「今年も晩秋を迎え隣の空き地のピラカンサが見事に熟した」と表現しようか、「初冬の吹き抜ける北風の中で、隣りの空き地を真っ赤に染めるピラカンサ」と表現するか。
「今年も晩秋を迎え隣の空き地のピラカンサが見事に熟した」と表現しようか、「初冬の吹き抜ける北風の中で、隣りの空き地を真っ赤に染めるピラカンサ」と表現するか。
♫ 出ん出ん虫ムシ コタつむり おまえの頭はどこにある・・・♬
この季節になると、里帰りする姫孫たちが真っ先にするのが、まぁるいホーム炬燵に潜り込んで、カタツムリならぬコタつむりを決め込むこと。顔半分まで炬燵布団をかぶって、ちっちゃな体ながら二人が炬燵を占領する。
結果的にはどっちであろうとも、長い間引き受けて来た広報担当という仕事上、手元には莫大な写真集が残されている。
活動20周年記念の大型写真パネルを作成するという話にれば、横を向くわけにもいかない。
コンサートなどで「最後の一曲となりました」と言われ、その曲が終わったら一旦幕が下りる、のではなく緞帳ともいう豪華なカーテンが閉められる。とたんに観衆が立ち上がって拍手を送り続ける。するとほぼ間違いなく再び幕が開き、ではなくカーテンが左右に開き、観衆の拍手に応えるようにもう一曲サービスで聞かせてくれる。
今どきアンコールと言う言葉はあまり使わなくて「カーテンコール」というのよと誰かが教えてくれた。
我が定年後の人生を「自分のアンコール人生」と思って来た。つまり60歳で一つの幕が下りる。そして新たに始まるおまけみたいな定年後人生こそがアタシのほんまもんの人生だと、少し突っ張ってきた。というか、現役時代ほど周囲に気を使わなくてもいい、少しは横柄でもいいんじゃないの、などと思いあがった部分はある。
ましてやカーテンコールとは、お客様からの拍手で再び迎えられることを言うのならば、アタシの場合、誰も拍手などで迎えてはくれない。だからアタシはアタシ自身が拍手してアタシ自身がカーテンを開いて再び登場して、アンコール人生と呼んでいるだけのことである。
思い切って憂さ話が出来るのは有難いチャンスだったのかも。よしまた近いうちに昼飯を誘おう。夜の幹事はもういい。昼間ならいつでもOKよ。
今日は地元小学校2年生の授業の応援に駆り出された。
図工の学習の一つで、カッターナイフを使って洋紙に書かれた図案の線に沿って、物差しで押さえカッターで切れ目を入れ、立体図型を作り出すという学習である。
要するに、物差しで用紙を抑え、指を切らないようカッターの安全な使い方を監視するといもの。
幸いにも私は、紙とカーターナイフの切り方・使い方についてはプロフェッショナルである。
かつての職場は、大手製紙メーカーの技術課、いわゆる紙製品の品質をチェックする試験課が長かった。ひと巻きが7トンも8トンもあるジャンボ巻取りの一部を切り取って、厳しい製品スペックに合致しているか否かの判定をする、試験官と言う立場で、現場の生産担当者からは嫌われる存在であった。
検査をするためには、1日にどれほどの紙を断裁して坪量(適正な重さを保っているか)・平滑性(なめらかさ)・光沢(艶・照り)・カール(曲がる度合い)などありとあらゆる形に紙を切ることで飯を食って来た。そこには厚さ50mm以上のステンレスかアルミ製の専用カット板が置かれていた。
急ぐために物差しなど当ててカッターを使ったら始末書ものである。
今日はまあ、小学2年生の授業でもあり、カッターを使って紙を切る作業に慣れるという目的なので竹製の物差しで紙を切っても仕方ない。ただ怪我をさせないよう、カッターを使う姿勢には厳しく目を向け、少しの注意もした。
問題は、小さな子供に、なんでもかんでも既製品の出来上がり品を与えるのではなく、時には自分の手で作るプラモデルなど、手先を使う作業をさせておく方が間違いなく、子どもの将来のためになるのではないか。あまりにも稚拙で、たった30人の児童ではあっても、先生二人だけには任せられない授業となってしまう。一朝一夕にうまくはならないが、少しずつ少しずつ鍛えておくのが親の愛かもね。
