1.17。今日1月17日は、あの忌まわしい阪神淡路大震災の恐怖を思い起こさせる日である。
あれから24年の歳月が流れた。何年の月日が流れようとも、忘れられない深い悲しみに沈む人は数知れない。
街全体が倒壊したかに思えるあちらこちらから、無情にも燃え盛る炎がこの目に映る。体験したことのない恐怖に、箸を持つ手が震えるのを止められなかった。
単身赴任の東京本社勤務で、三軒茶屋の寮生活を送っていた。いつもと変わらぬ朝を迎え同僚と朝食のテーブルに着いた。朝のニュースを確認するのも毎日のスタイルと変わりない。ただ大きく異なるのはテレビ画面いっぱいに映し出された光景である。どこかの国の政府と反政府勢力が際限のない内戦を続けているような、異様な雰囲気と立ち上る炎と真っ黒い煙。とても日本国内の出来事とは予測もつかない異様な画面が。
しばらくして、阪神地方で大きな地震が発生したことが分かった。そして地震による火災発生の炎であることもわかって来た。そして東西を結ぶ交通網の遮断。新幹線も高速道路も途中からの折り返し運転となった。
本社から岩国工場への移動も全て、羽田空港から広島空港という普段の数倍の時間と労力の要る作業となった。
そんなこんな忌まわしい災害から24年。避難活動の大切さやお互いを助け合う「ボランティア活動」の大切さが一気にクローズアップされた。被災者同士のつながり、被災者と一般人との交流、住み慣れた地域を追われる苦しさ、等々知識としては解っていても、現実として目の前に突き付けられると意外に理解していないことが多くあることに気付かされた。
そして耐震化工事の普及や、地震・カミナリ・火事・オヤジと言われる怖いものの順位が、やはり地震が一番であることも改めて認識させられた。さらには、自分の命は自分で守る意識の徹底も叫ばれ始めた。
24年という歳月が、我々の日常生活における防災対策に大きな進化をもたらしたと思う。その一方で、多くの生命財産を一瞬にして失った募る悲しみや悔恨は尽きることを知らない。何年が過ぎようと忘れることのない災害を、地震列島に住む我々自身が一つの教訓として受け止め、前に向かうしかないのである。