「暑い夏」
初め、大司教は酷く傷つけられたが、やがて元気を盛り返し、7月29日付けで『“聖職停止処分”に関する論考』を出版した。そこにはこう書かれている。
「結局この停止は、新しいミサを捧げること、あるいは新しい秘蹟を授ける事を私に禁じています。ベネッリ大司教がそう呼んだ“公会議後の教会”、まさにその教会に従いなさいと要求されたのです。しかしこの公会議後の教会は、永遠なるカトリック教会を捨て去っているがゆえに離教的教会です。この新しい教会には新しい教義(人間のペルソナの尊厳)、新しい司祭職、新しい制度、新しい典礼があるのです。そしてこれらは、これまで余りにも多くの公式かつ権威あるカトリック教会の文書によって非難されて来たものなのです。」
このすでに論争的口調は8月4日にフィガロ誌 の依頼に答えてルフェーブル大司教が行ったインタビューにおいてさらに鋭くなった。
「第二バチカン公会議は聖伝に背を向け過去のカトリック教会と断絶してしまったので、離教的な公会議なのです。・・・もし20世紀にわたり、カトリック教会によって教えられてきた信仰に一切の誤謬が存在し得ないことが確かであるならば、教皇が真に教皇であることの確実性はさらに少なくなります。異端、離教、事効的破門、あるいは無効の教皇選出などが、教皇がひょっとすると決して教皇ではなかったか、もはや教皇ではないことの原因になります。」
「究極的にはパウロ六世の教皇職の初めから、全カトリック信徒たちの良心及び信仰に、深刻な問題が直面しています。聖霊の助けを保証されているペトロの真の後継者たる一教皇が、これまでにどんな異端の祖でも成し遂げられなかった事、つまりカトリック教会の歴史において、あまりにも短い期間に、最も深く最も急進的で、敏速かつ広く行き渡ってしまったカトリック教会の破壊を司ることがどうして出来るのでしょうか?」
この問いは、問われるに値するものではあるが、大司教はそれに答えず、解答はカトリック教会に任せた。しかし、彼は第二バチカン公会議とこの公会議から派出した新しい教会像の離教的本性とその傾向を指摘する事に躊躇いはなかった。
1976年のこの暑い夏に、ルフェーブル大司教の評判はこの夏の気温と共に上昇した。マスメディアの調査では、フランス人の27%は大司教の考えに“賛同し”、24%が反対、23%はノーコメント、更に25%は彼の行動に無関心であると回答した事が明らかにされた。
文学者や、芸術家、さらに学者たちは非常に動揺した。フランスにいる8名の有名人がパウロ六世に手紙を書き、自分たちは“ローマ略奪(Sacco di Roma)”を見守っていると伝えた。12月1日、30名の大学教授たちが“ルフェーブル大司教と彼らを結ぶ思想の一致”を表明し、「大胆にも立ち上がって、沈黙という陰謀をやぶって信徒たちの為に真の正義を行って下さるよう教皇に要求したこの勇気ある司教」に敬意を表した。
フランス政府右翼もまた行動を起こした。彼らは、“ルフェーブル派”である有権者たちの期待を破る事は避けなければならなかった。ヴァレリ・ジスカール・デステン(Valery Giscard d’Estaing)大統領は、元聖座駐在大使であったルネ・ブルィエ(René Brouillet)氏に報告を依頼した。
ジャック・シラク(Jacques Chirac)首相は、パウロ六世の腹心であったアカデミー・フランセーズ(Academie Française )のジャン・ギトン(Jean Guitton)氏と会見した。しかし、ラ・コレーズ(La Corrèze)地方の元代議士であるシラクは、短期間チュールの司教として活躍したルフェーブル大司教が、このコレーズ地方の教会に与えた活性化を忘れてはいなかった。7月16日、彼は大司教に“敬意を示す友情と信頼の”手紙を書き送った。
「太古からの特権により、カトリック教会の長女たるキリスト教国フランスは、これまでペトロの後継者に対する忠誠を表明すべく変わらぬ証を立てて参りました。・・・有しておられる才能により、閣下が和解の言葉の見つけ方をご存知である事を私は確信しております。忠誠というものがこれほど繰り返し蔑まれ、真の愛が悲惨にも破壊されている現代、閣下は何と言う模範を与えようとされていることでしょうか。閣下による信仰とカトリック教会の為の戦いは、それによってこそ、本物である事を証明する目を見張るような刻印を受けることでしょう。品行の完全なる潔白さと、犠牲の受諾によって与えられる刻印を。」