Closeup 現代
我が家のテレビはおおむねNHKが流れている。
何故か? 格別な事情があるわけではないが、強いて言うなら今日一日の動きが、世界中から我が住む県内に至るまでの幅広い情報が入りやすいという単純な発想かな。
兎に角、これみよがしに個人を売り込もうとする民間のバラエティなるものに辟易している、というのはある。
特に今宵のクローズアップ現代、身に詰まされましたねー。
入れ替わり立ち代わりして、電話や直接訪問。最初は耳に優しい話で認知症検査をしてカモかアヒルか確かめる。一旦カモと決めたら、寄ってたかって吸い上げられるまで吸い上げる。手口は千差万別。相手の認知度によって使い分ける。
どこかに司令塔がいて、情報を共有し、ターゲット絞り込んだらたらいまわしをする。
日本中を恐れさせるあの広域強盗一味とあまり変わらないのかも。
持って行かれるお金などありはしないが、その代わりに命を持って行くと言われるのも辛いね~。
昨日の準備段階から人数を配置し、完全な体制を整えて臨んだ今日本番。
正式な活動名は「瀬戸内海環境保全大作戦」。ちょっと厳めしく、ちょっと大げさな気がしないでもないが、初代会長の強い思い入れで名付けられ、第18回目となる今年も同じように続けられている。
地元から多くのボランティア参加に加えて、地元中学校や高校生、郵便局長会や郵便局長婦人会など約300人の賛同を得て、ここ数年で最も多い約10トンに及ぶ漂着ごみを回収した。
下見を繰り返すたびに漂着ごみが増えて行く。あの10月に降った大雨にによる河川の水量が大幅にアップして、海に押し流された流木やゴミの量が半端でなかった。
幸い雨も降らず、暑すぎもせず、秋風が吹かないのが漁船による海上運搬作業と言う特殊海岸の清掃を容易にしてくれた。これは有難かった。天候に感謝状を差し上げたい思いである。
お陰であの、見るに堪えなかった流木だらけの砂浜が、見事に息を吹き返した。年々雨量の増加や荒れる海によって、海岸清掃は当面欠かすことの出来ない私たちの課題である。
元気な若い仲間を見つけて、力強い組織にしていく努力は益々重要である。今日参加頂いた多くの老若男女、集団のパワーに敬意を払いたい。今年の大仕事が一段落した。
ビフォー アフター(ホンの一部分)
私たちの地区社会福祉協議会の1年に1度の一大イベントが明日に迫った。
一応、主管する専門部を決めてはいるが、あまりにもスケールの大きな事業であるため、社協挙げての事業と言う位置づけである。そんな中で主管専門部を中心にこれまでに何度も下見をしてきた。
秋の海辺での掃除だけに、風向き、回収物運搬用の漁船の安全など、色んなシーンを想定して綿密な計画を立て、他の5つある専門部の役割を決め、それぞれに基づく実行委員会も開催。準備にかけるエネルギーは半端ではない。そうしてこうして今日最終の下見や、大木や長い竹はチェーンソーで断裁。先ず先ずの準備ができた。問題は明日の天候と風向き・風力など心配事は消えない。
しかも今年の場合、10月から11月にかけて降った大雨によって、上流からの漂着ごみがものすごい。寄せ打つ波に乗って、白い砂浜に黒い長蛇は果てしなく続く。これを熊手で集めてビニール袋に詰めて漁船で運搬陸揚げする。その上大木や竹はゴロゴロ。何人の手があっても十分ではない。
幸い今年は我が地区社協が20年目を迎えた。そんな宣伝も含めて別枠予算を取って、チラシを印刷して地区内全家庭に配布した。
