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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 17.4.2.「聖職停止」

2010年04月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
「聖職停止」

 それでもルフェーブル大司教は、教皇聖下との謁見に精一杯の努力を傾けた。仲介者の役を務めるティアンドゥム(Thiandoum)枢機卿がパウロ六世に謁見してこう伝えた。

「教皇聖下、もしルフェーブル大司教様が非難される事になったら、ダカールの人々がどれだけ混乱するかお知りおき下さい。彼に謁見の機会を与えて下さい。」

 「枢機卿閣下、ではヴィヨ枢機卿の所に行ってお話し下さい。」
 国務聖省に赴くと、ヴィヨはティアンドゥムに言った。
「ルフェーブル大司教様が教皇聖下に謁見する事など以ての外です。教皇聖下がお考えを変えるかもしれませんし、そうでなったら混乱を巻き起こす事になります。」

 ルフェーブル大司教は結論した。「ある障壁が教皇聖下と私の間に置かれています 」と。

 ジャン・ヴィヨはこのルフェーブル大司教の発言に不満だらけで、パウロ六世から明確な考えを取り付けた。教皇はヴィヨ枢機卿に「それは誤解です。謁見前にルフェーブル大司教は、容認することの出来ないそのお考えを変えるべきであると私は考えております。」 と書き送った。

 ルフェーブル大司教は国務聖省長官代理のジョヴァンニ・ベネッリ(Giovanni Benelli)大司教と会見する事になり、後日4月21日、この人物はルフェーブル大司教に、第二バチカン公会議とその全公文書を受け入れ、パウロ6世その人と、その全ての教えに対する完全な忠誠と共に、服従の具体的証しとして新しいミサ典書を採用する事を要求して来た。

 予想通りに事が運ばないので、パウロ六世は、多くをルフェーブル大司教の事を扱う1976年5月24日の教皇枢密会議で訓示を垂れた。パウロ六世は大司教を非難し、過去の権威の名によって新しい権威を拒否した事、“自分の信仰を無傷に保つという口実で”人々を不従順に導いている事、さらに古いミサへの「感傷的な愛着」ゆえに、新しいミサを拒絶する事などを理由として挙げた。更にパウロ六世は「新しいミサの通常文は古いミサに取って代わるものとして発行された」と述べ、さらに、
「この行為は、私たちの前任者、ピオ五世が、トリエント公会議の後に、自分の権威の下で改革されたミサ典書の使用を義務付けた時に行った事に決して異なるものではない」と主張した。

 ルフェーブル大司教は、信仰を守る為の闘争に対してこのような誤解されたことに憤慨した。ましてパウロ六世があえて自分の推進する改革と聖ピオ五世が成し遂げた改革とに対し、厚かましくも虚偽の比較を行った事により多く憤慨した。

 しかし、司祭叙階式が近づくに従い、ローマは熱病に冒されてしまった― 果たして大司教は、司教区入籍及び受品許可状を所持せずに司祭叙階式を大胆にも挙行するだろうか?6月12日と25日の両日に、ベネッリ大司教は、教皇特別命令(de mandato speciali Summi Pontificis)により、教会法2373条1項 で想定される制裁を妨げずに、大司教に司祭叙階を禁じた。

 さらに加えて、もしルフェーブル大司教の神学生たちが「第二バチカン公会議後の教会に対する真の忠誠において司祭の役務に向けて真剣な養成を受けているならば」、彼らの為により優れた解決策の発掘に着手すると彼は提言した。

 この6月25日付けの手紙を持ってやって来たのは、グレゴリアン大学現教授であり、かつては同大学の学長であったエドワール・ダニ(Edouard Dhanis)神父だった。使者として送られ、急ぎ足でフラヴィニーのメゾン・ラコルデールに到着した彼だが、その時ルフェーブル大司教はちょうど叙階予定者の為の黙想会を指導しているところだった。それは6月27日の夜9時頃、つまり予定していた叙階式の2日前だった。この訪問者の興奮具合には度肝をぬかれた大司教も、ベネッリ大司教が手紙に書いた“公会議後の教会 ”という言い回しによって更なる一撃を食らった。

 パウロ六世のミサ典書を手に持つダニ神父が、大司教に懇願した。
「大司教閣下、もし本日にでも、あなたが私と一緒にこのミサを捧げる事に同意して下さるなら、ローマとの問題は万事解消されるのです!」