もしそれが自分個人の意見に関わる問題を犠牲にすることならば、大司教はこの申し出を呑んでいたであろう。しかし、それは信仰の為の闘いであるからこそ、ジャック・シラクが彼にその実践を促した犠牲は全く別の次元を有していた。つまり、己が名誉の犠牲であった。聖職停止処分、“反逆者”、“離教者”、これら中傷のレッテルを、マルセル・ルフェーブルは信仰とカトリック教会に対する愛のために苦しみつつも、断固として受け入れた。
彼はシラク首相に短い返信を書き、平静にフランス各地への訪問を続けた。ジュネーヴでは、ロック神父が捧げる初ミサに、そしてブザンソン(Besançon)では、グロッシュ神父が捧げる初ミサに与るため一堂に会した数千人に及ぶ人々の前に彼は姿を現した。“聖伝連盟(Traditional Associations)”支部の議長ジェラール・サクリエ・ド・ラ・バツィー(Gerard Saclier de La Batie)氏と彼の友人数名が、ルフェーブル大司教が信仰の擁護者として現れるように、特別な式典をおこなってくれることを依頼した。そこでリール(Lille)が選ばれた。
初め、大司教は拒否した。
「いいえ、私には出来ません。もしそんな事をすれば、ローマはそれを挑発と受け止めるでしょう。」
しかし、翌朝8月22日、彼は秘書のマルグリット修道女に伝えた。
「一晩寝て考えましたが、やはりリールに行こうと思います。日程としては8月29日を提案します。」
新聞各紙の見出しでは、次のような記事が掲載された。
「離教への新たな一歩‐ルフェーブル大司教、日曜日のリールのミサで世界的物議を醸し出す事を望む」
「ローマに挑戦する時は過ぎた。今や力試しの時」
「ルフェーブル大司教、禁じられたミサで、今日、パウロ六世に挑む。」
8月15日付けのパウロからの新たな手紙を受け取ったにもかかわらず、8月29日、大司教はリールでの荘厳ミサを執り行った。7千に及ぶ人々が、この機会の為に巨大な聖堂へと転換されたリールの展覧会場に詰め寄せた。ローマでの御告げの祈りの間、パウロ六世は、(いわゆる)“キリストによって私の手に置かれたこの鍵に対する挑戦的態度”を公然と非難した。大司教は説教の中で抗議した。
「違います、親愛なる信徒の皆さん、これは挑戦的態度などではなく、あなた方が持つカトリック信仰の表明なのです。」
大司教による説教を、筆者が次のように要約することを読者が許してくれることを願います
「革命は殉教者たちを生みだしました、第二バチカン公会議が成し遂げた事に比べたらなんでもありません。第二バチカン公会議の後では多くの司祭らが司祭職を捨て去ったのです!このカトリック教会と革命との結合はリベラル・カトリックによって望まれました。彼らは「第二バチカン公会議と共に、我々の説は受諾された」と主張して勝ち誇っています。しかしこの結合は姦通です。さらにこの不倫な結合から生み出されるものは私生児だけです。ミサの新しい典礼様式は私生児の典礼様式です。新しい秘蹟は私生児の秘蹟であり、新しい神学校から生まれる司祭たちは、やはり私生児の司祭となります。彼ら司祭は私たちの聖主イエズス・キリストの聖なる犠牲を捧げるために祭壇に昇るよう叙階されることを知りません。」
「私たちの聖主イエズス・キリストだけが「我は天主なり」と言う事の出来る唯一の人であります。従って、彼は人類にとって唯一の王なのです。聖主イエズス・キリストの統治なくして、地上には如何なる平和も存在する事はないでしょう。聖主の統治‐天主の十戒による統治‐は正義と平和を成し遂げるでしょう。原理と権威を兼ね備えた政府が出来て以来、アルゼンチンではそれが実現しています。」
報道陣は大慌てでこの“独裁制賛美”(とも取れる言葉)を書き下ろした。さらに大司教は続ける:
「そういう訳で、私たちはさらに聖ピオ五世のミサを望みます。何故ならそれは、天主は木によって統治された(Regnavit a lingo Deus) でお分かりの様に、この十字架(の木)によって統治する私たちの聖主イエズス・キリストの王権を表現しているからです。」
