4月の終わりから5月にかけて植えられた、岩国特産のレンコン。
孫の手のひらくらいの小さな葉っぱが、お行儀よく一列に並んで「前へならえっ」をしていたと思ったら、梅雨の雨と太陽の恵みを受けて、孫の傘になるほど葉っぱは大きく成長した。その力強い茎には、タニシが色鮮やかなピンクの卵を産み付けた。
そして最盛期の葉っぱをいただいて、陰干しして、名物岩国寿司の下敷きにする話もさせていただいた。その葉っぱも、太陽の栄養をしっかり根っこに蓄え、地中に横たわるレンコンを完全な大人に成長させた。それで葉っぱの役割はおわり、見事に枯れた葉っぱが「刀折れ、矢尽きた」感じでハス田を覆っている。
昔は一家総出で、枯れた葉っぱを取り除き、ひと鍬ひと鍬表面の土を横によけて、最終的には「貝かき」という小さい道具の手作業で、レンコン一本一本ていねいに掘りあげたものである。
その様子を見るたびに、負け惜しみではないが「ハス田のない家に生まれてよかったなー…」と子供心に思った記憶がある。
レンコン栽培は、植え付けから収穫まで1年周期で繰り返される。幼い芽を出してから、幾度となく襲う風雨に耐えて成長。そして静かに枯れていく……。その根っこには、来年の植え付けようの種ハスが育っている。 人間の一生と似た感じがする。
青々と茂っていた葉っぱが、時季をみて枯れていくところに命(生命)の尊さが秘められているのだという。
お仏壇には、枯れない造花を飾っては何の意味もない。生きた花をお供えし、その花が自然に枯れていくところに生命の神秘が宿る……だから多くなくていいから、生きた花をお供えするのがいいのですよ……と、36歳になる独身の住職さんから教えられた。
収穫を待つレンコンの枯れた葉っぱから、生命の神秘にまで話が飛躍してはちょっとねー。それもこれも、49日法要を前にした気持ちの散漫をお笑い下され。
( 写真:枯れた葉っぱに覆い尽くされたハス田 )
孫の手のひらくらいの小さな葉っぱが、お行儀よく一列に並んで「前へならえっ」をしていたと思ったら、梅雨の雨と太陽の恵みを受けて、孫の傘になるほど葉っぱは大きく成長した。その力強い茎には、タニシが色鮮やかなピンクの卵を産み付けた。
そして最盛期の葉っぱをいただいて、陰干しして、名物岩国寿司の下敷きにする話もさせていただいた。その葉っぱも、太陽の栄養をしっかり根っこに蓄え、地中に横たわるレンコンを完全な大人に成長させた。それで葉っぱの役割はおわり、見事に枯れた葉っぱが「刀折れ、矢尽きた」感じでハス田を覆っている。
昔は一家総出で、枯れた葉っぱを取り除き、ひと鍬ひと鍬表面の土を横によけて、最終的には「貝かき」という小さい道具の手作業で、レンコン一本一本ていねいに掘りあげたものである。
その様子を見るたびに、負け惜しみではないが「ハス田のない家に生まれてよかったなー…」と子供心に思った記憶がある。
レンコン栽培は、植え付けから収穫まで1年周期で繰り返される。幼い芽を出してから、幾度となく襲う風雨に耐えて成長。そして静かに枯れていく……。その根っこには、来年の植え付けようの種ハスが育っている。 人間の一生と似た感じがする。
青々と茂っていた葉っぱが、時季をみて枯れていくところに命(生命)の尊さが秘められているのだという。
お仏壇には、枯れない造花を飾っては何の意味もない。生きた花をお供えし、その花が自然に枯れていくところに生命の神秘が宿る……だから多くなくていいから、生きた花をお供えするのがいいのですよ……と、36歳になる独身の住職さんから教えられた。
収穫を待つレンコンの枯れた葉っぱから、生命の神秘にまで話が飛躍してはちょっとねー。それもこれも、49日法要を前にした気持ちの散漫をお笑い下され。
( 写真:枯れた葉っぱに覆い尽くされたハス田 )
こういうのを輪廻と言うんでしょうか。keiさんに笑
われそうですね。
秋田ではハス田は見られません。寒冷地では育たないのでしょう。
でもスーパーではレンコンが売られています。先日、
水煮を買ってきました。きんぴらにするためです。
長い間泥の中に居たレンコンなのに真っ白で歯ざわりもサクサク、自然の妙ですね。
当地の冬枯れは間もなく真っ白な銀世界に変わります。
レンコンのきんぴら、いいですねー。それにカブや山芋のスライスを混ぜたレンコン三杯酢は格別です。
レンコンってそうですね、泥にまみれて真っ黒いのに、一皮剥いて上げると見事な真っ白い肌を見せますね。matsuさんの言われるとおり、自然の妙ですね。