昨日は日本付近を弱い気圧の谷が通過したため肌寒い曇り空の一日でした。八王子では朝の最低気温は-0.1℃と冷え込みは和らいだものの、日中の最高気温は6.5℃止まり。昼前後に一時的に青空が見えただけでコートが手放せませんでした。
午前中に空き時間があったため、日野の八坂神社へ初詣に出かけてきました。なぜ八坂神社といえば、今年は丑年ということもあり、牛頭天王を祀っていた神社を訪れてみたかったのです。コロナ禍では妖怪アマビエが注目を集めました。ところが、アマビエ以上に疫病に効く絶大な信仰を集めた「牛頭天王」がいたことはあまり知られていません。神道でいえば素盞嗚尊の蘇民将来の説話です。
日野駅から歩いて5分、八坂神社は甲州街道沿いに佇んでいました。
八坂神社の説明です。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)、配祀は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。以下、ちょっと読みにくいので日野市観光協会のHPから引用します。
伝説によると、多摩川の淵から拾い上げられた牛頭天王像を勧請し祠を建てたのが八坂神社の始まりといわれています。記録に残されているものでは、応永5年(1398)、普門寺が開基され、牛頭天王社を管理するようになった。とありますから、600年以上の歴史を持つ神社です。元亀元年(1570)、普門寺の移転と現在の甲州街道の道筋が定められたことから現在地に遷座しました。本殿は寛政12年(1800)に建造されたもので、精巧な彫刻が組み込まれた江戸後期を代表する神社建築として日野市指定重要文化財に指定されています。
土方歳三が蝦夷に渡り、最後の戦いをしていた明治2年(1869)、日野でも大きな問題が持ち上がっていました。それまで、300年余りの間日野宿の人たちに「天王さま」と呼んで親しんできた牛頭天王社が明治維新政府の神仏分離によって別当であった普門寺から切り離されることになったのです。
牛頭天王はインドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神です。神道で祇園の神といえば素盞嗚尊、八坂神社に改名されるまでは「祇園社」の篇額が掲げられていましたから、1869年(明治2年)に「八坂」と称されることになったのは無理なく決まったことだったと思われます。ちなみに佐藤彦五郎が万延元年(1860)に奉納した「祇園社」の篇額も残されています。
その翌年、明治3年(1870)は、もともと本宿(日野駅の北東)にあった普門寺と牛頭天王社が現在の位置に遷座されて、300年にあたる年でした。(引用終わり)
鳥居に掲げられている「八坂社」の篇額は、明治7年(1874)、佐藤俊正(彦五郎)の願いによって有栖川宮二品熾仁親王が特に書かれたものを飜刻したものです。
こちらは昭和40年頃の八坂神社。現在のように社殿を完全に覆う覆殿ができる前の様子が分かります。
こちらは現在の社殿です。参拝する社殿の中に、当時の古い社殿が風化を防ぐように丸ごと収められています。 古い社殿を守るように新しい社殿が建てられているのは覆殿と呼ばれています。
社殿の前の狛犬です。向かって右側。口を開けています(阿形)。
向かって左側。口を閉じています(吽形)。
社殿にお参りします。中に見えるのが1800年 (寛政十二年) に再建された本殿です。
こちらは本殿の説明になります。周囲には江戸後期の華麗な彫刻装飾が施されているそうです。
八坂神社(当時は牛頭天王社)に奉納された天然理心流奉納額の説明です。大小さ二本の木刀が架けられています。日野市観光協会のHPから以下に引用します。
天然理心流の創始は寛政元年(1789)ころと推定されています。創始者の近藤内蔵之助長碑裕は長江(静岡県)の人でしたが、二代目三助は戸吹(現八王子)、三代目周助は小山(現町田)、四代目勇が石原(現調布)と多摩地域と縁が深く、名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも習われていました。
安政5年(1858)に奉献された剣術額には日野宿の剣士たち23名と近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてあります(引用終わり)。
本殿の左手の八幡社。中には青面金剛像と弁財天が奉納されています。外からは見えません。
右手には手水舎。COVID19の感染対策のため水は流れていません。
八坂神社は個性的な御朱印で知られているそうです。
記念に2枚の御朱印を購入しました (^^)。
神社横の掲示板のポスターに本殿の写真が紹介されていました。近くで彫刻を見てみたいです。例大祭と、ひの新選組まつりの時に、本殿と天然理心流奉納額が公開されるそうです。例大祭では宮神輿の渡御も行われます。新型コロナウイルスが収束してからですかね。