「私は誠実な良心と平静で穏やかな心を保ちつつ、カトリック教会破壊に貢献する事は私には出来ないことです。私に下された聖職停止処分(への服従)や、私の神学校の閉鎖、さらに私による司祭叙階の拒否などによって、カトリック教会破壊に協力することを望みません。死の床で、聖主は私に「お前はお前の司教職をもっていったい何をしたのか、お前に与えた司教職と司祭職の恩寵をもってお前は何をしたのか?」と私に尋ねるでしょう。そのとき「お前はカトリック教会の破壊のために他の者たちに加担したのだ」私は聖主がこう言うのを聞きたくありません。」
「ある報道記者たちはこう私にこう尋ねました。「大司教閣下、閣下は自分が孤立しているとお感じになりませんか?」私は答えました。「いいえ全く感じません。私には二〇世紀の歴史を持つカトリック教会が付いていますから。」私はこうも言われました。「あなたは教皇を裁いています。」ベネッリ大司教は私に面と向かって言いました。「あなたが真理を作るのではありません!」もちろんです。私が真理を作るのではありませんし、教皇聖下が作るのでもありません。」
上述の言葉は会衆全体に波紋を引き起こし、ある報道記者の中には、この“断絶の言葉”を編集部に伝えようと退場する者が目撃された。しかし大司教は続けた。
「真理、それは聖主イエズス・キリストです。あなた方は全教会が教えた事を思い出さなければいけません。教皇聖下を裁くのは私ではなく、裁くのは聖伝です。5歳の子供でも、公教要理を使って一、二の事を自分の司教様に教える事が出来ます。もし、司教様が誤りを宣言するとしたら、誰が正しいのですか?正しいのは公教要理です!」
「もし、全ての司教様たちが、教会をたった一つ私たちに、カトリック信徒たちに使わせてくれさえすれば . . . 「教皇聖下、私たちにやらせて下さい、聖伝の実験を」、もしも教皇聖下が私に謁見の機会を下さるなら、私が教皇様にお願いする事はこれです。」
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
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「結局この停止は、新しいミサを捧げること、あるいは新しい秘蹟を授ける事を私に禁じています。ベネッリ大司教がそう呼んだ“公会議後の教会”、まさにその教会に従いなさいと要求されたのです。しかしこの公会議後の教会は、永遠なるカトリック教会を捨て去っているがゆえに離教的教会です。この新しい教会には新しい教義(人間のペルソナの尊厳)、新しい司祭職、新しい制度、新しい典礼があるのです。そしてこれらは、これまで余りにも多くの公式かつ権威あるカトリック教会の文書によって非難されて来たものなのです。」
このすでに論争的口調は8月4日にフィガロ誌 の依頼に答えてルフェーブル大司教が行ったインタビューにおいてさらに鋭くなった。
「第二バチカン公会議は聖伝に背を向け過去のカトリック教会と断絶してしまったので、離教的な公会議なのです。・・・もし20世紀にわたり、カトリック教会によって教えられてきた信仰に一切の誤謬が存在し得ないことが確かであるならば、教皇が真に教皇であることの確実性はさらに少なくなります。異端、離教、事効的破門、あるいは無効の教皇選出などが、教皇がひょっとすると決して教皇ではなかったか、もはや教皇ではないことの原因になります。」
「究極的にはパウロ六世の教皇職の初めから、全カトリック信徒たちの良心及び信仰に、深刻な問題が直面しています。聖霊の助けを保証されているペトロの真の後継者たる一教皇が、これまでにどんな異端の祖でも成し遂げられなかった事、つまりカトリック教会の歴史において、あまりにも短い期間に、最も深く最も急進的で、敏速かつ広く行き渡ってしまったカトリック教会の破壊を司ることがどうして出来るのでしょうか?」
この問いは、問われるに値するものではあるが、大司教はそれに答えず、解答はカトリック教会に任せた。しかし、彼は第二バチカン公会議とこの公会議から派出した新しい教会像の離教的本性とその傾向を指摘する事に躊躇いはなかった。
