガロンヌ枢機卿に尋ねた。他の神学校からの離反者を受け入れるこの神学校は一体どういう所なのか、間もなくガロンヌはアダム司教に尋ねた。
「エコンが、司教区の神学校からの神学生たちを受け入れているという話は本当でしょうか?そうなれば、教会法に抵触することになりますよ。」
1972年2月10日、ネストール・アダムは回答し、そこに在学する41名の神学生の内、他の神学校から来ているのは3名だけであり、彼らは、所属する司教区とは教会法的に何の問題もないことを伝えた。ヴァレー地方エコンの影響力に関しての枢機卿からの他の質問に対し、アダム司教は何時ものように決めかねる様子で答えた。
「進歩主義者たちは痛烈に反対し、‘完璧主義者’たちは賛成する傍らで、多くは無関心です。個人的な意見を言わせていただければ、多元主義のためにも彼らのような人々は存在する権利を持つはずです」。
ネストールの言う通りであった。エコンはスイス全土における逆らいの印、あるいは(反近代主義)集結地点となりつつあったからである。3月18日、フリブールへの巡礼に700名のカトリック信徒たちが集まり、決議文を作って、「聖ピオ五世が復興したローマ・ミサ典書が有する完全な合法性の承認と、さらに聖ピオ十世司祭会に対する全面的な支援」とを要求してスイスの司教たちに求めた。
彼らが求めたのはそれだけだった!しかし、ルフェーブル大司教が、この信徒たちの自発的な行動には一切の係りを持たなかったという事を言い加えたい。フランス人司教らは身震いし、カルメル会神学校校長のマルクス(Marcus)神父はパリ大司教区から来た司祭たちの会議中、「司祭養成への野蛮な事業の・・・冒険と、・・・地元司教らの許可を持たない志願者たちの受け入れをする超保守的神学校」とを告発する権威を持つと考えた。「彼らはカトリック教会に確かな司祭たちを与えるとうそぶいている。しかしカトリック教会は彼らを自分たちの者と認めることは出来ないだろう。」切断の包丁は冷たくグサリと降りた。驚くべき事に、この将来の司教はその少し前までは、フリブールの聖ピオ十世会神学校に入学を望むカルメル会神学生たちの件でルフェーブル大司教と手紙のやりとりがあったばかりだった。
本人からの情報を得ようと、フランス司教らは、ナンテール(Nanterre)のジャック・ドゥラリュ(Jacques Delarue)司教を非公式視察人としてシオンとエコンに送った。1972年3月24日、彼は数人の教師及び神学生たちと話す事ができた。彼は手厚い歓迎を受けたのだが、この視察後、アダム司教に言った。
「個々の雰囲気は友好的で. . . . 私は、自分がここに来たのは非難するためでも、賛成する為でもなく、何よりも先ず彼らを知る為だったという事を伝えたのです。」
計画を立てれば、直ちに口ばしを挟み、自分たちとは全く無関係な神学校や、自分たちに対して、これっぽっちの期待もしていない神学生たちに向けられる(少なくとも聖ピオ十世会の会員になろうとしてエコンにやって来た神学生)フランス人司教たちの干渉にルフェーブル大司教は怒りを覚えた。
しかし、1971年に237名に落ち込んだフランス国内の神学校への入学者数を比較する秤において、大半はフランスからやって来た40名の、そして間もなく70名に達する(エコンの)神学生たちが、大きな割合を占めていた事を彼は熟知していた。
特にメナジェ(Ménager)司教は、モー(Meaux)の小神学校からもともとマソン神父が霊的指導をしていた学生たちを魅了し、地元の小神学校からエコンに移って行ってしまった生徒たちの損失に不満だった。彼は自分の“思い”をパリ大司教のフランソワ・マルティ(François Marty)枢機卿に打ち明けた。
ボルドーの補佐司教フランソワ・フルテリエールは、次回のフランス司教総会に向けて、フランス国内の神学校に関する報告書をまとめ上げなければならなかった。マルティ枢機卿はこの司教に、エコンの神学校についてルフェーブル大司教に尋ねるよう要請した。
大司教は率直な提案をもって回答した。
「私は、元トゥールの司教として、対話し、誤った情報を訂正するためにルルドに行きましょうか。」
そこで、パリではパニックが発生し、マルティ枢機卿がエコンにいる大司教に手紙を書いた。
「あなたがルルドにお越しになる事は、我々にして見れば相応しいとも適当であるとも考えられません。」
大司教は彼に直接電話を入れると、当のフランソワ・マルティは、ルルドではエコンについての如何なる議論も行わない事を約束した。
10月30日にルルドで可決された“決議”には、彼らが(約束に反して)エコンについて議論した事が証明されている。事実それはこう言明していた。
「司祭役務に向けた養成は、司教団の枠における司教の責任下にある。それ故、我々は、我々が同意した選ばれた諸神学校で司祭職の準備をしている[志願者]の叙階のみを引き受けるものとする。」
マルティ枢機卿は述べた。
「カトリック教会が望む通りの、・・・第二バチカン公会議が描写する通りの司祭の役務を保護するのは私たちの義務である。」
この公言ははっきりとしている。つまり、第二バチカン公会議は新しい司祭職を考案し、エコンこそがそれを危険に曝す神学校なのだ。
12月11日発行のフィガロ誌と、13日発行のオロール誌(L’Aurore)の中で、ルフェーブル大司教は回答した。エコンにある聖ピオ十世会の神学校は「ジュルネ枢機卿の激励とアダム司教の賛同により」創立されていること、さらに、ローマも聖ピオ十世会を励ましていること、最後に「神学校は原則として、如何なる司教評議会にも依存しておらず、とりわけフランスの司教たちの承認を必要としないこと、さらに、それは聖ピオ十世会の神学校であり、それ故に自主独立したものである」ことなどを説明した。
========================

BLOG RANKINGです。クリックで応援して下さい。

にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい
ルフェーブル大司教の伝記の続きをもっと読みたい
と思った愛する兄弟姉妹の皆様は、
クリックで応援して下さると励みになります。
兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とを感謝します!
========================
사랑하올 형제 자매 여러분, 한국성비오10세회(SSPX) 새로운 웹 사이트를 소개합니다.