聖ピオ十世会の廃止
しかし、教導権は信仰の絶対的基準であり、ガロンヌはこの教導権が本来の機能を果たさない可能性を一切認めなかった。公会議に関しては、彼は公会議の後にカトリック教会の危機が到来したことを認めはしたが、公会議がこの危機の原因だということは認めなかった。
この教導権に関する無理解という壁を前にして、ルフェーブル大司教は言った。
「私は会話に招かれたというのに、その実、私に対する非難宣告を取り決めてあった法廷に直面しなければならないとは。」
自分の宣言文に関しては、彼は3枢機卿に述べた。
「これを別表現で書くことは出来ますが、異なる内容を書くことは出来ません。」
その時エコンでは、教授陣が例の宣言を修正し、改めて“穏健な宣言文”の作成に入るために集まった。
「大司教閣下」彼らは頼んだ。「閣下が最初に書かれた宣言文を撤回して、これに署名してください。」
しかし大司教は、もはやローマに対してもエコンに対してもしなかった。彼は自分の宣言文を撤回しなかった。ローマでの裁判に負けることは確実だった。
実際に4月25日、タベラ枢機卿はマミ司教に対し、彼には先任者(シャリエール司教)がなした許可と譲歩を撤回するのに必要な全権が与えられている事を伝えた。残念ながらそれは正しかったのだ!聖ピオ十世会はローマからの公認(nihil obstat)さえ受けておらず、司教区権に属する共同体 にはなっておらず、予備段階であるピア・ウニオに留まっていたからである。よって、もし深刻な理由があれば、当司教にはこのピア・ウニオを解散する事が出来たのだ(教会法492条1-2項、493条参照)。天主の御前においてはそうではなくとも、地位に就いていた者たちの前では、あの“宣言文”も一つの深刻な理由となった。
それで5月6日に、マミ司教はルフェーブル大司教に、自分は先任者が聖ピオ十世会創立に与えた認可を撤回すると知らせ、同日、例の3枢機卿たちはパウロ六世からの認可を取り付けて、この決定を是認した。彼らは、いったん聖ピオ十世会が“廃止”されれば、それが有する神学校及び活動は存在する権利を喪失すると付け足した。
ルフェーブル大司教は3通りの方法で回答した。
先ず、聖年の聖霊降臨祭に、大司教並びに神学生らはクレド連盟の荘厳な巡礼に参加し、信徒たちと一緒に常に変わらぬローマへの固執を表明した。
それからアルバノで5月31日付けの手紙を書いて、ペトロの後継者への服従を、自分に対する“裁判”再審理を求める懇願を織り交ぜて書いた。
最後に、6月5日、彼は使徒座署名院最高裁判所法廷に対し、マミ司教の決定を不服とする上訴趣意書を提出した。そこには、聖ピオ十世会を廃止する権限は聖座にあり、フリブールの司教にではない事(この第一主張は議論の余地がある)、次に、彼は教義に関して裁かれており、この領域に関しては、教理聖省だけが適任である事、そしてもし自分の宣言文が非難に当たるのなら、この非難宣告は自分の仕事にではなく、自分個人に向けられるべきであるという事が書かれてあった。
この上訴は6月10日に却下された。マミ司教がなした聖ピオ十世会廃止の処置は、特別な形で(in forma specifica)教皇聖下によって承認された枢機卿委員会の決定を遂行しただけだたからだ。6月14日に開始されたもう一つの上訴は、この特別な承認に関する証拠を要求した。しかし何の回答もなかった。
なぜなら、国務聖省長官ヴィヨ枢機卿がスタッファ(Staffa)枢機卿に対し、この上訴の受理を禁じる手紙を書いていたからである。
1975年6月29日ルフェーブル大司教は、エコンで3名の司祭と13名の助祭を叙階した。同じ日、パウロ六世は彼に手紙を書き、服従を要求した。つまり、聖ピオ十世会の廃止とその全ての実際的結果を承諾する事と、さらに“ニケア公会議と同等であると言うより、ある意味でそれ以上の権威を持つ”第二バチカン公会議を承認する事を“必然的に暗示する”行為を求めた。
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
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