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悲しい知らせを聞いたのは七日の夕方だった。
マックスとの夕方の散歩を終えた妻が、「大変!」と顔色を変えて家に入って来たのです。
お付き合いの有った小さなレストランの御主人が亡くなられたと言うのです。
前日の夕方亡くなられたと言うような情報だったけれど、翌日の新聞のお悔み欄を見て間違いが分かった。
暮れの28日から新年の4日までの間の届け出の方が掲載されていて、その中に彼の名前を見つけたのです。
パートを終え、妻と二人で隣の村に有る、ご自宅に弔問に伺いました。
白木の位牌を見て、3日にお亡くなりになられたことを知ります。
線香を上げさせていただき、残された奥様にお悔みを申しあげました。
言葉を交わすうちに、妻と奥様とこらえきれずに嗚咽を漏らします。
私も、視線のやり場も無く、自分の手を見ていたけれど涙で曇ってしまいます。
思えばご夫婦とは不思議な御縁でした。
中越地震の直後に、崩壊した山の土砂で埋まった線路と隣接する水田の持ち主だった御当人と、
線路を復旧する仕事の打ち合わせのために訪問したのが出会いだったのです。
その後私の住む村にレストランを開業されることになり、再会します。
そして、食材を買っていただいたりと親しくお付き合いさせて頂いていました。
暮れには、奥様に来て頂き妻と三人で、クリスマスケーキの残りを食べて談笑したものでした。
奥様との会話で、ご主人が重篤な持病を抱えていたことを初めて知ります。
「人に弱みを見せない人だったから、スベルべさんにも話をしなかったのでしょう」と話されます。
持病に身体を徐々にむしばまれ、2日の夕方に予約のお客さんのために寒い厨房に入ったことも引き金となったようです。
調理を終えて帰宅し、直後に身体の不調を訴えられ、奥様が救急車の手配をしたけれど、
入院して数時間後に59歳と言う短い生涯を終えられたと言うことだったようです。
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「主を失ったレストランが雪の中に見えます。」
そして、弔問から帰宅すると驚きの葉書が郵便受けに入っていました。
年賀状が届かず、少し心配だった後輩の父上からのお葉書だったのです。
「息子は昨年6月27日に49歳で永眠しました」と言う文面に大きな衝撃を受けます。
彼の没年49歳と言う年齢に時の流れを感じます。
私がいた職場に、高卒新人として入社してきて、高校ではバドミントン部に所属していたとのことで、
早速、私が監督兼選手をしていたバドミントンチームに彼を引きいれたのでした。
その後の会社組織の大変動で彼は地方自治体職員となって職場を去り、直接の付き合いは終わりました。
でも、その後もずっと年賀状のやり取りは続けていて、幸せそうな家族写真を見て微笑ましく思っていたのです。
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乱れる心と、混乱する考えの中、夕方の幕の散歩に出た。
そして、人の命って何だろうなんて思いながら、夕方の雪道を歩いていました。
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真冬日の寒風の中を風に向かって確かな足取りのマックスです。
でも、マックスも年老いました。来月の23日には満14歳の誕生日を迎えます。
耳も随分遠くなり、人間に換算したら80歳くらいかと思う年齢を思わせます。
マックスの年齢と若くして世を去られたお二人の年齢を考え併せるべくも有りません。
しかし、寿命、命って事をつくづく考えさせられました。
好き勝手な生き方をしようとも思わないけれど、一日一日を大切に生きたいと痛切に感じさせられた日でした。
これから亡くなった後輩の父上にお悔みの手紙をしたためるつもりです。
でも、どんなお慰めの言葉を掛けて良いのやら、まだ、頭の中が整理しきれていません。