さてどれほどの人が参加してくれて、どれだけの海岸清掃の結果が出せるか、明日のブログをお楽しみ。以前は「海の日キャンペーン」ということで7月の海の日が毎年決められていた。ところがこの日は暑いのよ。熱中症対策にヘトヘトになることもあった。そんな経験を踏まえて11月初めの日曜日に決めた。大英断であった。が、自然を相手だけにこちらの思いに沿ってはくれない。秋には秋の厳しさと闘いながら、兎に角明日。今宵は早く寝るか。
北方の魔よけとして、敷地の北の角に植えた南天。難を転じて福となすという言葉を信じて、新築して間もなく植えた。その傍に、どこから頂いたものか、私がどこからか引っこ抜いて来たものを植えたのか、定かな記憶はないが、毎年見事な黄色の艶やかな花で北の一角を明るくしてくれる。
踏み出せし 路ひとすじに つわぶきの花 稲畑 汀子
あらためて この道知るや つわぶきの花 稲畑 廣太郎
晩秋の暗い空の下や、木枯らしにも似た風がビュービュー吹く寒さには似合わない花のような気もする。それほどにしっかりした茎に、目を射るような黄色。この季節だからこそ逆に健気に見えるのかも。
今宵は今年初の忘年会のお誘いを受けた。あらかじめ「歌のお願いもしておきます」とのことで、歌の方は長い間のブランクで声が出るのか、息が続くのか、色々心配はあるが、まいいか。少々のお酒に乗っかって、晩秋に咲くつわぶきの花のような艶やかさもないし、他人の注耳を集める欲もなく、楽しいひと時を楽しんでくるとしよう。
♫ ゆ~やけこやけでひがくれて~ や~まのおてらのかねがなる~~ ・・・ ♬
夕方5時になったら、団地公園に設置されている防災無線スピーカーから「夕焼け小焼け」の優しいメロディが流される。家庭の事情を反映してそそくさに帰り支度をする子もたまにいる。大方はそんなメロディなど無視してさらに遊び続ける子の方が多い。
学校サイドも、夕方5時の時報に合わせてお家に帰りなさい、などという奨励もされていない様子。
もっとも、季節によっては子供は元気に外で遊んでくれる方が有難いという親もかなり多い。
そんな色んな事情がある中でも、あの夕焼け小焼けのメロディは、ひと仕事終えた人たちにとってはなんとも癒しのメロディとして受け止められている。小学校のオルガンで教わったあの歌詞もメロディも、私たち世代は好意的に受け止め、愛唱したものである。それは今も小学校音楽の時間に子供たちは教わり歌っているものと思っていた。それは名曲であり、日本人の心の風景だからと私個人は思っている。
ところが我が家の小5・小1の孫姉妹は、この唄を知らないという。特に小1の妹は、ふる里我が家に帰省する楽しみの一つが、この夕方5時のメロディに耳を傾けることだという。「この音楽大好き」というので歌ってみてというと「知らない、習っていない」という。えっ?今では夕焼け小焼けも教えないのか~、情緒がないなー、寂しいよねぇと思うのはアタシだけかなー。
こういった日本の良き時代、人間と人間の心のふれあいを大切にしてきた時代はもう使い物にならない焼却ごみなのかねー。
夕焼け小焼けを歌えばいい子が育つのか、と問われれば即答には困るが、兎に角私の孫には、夕焼け小焼け、お手手つないで、七つの子、など心演歌ならぬ小学生の心童謡をしっかり教えて行きたい。
詩を口ずさむだけでも無駄にはなるまい。
何が常識で何が非常識あなのか、考え方の一貫性や世界の大国という大義を忘れて「アメリカンファースト」を掲げて憚らない「ほんトラ」が誕生したらいったいどうなるんじゃろう。色々考えてしまう。
諸国の無法な侵略から我が身を守る防衛に関する戦略に与える影響はどうなるのか。そろそろ自分の力で自国を守れ、などと言い出しかねない気配を感じる。我が国ばかりではなく、侵略戦争中の大国。何としてでも侵略に耐えるために他国の兵力を頼りにする国。侵略戦争中の国へ自国の兵を派遣して、大国の軍事機密を譲り受けようと躍起になっている国。太平洋に通じる東シナ海・南シナ海を自国の領海として組み入れ、軍事拠点化を無理やり進める国。