 大司教は簡潔に答えた:「もう御ミサは捧げてしまいました。」

 すると、この気の毒な司祭は落胆の内に立ち去った。

 エコンでは、翌日神学生たちが、神学校の隣にある野原に張った大テントで、大聖堂を作った。授階候補者たちがフラヴィニーの黙想会から帰ってきた。午後5時ごろ、オラニエ神父の部屋の扉をノックする者があった。びっくり!大司教様じゃないか!大司教は、椅子に腰掛け言った。
「明日、この叙階式を行うべきだと思いますか?」彼は真剣な面持ちでそう言ったのだ。

 心配そうに考え込んではいたが、完全に冷静であった。「この偉大な司教に、私は何と言うべきだろうか?」とオラニエ神父は心中考えた。しかし、きっぱりと賛成であるという自分の意見をどもりながらも伝えたのだ。こうして大司教は部屋を後にした。決意は固まった。

 1976年6月29日がやって来た。テントの大聖堂は風に打たれてパタパタと揺らめき、太陽は降り注いでいた。来賓客の車の列がテント隣の野原を駐車場に変えてしまった。スイスのみならず、ヨーロッパ、さらに世界中の至る所からやって来た数千人のカトリック信徒たちは、準備された場所を占めた。写真を撮る者や報道記者たちの規制は困難だった。9時になると、入堂の行列が開始され、野原の斜面上方からゆっくりと下ってきた。ミトラを被り、手袋を付けた大司教は手に司教杖を持ち前進する。その顔にはやや緊張が漂っていたが、決然としていた。彼は13名の司祭と14名の副助祭を叙階する事になっていたのだ。彼はちょうど、ティアンドゥム枢機卿の短い訪問を受けていたばかりだった。 しかし、ルフェーブル大司教は妥協などしなかった。

 叙階式の説教中、彼は長時間に渡って、自分が抵抗している理由を説明した。

「ですから、ミサの問題でエコンとローマとの間のドラマが展開されていることは、明らかではっきりとしています。・・・ところが、まさにそのローマからの使者たちが私たちに典礼様式を変えるようにと要求するその要求の仕方が、私たちをして考えさせました。・・・この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。なぜなら、聖なる公教会が長い歴史のなかで、私たちに下さったこの貴重な宝、すなわち、聖ピオ5世によって聖別されたミサ聖祭の典礼様式を守ろうと望んだのは、きわめて重大な意味があったからです。何故かというと、このミサのなかに私たちの信仰が全て含まれているからです。全てのカトリック信仰が、すなわち、聖三位一体への信仰、イエズス・キリストのご神性にたいする信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の赦しのために流された私たちの主の贖いの御血にたいする信仰、ミサ聖祭、十字架、全ての秘跡から来る超自然の聖寵への信仰が、すべてあるのです。」

 この日、ルフェーブル大司教は教会法に基づく品級授与停止処分を受け、一年間叙階を授けることが禁止される。1976年7月6日、司教聖省長官セバスチアーノ・バッジオ(Sebastiano Baggio)枢機卿が厳粛な警告書を送り、彼に“教皇聖下への謝罪を要求”した。

 7月17日、ルフェーブル大司教はパウロ六世に対して手紙を書いてこれに答えた。
 典礼に“あらゆる教義的価値や何世紀にもわたる使用により聖別されたラテン・ローマ典礼様式に基づいた階級的表現”を返して下さい、そうすれば「教皇聖下はカトリック司祭職と、個人や家族、さらに市民生活における私たちの聖主イエズス・キリストの君臨を復興することになります。」
 また、「第二バチカン公会議直前に、カトリック教会内の高位聖職者たちとフリー・メーソンのロッジ(集会所)の高位会員たちとの間に交わされた密約 に起因する近代人の思想との妥協という、この有害な事実」を放棄して下さい、という内容だった。

 7月22日になって、司教聖省の秘書は、ルフェーブル大司教に対し、大司教が依頼した通りの悔い改めの印を示さなかったので、教皇聖下は教会法2279条2項2号に基づいて、如何なる秘蹟であっても、それを授与する権利を彼から剥奪する聖職停止の処罰を彼に課した事を通告した。

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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