ご日程
天皇家
11月16日・・・両陛下 → 百合子妃弔問
愛子内親王 → 拝訣
11月18日・・・天皇陛下 → 信任状奉呈式
勲章受章者に会う
11月19日・・・天皇陛下 → 通常業務
11月20日・・・両陛下 → 第35回高松宮殿下記念世界文化賞受賞者に会う
天皇陛下 → 離任大使に会う
11月21日・・・天皇陛下 → 勤労奉仕団に会釈
「穢れ」に触れないと言う意味では、儀式に出る事もそうだけど、そもそも宮邸にいかない事が重要なのではと私は思います。意味がわからずに「儀式にでなきゃいいんでしょ」ってのが平成と令和流っぽいけど、それは違うと思います。
世界文化賞の接見では、予定を越える1時間以上そこにいたらしく、立ちっぱなしで1時間も立ってた方々に気の毒。しかもまてどくらせど二人は来ないので、みんなそれぞれ勝手に喋り出す。もう、こういうのはやめた方がいいと思います。
「私達はフランス語で話しました」と天皇がマスコミに語ったそうですが、フランス語をどの程度話し、何をどうしたがない今、「だから?」と言われてもしょうがない。語学に変にこだわるのはコンプレックスの裏返しですか?
週刊誌曰く「佳子さんが愛子の面倒を見てくれてありがたい」と皇后が言ったとされています。何で22歳の社会人の面倒を佳子様がみなくちゃいけないのか、わかりません。佳子様はサリバン先生じゃないし、介護職員でも女官でもない。
カミングアウト?と言われていますが、頑なに認めないでしょうし、かといってこれ以上佳子様を煩わせるなら皇嗣家は毅然としてお断りをと思います。
そもそも皇后陛下は単独で行動出来ない。それはどんなに頑張っても「手順」を覚えられないから。母がそうなら娘もそう。
来年、アメリカに両陛下が行くのではと週刊誌は希望的観測で書いていますが、宮中晩さん会でお酒を飲まされた恨みは怖い。トランプは絶対に呼ばないでしょう。
バロン君の年齢を考えると、佳子様や悠仁殿下ならありえるかも。
皇嗣家
11月15日・・・一家 → 崇仁親王妃百合子殿下薨去につき弔問
11月16日・・・一家 → 故崇仁親王妃百合子 拝訣
11月18日・・・両殿下 → トルコ訪問につき進講を受ける
11月19日・・・殿下 → 山階鳥類研究所会議(オンライン)
11月21日・・・妃殿下 → 「第51回 日本賞 教育コンテンツ国際コンクール」授賞式出席
悠仁殿下は学生にも関わらず、ご立派です。ご自分の運命をおわかりになっているのでしょう。
弔問の上皇夫妻
華子妃殿下
またも信子妃殿下が外に追いやられる結果になってしまいました。
どうも、このままいくと、三笠宮邸は彬子女王が、寛仁親王邸は瑤子女王が、職員宿舎は信子妃が使う。3家に分かれて独立した生計を営む事になりそうです。
それは「女性宮家」と同じ事で許されないと思うのですが、宮内庁がしっかりしていれば三笠宮殿下がお亡くなりになった時に、きちんと彬子女王を説得できたはず。
彬子女王は喪主・当主で屋敷を赤坂と京都に持つ、稀に見る富裕な皇族になります。
私は百合子妃が愛育会の総裁職を紀子様に受け継がせた時から、正直、信子妃も孫達もあてにしてなかったような気がします。
本来は信子妃に受け継がれる筈の公務が紀子妃に渡った。三笠宮家の総裁職は秋篠宮殿下に受け継がれた。彬子女王でも瑤子女王でもありません。
百合子妃は孫達がひたすら、普通に嫁いでいかれる事を案じておられたと思います。
とはいっても、元は寛仁殿下の横暴さとそれを許した三笠宮夫妻の躾の結果です。
末端とはいえ、皇室の権威を貶めてしまう事は必至。
天皇家といい、三笠宮といい、なぜこんなにも悠仁親王に重荷を負わせるような事をするのか。親族としてありえない。
次世代を担う悠仁親王と佳子様、そして将来の妃殿下が皇室に灯を再びともしてくれることを願っています。
広隆寺の聖徳太子像の話
私は実は広隆寺が大好きで。
前にも書いたと思いますが、外国人観光客がわんさかいる中で、唯一静寂に包まれたこの寺院は私の大切な思い出の一つです。
でも知らなかったのは、秘仏である聖徳太子像に、天皇が即位の時に着た「黄櫨染の袍」を着せるという風習。
即位の度に天皇着用の黄櫨染の袍を着せていたのです。
それは「次期天皇」になる筈だった聖徳太子へのオマージュというか、思いがあったからでしょう。
現在、着用しているのは平成の衣装ですが、これは上皇が自分のではなく新しく御作りになって着せたもの。
平成6年に着替えがなされたそうです。
しかし、令和6年にもなるのに、このお着換えはなされていない。
