玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

近衛文麿と木戸幸一(4)

2021-07-23 11:31:04 | 近現代史

東久邇宮は、戦後になって、「皇族と言えども、単独で天皇に会えない。東條と木戸ぐらいである。申し込んでも、「陛下は近頃気分がすぐれないから」と拝謁が断られるか、5,6分会えても、二人のどちらかに侍立されてしまう。」(昭和43年1月号「現代」)と言っていた。

昭和17年から18年まで、天皇には皇族もなかなか会えなかった。天皇への情報は東条と木戸に限定されていたのかもしれない。

近衛は、戦後になって、何とか天皇と天皇制を守ろうと、いち早くマッカーサー元帥に会見する。そこで憲法改正の旗振り役を頼まれたと思い込んだ。彼にとっては天皇制を守る絶好の機会であり、自らの戦争責任を逃れる好機と考えたに違いない。

彼は天皇制を守らんがために、内大臣府御用係になって、憲法改正に邁進した。ところが、いつの間にか梯子を外された。

近衞は外国人記者会見で、天皇の退位に言及した。『ポツダム宣言の履行をしたら、陛下は退位されるだろう。」とAP通信社記者に話した。

このことで、木戸と近衛は決定的な決裂をしたようだ。

NYタイムズは「近衞のようなものに日本の新憲法草案起草は、…彼を許すことになり、グロテスクである。」と報道、日本で二日後に報道された。

GHQは幣原内閣に憲法改正を通告し、近衛を解任した。

万事休すである。

この近衛の排除劇の裏方はGHQで雇ったカナダ国籍の外交官 H・ノーマンだと言われている。

ノーマンは都留重人(ハーバート大卒)と仲が良かった。都留は和田小六(東工大学長)の娘婿である。和田は木戸の実弟で、和田家に養子となっている。

【参照文献:田中伸尚『ドキュメント昭和天皇(7)』工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』】

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近衛文麿と木戸幸一(3)

2021-07-22 11:04:03 | 近現代史

かつて近衛と木戸と、もう一人原田熊雄を加えて、京都大学の三バカ大将とでも言おうか。彼らは心を許しあえる朋友だったのではないか。

権力というものがその三人の関係に楔を打ち込むものなのか。原田は西園寺公の秘書であり、政治の世界から一歩身を引いていた。その原田が木戸を評してこう言う。

「木戸は御家柄で内大臣なんかすわっているが、あれが平民だったら、せいぜい局長どまりだヨ。僕とは親類筋にあたるが、官僚で大局が見えない。」

「木戸という男は妙に意地が強いし、云うことだって近衛の出たとこ勝負と異なって、すっかり前以て計画して、あの男にはあれだけしか話さぬと言う位用心深いところがある。」

両端の評価を同じ人間が言うのが面白い。

1941年10月の近衛の政権投げ出しから、近衛と木戸の関係、いや、天皇を挟んで地位が逆転してしまう。近衛は部下の富田健治に木戸をこう言う。

「東條の悪口を言おうものなら木戸がおこる始末だ。しかも陛下の信任が厚い。畏れ多いが陛下は木戸のロボットのようである。…」

ひょっとしたら、東條も木戸のロボットだったのかもしれない、と…。そんな考えが浮かんだ。

【引用文献:高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社・工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』中公文庫・原田熊雄述『西園寺公と政局』岩波書店】

西園寺公望の死後、丁度一年後に太平洋戦争に突入した。

今、此の国の反民主の暗愚な男によって、コロナ禍にオリンピックが強行されようとしている。

この写真の空気感の先には全体主義の影が…。

 

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神々の乱心

2021-07-21 11:26:31 | 

この本は、松本清張の遺作、未完の書であることを原武史の書いた『昭和天皇』岩波新書で読んで、急に買って読み始めた。

途中で休んでしまい、結局読むのに一年半ぐらいかかった。編集者が最後の結末は本人から聞いていたのか、まとめて種明かしをしてくれた。未完の推理小説はこうするのだと初めて知った。本人が生きていれば、たぶん三冊になったのではないかと思った。