1976年のこの暑い夏に、ルフェーブル大司教の評判はこの夏の気温と共に上昇した。マスメディアの調査では、フランス人の27%は大司教の考えに“賛同し”、24%が反対、23%はノーコメント、更に25%は彼の行動に無関心であると回答した事が明らかにされた。
文学者や、芸術家、さらに学者たちは非常に動揺した。フランスにいる8名の有名人がパウロ六世に手紙を書き、自分たちは“ローマ略奪(Sacco di Roma)”を見守っていると伝えた。12月1日、30名の大学教授たちが“ルフェーブル大司教と彼らを結ぶ思想の一致”を表明し、「大胆にも立ち上がって、沈黙という陰謀をやぶって信徒たちの為に真の正義を行って下さるよう教皇に要求したこの勇気ある司教」に敬意を表した。
フランス政府右翼もまた行動を起こした。彼らは、“ルフェーブル派”である有権者たちの期待を破る事は避けなければならなかった。ヴァレリ・ジスカール・デステン(Valery Giscard d’Estaing)大統領は、元聖座駐在大使であったルネ・ブルィエ(René Brouillet)氏に報告を依頼した。
ジャック・シラク(Jacques Chirac)首相は、パウロ六世の腹心であったアカデミー・フランセーズ(Academie Française )のジャン・ギトン(Jean Guitton)氏と会見した。しかし、ラ・コレーズ(La Corrèze)地方の元代議士であるシラクは、短期間チュールの司教として活躍したルフェーブル大司教が、このコレーズ地方の教会に与えた活性化を忘れてはいなかった。7月16日、彼は大司教に“敬意を示す友情と信頼の”手紙を書き送った。
「太古からの特権により、カトリック教会の長女たるキリスト教国フランスは、これまでペトロの後継者に対する忠誠を表明すべく変わらぬ証を立てて参りました。・・・有しておられる才能により、閣下が和解の言葉の見つけ方をご存知である事を私は確信しております。忠誠というものがこれほど繰り返し蔑まれ、真の愛が悲惨にも破壊されている現代、閣下は何と言う模範を与えようとされていることでしょうか。閣下による信仰とカトリック教会の為の戦いは、それによってこそ、本物である事を証明する目を見張るような刻印を受けることでしょう。品行の完全なる潔白さと、犠牲の受諾によって与えられる刻印を。」
もしそれが自分個人の意見に関わる問題を犠牲にすることならば、大司教はこの申し出を呑んでいたであろう。しかし、それは信仰の為の闘いであるからこそ、ジャック・シラクが彼にその実践を促した犠牲は全く別の次元を有していた。つまり、己が名誉の犠牲であった。聖職停止処分、“反逆者”、“離教者”、これら中傷のレッテルを、マルセル・ルフェーブルは信仰とカトリック教会に対する愛のために苦しみつつも、断固として受け入れた。
彼はシラク首相に短い返信を書き、平静にフランス各地への訪問を続けた。ジュネーヴでは、ロック神父が捧げる初ミサに、そしてブザンソン(Besançon)では、グロッシュ神父が捧げる初ミサに与るため一堂に会した数千人に及ぶ人々の前に彼は姿を現した。“聖伝連盟(Traditional Associations)”支部の議長ジェラール・サクリエ・ド・ラ・バツィー(Gerard Saclier de La Batie)氏と彼の友人数名が、ルフェーブル大司教が信仰の擁護者として現れるように、特別な式典をおこなってくれることを依頼した。そこでリール(Lille)が選ばれた。
初め、大司教は拒否した。
「いいえ、私には出来ません。もしそんな事をすれば、ローマはそれを挑発と受け止めるでしょう。」
しかし、翌朝8月22日、彼は秘書のマルグリット修道女に伝えた。
「一晩寝て考えましたが、やはりリールに行こうと思います。日程としては8月29日を提案します。」
新聞各紙の見出しでは、次のような記事が掲載された。
「離教への新たな一歩‐ルフェーブル大司教、日曜日のリールのミサで世界的物議を醸し出す事を望む」
「ローマに挑戦する時は過ぎた。今や力試しの時」
「ルフェーブル大司教、禁じられたミサで、今日、パウロ六世に挑む。」