なぜか。
上皇への遠慮ではないか・・・・と言う事ですが私はそうは思いません。
今上はこういう事が行われていることを受け継がなかったか、知らん顔したか、側近が意見しなかったか。
元々東宮時代から神仏に対しての信仰が薄く、嵯峨野の神社でも東宮だけ寄進がないのを見ましたし、いつもいつも徳仁親王は寺や神社への奉納が一切ないのです。
それは恐らく皇后の意向というか、別な宗教にハマっている皇后の影響なのかと思われます。
でも、私が今上なら自分だけこれをやらないと、何だか天皇として認められていないような、自ら「私は中継ぎです」と言ってるようなもので、すごく嫌な気になると思うのですが、今上自身はそう思ってないんですね。
日本史に詳しい筈の今上がこの話を知らない筈はないと思うし、そうなら故意にしないんだろうと思うし、二重権威かもとか思うし。
聖徳太子は今上にとって「歴史上の人物」で道長程のインパクトはないのかも。
秋篠宮殿下の即位まで待たないといけませんね。
ちなみに雑誌等では秋篠宮は即位を拒否していると言われていますが、チャールズ国王も70代で即位しています。
70代でも80代でも別に構わないと私は思います。
もし、その上で体調に難があれば悠仁殿下を摂政にしたらいいので。
そもそも、近代から譲位の項目もないのに、(だから上皇后なんて変な身位を作った)皇嗣や皇太子のまま天皇にならずに息子に譲った人の身位を考える程宮内庁は頭よくないと思うんです。
それならちゃんと次の世代を引っ張って欲しい。同世代としてそう思います。
三笠宮家が持つ邸宅の行方は気になりますね。広大な邸宅ですし、彬子さまは京都に拠点を置いているし、なんとか一つの邸宅にまとまってほしいですね。
悠仁さまはご自分のお立場を分かっておいでのようなので、ご成婚も早いと思います。その時、空いた旧三笠宮邸か旧寛仁親王邸のどちらかを悠仁親王邸として使用できたら経費も浮くなと考えました。
将来の天皇陛下の邸宅。新たに建てていただくのは個人的には歓迎しますが、うるさい方々がいますので。
写真の愛子さま、背が低いですねぇ。私は愛子さまを複数人で演じている説に同意するものです。
画像の愛子さまは武蔵野陵に参拝した時に似ています。
コピー用紙のようなドレスと借り物のティアラを着用した時の愛子さまは、意地悪そうな上目使いと団子鼻と、左右非対称のほうれい線が特徴です。
15歳のときのスレンダー美少女は、よせばいいのに写真をプリクラのように美化(まつ毛を長くするなど)までしたのであまりに似てなさすぎて、その後はほとんど出て来なくなりました。
愛子さまは歯列矯正した設定(一説には前列は全部差し歯)なので、八重歯のある人はもう起用できません。
これはあくまで私の考えで、そう思えば納得なだけであり、誰にも強要しませんので、ふぶきさまも皆さまも私の考えを否定せずにお願いします。
私は、よく宮内庁にメールして、悠仁さまは学生結婚も良い、と伝えています。
親王(王?)が早々と複数人生まれるとより良いです。
悠仁さまが結婚したら、佳子さまは当分は妃にとって女性皇族の見本として働くことになると思いますが、庶民の私の考えとしては、佳子さまが使用している邸宅に悠仁さま夫婦が入り、佳子さまはご両親と同居なされば良いかと。
その頃に東宮御所があけば良いのですが、上皇はともかく、上皇后はやもめになっても住み続けるでしょう。
これが一番カネがかからず、佳子さまが今でも批判され続けている「〇十億円豪邸での一人暮らし」がムダではなかったと証明出来ると思います。
年間の生活費はどうなるのかな?と他人様の懐事情が気になります。
「太上天皇」と「皇太后」を使うべきという意見は当時たくさん存在したとか。
これは、自分が思うに
美智子さまが「皇太后」という言葉の印象の悪さを嫌った→一人だけ前例のない称号ではまずいので旦那さまの方にも称号を変更してもらった
という流れがあったのでしょうか。
聖徳太子のことを知りたいと思い、最近、何冊か太子を論じた有名な本を読みました。
どれも書いてあることが全然違っていて、何がなんだかよくわかりません(笑)
太子はいなかった。
太子は九州王朝の皇太子だった。
法隆寺は太子の怨霊を鎮めるために建てられた。
いつかふぶきさんの聖徳太子論を伺えれば大変ありがたいです。
もし過去ログにあったらごめんなさい。
ど素人臭、丸出しですみませんが、
彬子女王が三笠宮家当主になったとして、旧宮家から養子を取り、その養子さんが、噂によれば離婚済みという絢子さんと二児付き再婚出来るでしょうか?