松本清張は一九九二年に死んだ。享年83 かな。よくもこんな長いものを書いていたと感心した。

そういえば、現役時代は本を読む時間がなく、行き帰りの通勤電車で松本清張をよく読んでいた。新潮文庫はほとんど読んだが、本当に才能のある作家なのだと思う。

近頃は本屋に行くと、新潮文庫の暗い朱色の背表紙が宮部みゆきに代わっているのが寂しい。

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近衛文麿と木戸幸一(2)

2021-07-20 11:06:03 | 近現代史

内大臣木戸幸一は、国家の命運を決める際に、突然政権を投げ出した近衛首相を許さない。木戸は天皇を守るためには、他者に対し苛烈な要求をする癖がある。

近衛に対しては無視という冷やかな拒否となった。そういう意地悪さがあったのではないか。木戸という男の評判は決して良くない。「油断のならない豆狸」と城山三郎の『落日燃ゆ』には書かれている。

木戸は満州事変の勃発の時に「首相は之が解決に付き、他力本願が面白からず、内閣は宜しく幾度にても、また何日にても閣議を反復し国論の統一に努めるべし」と主張したと日記に書いている(『木戸日記(上)』1931・9・19)。

彼の華族としての自負か、他者への冷酷な厳しさを感じる。このとき木戸は42歳の内大臣府秘書官長、非難の先は首相の66歳の若槻礼次郎だった。

「天皇の為には軍部の暴走に身を挺して止めよ」という藩屏華族の第三者的な冷やかさと傲慢さを感じる。

それを10年後になって、朋友である近衛首相にも求めたのではないか。その裏切りを許さず、近衛を戦時中一度も天皇に会わせなかった。少なくとも近衛上奏文の捧呈までは。(『木戸日記(下)』1945・2・14)

余談だが、この日の「木戸日記」には「藤田侍従長風邪の為に代りて侍立する」と書いてあったが、戦後、藤田尚徳は木戸のほうから「今日は私に侍立させてほしい」と言われたそうである。(『侍従長の回想』講談社学術文庫)

木戸は日記で嘘もつく

木戸は天皇に対する忠誠において近衛に対する対抗心があった。

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近衛文麿と木戸幸一(1)

2021-07-19 11:37:16 | 近現代史

1941年10月16日の近衛の政権投げ出しによって、天皇・近衛・木戸のピラミッドはもろくも崩壊する

そして東條首相が誕生する。これを選んだのは木戸であろう。

後に、木戸は天皇から「虎穴に入らずんば虎児を得ず」のお言葉を賜った。

この「虎児」の意味は最初は平和だったのではないか。その意図は東條による9月6日の御前会議の白紙化だったのではないか。

ところが事態は既に戦争になだれ込んでいた。東條は戦争積極派なので軍部幕僚の支持があったのだから、平和には当然ならない。

真珠湾奇襲の後の半年ほどの大躍進は「虎児」を華々しい「戦果」に変えた。

木戸は1940年6月に内大臣になった。木戸は近衛に拮抗する地位となった。この時から二人の長い交友関係に変化が出たのではないか。

東條政権の成立前も、既に宮中の一部では戦闘態勢に入ったのか。近衛の政権投げ出しの三日前に、松平宮相が開戦詔書の文章に「平和」を入れようと動き回っていた。(『木戸日記(下)』1941・10・13条)

いつの間にか、木戸は東条の乗る軍部という泥船に相乗りすることになってしまった。ここに天皇・東條・木戸のピラミッドができた。

しかし開戦直後の華々しい戦果は、元来の虚偽の戦力評価の結果として自ずから確実に萎んでいった。絶対国防圏が崩れたサイパン陥落のあと、政治中枢の誰もが敗戦の不安を抱いた。

自らの選択の誤りが木戸の凍った心を少し溶かしたのだろうか。サイパン陥落後、木戸と近衛の関係がいくらか良化した。

それでも、木戸は近衛の天皇へのお目通りを許さなかった。木戸は、その後東條も追い払って、変り映えのしない軍人出身の小磯政権を作り、天皇の唯一の忠臣になった。

 

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