「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「風雪30年」

2025年01月17日 | ニュース・世相

          

何年たっても忘れられない記憶であり、その日が近ずくと思い出さずにはいられない人生の節目みたいな日が何日かある。1月17日は特にその思いが強い日である。
1995年、平成7年1月17日 午前5時46分。記憶から決して消えることのないメモリアルデー。
メモリアルデーとは、単なる思い出の日と捉えがちであるが、それは日本風な解釈であって、アメリカでは真珠湾攻撃の受難、戦争悲劇、9/11世界同時多発テロといったような負のイメージの強い記念の日を言うのよ、と教えてくれたのは、フロリダ半島に長く住んでいた同級生だった。

彼女の言葉を借りると、大きなメモリアルデーとなる1月17日ではある。
特に思い出の深いわけは、ふる里を遠く離れた東京世田谷区三軒茶屋の単身赴任寮で、普通通りの出勤に備えた朝食のテーブルで、神戸の街が炎や煙に包まれた地獄絵さながらの悲惨な画面が眼に入った時の衝撃ある。
何事もなく明けた日常の朝に、こんな悲惨なことが起きるのか一瞬テレビ画面を疑った。

兎に角急いで本社のデスクに付き、岩国工場の情報収集、次いで我が家の状況見聞。これらに直接的な被害がなかったことに取り敢えず安堵の胸を撫でおろしたのを今もよく覚えている。
それからというもの、本社と岩国工場を結ぶ物流の大動脈「JR」が使えなくなった。海上運送に切り替えて対応するのだが、関東方面の大手顧客への製品到着に時間が掛かる。この対応に苦労した。
人的交流も新幹線が使えないため全て飛行機便となった。有楽町から一駅の東京駅に迎えに行けばよかったものを、羽田空港での送り迎えとなった。自らの岩国工場との往復も、羽田まで出て、広島空港到着、乗換という不便を感じてはきた。

但し、そんなこんなは、全てゴミみたいなちっぽけなことで、6000人余の生命が失われ、日本経済を揺るがす大惨事が徐々に現実のもとなった。それらに耐え復興を待ち、30年と言う歳月を経て今を迎えた関西大都市。これからもこの惨事を忘れることなく、つながって、助け合って生き抜く人間の強さを改めて誓う日にしなければ、とこの日を迎えるたびに思う。
そして、発生から1年、今なお復興ままならぬ能登地方の被災者にも、今を耐えて明るい未来が少しでも早く訪れる日を、大きなエールと応援を送りながら一緒に考えて行きたい。そんな1月半ばである。

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