彬子女王と久子妃、昭和天皇系から大正天皇系に引っ張り、三笠宮家に皇統移したいのでは? 絢子さんの男児を天皇にしたいと久子妃が言ったとの噂、ありましたよね。今はナル様マサコ様にヨイショしておき、裏で着々準備中では?………と妄想のわたし、やばいですかねー。
まず、皇室では養子がとれません。彬子女王が旧宮家男系男子と結婚して宮家創設は考えられますが、出産可能年齢かどうかも考えなくてはいけないでしょう。
絢子女王の子は「女系」になるので無論養子になれません。
仮に絢子女王がその旧宮家の養子と結婚したとして、守谷さんとの子は「連れ子」になりますので。皇位継承権なし。
>石田様
聖徳太子という名称ではなかった。厩戸皇子が本名と今の教科書では教えています。
用明天皇の第一皇子で両親とも皇族。
でも父が早くなくなりすぎて天皇になれなかった。
「太子」(中国語でたいず)は皇太子の事。
斑鳩という都から離れた所に隠棲したものの、結局は蘇我氏に滅ぼされてしまいました。
代々即位時にお召しの物を広隆寺に下賜してきたのですね。
即位後も様々な儀式で黄櫨染御袍を召されるので、下賜のためにもう一式御袍を用意しておくのでしょうか。
広隆寺側から袍をくれとは言えないでしょうから、天皇の発意なければ実現しないでしょう。それこそ当人が知らなかったり、関心がなければ実現しません。
新嘗祭始め祭祀を日程に載せなかったり、穢れに触れることに躊躇がなかったり、当代は鎮魂や祭祀への関心が低いのかもしれません。
宮家は当主の親王や王亡き後、妃や内親王や女王がいる限り存続することになっているようです。その継承順は本来なら身位、長幼順のはず。
三笠宮家が三方別々に生計を立てる…当主はより多く皇族費が支給されるはずですが、どうなるのでしょう。
彬子女王は私的に京都に別宅を持ち、かつ三笠宮本邸と三笠宮東邸(寛仁親王邸)両方を使うということ?
邸には私的雇用の使用人もいるでしょう。皇族費は貰えるだけ貰って自由に使いたいのでしょうか。
家族仲が芳しくないからといっても、あまりに好き勝手が過ぎるように見えてしまいます。
令和ではどうなさるのでしょうね。
皇后の意見など関係なく、サッサとやるべきことをなさればいいのに。
もしかすると、記事が出て慌てて用意するかもしれませんね。
皇嗣殿下が即位を拒否という週刊誌記事、ありましたね。
殿下は年齢的のこともありますし~のようなことをおっしゃっただけで、拒否という程強い言い方はなさらなかったと思います。
もしかしたら、弟が奪うかのようなことを言われないためにそうおっしゃったのかな、と思いますが、何をおっしゃっても悪く取られたりアチラの我田引水の為に利用されたりしますよね。
おいたわしい。
皇嗣殿下が即位を拒否、はサマーズたちがよく言っています。
サマーズというのは、雅子さまー、愛子さまー、の絶叫が凄くて愛子さまの即位を切望している人たちの事です。なお、サマーズによると、愛子さまの即位を切望しているのは国民の9割超だそうです。
で、「皇嗣としての自覚がないのは、いかがなものか」というのがサマーズたちの言い分です。
サマーズたちによると、内廷皇族にならなかったのと「皇太弟」を名乗らないのが、そもそもダメだそうですが、兄の崩御を待っているかのようなのが好ましくないからだったと記憶しています。
また、内廷費の衣装代は美智子さまが総取りだそうで、その理論なら教育費は愛子さまが総取りして悠仁さまはゼロだったことになります。いや、そもそも天皇の弟一家は内廷皇族になれたのか?難しいと思います。
上皇というのは平安以降には存在しました。後鳥羽上皇など。あまり詳しくないのですが、「院」がつく皇族もいました。
三大怨霊の一人とされる崇徳院も皇位継承争いに敗れて讃岐に流されたんですよね。
なお、院は仏教系の言葉です。
仙台には花京院という地名がありましたっけ。ジョジョ第三部に花京院というやさ男キャラが出てきたなー。スタンドはハイエロファント・エメラルド。ハイエロファントは法王や教皇の意味。法王という言葉も皇室では使われていましたね。今は使われていませんが。
終盤は独り言です。すみません。
中学時代の友達の言葉、昭和の話ですが、今の人には意味がわからないかもしれません。葬儀で清め塩を配らなくなってどれくらいたつでしょうか。もうそういう時代なんですね。平成令和の皇室は、そういう現代の感覚と伝統を調和してるつもりなのかなと思います。私見では、弔問とか一切行かないかわりに生前もっと会う機会を作る方が伝統を守りながら世間を納得させられると思いますが。
もう一つ。皇室の国際親善という大義名分のもと、外国王室とのつきあいに関しては皇室の慣例はスルーされるようです。昭和時代までは天皇は握手しませんでしたが、外国元首は例外だったわけです。
三笠宮家のことは、信子さま排除は三笠宮ご夫妻を含めたみんなの考えだったようですね。どうなるのかわかりませんが、三笠宮家の遺産については信子さまに相続権がないことは確かで、分家ということで承子さまが放棄して姉妹で分けるのでしょうか。戦前の創設された宮家なのでそれなりのものはあるかもなので気になります。
高松宮家は戦災を免れ、有栖川宮家からのものも含め結構あったので、喜久子さまが「終活」をきっちりしましたけど。百合子さまは何もしてないのではないかと心配です。