8月15日付けのパウロからの新たな手紙を受け取ったにもかかわらず、8月29日、大司教はリールでの荘厳ミサを執り行った。7千に及ぶ人々が、この機会の為に巨大な聖堂へと転換されたリールの展覧会場に詰め寄せた。ローマでの御告げの祈りの間、パウロ六世は、(いわゆる)“キリストによって私の手に置かれたこの鍵に対する挑戦的態度”を公然と非難した。大司教は説教の中で抗議した。
「違います、親愛なる信徒の皆さん、これは挑戦的態度などではなく、あなた方が持つカトリック信仰の表明なのです。」
大司教による説教を、筆者が次のように要約することを読者が許してくれることを願います
「革命は殉教者たちを生みだしました、第二バチカン公会議が成し遂げた事に比べたらなんでもありません。第二バチカン公会議の後では多くの司祭らが司祭職を捨て去ったのです!このカトリック教会と革命との結合はリベラル・カトリックによって望まれました。彼らは「第二バチカン公会議と共に、我々の説は受諾された」と主張して勝ち誇っています。しかしこの結合は姦通です。さらにこの不倫な結合から生み出されるものは私生児だけです。ミサの新しい典礼様式は私生児の典礼様式です。新しい秘蹟は私生児の秘蹟であり、新しい神学校から生まれる司祭たちは、やはり私生児の司祭となります。彼ら司祭は私たちの聖主イエズス・キリストの聖なる犠牲を捧げるために祭壇に昇るよう叙階されることを知りません。」
「私たちの聖主イエズス・キリストだけが「我は天主なり」と言う事の出来る唯一の人であります。従って、彼は人類にとって唯一の王なのです。聖主イエズス・キリストの統治なくして、地上には如何なる平和も存在する事はないでしょう。聖主の統治‐天主の十戒による統治‐は正義と平和を成し遂げるでしょう。原理と権威を兼ね備えた政府が出来て以来、アルゼンチンではそれが実現しています。」
報道陣は大慌てでこの“独裁制賛美”(とも取れる言葉)を書き下ろした。さらに大司教は続ける:
「そういう訳で、私たちはさらに聖ピオ五世のミサを望みます。何故ならそれは、天主は木によって統治された(Regnavit a lingo Deus) でお分かりの様に、この十字架(の木)によって統治する私たちの聖主イエズス・キリストの王権を表現しているからです。」
「私は誠実な良心と平静で穏やかな心を保ちつつ、カトリック教会破壊に貢献する事は私には出来ないことです。私に下された聖職停止処分(への服従)や、私の神学校の閉鎖、さらに私による司祭叙階の拒否などによって、カトリック教会破壊に協力することを望みません。死の床で、聖主は私に「お前はお前の司教職をもっていったい何をしたのか、お前に与えた司教職と司祭職の恩寵をもってお前は何をしたのか?」と私に尋ねるでしょう。そのとき「お前はカトリック教会の破壊のために他の者たちに加担したのだ」私は聖主がこう言うのを聞きたくありません。」
「ある報道記者たちはこう私にこう尋ねました。「大司教閣下、閣下は自分が孤立しているとお感じになりませんか?」私は答えました。「いいえ全く感じません。私には二〇世紀の歴史を持つカトリック教会が付いていますから。」私はこうも言われました。「あなたは教皇を裁いています。」ベネッリ大司教は私に面と向かって言いました。「あなたが真理を作るのではありません!」もちろんです。私が真理を作るのではありませんし、教皇聖下が作るのでもありません。」
上述の言葉は会衆全体に波紋を引き起こし、ある報道記者の中には、この“断絶の言葉”を編集部に伝えようと退場する者が目撃された。しかし大司教は続けた。
「真理、それは聖主イエズス・キリストです。あなた方は全教会が教えた事を思い出さなければいけません。教皇聖下を裁くのは私ではなく、裁くのは聖伝です。5歳の子供でも、公教要理を使って一、二の事を自分の司教様に教える事が出来ます。もし、司教様が誤りを宣言するとしたら、誰が正しいのですか?正しいのは公教要理です!」
「もし、全ての司教様たちが、教会をたった一つ私たちに、カトリック信徒たちに使わせてくれさえすれば . . . 「教皇聖下、私たちにやらせて下さい、聖伝の実験を」、もしも教皇聖下が私に謁見の機会を下さるなら、私が教皇様にお願いする事はこれです。」
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